日本人は「ともに」の民族ーお宮参りと婚礼と

 

日本中がオリンピック招致決定に沸いた8日。

 

朝5時の生中継を、いつにない、がっつりメイクの顔で見つめていました。
日本中の皆さんとその瞬間を喜び、
もう一つの慶びの席へ出発。

この日は、クライアントさんの婚礼という晴れの門出に
お招きいただいたのでした。

くれぐれも失礼がないように、
そして、心からのお祝いを表したいと、
着ていく衣装選びや、晴れがましくもお声掛けいただいたスピーチの準備と、
それまでの時間もとても楽しみながら迎えた当日。

9月に入っているけど鹿児島はまだまだ暑い。
紗の一つ紋の色無地でいいだろう。
礼装用の夏帯は持っていないので、この際だから帯のみ新調。
帯の柄は…悩みます。

いつもなら、少し抑えた色、柄のものを選ぶけど、
今回は吉祥紋がしっかりと織られた、華やかな絽の帯を選びました。
とにかく、すべてを総動員してお二人の門出の「場」を祝いたい、という思いがあり。

 

好みよりも、その場にいる「景色」の一つとして、祝いの力をより持ったものを選ぼうと。
(文様ひとつとっても、意味と力があるわけで)

…とまあ、詳しくないなりに考えて考えて、選んでいく
プロセスの楽しかったこと。

 

当日
鶴の柄の白無垢に身を包んだ花嫁さん。
もう、それはそれは美しくて!

新郎新婦を囲んでの記念撮影の後
神殿にての挙式となりました。

ここの神宮は、オープンペースといいますか、
自由に、誰でも間近で挙式を見ることができます。
ちょっと能舞台に似ている感じの神殿です。

厳かに式が進む中、多くの方がお参りがてらやって来ます。
みなさん、挙式をしているとわかると、
お子さんに「しーっ」と声をかけ、そっーとお参り。

「きれいね~」

「花嫁さんだね~」

 

と言いながら
見守ってゆかれる。

この日、境内には、
お宮参りの赤ちゃんもたくさん。
初々しいお母さんとお父さん。
そして新しい、萌える命をしかと懐に抱いて、誇らしげなおばあちゃんの姿もかっこいい。
もう、みんなきらきら光っている感じです。

「うわ~、神様、喜んでいらっしゃるだろうな」

と、ふと、そんなことを思いました。

この世に命が生まれたことを神様に報告し、ご加護を願う人々。
成長し、ただ一人の人と巡り合い、

新しい縁をつなぐことを神様に報告する人々。

人生のいろいろな場面がそこにあって、
それらをそこにいる人たちがともに祝っている。
とても自然に。
みんな一緒に。
かみさまのもとに集いながら。

「日本人の命の営み」

そんな言葉がふと、浮かんできました。

日頃は意識することはありませんが
わたしたちのDNAの中にきっと、しっかりと刷り込まれているのでしょう。
そんな気がしました。
何が、かといいますと

「ともに」

という感覚、でしょうか。

人とのつながり
命のつながり
そして
かみさま(といいますか、見えない大きな何か、を随所に見、それを信じるという心)とのつながり

いつもは忘れてしまっていますが
わたしたちは、自分たちで思うよりずっと
そういったものと密接にかかわり
そして助けられて生きているのでしょう。

目にはみえないけれど
わたしたち日本人を根っ子の根っこでつないでいる

 

 

「何か」。

それを

この日、全身で浸る幸せな感じとともに

味わったように思いました。

 

「すだれから日本人を思う」

ちょっと
京都っぽく使ってみたくなりまして。この言葉。

「建具替え」。

といっても
家じゅうのカーテンを全部とりはらって
「すだれ」
(というか、竹製のロールアップカーテン)
に替えてみただけなのです。
ベランダには「よしず」。


これが…
ほんとうに、具合がよいのですね。
家の西向きの部屋は、直射日光が入ってくるわけではないのですが
とにかくとても「まぶしい」部屋でした。
向かいにある建物の反射がまっすぐに差し込んでくる。


普通のカーテンですと、何とも光量の調節がしづらかったのです。
縦に窓を区切ることになるので
どう閉めても、不快な光がはいってくる。
かといって、全部閉じるとうっとおしい。

が、すだれだと横に窓を区切るので
「空の面積を調整できる」のですよね。
仕事机に座っていて
空を見たい分だけ、光を浴びたい分だけ1センチ刻みで「上げたり、下げたり」…。
(この微妙な要望に見事応える竹のすだれの威力が面白くて
5分ごとに席を立って巻いたり下げたりしています)

すべておろすと
部屋の中が心地よい薄闇に満たされます。
けれど
外界をすべて遮断してしまうのではなく、竹の隙間から
柔らかに入ってくる日の光と、そして、風。
これは…

小さいころ夏になると遊びに行ってた
ばあちゃんちのほの暗い「闇」に似ている、と気づきました。
田舎のばあちゃんの家の座敷。
吹き抜ける風が心地よい、それはとても落ち着く静かでさわやかな仄暗さ。

縁側があって、
農家の家らしく、軒が深く。
それらは、外界と家の中とを自然につなぐ場所でした。
家の中でもない、外でもない
あいまいな、乗り入れの空間。

そもそも、日本の住まいと言うのは
西洋の住まいのように
「内は内、外は外」
と「かっきり」と分けるのではなく
いつのまにか、家の中に入ってました、というような造り。

縁先で自然の風に吹かれる。
庭の虫の声と、人工物である風鈴の音を共に「美しき音色」として聞く。
明るいことのみを善しとする、というよりは
光と影を表裏一体、一つのものとしてとらえ、どう取り入れるか
どう遊ぶかを考えた室内のしつらえ。
そういうあいまいさ、混ざった感じ、渾然一体とした感じ。
そういうものが、日本人の培ってきた感覚なのだろうなと思います。

この感覚。
この「分けない」「決めつけない」「はっきりさせない」感覚。
「一緒」な感じ。
日本人のよろしくないところ、ともいわれていたこともあったように思いますが
(わたしも、かつてはそうだと思っていましたが)
でも今は、ここがいいのだ、と思っています。

ここにこそ
日本人らしい創造の源がある(のではないか?)
と思っています。

たいそう舌足らずな文章となりました。
とにもかくにも、夏を乗り切る先人の知恵はすごいぞ!快適だぞ!
と言うことを身をもって体感しました、ということだけは
胸を張って言えるのでした。

「羊羹を食べる」

このひと月ほど
羊羹が食べたくて仕方がない。

頭の中を駆け巡るのは
わたしにとっての「KING OF 羊羹」。
切ってしばらく置いておくと外側に白い糖分がじゃりじゃりと固まってつく
大分は日田の赤司羊羹。
立派な箱に入って、とても「特別感」のある堂々たる姿でした。

四角いシンプルな姿の奥に、いろんなものが凝縮されているような
奥ゆかしさ。
一回に1センチ食べるのがやっとな感じの、あの荘厳かつ重厚な甘さ。
さすがは、天領の地の羊羹。
(関係あるのかわかりませんが)

ウエディングの仕事をしている頃
日田出身の同僚が、家に帰るたびにお土産として持参してくれていたのでした。
懐かしい。

さて
このあたりで手に入るはずもなく、仕方なく近所の
「創業安政元年 かるかん元祖 明石屋」
に急ぎます。
広い店内に走り込み、ざっと目を滑らすと店頭に並ぶのは「木目羹」のみ。
これは「蒸し羊羹」。
一人でいっきに半分は食べられそうなやわらかさと軽さが魅力なのです。
今日はこれじゃない!
店員さんに言ってみました。

「これぞ羊羹、って感じの、羊羹中のようかん、ありますか」

渋いお茶を飲みながら
2センチくらいに上品に切ったその一切れを
ゆっくりと味わうしかない。
いっきになんてとても食べられない、あの羊羹独特の静かな甘みと濃厚な密度のパワー…

そんな羊羹です!
(とまではさすがに言いませんでしたが)

購入したのはこれ。

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楽しみです。ああ…。
ちなみに、自分のためだけに羊羹を。
ケーキでもシュークリームでもなく、羊羹を、しかも丸ごと一本(一棹でしたっけ)買うのは
初めてなことに気づき。

「どうして、羊羹なんだろう」

と思ったのですが。
持ち重りのするかたまりを目の前に据えてしばらく。
納得がゆきました。

「ああ、わたしは『間』がほしかったんだな」

…新しいお茶を買ってこようかな。
せっかくだから、前にもらった漆塗りの菓子楊枝を箱から出そう。
おしゃれな器がないなあ。
羊羹をこれくらいに切ったとして器にはこれくらいのスペースが…

と、頭の中で「羊羹シュミレーション」が目まぐるしく展開していることに気づき(笑)。
それは、地味ながら、とても満たされるものでした。
シュークリームやケーキではどうも、こうはいかない。
これらはわたしにとってはなんというか、やっぱり「日常」なのですよね。

その存在は
喩えて言えば足元にすり寄ってくる毛足の長い愛玩犬のよう。
「見て見てほら、かわいいでしょう!?」と言わんばかりに
突進してくるあのテンション。
いいんです。好きだし。可愛いし。
かわいいんですけれど、なんというか「間」はできない。

かたや、羊羹は
凛として、まっすぐに前を向き、孤高を保つ柴犬のような?
その愛らしさはあくまでも奥ゆかしく。
媚びないので、容易には近寄りがたいけれど。
じゃれなくてもいいから、ともに寄り添い、静かに縁側で庭を眺めていたいような。
(…だんだん、何を書いているのかわからなくなってきました)

とにかく
羊羹が食べたかったというよりは
自分が「羊羹を食べる」ということに対してイメージ(というか、妄想)している「ひととき」を
とても必要としていたんだな、ということに気づきました。

ばたばたと流れていく時間。
目まぐるしい日常。
そこからいったん切り離されたかった。
ただ、そこにある「瞬間」を味わう時間がほしかった。
そういう感じでしょうか。

濃い紫と何の飾りもない、ただただすっきりと四角い姿は
そのような集中にとても似つかわしい気もします。
なんともストイックなあの形状。

「忙中閑あり」。
お茶室の中で流れるような「一瞬の永遠」の時間を
一棹の羊羹に託してしまっていたのでした、というお話でした。
…「羊羹」で、よくこれだけ書けるな~と
自分の妄想力を少し恥ずかしく思いつつ。

みなさんは
どんな方法でそういう時間をとるのでしょう?
とても聞いてみたい気がします。

「みちびき~弟の結納」

 

せっかくの鯛が
ぼやけてしまいました。
残念。

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晴れの日のために、背びれ、尾びれまでちゃんとお化粧した
ツヤツヤの鯛です。
しっぽに飾りまでついている!
間近でこういう鯛を見たのははじめてなので
興味津々でのぞきこんでしまいました。
本当は指でうろこをつん…とさわってみたかったんですが
縁起物なのでそれはやめにしてと。

11月の初め
弟の縁談が調い、先方様へ「結納の儀」に出かけました。
家族がそろうこともめったにないので
全員でごあいさつかたがた出かけよう、ということになり。

緋毛氈の上に並べられた品の数々が
白・朱・金・銀…たくさんの色を部屋中に振りまくさまは
なんとも気持ちが華やぐものです。
並べるひとつひとつの品の由来や意味
以前は全部覚えていたのになあ、と
うんちくをその場で披露できないことを少し残念に思いつつ。
かつては「ヨロコブ…だじゃれ?」などと不届きなことを思っていましたが
今思えば『言霊』『文字の力』ということですね。
「寿恵廣(すえひろ)」
「寿留女(するめ)」

願いと祈りのこもった美しいおめでたい字で表す名前の数々です。

両家、正座で対面し
ぎこちなく、けれどなごやかに「儀式」は終わりそのままお膳での会食へ。
なんというか…
よいものですね。こういうものは。
昔からの決まりごとにのっとり、伝えられているとおりの道具を使い、作法を行う。
意味は定かにはわからなくとも(わかっているともっと良いのでしょうが)
そこに「受け継がれてゆく魂」のようなものを感じます。
品物、作法、文言…長いことかかって洗練され、形式となった「それら」には
やはり「力」があるように思うのです。
そこに、長い間人々が込めてきた思い。
それに重なって、今日この場に集う人間たちの込めた願いと思いと喜びが
この美しく華やかな「道具」に、「言葉」に集約されているように思います。

余談ですが
わたしがウエディングプロデュースの仕事をしていたとき
結納や媒酌人などは省略、というご家庭も多かったように覚えています。
あの頃は「今時、もうそういう『形式的な』ものは廃れてゆくのだなあ」と
ことさらそれに対して何を思うこともなかったのですが
今は
そういう「昔から伝えられてきた形」を無造作に
無駄、非効率的、意味が分からない、とばっさばっさと切り捨ててきたところに
今の日本の問題の一端があるのでは??
と思っているので

「結納にみんな来て」
「式は霧島神宮で挙げる」

と弟が言ったとき
「よく言った!我が弟よ♪」

と、つい頭をぐりぐり撫でたくなったものでした。

さて、話を戻します。
今回のこのご縁。
偶然にも母方の実家のある地域の方とのご縁でした。
母の祖父と、先方様のおじい様は顔見知りだったろう、という話が宴席で出て
みなで驚くことひとしきり。

11歳離れた弟の顔が、きりりと引き締まり
いつもと違う顔に見えたこの日。
長押に飾られたたくさんの古い写真に見守られながら
集っている人たちよりもはるかにたくさんの人たちの
「祝福」の気持ちがその場に満ちているのを
確かに感じたよき日でした。

多くのご縁に導かれて、今始まろうとしている
弟とお嫁さんの新しい人生。
幸多からんことを!

*追記*

上に載せた「鯛」の写真を見かねて
姉が送ってくれました。

感謝。

「地球の鼓動~天地明察に思う」

 

 

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いい焼き具合です。

まさに食べごろ。

 

このとき食べてしまえばよかったんですけど

実際は焦がしてしまいまして。

だいぶ黒くなったものをいただくことになってしまいました。

 

知人の家のウッドデッキで最近こんなことをよくやります。

「バーベキュー」ではないんです。

昨日は、「秋の味覚をめでる」と題して

実際は冷蔵庫にあった野菜などなんですけれど

そういうものをのんびりと食しながら話をする。

ご馳走でなくてもよいのです。

心地よい冷たさの夜風と、虫の声と月と、それから熱燗があれば十分。

(昨日はもはや月はなく、星がきれいでした)

 

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きっかけは「天地明察」(映画です)。

 

中秋の名月から五~六日も過ぎた先々週の半ば

この知人と一緒に見に行ったのですが

 

「日本人に生まれてよかった~!」

 

 

とまあ、二人とも

すっかり感動してしまったのでした。

特に

映画のエンドロールに出てきた二十四節季がくるくると回りながら宇宙に浮かぶ

壮大な映像にすっかりまいってしまったのでした。

 

その日は寒空の下

煌々と光る居待月を見上げながら小一時間も話をしたものでした。

暦のこと。農業のこと。季節の行事のこと、日本の食文化のこと…。

 

 

そのとき、しみじみと感じたのです。

あまりにも自然の運航と(季節と)切り離されて

日々せわしなく動いている自分たちの「時間」が

なんとも寂しく、一瞬一瞬があまりにももったいな、と。

 

小さいころは

もっと生活の中に自然と「季節のリズム」が入ってきていたように思います。

 

お正月や節句や七夕、十五夜のほかにも

毎年の味噌づくりや山や田んぼや畑での作業と

その季節ごとの「生きること」に根差した「何か」が

がたくさんあったものでした。

そしてまた、それらと無心に「戯れる」大人たちの姿も見てきました。

 

「よいしょがっ」(寄り正月)といって

親族で集まるお正月は旧歴で大々的にやっていましたし。

昔は、行事のたびに家で「寄合」があり

そのたびに部屋は、ふすまが外された広間となり

橙色の明かりの下

月を愛で、酒を飲み、上機嫌で歌い、笑い、踊る大人たちの姿がありました。

それはそれは楽しそうでした。

見ている子どもの自分もとても幸せで。

 

何とも懐かしい思い出です。

ああいうの、いいな、と思います。

その時期その時期に、自然がくれるものをありがたくいただいて

とても満たされて生きている人たち、という感じでしょうか。

 

 

なんというか、うまく言えませんが

「地球の鼓動」とリズムを取り合って

生きていたということなのかなと。

 

 

今も、目を向ければ

地球は変わらずどくどくと鼓動をしているのですが

もはや、あのころのようにわたしは季節と(自然と)仲良しではありません。

それが、なんとももったいないことに思えます。

 

そこにあるのに。

ずっと、変わらず多くのものをわたしたちに与えてくれているのに

わたしたちのほうで、共鳴できなくなってしまった。

声を聴けなくなってしまった。

リズムを合わせることができなくなってしまった。

という感じでしょうか。

 

8年前、病気をし

回復の頃、山歩きをしていたときに

はっと頭にひらめいたことがあります。何の脈絡もなく、ただそう思ったのです。

 

 

「神様は(自然は、でいいんですが)

人間がただ、幸せに笑って、歌って、踊って、喜んでいるのを見るのが好きなんだ。

そのために人間をつくったんだ」

 

 

と。

木の葉の間からさらさらと漏れ差し込んでくる陽の光と一緒に

まるで降ってきたかのようにそう思いました。

 

私が小さいころに見ていた大人たちの姿は

そういう姿に近かったように思います。

そして、それはすなわち、「地球のリズムと一緒にダンスを踊る」ということなのかなと。

さらに、日本人というのは

太古の昔からそもそもそうやって生きてきた民族なのだろうなと。

それこそが「日本人の真骨頂」といいますか。

 

昨日は新月でした。

その旨を知人にメールすると

 

「今日は体を休めたらいいよ」

 

と。

知人も私も

これからますます「生きる」ということが

シンプルになってくるんだろうなあ、と思います。

 

 

 

 

「心を向ける~海を渡ってお墓へ行く人」

 

昨日
朝のバスの中で隣にすわったご婦人。
大きな花の包みを抱えていらっしゃいました。

包装紙に包んだ菊。
鹿児島ではよくみる光景です。

菊の横から顔を覗かせている背の高い黄緑のとんがらしのお化けみたいな大きいのが気になって
声をかけました。

「それ、何ですか?」

そこから話がはずんでしまい
しばらく時間が過ぎました。

「お花はご仏壇だんですか?お墓ですか?」
とわたし。

鹿児島では
お墓をとにかく大切にするので
お墓へいく方のこういう姿は
お彼岸でなくてもよく目にします。

「お墓参りにいくんですよ~、今から」
「そうですか~」
「桜島なんです」
「えっ」
「天文舘でおりて、水族館口までいって…」
「そのあと歩いて、それからフェリーに乗って…ですね」
「はい。この間はそのあとが大変で…向こうで、いると思ったバスが出ていて、一時間も待ったんですよ」

この方は
いつもこれだけの手間暇と時間をかけて
お墓参りをしていらっしゃるのか。

「桜島のお墓に行くときは
二三日前からもう、いろいろと考えるんですよ」

瞬間
ばたばたと忙しぶっていた自分を思いました。
いかに早く
たくさんのことをする?
それが最大の「善」になっていた自分を。
周りにもそれを求めていたことを。

ふと口をついて出ました。
「ご先祖様…とっても喜んでらっしゃると思います。
時間をかけて、手間をかけて、そこが何より、一番大切なことの気がします」

 

 

大切な人のために
自分の時間を使う。
丁寧に、心をこめて準備をして。

効率とか、短時間にいかにたくさんのことをするかとか
そんなところにはない
大切な「価値」です。

そこに
どれだけ丁寧に、真剣に心を向けるか。
その、目に見えないエネルギーは
必ず伝わり
一番大切な土台を日々作っていくのだと
感じています。

Android携帯からの投稿

「『芸』ってすごい」

昨日、ひょんなことから

津軽三味線の演奏を間近で聴く機会に恵まれました。

「日本酒を飲む会」なるものに行ったのですが

そこにたまたま他の団体さんの懇親会で演奏家さんがいらしていて

急きょ始まった「生ライブ」に

同席させていただけたという僥倖。

演奏家さんはまだお若い男性。

ケースから三味線をだし

音を合わせて、準備をなさる所から、ずっと間近で拝見していました。

胴と、音を調節する部分(天神、というらしいです)に

きらきら光る蒔絵が施されているその楽器は、宝石を見ているかのような美しさで

それだけでもう、とても特別な感じがします。

演奏は3曲。

まず「よされ節」

「余去る」~余は去るから、あとはゆっくり楽しめよ

という意味とも

「世去る」~暗い世、いやな世よ、去れ

とも、いろいろな説がある、と教えてくださいました。

それから

「津軽じょんがら節」

そして「津軽の『おはら節』」

(鹿児島だと、おはら節といえば「花は霧島♪」ですが、各地にあるものなんですね)

場所は「飲み屋さんの一隅」なので、(しかもドアの横)

遅れてきたメンバーが途中でドアを開けて入ってきたりと…まあ、そういう環境なのですが

空気が全くぶれない。

薄まらないというか、入ってきた冷気もまた瞬時にその場の熱に染まるのです。

演奏してらっしゃるご本人の周りには

まるで朱色の炎が揺らめき立っているような

そんな印象をうけました。

目を閉じた横顔に

数分で汗がうかび、つうっと流れていく、その集中の横顔を見ていて

「美しい」と思いました。

「演奏を聴いている」というよりは

この方の体の中心から溢れてくる何かを

三味線という楽器の音と、この楽器の持つ歴史や世界観を通して感じさせてもらっている

という感じ。

演奏後

手を見せていただきました。

左手の指の一本の爪の先に小さな溝。

そして、ほかの指先も、左はやはり少し硬く。

あとは、何の変りもない

いえ、どちらかというとやわらかくてふっくらと優しい手をお持ちでした。

この手からあの音が、あの世界が生まれていたんだなあと思うと

なんとも不思議で。

高速で弦の上を「きゅっ」と走る指。

呼応して激しく動く撥。

自らのうちに宿す火を、すべて音に託して

瞑目する不動明王のような先ほどの姿と

いま目の前でやわらかく笑っている若者の姿がどうも結びつかず

「芸とはすごいものだなあ」

(個人の技術プラス、それが受け継いできた伝統のすべてを含めて)

と思ったのでした。

昨夜の演奏家。石井秀岱(しゅうだい)さん。

http://www.shudai-tsugaru.net/index.html

「お天道様が見ている」

一昨日

「美しく生きよう」と思った

と書きましたが

それ以来、いろいろな場面で自分に

中村公子のコーチングna日々♪

「それは美しい?」

と問いかけるようになりました。

すると…とても具合がよい。

「それは正しいの?」とか

「ちゃんとしたほうがいいんじゃないの?」

というセルフトークよりも

わたしにとってはずっと楽で、自然で無理がない気が

しています。

小さなことで

ああ、めんどうくさいなあ、と思う場面

いらっとする場面

(スーパーのお手洗いで、洗面台の水を拭くか?とか

置きっぱなしのジャケットをハンガーにかけといたほうがいいけど…とか

運転中に無理に割り込まれそうになったときですとか

そういうレベルのことです^^)

いつもならぞんざいに流してしまったり、態度に表してしまったりするそのときに

「それって、美しい?」

瞬間、すっと背筋がのびて(たとえではなく本当に、です)

「そのこと」に対して、最もいい自分、すてきな自分で対処できる気がします。

「それは美しいことか?」

(調和しているか?皆にとってOKか?筋が通っているか?)

ふと、これはわたしにとって「お天道様が見ている」という感覚に近い、と気づきました。

(ご先祖様が見ている、でも、なんでもよいのですけれど)

小さいころに、よく言われましたっけ。

ご飯粒をお茶碗に残すと

「目がつぶるっど~(つぶれるよ)」

「お天道様が見っちょっでな~(見ているからね)」

祖母、親戚のおばちゃん、近所のおばあちゃん…。

わたしたち子どもをとりまく日常の中で、普通にあったそのような言葉であり、態でした。

正座して

丁寧にお茶碗の底についたご飯粒をとり

小さな背中をまるめて手を合わせていた祖母の着物姿を思い出します。

目先の利益ではなく。

誰かが見ている、見ていないにかかわらず、何か大きなものに対して申し訳が立つか?

「大きなつながり」の中で、それは恥ずかしくない行為なのか?

自分の向こうにいる

家族、友達、地域…たくさんの人

それからこの自然、宇宙

さらに、時間を超えて、自分に脈々と命をつないでくれた人たち

この

「目に見えない大きなものとのつながりへ思いを馳せる気持ちこそが

最後に、どんなときでも私たちを「人」たらしめるもの

人として「まっとうに生きる」ことを助けてくれるものなのではないかと

そんなことをあらためて感じています。

ほおっていたジャケットを手にして

あたらめて意識して丁寧にたたもうとすると

自然と

「ごめんね。いつもありがとう」

という言葉が口をついて出てきます。

その服を作り、手元に届けてくれた誰かの存在を感じます。

車から降り立ち、ドアを閉める、その瞬間ですら、意識するとぞんざいに閉めることができなくなります。

いつもハードワークにつきあって走り回ってくれている「相棒」が

ほんとうにありがたく

ゆっくりと心を込めて閉めたくなります。

不思議です。

そして何より

今、あらためて自分自身をいとおしく感じています。

命がつながっている感、というのでしょうか。

大きな大きなつながりの中で生きている自分。たくさんの人や物から力をもらい

思いを受け継いで生きている自分。

身の回りの大切な物たちと同じく

とてもぞんざいには扱えない。

つながりの中で生まれた奇跡としてまた、自分もいるのだなあと、感謝しています。

「それは美しいか?」

昨日

カフェで斜め後ろに座っている7~8人の高校生を見ながら

ぼんやりと考えていました。

にぎやかですが、それほど声が大きいわけでもないし

どだばたと騒いでいるわけでもない。

「迷惑をかけられているか」と聞かれれば、否。

彼らの存在が気になって…というより

どうも不快で仕方がない。

それはなぜかというと

一言でいうと

「美しくない」から。

紺の制服のブレザーをすっきり着こなし、髪形も素敵に整えた「イケメンな」彼ら。

でも、その居住まい、たたずまい、立ち居振る舞いは、涙が出るほど「イケてない」。

美しくない。

「…こりゃあ、本当に早晩この国は滅ぶぞ」

とつい。

(大げさですね)

わたしが感じた彼らへの不快感は

「自分と仲間」しかいないあり方。

自分を中心に半径1メートルの世界ですべてがすんでいるあり方。

からきているものなのかな、と思います。

配る意識の矢印が自分の周囲50センチで止まっているあの感じ。

まったく訓練されていない「体」。

他者がいる公の空間ではどう体を動かせばいいのか?

体に何も入っていない。

家のソファにいると、たぶん全く同じ様子で座り、しゃべり、テーブルを使う彼ら。

(というか、座ってないし。長くなってるし)

就職対策のセミナーで若い子たちにプレゼンをしてもらうときのことなどをふと思い出します。

フォーマルな場面での体の動きというものは

一朝一夕にできるものでない。

「その時になればちゃんとできます」というのはあり得ないのですよね。

こういう日常をなめてはいけない。

骨の髄までしみついたものが、結局は出るのだから。

…思いは千路に飛び乱れます。

さて。

「美しい」ということはとても大切なことだと感じます。

「美しさ」への教育というものも、もっとなされてもいいのではないかと感じます。

真の美しさとは

「そこにいる自分も他者もともに心地よい状態にするもの」だと思います。

というよりは、そういうものは、自然と美しいものとなる、ということでしょうか。

先日、日本橋の上にのしかかる高速道路という景観を

溜息の出る思いであらためて見上げてかえってきたのでしたが。

(「こんなこと、よくまあやったよね~」「とにかくもう、やるしかなかったんだろうね~」と知人と時代をしのびつつ)

空のカケラも見えない。

美しい橋の頭上を鉄の塊が覆い尽くす、見れば見るほど異様な光景。

「美しさ」を捨て

代わりにわたしたちが選んできたものの結果が、今、わたしたちの周りでさまざまに噴出している気がします。

日本人は、そもそも美を尊び、生活の中の大切な判断基準として

それは美しいか?を置いてきた民族であったのではないでしょうか。

立ち居振る舞い、物のあり方、心の在り方、生き方…すべてにおいて

「それは美しいか?」

(調和しているか?みなにとってOKか?筋が通っているか?)

「美しく」生きたい、と思いました。

何より

ぶれない大人のその背中を子どもたちに見せ続けることが

今大切なのだろうと思います。

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「耳で味わう」

和菓子屋さんの前を通っていて
つい
ふらりと入ってしまいました。
ここの「朝詰み大福」が食べたくなったのです。

ラスト2個を購入して
嬉しい気持ちで店を出ようとしたのですが

ケースの上のこれに
目がひきよせられてしまい。

淡いピンク色といい
小ぶりな丸みといい…
かわいらしくてかわいらしくてたまらない

結局
これも買って帰ることとなりました。
(いつ、誰が食べるというのか?あきらかに「食べ過ぎ」です)

うちに帰り
その姿をまじまじと愛で
桜の葉の独特の香りをかいでいるうちに
先日吉田さんの言っていた言葉を
思い出しました。
「よりよきコミュニケーションのために五感をいかに磨くか?」
という話の延長でしたっけ。

和菓子は、3つの感覚をフルに生かして味わう文化。

「視覚」
自然をモチーフにした優美なデザイン。

そして当然のごとく
「体感覚」
匂い。味わい。

そして
「聴覚」
目で見ると同時に、日本人は耳でも味わい
イメージする。

「春霞(はるがすみ)」
「朧月夜(おぼろづきよ)」…

その菓子につけられた名前の
音そのものの持つ響き
さらには言葉から喚起される
イメージによって
姿や味に何倍もの奥行きがでる。

と。

ずーっと同じ感覚を
共有してきた人が多い民族だからこその
「遊び」
なのだなあとつくづく思います。

さて
そんな話を思い出しながら
食べたこのお菓子。
上品なこし餡と桜の香りが本当に美味しかったです。
ただ…
惜しむらくは、もう少し名前、ひねってくれてもよかったかな。
せっかく期間限定、今だけのものなのに。

その名もズバリ
「桜饅頭」

という名前でした。

 

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