今、最もチケットの取れない落語家、であるらしい
立川談春が対談で
「(落語も)旋律として、音色として聞いていて心地いい、というのがいい。
正しさの外にあるものがある。
内容は伝わっていないかもしれないけれど、気持ちよかったよ、
みたいな風にやるのが好き。
音楽的な要素を大切にしたほうがよい。
落語ひとつでチューニングできそうな気がする」
と言ってていました。
正しさより五感。リズム。
相手が身体で感じる感覚が大切、ということなのでしょう。
数年前でしたか。
由紀さおりのCDが海外で大ヒットしたことがありました。
曲を聴いた外国の人たちの感想がまさに、そうだったように記憶しています。
「意味はわからないけれど、聞いていて美しい。心地よい」。
母音主体の言葉である日本語の面目躍如、とも思いましたが。
話変わって。
「日本語で『体』というのはかつては『死体』のことだった」。
(能楽師 安田登 「日本人の身体」 より)
以下、要約。
「(昔は)生きているからだのことは『身』と言った。
身、とは、身と魂、両方の入ったものを指す言葉で、
昔の日本には『からだ』と『魂』を分けて考える風習はなかった。
この身体を『体』として、心(魂)と切り離し、『体を鍛える』というように
一個のモノのように扱う概念が出来たのは明治から」
なのだそう。
そういえば
日本の伝統的な武道、芸は、準備運動もなければ発声練習もないですね。
(詳しくはないので違ったらゴメンナサイ。
以前やっていた居合はそうでした。それから先日見学した詩吟も)
○○のために身体を鍛える、トレーニングする
という「身体を切り離し、コントロールする。(意に添うように作り変える)」
という発想が
本来日本にはなかったのでしょうね。
さらに話変わって。
数か月前。
社交ダンスの著名な指導者のレッスンに出る機会を得ました。
先生いはく
「『ここでこう体を使って…』とみなさん言いますね。指導者も言いますね。
『使う』という言葉で日本人は力をいれます。頑張ります。
日本人にとって『使う』とは『力を入れる』ということです。
でも、ダンスでは
体を使うとは「抜く」ということです」
すごいのは
身体を「使って」前へ前へ踏み出そうとしていたワルツの第一歩。
先生のおっしゃる通り、全身の力をストン、と抜いて
そうですね…まるで地球に身体を預けるようにすると
これまでの2倍、いっきに距離がのびたのです。
驚き。
「使う」という言葉に日本人が込めているイメージがある。
そして、
体は自分の外にあって「使う」もの、だと。
「物」だと、わたしたちは無意識に思っている。
身体は言葉のとおりになりますから。
どんどん切り離されていく。
まさに
「『からだ』の『から』は『殻』。
切り離し、覆い、分離されている、ということ」
そんなことを思いました。
さて、タイトル
~「伝わる」ためには「正しさ」よりリズム。何より自分と「身体」の一体感~
ここでいう「伝わる」とは
「いい話ですね」で、3日したら忘れてしまうような、頭での理解を指すのではなく。
相手の心身にがっちりと入り込み
細胞を揺るがし、相手の心を揺るがし、人生を変えうる…
そういう状態を「伝わる」と表現しています。
わたしたちが相手に「伝えたい」と思う
その理由は究極すべてこれだと思うのです。
そのために知っておくべきこと、それは
何よりまず一番に相手に伝わるのは
「言葉の内容」よりも「言葉の波長」「語り手の作り出す波長」である。
ということです。
「言葉の内容」で嘘はつけても、「波長」は嘘がつけません。
絶対に。
そして、その「伝わる波」「心地よい波」は
心と身体と声と言葉…全部がつながった状態の人からしか
生まれないものである、ということ。
わたしたちは
「身体とのつながり」を取り戻さなくてはなりません。
身体を震わせ、肚から声が出るとはどういうことか?
言葉と自分の感覚がしっかりと結びつくとはどういうことか?
それが本当に自分の身体から出てくるときの感覚を
正直言って、大人になったわたしたちは数十年、ほとんどの人が体験していません。
込み入った修行も特別な体験も必要なく
わたしたちは
今ここにある、人間としてのシンプルな「原初の」機能によって
それを体感し、取り戻すことができるのです。
そしてそれはとりもなおさず自分自身の人生の(どこかに置き忘れた)
大切な部分が戻ってくること、とイコールなのです。
※タイトルについて
「伝える」場面において、その情報が「正しい」のは大前提です。
「一言一句正確に…」「準備してきたことを全部話さないと」
といった部分にのみに固執するな、ということです^^。