「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

コミュニケーションについて学ぶとはつまり「愛の表し方」を学ぶということなのだ

 

 

数日前、仕事先で連絡窓口となってくださっている方から、

 

「私も(研修案を)拝見させていただきました。

一人の親としても、大変参考になることが多く、
○○という役職の方だけでなく、
親としても勉強させていただきたいなと思うところでした」

 

の言葉と共に、
ご自身のお子さんとの関わりにおける、
とあるシーンへの(後悔の)思いが綴られたメッセージが届き。
(「タイムマシーンがあったらあの時へ戻るのに」と)

 

で、思ったわけなのです。
(たくさんの親御さんの似たような声、いわば「心の叫び」を思い出しつつ)

「ああ、お願いだから自分を責めないで」

と。
それはその時のあなたの(全ての親御さんの)
精一杯だったのだから、と。
で、最近思う
「この連綿とつながる『悲しみ』『もどかしさ』」は何なのだ、
という思いがまたむくむくと頭をもたげ。

 

 

で、
次のようにお返事を返しました。

 

 

 

*  *  *  *

 

「コミュニケーションについて学ぶとは、
つまり、

『愛の表し方』

を学ぶということなのだ、と思います。
他者への愛。
そして、自分自身への愛。

 

わたしたちはそもそも、
たくさんの愛を持っていますけど、
それを「適切に表す」「適切に伝える」すべ、を知らない。

 

自分の親も、その親も、その親も…

 

そんなことを教わっていないし、
知らなかった。

 

(特に、80年前、戦争が終わった時に、
一度大きく断絶してぐちゃぐちゃになった、と思います。
世の中の激変、価値観の激変。
あの時、日本の大人たちはみんな、
自分自身を信じられなくなった、と思うのです。
その傷(固まった心と身体)をわたしたちは受け継いでいる)

 

あなたのお子さんへの(後悔している)言動。
その、
根っこの根っこの深いところにあった、
あなたの「本当の願い」。

それは、
ご自身の不安もあったやもですが、

そのさらに奥には、お子さんへの「純粋なる愛」
がダイヤの原石のようにしっかりと存在していた、
と思うことなのです。

 

*  *  *  *

 

 

「愛を表現する」
「愛を伝える」

 

20代、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んで
「いっちょんわけがわからん…」
だったのですが、
それでも、最終章に出て来る

「愛とは修練である」

の言葉はとても印象に残っています。

愛とは。
愛を伝える、愛を表現するということは、
「練習あるのみ」なのです。

 

どろつき大根のままで
(洗うことも、皮を剥くこともなくそのままで)

「さあ、受け取ってくれ」
「どうして理解できないの?受け取ってくれないの?食べてくれないの?」

と言われても、
相手にとっては咀嚼は愚か、口にすら入れることができない。
(けれど、みんな案外「それでいい」「それが普通」
「自分、不器用だから…」レベルの認識で止まっているのが
「コミュニケーション」の分野なのではないかと思っています)

 

*  *  *  *

 

 

「わたしたちのような仕事の者の役割は、
それぞれが、その「ダイヤの原石」に気づいていただき、
楽しく磨いて「本来の美しい光」が
周りにしっかりと届くためのお手伝いをしているということでしょうか」

 

*  *  *  *

上のように続きを書いて、終わったことでした。
(我ながらいい喩えだなーと思いつつ)

 

 

 

まとまりませんが。
今年もそういう場でたくさんの人にお会いできることが
とても楽しみなところなのです。

 

 

 

追伸:
では、昔の日本人はそんなに「愛」を伝えるのがうまかったのか?
ということなんですが。

「言葉」がうまかった、ということではなく。
(何せ言葉は「今夜は月が綺麗ですね(=I LOVE YOU)」の世界なので)

「身体」が今とは違っていたのだと思います。
身体が常に「温まっていた」(体温ということだけではなく)。

 

柔らかく、豊かにコミュニケーションのためのセンサーが広がり、
リラックスした身体で
昔の日本人は生きていたのだと思います。

(渡辺京二「逝きし世の面影」にその雰囲気を感じることができるのではと)

 

つまり「いるだけで」「お互いそこにいるだけで」
安心感や、つながりの感覚や、愛おしいという感覚や…
そういったものが
溢れている身体、やり取りできていた身体、といいましょうか。
(昔、ばあちゃんの膝に乗っかっていた頃に、そういう感覚を
感じたことがあったように思います)

 

2025年(令和七年)、明けましておめでとうございます

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

今年も皆さんにとりまして、お一人お一人の持って「生まれた響き全開」の

素晴らしい年となりますよう心よりお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

元旦、初日を撮りに行き、

ものすごく、それはもうものすごく頑張った割に

(だんだん日が高くなってきて、目が痛くなるくらいに)

今一歩「よし!」というものが撮れなかったので、

今年の年賀状は上記のようになりました。

素材サイトからダウンロードした梅の一枚を使って作成。

 

 

 

 

そして、「素敵な初日✨」なんですが、

知り合いの方々がそれぞれの「マイベスト初日」を送ってくださり、

「なんだあ〜、ここにあったのかあ」と。

 

 

 

 

年末、ギリギリまで仕事をしつつこの年始を迎え、今日は3日。

改めて実感したことは、

 

「無理しない」

「適度」

「良い加減」

「このくらいで…」

 

という風が吹き抜けていくような「軽やかさ」の重要性。

(特にこだわりすぎのきらいのあるわたしにとりましては!)

 

 

 

 

 

今年は、そういうふうに一年を楽めたら最高だなあと思っています。

どうぞみなさま、本年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

つまり、日本人の「自然の摂理」を五感で見て、聴いて、感じてキャッチして表現できる繊細な力が、世界に認められているように感じる

 

 

 

日本の「伝統的酒造り」が無形文化遺産に登録決定しましたね。
我がふるさと、鹿児島にもそれこそたくさんの焼酎蔵がありまして、
みなさん、本当に嬉しいことだろうなあと思うことなのです。

 

で、早速に「酒作り」の特集番組を見て、
「すごいなあ」とその凄さを噛み締め、味わっていたところでした。

 

 

 

 

日本人の食と健康に欠かせないたくさんの伝統的発酵食品。
その元となる
【麹菌(アスペルギルス・オリゼ)】は国菌。

 

で、
それをずっと「繋いで」きた種麹屋さんが出ていました。
三百年前、室町時代からずっと、種麹を「植え継いで」育ててきた。
今でも、その人たちが育て増やした「種麹」が
日本中に渡っている。

 

 

自然に蔵にあった菌を、「育てる技術」を室町時代から持っていた、と。
すごい…。
すごすぎます。

 

 

 

 

 

そして、杜氏さんの言葉。

 

「五感を駆使して、麹の状態を見極める。
触ってわかることがたくさんある。
熱。水分のこもり具合…

 

麹が自分の力で。
自力で、自分で自分を作っていく。
それの環境を整えるのが親、っていうふうに思えば、
子どもの力に応じて、それを生かした育て方が重要」

 

 

 

 

この言葉が、一番胸に「ぐっと」ときたんでした。

 

結局、人間は、
「自然」に学んで、大自然の動き、はたらき(摂理)をよーく見て、
それを「法(のり)」として(方法、でもいいか)動くのが、
一番間違いがないんじゃなかろうか、と。
全てにおいて、です。
教育。
医療。
商い。
政(まつりごと)。

 

 

 

かつて。
わたしたちには、それをするだけの「ゆったりとたゆたう時間」と、
それをキャッチするだけの繊細な感覚。
そして、大自然への畏敬と感謝があったんでしょうね。

 

 

 

 

仕事の前、神棚に全員で手を合わせる杜氏さんたちの姿を見ながら、
「仕事」というものはなんでも、
昔は「祈り」と隣り合わせ(というか、同義)だったのかもしれない、
とも思えました。

 

祈り、という言葉がピンとこないというならば、
「感謝と切なる願い」
でしょうか。

 

 

 

自分一人の力では何も生み出すことはできず、
「いただいているのだ」ということがわかっている。
自分も「大きな摂理」の一部となって、
大切な人たちの健康や心の充足や幸せのために
「これ」を送り届けるのだ、という願い。

 

 

 

酒造りのような、自然の力を借りるものだけではなく、
全てにおいて、そういうスタンスが根底にあったのではないか、
と思えます。

 

 

 

 

今日はまとまりませんが。
自分自身もそういうふうに仕事をしたいと思いますし、
そういう姿勢で「素晴らしいものや場」を生み出し続ける
たくさんのプロフェッショナルたちが、
わたし自身の身近にもたくさんおり、
(多くの人たちの顔が浮かびます)

 

 

また日本の国全体としても、こういった多くの方々の恩恵を
被る(こうむる)ことができる環境にあることを、
幸せに思うことなのです。

 

 

 

 

この秋「すごいぞ日本文化」と思ったこと(蹲踞と菊と慶応元年)

 

 

 

少し前、11月下旬にFacebookにあげたんですが、

こちらにも書いておきたく。

では早速ですが、この秋感じた「すごいぞ日本!」シリーズ、3本です。

 

 

❶大相撲、呼出さん(若い子)の蹲踞《そんきょ》がすごい!
❷鹿児島名所、仙巌園には65年前から咲いている菊がある!
❸その仙巌園内の博物館『尚古集成館』が慶応元年当時に戻っているぞ!

 

*  *  *

 

❶大相撲九州場所での話。

「本日の取り組み」を書いた用紙を
行事さんが一枚づつ観客に披露する場面があるのだけど、
その横に控える呼び出しさんの「蹲踞(そんきょ)」がとても美しい。

 

多分5分くらいはかかるコーナーだと思うのだけど、
その間微動だにせず、
背筋をまっすぐに伸ばして蹲踞の姿勢をキープし続けている。
上半身は「用紙をとり、回しながら観客に示す」という結構な動きがありながら、
下半身はスッと気持ちいいくらいに
地面からまっすぐに立ち上がって安定している。

 

今、このくらいの年齢の子で、きれいに蹲踞ができる子というのは、
正直とても少なくなっている、と思う。
(もはや生活の中で、この姿勢をすることがなくなってきていますんで)

そして、
これらの「身体の使い方」ができなくなってきていることが、
心身ともに日本人に悪影響を与えているのでは、というのは、
いつも書く通り。
(わたしは「よろしくない影響」だと感じているけれど、
そこは人それぞれかもですが)

 

これは、やはり相撲の世界に入ってから訓練をするのだろうか。
それとも日々の修行精進の中で自然と身につくものなのだろうか。
(多分後者だろうとは思いつつ)

 

その旨、聞いてみたく「日本大相撲協会HP」へと行ってみましたが、
「問い合わせに個別の回答はありません」とのことで。
いづれ明らかにしたいと思っているところです。

 

 

*  *  * 

 

❷正確にいうと、65年間「ずっと咲き続けている」というわけではない。
(季節ガン無視でそんな菊があったら逆に怖い)

 

65年前、「仙巌園菊まつり」を始めた時から、ずーっと
子、その子、そのまた子…
と、一つの株から受け継いで、咲かせ続けている花がある、
ということです。

 

「今咲いているこの花、65年前から同DNAってことですよね!」

 

と、仙巌園の菊のプロフェッショナの方を前に、
つい大興奮してしまいました。
すごい。本当にすごい。

 

ちなみに、菊のプロフェッショナルさん、
菊まつり前数ヶ月は、
「もう、ビニールハウスの前で寝たい」
くらいに緊張されるらしく。

 

鹿児島の仙巌園といえば、錦江湾沿いの海端。

お殿様のお屋敷なので、一番景色のいいところに陣取っているのですよね。

けれど、それだけに台風直撃ルートにもなっている。

この間の台風でも、施設の屋根が剥がれていましたし。

そして、菊。

台風となれば、六千鉢くらいを避難だせるのだそう。

 

 

生きているものを「その日」に向かって準備し、
ピークを持ってくるということの大変さ、
伝統の重さ、責任の重さ、楽しさ、職人さんの矜持…
そんなものもじっくりと感じられる「仙巌園菊まつり」。

機会があったら見に行かれてください。

(そして、65年ものの菊はどれですか?と聞いてみてください。

きっと、職人さんが喜ばれることと!)

 

*  *  * 

 

 

❸慶応元年の壁に頬を押し当て、すりすりして

慶応元年の歪んだ窓ガラスに我が顔を映して、慶応元年の重い鉄の扉をキイキイできます!
(※すみません、キイキイはできません。叱られます)

 

と、上のようにfacebookに書いたところ、

知人から「公子さん、嬉しそうねえ」と書き込まれていたんでした。

はい、嬉しかったです。

 

この10月に全面改装し、リニューアルオープンした
「尚古集成館」。

慶応元年(1865年)に竣工した日本最古の「石造」の洋式機械工場の建物なのですが。

以前は、窓を塞ぎ、館内を黒で統一し、外光を遮断した中で、
ライトを駆使して展示の空間が演出されていましたが、
今回行ってみると…

 

戻ってました。
当時のまんまの白い壁。
当時のまんまの窓から柔らかく差し込む自然光。

 

「ああ。これって…慶応元年と同じ明るさなんだなあ」

 

としみじみ。
窓はところどころ歪んだ板ガラス。
当時は丸いガラスを板に伸ばしたんだそうで、
自然と歪みができたんだとか。
(この歪みが堪えられません)

 

 

鉄の扉も、全部そのままそこにあって、
天井を仰ぐと、なんだか昔ここで仕事をしていた人たちの
ざわめきや熱気が聞こえてきそうな。

 

ちなみに、
直径3メートル?くらいの鉄の巨大な歯車は、
「受付ブース」の外枠になっていました。

「これ、思う存分触っていいんですよね」
「どうぞどうぞ😃」

ということで、ベタベタ触ってきました。

 

 

 

「保全」と「活用」。

これが、仙巌園に課せられた使命なのだそうで。
この2つを両立させるため、
ほんっとうに「あの手この手」。
(という表現ですととても軽くなってしまいますが)
頑張ってらっしゃるんだなあと。

 

ちょっと掘ると「何か出てくる」ので
(歴史的なものがですね)
掘れない。
仕方ないから施設を作る際には「土を盛る」。

 

台風があると壊れる屋根。崩れる土壁。
それもサクサクっと修理できるわけではない。
(手続きが山ほどあるらしい)

 

 

「保全と活用」
の難しさと努力をたくさん聞いて帰ってきたのでした。

 

そして、小さなことなんですが。
この日、仙巌園の駐車場に止める段になって、
料金が値上がりしているのにちょっとびっくり。

けれど、帰る頃には、
「いいよいいよ〜、仕方ないよ〜😃
値上がり分、菊の苗買ってね♪」
という気分になって帰ってきました。

 

「知る」(共感する)ことの大切さも、味わって帰ってきたことでした。

 

(※ちなみに10月1日から入園料も改定されていますんで
行かれる方はチェックです)

 

*  *  *

 

以上、この秋の「ここがすごい。素敵な日本」シリーズでした。

新嘗祭だよ!全員集合‼︎

 

 

 

 

今日は言わずと知れた(と物知りぶってみる。本当は昨日思い出したんだけれど)

「新嘗祭(にいなめさい)」です。

 

「宮中と全国の神社で行われる『収穫祭』のこと」

「天皇陛下自らがその年の新穀で作られた食事をお供えし、

自らも食事をともにされるのです。

(中略)

神様をもてなすと同時に、天皇陛下自らも新穀を食すことによって

新たなる力を得、次の年の豊穣を約束する行事が新嘗祭なのです」

https://okumiya-jinja.com/special002/

(神社専門メディア 奥宮−OKUMIYA−HPより)

 

 

 

はじまりは弥生時代。

日本書紀にも「新嘗」という言葉が出てくるほど歴史ある「祭祀」、それが「新嘗祭」。

すごくないですか😆??

(と、素直に感動)

それが今まで、途切れることなくずううーーーっと続いている。

なんという歴史。

なんという伝統✨✨✨

 

 

 

で。

かつてはこの「新嘗祭」が過ぎるまで、

新米は食べてはいけない、という習慣があったのですって。

(本当に恥ずかしながら💦初めて知りまして)

 

「新嘗祭で天皇は初穂を召し上がりますが、

天皇はその年の新米をこの時初めて食べられることになります。

ですので、天皇以外の人々が新米を食べるのは、

新嘗祭の後に食べることが習慣だったのです。

 

また、昔は現在ほどの機械技術も発展していないため、

稲刈りから俵にお米を入れ終わるまで二か月はかかっていたとも考えられています。

現在では、脱穀したその日に新米をいただくことが可能とされ

新嘗祭(勤労感謝の日)まで待たないでも食べられますが、

これらの名残から新米は勤労感謝の日まで食べてはいけないと言われることがあるのかもしれないですね」

https://btob.kanehatsu.co.jp/article/r1015

(カネハツ食品株式会社HPより)

 

 

 

わたしらの代表のすめらみことが

神様に感謝のご挨拶をしていないのに、

先には食べられません〜😅

待ちますわ〜。

 

という感じだったのでしょうか。

 

 

 

さて、この歴史と伝統ある、

日本中みんなの「収穫祭🙏✨✨✨」。

自然の恵みへのありがとうを捧げて、

収穫の喜びをみんなでお祝いするこの大切な日が、

どうして本来の姿形を想像すらできない、

「勤労感謝の日」

という呼称の日になったか、というのは、

何度か書いているのでもはや、なのですが。

(日本は戦争で負けて、GHQの指示により〜、という流れ)

 

 

 

 

 

今日は新嘗祭なんだよ。

収穫に感謝する日なんだよ。

日本人はずっと、ずっとそうしていたんだよ、

ということを書いてみました。

 

 

と、ここまで書いて思い出したのは。

「自国の歴史を忘れた民族は滅びる」

(歴史学者アーノルド・J・トインビー)

 

わたしは、

「14〜5歳までに自国の神話を学ばなかった民族は滅びる」

と覚えていたんですが、

上のような言葉もあったので、貼ってみました。

 

 

 

 

では…

この美しい秋の日。

みなさんも、すてきな収穫祭をお過ごしください!

 

光源氏がいろいろとひどい(笑)

 

 

 

 

ずいぶんと久しぶりの投稿になってしまいました。

暑い暑いと言っているうちに、はや中秋の名月です。

 

 

さて、今日の文章。

わたしの周りの幾人かも、

「思ったー!」

との声があったので、アップしてみます。

 

 

*   *   *

 

大河ドラマで式部がいよいよ「源氏物語」を書き始めたので、なんとはなしに読み始めてみた、
と言いたいところだけど、朗読を聴き始めのです。(桐壺から順番に)

 

与謝野晶子訳のを聞いているのだけど、
わたしにとって与謝野晶子も十分に「昔の人」の範疇ですし、
古典の文章の特徴か、一文が長くて冗長なところもあって、
聴いていて、

 

「あれ?今の誰のこと??」

 

ということも多々ありなのですけど、
とりあえず「夕顔」の終わりあたりまでやってきました。

 

 

で、
ここまで聴いて感じていることは、
「源氏、ひどーい😆‼️」

 

今の所、出てきている女性は

⚫︎「藤壺」(帝の妻で源氏の義母/道ならぬ恋に燃える源氏)
⚫︎「空蝉」(他人の奥さん/道ならぬ…(以下略))
⚫︎「軒端荻」(空蝉の代わりについ『そい伏して』しまったひと。つまり人違い)
⚫︎「夕顔」(乳母の家に見舞いに来て、隣の家で見つけたひと。源氏ぞっこん。けれど生き霊に憑かれて死んでしまう)

 

の四人なのだけど、
空蝉になんとか会おうと忍んで行って逃げられ、
代わりに別のひとに間違って声をかけてしまい、仕方なく、

 

「わたしはずっとあなたを思っていたのですよ」
(うわ〜、すごいなあ)

 

夕顔が死に、
悲しみのあまり病になる源氏。
ありし姿をしみじみ偲んでいる頃、
空蝉から手紙が来て思う。

 

「この人を思う熱情も決して冷めていたのではないのである」
(おいおい、君は何を言っているのだ??)

 

 

空蝉との逢瀬を作るため、
空蝉の弟、小君(こぎみ)をそばに置き、何かと手引きをさせるのだけど、
なかなかうまくいかない。
そうすると、

 

「お前は役に立たないな」
「いつまでお前を可愛いと思っていられるかわからないな」
(など言い放つ。子ども相手に!)

 

 

光源氏17歳。
輝く日御子。若さゆえの我儘か、
傲慢さか、癇癪か。
(若いってすごい)

 

ちなみに、「末摘花」(鼻の赤い姫ですね)の巻でも、
源氏は相当「ひどい」(笑)。
心の中で言いまくっている。
(醜いなあとか着物のセンスがダサいなあ…的なことを)

 

 

けれど、一度「めおとになった」末摘花を見捨てることなく、
「この人の夫となったのは、
この人の亡き父の必死の引き合わせだったのかも」

 

なんて思いつつ、せっせとお世話を続けるのだけど。

 

 

 

「源氏物語」。
若くて、美しくて、傲慢でわがままで、好奇心の塊。
繊細で感動屋。
心優しく、たおやかで、まめまめしく。
その言葉の尽くし方と言ったら本当に「学べるレベル」。

 

そして、
全てのもの、全ての女に必ず、

 

「美(それぞれの良いところ、美しいところ)」

 

を見つけ、そこを愛おしみ、慈しむ力を持つ光源氏。

今の所、そんな感じでしょうか。
わたしの中に立ち上がっている光源氏像。

 

 

これからも、呆れつつ、
「ひどい〜😆」と可笑しくなりつつ、
ため息をつきつつ、
この若者がどう成長していくのかを
ゆっくりのんびり見届けようと思っているところです。
(いずれ因果応報、いろいろと帰ってくるんだぞー!と思いながら)

 

 

そして、何より新鮮に感じるのは、
その、源氏の見て、感じている「世界」の細やかさ。

 

それはつまり、式部が見てとり、氣づいていた世界、ということで、
当時の平安人たちがすべからく
「見てとり、感じ取っていた世界」
ということなのです。

 

今のわたしたちにはもうもはや、
よくわからなくなっている感覚も多々あるんだろうなあ…
と思いつつ、
自分の身体中の感覚を押し開くように、

 

浸ってみる「源氏物語」の時間な感じもしています。

清里の街の再生に思うーつまりはわたしたち日本人全員の課題

 

 

 

 

 

今朝ほど清里の街の再生をする人たちの番組を見ていて、
なんだか悲しいやら切ないやらの気持ちになっていたところでした。

 

清里高原がブームになった時、
あそこに一斉に押し寄せていた若者たち
(パステルカラーの服を着て「聖子ちゃんカット」をしていた人たち)
とわたしは大体同じ年代なのだけど。

当時から幕末オタクの神社仏閣好きということもあって、
あの、キッチュな偽物(いかもの)チックな清里の雰囲気に、
なんとなく

 

「恥ずかしいな…」

 

という感慨を持ってみていたのだけど。

 

けれど、そんなわたしですらパステルカラーのものを、
何かしら身につけていたように思うので、
時代?流行り?空氣というものは本当に恐ろしい。

 

 

その番組には、清里の地元の人たちが描かれていたのだけど、
みるからに「本当に難儀だったろうなあ」と想像するに十分で。

 

ブームの時。
外からどっといろんな人たちが入ってきて、
「キッチュな」「イカものな」(言い過ぎ?)
お店をどんどん建てて、人が集まって。
その雰囲氣に乗って、地元の人たちも同じようにして。
「ああすれば儲かるのだ」「乗り遅れるな」と。

 

けれど、ブームが去った途端に、
外から来た人たちはさあっと潮が引いたように清里から去っていき。

 

後は、食い荒らされた土地に、
歯抜けのような空き店舗だらけの街。
その中にぽつねんと取り残された自分の店。

 

辛かったろう。
悲しかったろう。
歯痒かったろう。
絶望したろう。

 

と思うのだ。

 

 

父親からのレストランを引き継いだ一人の男性。
父親の工夫と努力で繁盛していた店を、
ブームに乗って改築し、席数を増やし、
効率優先で多くのお客を捌くために冷凍食品を使うようになり、
そしてブームが去った時、お客も去っていった。
お店は負債を抱え、閉店。

 

今、がんとして加工品を使わず、
パスタ麺を自分で打ち、カフェを続けるその人。
(喉から手が出るほど加工品を使いたいけど、でも使わない、と言っていた)

 

きっと彼は深い後悔の中で、この30年間
「自分とは何か?」「自分はどう生きたかったのか?」
を探し続けてきたのではないかと思え。

 

「清里だからお客が来るんだと思っていた。
でも、そうじゃなくて、いいお店があって、
それがたまたま清里にあった、じゃなきゃいけないんだ」

 

いうのはその人の言葉。

 

 

 

清里(のような、もしかしてあちこちにあるかもしれない街)が再生するとき。

 

今度こそ、その土地に根ざす人たち、一人一人の意思と、知恵と、
まことなる自立の心、
「こうしたい!」
「これが自分たちなんだ!」
「これを大切にするんだ!」
という心からの思いで街が息を吹き返すとき。

 

日本も真の意味で再生していくのではないか?と思える。

 

 

それは結局、
わたしたち一人ひとりの心の中、在り方と無縁ではなく。
(全てはフラクタル)

 

清里の人々だけでなく、
この大きな変化の時、
わたしたち日本人一人一人に、刃のように突きつけられ、
問われている、
大きな「喫緊の課題」なのだろうとも思える。

 

 

 

 

どこへ行く日本人。どっちつかずの日本人。お前は何者?

 

 

 

今日から浴衣を着てみたんですが。(7月の声を聞いた途端、うずうずしてしまい)
半分は趣味、半分は仕事でしょうか。

 

 

 

 

話は飛びますが、
偶然「フットケア」の特集番組を見まして。

 

足の不調(外反母趾や、巻き爪、魚の目、たこ…や何やかやで痛くて歩きづらい)
をどうケアするか、という話と、
予防として、そもそも「そうならない」ための「靴選びや歩き方」、

といった内容だったのですが。

 

 

それを見ていて、思ったことは、

 

「なんだかんだ言っても、わたしたちは『靴』に馴染んでいないし、
『靴で歩く』ことにも扱いにも慣れていないのだな」

 

ということでした。
靴を履き始めて160年(やっと)。
身体なんて、そんなにあっという間に変わるものじゃない。

 

 

一体、何人の日本人が足のため、
身体のための「靴の正しい選び方」「扱い方」をちゃんと、
お味噌汁を作るくらいの「当たり前」レベルで
知っているだろう、出来るだろう、と改めて思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

で、
ふと思い出したのですが。

 

相当昔の話なんですが、何かの番組で、
「オードリー・ヘプバーン」の問題が出ていて、その問題が、確か

 

「オードリーが小さい頃、足が綺麗にちゃんと成長するように親ががやったことは?」

 

というような問題だったのです。
で、いくつか選択肢があって、
答えは「足首まである編み上げ靴を、紐を締めてしっかりと履かせる」
だったように覚えています。

 

 

今思えば、向こうの人たちにとって、そういうのは、
至極当たり前のことなんだろうなあと。

 

 

 

 

 

で、日本人なのですが。

 

 

では、草履や下駄を履き、畳や板の間で「座して」暮らすことで
昔からご先祖が馴染んできた、

 

「身体の使い方」

 

は身体にちゃんと息づいているか?というと、
それももう、ない。

 

 

 

そして、今の若い子たちは「蹲踞(そんきょ)」ができず、
丹田の場所がわからず(こういう役者の卵の子に会ったことがある)、
浴衣の帯をウエストで結び(男の子です)
腰を立てて姿勢をキープできず。

 

しかも衝撃だったのは
10代から「尿もれ」を起こしている女の子がいると。
(骨盤底筋が弱いのが原因らしいのですが、
これは、和式の生活をしていればごくごく自然に鍛えられてきたものなのだそう)

 

 

 

 

で。
「どこへ行く日本人」
「どうする日本人」

 

と思ってしまったわけなのでした。
もう「和」は捨ててしまった。
どっちつかずで何者でもなくなってしまうんじゃないか?と。

 

 

フラフラと。
あっちへいき、こっちへいき、何が正しいのか?
何を軸にしたらいいか、とても深いところでわかっていないというか、
なくなってしまっている。
その精神も、「よって立つ『よすが』がない」感じ。

 

 

それらは、こういったところにも
(生活様式、身体の使い方が伝承されていないところにも)
その原因はあるのではないか??
とずっと以前から思っているのです。

 

身体の軸と精神の軸はしっかりと繋がっているわけですから。

 

 

そんなことを考えつつ、浴衣でここに座っている今。
(近所の人と、カフェの店員さんから
「何かお稽古ですかっ😃!」と声をかけられつつ)

 

 

 

 

それにしても。
「和のよそほひ」って、背中を丸めようがないなあ、と
(下腹が定まって楽だよなあと)。

 

それに、下腹で楽に全身を支えられるので
(帯で下腹をきゅっと締めてますんで)
肩に余計な力が入らなくて、大変よろしい。肩こり防止に。

 

 

 

 

日本人の中心は「肚」なんだなと。
頭(思考)と、胸(感情)と、肚(意思・精神)。
最終的には、腑に落とし、決断し、
そして「肚からの声」で伝えるのが日本人だったんだろうなと。

 

そんなことをつらつらと思っているところです。

 

 

 

西郷隆盛→「のちに鹿児島土産のフリー素材になる男」(楽しい人物紹介)

 

 

 

 

鹿児島は磯街道沿い。

島津の殿様の別邸、仙巌園で開催中の「だんドーン」原画展に行ってきました。
(写真は会場でアンケートに答えるともらえるオリジナルポストカードです)

 

よくよく考えてみれば、今につながる警察の土台を作った人。
すごいことだよなあ、
と思うのですけど、なのに鹿児島では語られることのたいそう少ない郷土の偉人。

そして、明確に、明らかに「嫌い」と公言する人もいる、という薩摩の偉人。
それが「川路利良」。

 

(一応書いておきますと、
「だんドーン」はその川路が主人公の漫画。作者は「ハコヅメ」の泰三子。

この方、鹿児島出身ではないかという噂がある)

 

 

さらに鹿児島以外の人のために書いておくと、

川路が鹿児島で「嫌われキャラ」なのは、

「西郷どんを殺そうとした男」

「故郷に弓引いた男」

ということになっているから、なのです。(西南戦争の際のあれこれでですね)

 

 

 

わたしが川路利良を意識したのは、
東京で歴史イベントに参加した際、そこで【川路の大ファン❣️】
という人に会ったからで、その人が書いた、

 

「サムライたちの警視庁」

 

という本がとても面白かったからなのです。
(明治初期、警察機構の黎明期にお巡りさんになった
サムライたちの経歴、お墓を網羅した珠玉の一冊)

 

 

その方が、
「鹿児島行った!皆与志から鹿児島中心部まで、
川路が毎日歩いていた道を自分も歩いてみた!」

と嬉しそうに言ったわけで。
(何キロあるか忘れたけれど、ゆうに10キロは超えている結構な距離。

 

歴史の好きな人って、それくらいサクッとやってしまうんですよね。
ちなみにわたしの夢も「旧暦の6月5日に、新選組と同じ重さの装備を背負って、
四条から三条池田屋まで走りたい」です)

 

 

さて。
鹿児島の幕末〜明治史というもの。
わたしにとって身近にありすぎて、
しかも結構感情が絡んでしまっており。

 

と言っても大した感情ではないんですが。

 

子どもの頃、父親や周りのおじさん連が西郷どんが好きすぎて、
色々と押し付けられすぎて、
なんだかもう「いい加減にしろ」な感じでして。

 

わたしにとって、西郷や大久保といった「有名どころ」は、
残念なことに、学校の副読本の暗い色の表紙に象徴される、
自分を縛り付けていた、ままならぬ、なんとも言えない
「鹿児島的なるもの」。
固定され、動かない閉塞感と言ったような感覚と
しっかりと結びついてしまっている。

 

 

話戻って。

そういう感じなので、何度本を読んでも、大河ドラマを見ても、
西郷どんが何をして、どういう人だったのか、
理解できないという…。
(知識としては知っているんですけどね、もちろん。
リアルな人間としての姿が立ち上がってこない)

 

で、この「だんドーン」。

…立ち上がってきております!

 

 

きっと、世の中には怒る人もたくさんいるんだろうなあ。
「西郷隆盛。後に鹿児島土産のフリー素材になる男」
ですもんね。(西郷どんの説明が)

 

けれど、
わたしにとってはなんだか(やっと)風が轟々と吹き抜けて、
厚い雲が取り払われるような感じを感じており。

 

 

そして、この風が、
長い間固まっていた鹿児島の「何か」にも変化をもたらすんじゃないか、
と密かに思ったりもしているところです。
(少なくとも、川路を知る人が増えるだろう、
そして、「川路いいよね!」という人も増えるかなと)

 

結構いいバランスなんじゃないか、と思ったりしているところなのです。

 

 

 

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