「そこにないものを見せ、聞かせ、感じさせる~白石加代子百物語 第三十二夜」

昨夜観た「白石加代子百物語シリーズ 第三十二夜」。

第98話「橋づくし」

第99話「天守物語」

確かに、舞台にいたのは最初から最後まで

たった一人の女優さんだったはずなのに

今朝、思い出してみると

「…そうそう、そこで、天守に登ってきた武士が槍で獅子の目を突いて…」

完全に、頭の中に残った映像は変わってしまっているのに

あたらめておお!と驚いてます。

小袖をまとった美しい姫に

りりしい若侍

白い鷹が空を舞い

そして飛び交う矢玉…

豪華絢爛、多彩な登場人物による物語の世界に、

しっかりといざなわれてしまった

一夜だったのでした。

さて

一人が、大勢の人物をどう演じ分けるのか、なのですが。

衣装が変わるわけでもないですし。

素人の考えですと

「立っている場所を変えたり…あとは声を変えて表情を変える??」

などなど、思うわけですが。

なかなかどうして、それだけ、という単純なものではない。

確かに、ほんとうに豊かな、さまざまな表情の声をお持ちでしたが。

それでも、例えば声優さんのように「全く違う声を出す」ということは

なさっていないように感じました。

ましてや、顔の表情など。

…そのような、「表面に現れる」浅い部分のみで、あの物語をつくり、演じたとしたら

きっと、お客様は10分もしないうちに飽きてしまうんでしょう。

「世界でもっとも表情豊かな人形は、文楽人形である」

先日ボイトレにいったところの先生のお言葉です。

ご存知の通り、文楽人形の表情は変わりません。

でも、それを使う方々によって命を吹き込まれ、

輝くような喜びの表情や

張り裂けんばかりの悲嘆の表情を全身からあふれさせる。

人形を使う方々、演じていらっしゃいますよね。

もちろん、表情にも動きにも、まったく現れませんが。

それでも

その人形の演じている役の「人生」を、全身で生きていらしゃるのが、わかる。

静かに、静かに、深いところで。

能もそうですね。

能面自体の表情は変わらない。

でも、あの、何の動きもない、抑制された表情の中に

わたしたちはたくさんの感情を見、感じます。

一粒の水が水面に紋を描くような静かな動きの中に

瞬間、ものすごく大きな世界のつらなりを感じたりする。

結局

「中身」なのだ。

とその、先生はおっしゃるわけです。

演じる人の、中身。

演技という、表に現れる枝葉。それを地中で支える広大な「根っこ」はちゃんと存在するのか!?と。

それがないと造花にすぎない、と。

そう熱く語ってくださったのですが

昨日はそのことを

あらめて目の前で見、聞き、感じることができた気がしました。

このことは

役者さんに限らず、人前で語り、伝える場面のある方には

みな、共通する大切な部分だといつも感じます。

どんなに手をかけ、準備された文章であり、言葉であっても

それに「命」を通わせない限り相手の中には届かない。

どんなに美しく、流麗な言葉の群れであっても。

どんな正論であっても。

自分で見、聞き、感じている言葉でなければ

相手を自分の見ている世界に(自分がつたえたい、わかってほしいと切望する世界へ)

相手をいざなうことができない。

だから、相手は動かない。

それは…なんとなんと残念なことなのでしょう!!

そういう方々を数多く見ることもあるだけに、もったいないな、と思います。

来月より、また、そのようなことを探求する場をつくる予定でいます。

ご興味あるかた、いらっしゃるかな…?

まとまりなく終わっていきますが

今日はこれにて。

「今日はオタクな話なのでー『新選組–幕末の青嵐』」

時代によって、人によって作品の解釈も変わり
役の解釈も変わり
セリフの解釈も変わり、結果、表現が変わる、
という話をハムレットの例の有名なセリフをたとえにしてわかりやすく書いてある一節を
読んだことがあり
面白いな~と思っていたのですが
今日は強いてテーマを見つけるなら、そういう話でしょうか。
いや、そうでもないか。

「朗読カフェ」
というものを知人が開いており
それに、ずいぶんと前から参加してみたかったのでした。

毎月、鹿児島市内のおしゃれなカフェやレストランで開かれるそれは
朗読したい本を持ち寄り皆の前で朗読する、というもの。
参加してみたいな、と思った1年ほど前から「読みたい本」はもう決まっていました。

「新選組 幕末の青嵐   木内昇」

どうせそこか、と思った方もいるかと。
(まあ、そうなんですけれどね)

「歴史小説」というには
あまりにもみずみずしさ全開のこの小説。
語り手が次々と変わっていくのが面白いのです。
次々と起こる事件が、関わったさまざまな人物の目から語られてゆきます。
360度から光を当てられた多面体のよう。
ときは幕末。陰惨な事件も多いわけですが
それでもこの本の世界はなんとも美しい透明度を持って迫ってきます。
まるで、たくさんのカットを持つほど光り輝くダイヤのような。

好きな場面をひとつ、書きます。
沖田総司の死の場面。

沖田の死の場面には、必ずくっついてくるものがあります。
それは『黒猫のエピソード』です。
死の数日前、療養している離れの庭先にやってきた黒猫を沖田が斬ろうとして
斬れずに死んだ、という。
過去、あまたの小説で
そして、映画やドラマで、様々な描かれ方をしてきた有名な場面です。

黒猫が、自分が斬ってきた人間の亡霊に見えて錯乱して死ぬ、ですとか
剣士としての腕を最後に試そうとして果たせなかった、とか…。
とにかく

「ああ、斬れない…!」

と、最後に呟いて倒れる総司は、子ども心にやりきれなく。

「人生とは、こんなふうに終わっていってもいいのだろうか!?」と。
どんなに精一杯生きても、人は報われないのではないか、と。
自分が命を懸けて、極めてきたところのもの。
自分そのものであった世界についに見捨てられる、
こんな人生の終わりがあっていいのだろうか!?と。
今思えばそれは、「世の中」というものや
「自らが生きること」への漠然とした不安を抱かせるに十分な場面でした。

      

「総司が亡くなる数日前、彼はみつにこんなことを言ったのだそうだ。

『姉さん。もうちょっとでまた剣の道が極められそうだ。次の場所に行けそうなんだ。
稽古はしていないけれど、寝ながら考えていたらだんだん見えてきた』

総司は天才ですから稽古なぞしなくたって剣は極められるのかもしれないですね、
とみつが応えると、本当に嬉しそうに笑った。」

この日、庭に来た黒猫を「斬る」と言って外に出た総司は
猫をじっと見つめ、何もせずに戻ってきます。
その翌日も同じく。
そして寝床に戻り、誰にも気づかれることなくそのまま死んでしまう。
死後
彼が寝入る前に興奮して語ったという言葉が、世話をしていた婆やの口から語られます。

「ねえ、婆や。
私は猫を斬らなかったけれど、斬れなかったんじゃないんだ。斬ろうと思えば斬れる。
いつだって斬れるんだ。
確かに、今は万全じゃないから、誰かに踏み込まれたらやられちゃうかもしれないけれど
でももう、そういうことを恐れることもないな。

私はね、一番の剣客を目指していたから、
人と立ち会って勝つことだけをずっと考えてきたんです。
でも、それだけじゃない、って最近わかってきた。
大きい世界に出て、いろんな人と出会って、剣を十分に使って、経験を積んで、
ちゃんと自分には剣があることがわかった。
頭じゃなくて、気持ちと体ではっきりとわかってきたんだよ。
だからもう、争わなくてもよくなった。人と争わなければならないような迷いは、もうないな。
だって自分に自信があるからね。

剣を極めるということは、もう斬らなくてもよくなるということなのかもしれません。
闘わなくたって、相手も自分もわかるということなのかもしれません」

一気に、そして嬉しそうに婆やに語って「安心しきった顔で床に入った」。
それが、この作品の最後の総司の姿。

この場面をはじめて読んだとき、
肩の力がすうっと抜け、言いようのない感慨を覚えたものでした。
あえて言葉にするなら「やっと終わった」という感じ?
やっとこういう総司が出てきた、という感慨といえるかもしれませんし
あるいは
自分の中でずっと留まっていた「何か」が昇華された安堵感だったかもしれません。

とにかく、空を見上げて、なんだか泣きたいような心持ちになったのでした。
総司とともに、自分の中の何かが確かに癒され、光となって
天に昇って行ったかのような気がしたのでした。

「新選組 幕末の青嵐」。
最後は史実通り、もちろんみな死んでしまうのですが
それでも、後に残るのは爽やかな一陣の風と突き抜ける青空と、
そして美しいダイヤの透明感。
こんなふうな世界を、空気を、律動を言葉で構築できる人というのは本当にすごいな、
と思います。

奇しくも、7月19日は新暦で沖田総司の命日。
(この蒸し暑い時期にずっと寝床の中だったとは!沖田さん大変でしたね)
子どもの頃、何度も彼らの人生を追体験し。
そして月日が過ぎ。

この作品を通してやっと、
彼自身の口から
「人生って、それでもすばらしい。生きるって、それでもすばらしいよ!」

と、言ってもらえたような気もし。
いや、それを大人になったわたしは、もはや十分に知っていたのですが
145年前の彼に伝えるすべを持たなかったので。

それを再度しっかりと確認し
そこにともに到達できたことを喜ぶために
「朗読カフェ」にて
皆さんの前で「音」という形で表現してみたくなったのかもしれません。

言葉に込められた響きというものが
そこに込められた祈りや思いというものが
確かに届くものだと、最近とみに実感するので。

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