夏休みが始まったので、世のすべてのお父さんお母さん じいちゃんばあちゃん先生方にエールを送っておく

 
 
 
(写真はやっと撮れた蜻蛉。3回飛んで行かれて、4回目のトライ。
羽根が綺麗ですよね)
 
 
 
 
 
ついさっき、
隣のテーブルにブルーシートやら何か、
工作の道具やらを山ほど持った
女性たちの一団がやって来。
 
 
 
 
あ〜、子ども達のために何か準備をしているお母さんたちだな、と思い
 
 
「席、変わりましょうか」
 
 
と言ってみたところなんですが。
(わたしのテーブルの方が広かった)
 
 
 
 
 
 
 
数日前、正午。
朝顔の鉢と一緒に歩道橋の上を
たくさんの小学生が歩いているのを見て、
 
 
 
「ああ、始まったなあ〜夏休み」
と。
 
 
 
この数日、
いろんなお父さん、お母さん、先生方…の話を聞くにつけ、
 
 
 
 
「世のお父さん、お母さんって、こんなに考えて、頑張ってくれているのか(くれていたのか!)」
 
 
 
と、
なんだかもう感動することしきりなのです。
 
 
 
 
 
生活のリズム。
体験。
どんなふうに作っていこう、どんなふうにデザインしよう…。
(確かに。放っておくと、恐ろしいほど「安きに」流れてしまう、それも子ども)
 
 
 
 
 
 
 
どんなふうに子どもたちと過ごそう、
楽しませてあげよう、一緒に楽しもう、と。
 
 
そんなお父さんお母さんの
夏の「戦略」「プラン」「計画話」「企み」を聞くにつけ、
 
 
 
「すごい…」
 
 
 
と思うのです。
(何か、すごく特別なことをする、とそういう話ではないのですよ、念のため)
 
 
 
そこに感じるのは、やっぱり大きくいうと「切なる願い」でしょうか。
 
 
 
 
 
 
子どもにとっても40日というのは、それはすごい時間です。
 
 
 
 
 
 
中学生でさえ、40日経って会う子どもたちは、
明らかに「大きく」なっていた。
 
どこが、というのではない。
何が、というのでもない。
けれど、明らかに表情が変わり
(いろんな方向、いろんな意味で(笑))
 
 
 
 
そうですね。
細胞に満ちている「もの」の質が、一学期までとは違っている。
 
 
 
 
 
40日間という時間がどんな時間であったか、
それが、その子どもの表情や視線、雰囲気の向こうに透けて見えるような。
 
 
 
 
 
 
 
 
子どもにとって、黄金の時間。
それが夏休み。
 
 
 
 
 
 
自分の子どものころを思い出すに、
暮らしが順調であった時も、そうでなかった時も、全てをひっくるめて、
 
親が「その時の精一杯」で共に過ごしてくれた
夏のいろいろな時間を懐かしく感謝すると共に、
 
 
 
 
「ああ、世のお父さん、お母さん、お疲れ様…頑張って!」
(だれんごとやってください!)
※鹿児島弁です。「疲れないように」
 
 
 
 
 
 
と思う、今日、7月24日なのです。
 
 
 
 
 
 

世界平和のキモはきっと「想像力」なのだ

 

 

 

 

 

「粗大ゴミ」
を清掃センターに持って行ったのですけど。

 

 

 

建屋の中、まさに、
自分の愛用してきたものが、あの巨大&広大な穴の中に
ダイブして落ちて行くところを見てしまいました。

 

 

(はるか足元、穴の底には、
かつて誰かの「愛用品」だったにちがいないモノたちがたくさん)

 

 

別れを惜しむまもなく一瞬で、

「これ、捨てるんですね?」
「あ、はい…」
(「い」が終わる間もなく係員さんの投擲「そいやっ!」)

 

 

 

「あああーっ!さらば〜っ😭‼️」
(とつい声と手が)

 

 

それを見た係員さん、クスッと。
叫ぶ人は少ないんでしょう、さすがに。

 

 

 

捨てるために持って行ったわけで、
しかも後ろには次の順番を待っている車もあるわけで。

(ちゃんと覚悟して持って行きなさいよ自分)
(別れは事前に交わしておきなさいよ自分)

 

 

と自分の不甲斐なさを思ったのですが、
一番実感したのは、

 

「自分の想像力のなさ」。

 

毎日、
燃えるゴミだ、燃えないゴミだと捨てているけれど。

 

たまには粗大「ゴミ」だと、集積所にちょこんと置いておいたりするけれど。

 

 

 

あれは本当に「捨てた」ということではなく、

(そうはなっておらず)

 

こうやって
毎日毎日、かつて「大切なもの」だった「モノ」たちに

「引導を渡し」

その最後をちゃんと見届けてくれている人たちがいるのだと。

 

 

それはリアルに、この光景なのだと。

(それくらい、自分が「捨てた」ものが真っ逆様に
落下して「ゴミ」になってゆく姿は衝撃的でした)

 

 

 

 

 

わたしたちは、
わかっているようで本当にはわかっていないことが多い、
と思います。

 

 

 

ふと思い出したのは食肉のこと。

 

誰かが「命をとる」
ということをやってくれているから
わたしたちは肉を食べられるわけですが、

 

それは(命をとる、は)

日々とても具体的な実態と、もしかして五感を伴った「行為」なのです。

その「リアル」をしっかりとちゃんと想像したならば。

 

 

そのものや、こととの
付き合い方や姿勢、
価値観は変わってくるだろうと。

 

もので言えば、
それを迎え入れるときから(買う時から)
いろいろと考えるんじゃないかな

とそんなことをしみじみと思ったことでした。

 

 

 

「想像する」

よく使う言葉ですが、

なかなかに簡単なことではない。

 

わたしたちが実際にいけて、見ることができ、体験できることも、

会える人も限られます。

世界の隅々まで行けるわけではない。

ずべての事象を体験できるわけではない。

 

 

 

だからこそ、

想像の力こそが必要なのだ、と。

(そして、それはどうやったら鍛えられるだろう?と)

そんなことを考えているところです。

 

 

 

 

 

 

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