私たちはつながっている

 

 

 

 

 

 

用があって、

出かけようとしたら車のエンジンがかからず。

 

 

 

時間も迫り、

焦っていつもの、メンテナンスをお願いするディーラーさんに電話をすると、

 

「ロードアシストを頼んでください。

保険の書類に連絡先が書いてあります。車の中にありますか?」

 

 

「ど、どれですか!?」

 

 

上ずったわたしの声に、

 

「まず落ち着きましょうか!」

 

と冷静な声。

 

 

 

 

 

 

ロードアシストを待つ間、

予定の場所へキャンセルの連絡を。

 

「すみません。出ようとしたら車のエンジンがかからなくて(汗)」

 

「ええ!大丈夫ですか⁉︎大変ですね!」

 

「もう、本当にごめんなさい」

 

「大丈夫ですよ!予定変更をいたしましょうか。

いつがよろしいですか?」

 

 

電話の向こうの親身な声音に安心し。

 

 

 

 

 

 

 

最近こういう場面が多くて。

例えばPCの電話サポート。

 

 

「わたくし○○が、

問題解決に向けて全力でサポートいたしますので、ご安心ください!」

 

「それについて、専門の○○が、今、わたくしの後ろに控えております。

ただいまからその者に代わりますのでお待ちいだだけますか?」

 

 

 

 

 

…マニュアルにある言葉だとは思うんですが、

やっぱりとても嬉しい。

 

本当にきっと後ろに立って、まるで

「忍びの者」が静かに控えるように、チェンジを待っているのかな…など

想像してしまいます。

そしてまあ、本当に一生懸命やってくださる。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

 

 

「みなさん、お仕事だから」

 

 

 

言ってしまえばそうなんでしょうが。

 

 

 

それにしても何なんでしょう。

このまっすぐさ。

一生懸命さ。

なぜこの人たちは、こんなに真摯なんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数週間、

困難な状況を過ごしたクライアントさんがいらっしゃり。

 

 

不安、孤独、恐怖…それらの人生、何度か訪れる巨大なやつがやってきつつ、

一人で乗り切り、家族を守ったその方が、

振り返って言う言葉が印象的でした。

 

 

 

「朝、起きて、

窓の外を見ると、朝早くから工事現場のおじさんが旗を降っている。

 

それを見ているだけでとても安心しました。

ああ、一人じゃないんだ、と」

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、繋がりあって、みんなで生きている。

大きなつながりの中で、

ジグゾーパズルのように。

 

誰かの存在が誰かを励まし、誰かを助け、誰かに幸せをもたらしている。

特別なことをしなくても。

日々の「本分」をただただ全うすることが、しっかりとそれに繋がっている。

 

 

 

なんと素敵なんだろう、

(そして嬉しくありがたいことだろう)

と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

程なくやって来た「ロードアシスト」は、

 

いろんな機材がついた

消防車みたいなつやつやの大きな車から降り立った

物腰と眼差しのたいそう柔らかな若者が、

 

静かに職務を全うして、微笑みと共に去って行ったことを付け加え、

今日の文章を終わりたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この文章を書き終わって、ふと

「スカイハイツ・オーケストラ」という短い物語を思い出しました。

 

昔、国語の教科書に載っていたんですよね。

 

 

 

 

 

夜、

団地の真ん中の公園の滑り台の上に置かれたタクトを少年が振ると、

 

団地の窓という窓が開け放たれ、

家の人たちが一斉にベランダに出てきて、めいめい楽器を奏で、

それが美しい音楽になる。

 

終わったら、何事もないように日常に戻る、という。

 

あれはいいお話でした。

 

 

 

 

 

「今、一致しているか?」と自分に問おうーコミュニケーションにおける安心感・信頼感とは

 

 

 

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一昨日、知人から聞いた話なんですが。

 

 

 

お子さんの通う中学校の校長先生が、

朝礼で全校生徒を相手に「じゃんけん大会」をするんだそう。

 

そのじゃんけん大会にはルールがあって、

勝っても負けても生徒は、

 

「いえーい!」

 

 

と大声で言わなければならない。

 

負けた子も、とにかく

「いえーい!」

と叫んでから、座る。

 

全身全霊で、飛び上がって、「いえーい!」と言う。

言わせたい。

 

それが、校長先生の意図だそうで。

 

 

 

 

全身から出てくる喜び、嬉しさ、感動、楽しさ、ある時はがっかり

それらと、

 

自分の「声」「身体」そして「言葉」。

全てが一致している。

それらを、存分に、思いっきり全身で表現する。

 

 

 

思えば、そんなふうに最後に在ったのはいつかなあ、と思います。

皆さんはいかがですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、子どもでさえ、

「そうでないとき」が、結構あるように思います。

 

(わたし自身でいえば、本当に「そう」だったのは、

小2か小3のはじめくらいまでだったような。

 

大人になってからは、固まった心と身体をほぐし、

自分の本当の声と言葉を取り戻す旅)

 

 

 

 

 

 

自分の身体の奥底から、しっかりと湧いてくる声。

 

誰のものでもない。

自分の身体感覚、感情、快不快、価値観、自分の軸…それらとしっかりと結びついた言葉。

 

 

 

 

 

 

 

それらがある人は強いなあ、と思います。

極端な話、どこででも、何があっても生きていける。

そんな氣がします。

 

 

 

 

 

 

声はその人の生命のエネルギーそのもの。

言葉はその人の意識、無意識含めた心、そして精神活動そのもの。

 

 

 

「自分の声」「自分の言葉」で世界に向けて真実、発することのできる人は、

(この、真実、というところに力を込めてみました)

そうですね…

 

 

例えていえば、モデルさんの世界なんかだと、

 

 

 

 

「無地の白のTシャツとデニムでぼんやり立っているだけなのに、

存在感ありまくりで、メチャクチャかっこいいモデルさん」

 

 

 

 

みたいな感じ、でしょうか。

 

飾ってもかっこいいけど、

何もなくても、身一つで完全にイケている。

 

風が吹くようにスッキリとそこに立っていて、

存在感と影響力が、もうダダ漏れになっている。

 

 

 

 

逆に、どんなに飾っても、何かしっくりこない。

あざとくみえる。嘘っぽい。

イタイ。

変な感じが伝わってくる。

(ましてや白Tだけなんて、全く通用しない)

 

そんな人もいたりするわけですし。

 

 

 

(妙な例えでかえってわかりにくくなったかもですが)

 

 

 

 

 

 

 

意図(何をしたいのか、何を伝えたいのか?)

と身体の状態と言葉が「一致している」。

それはコミュニケーションにおける絶対条件です。

 

 

 

どんな笑顔、きれいな言葉、耳障りのいい言葉、

美しい、かっこいい(と自分が思って出す)声で語っても、

一致感なきところに相手の安心感なし。信頼なし。

感動なし。

(けれど、この、一致していない人や状態を、

とてもよく見かけるのです)

 

 

 

 

 

 

 

「今、わたしは一致しているか?」

 

 

 

 

 

 

コミュニケーションの出発点として、

(1対1であれ1対他であれ)

たくさんの資料を準備することより、

どんないいことを言おうかと考えるより、

 

 

 

いえ、それと同時に、と言っておきましょう。

私たちは常に、自分自身に問いかける必要があるのです。

 

 

 

 

 

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