「薩摩スチューデント」に負けるな

 

 

NHKで「日本人の言語力の低下」についての番組をやっていました。

言語力とは

自分の思考や感性、気持ちを整理して、わかりやすく相手に伝える力、ということだそう。

 

前回のワールドカップ。

日本サッカーの敗因は「選手の言語力の低さ」にあったのだそう。

野球と違って、刻々と猛スピードで変わっていく試合の展開に

監督がいちいちゆっくりと指示を出していることなど出来ない。

各人が考え、うごかなければならないわけですが、その際、意思の疎通が図れず

それぞれが違った意図で試合をしてしまったのだそう。

(守りたい人、攻めたい人、ばらばらだったと、当時のキャプテンの宮元さんが言っていました)

 

そして

サッカーの指導者に

「言語力向上」のための研修がされている様子が紹介されていました。

ある質問に対して、「賛成か、反対か」を伝え、そのあと「なぜならば」という接続詞でつないで

自分の意見の「理由」を伝えると言う、よく中学でもやったような感じのもの。

 

オシム元監督が言っていました。

「日本人よ、自分の意見を言うことを恐れるな」

 

「伝えること」。

 

先日、研修の打ち合わせのためにとある短大にうかがったのです。

で、学生さんに聞いてみました。

(講座内容は、「キャリア教育、というか就職対策」です)

単刀直入に

 

 わたし「ねえ、どんなことが知りたい?」

 (大きなさっくりとした質問に答えてくれた学生さん、感謝)

 

 学生さん「う~ん、面接でどんな質問がよくでるか」

 

 わたし「そうかあ~(それは…わたしが燃えないなあ)」

 

いろいろ考えてはいたのですが…

「伝える」をテーマに、やってみようと思います。

 

この講座は他に2人の講師と担当するのですが

他のお2人はビジネスマナー等のプロでいらっしゃるので

面接や電話応対の際の言葉使い、姿勢、立ち居振る舞いなどなど・・・

具体的にやってくださると思うのです。ですので、わたしは、それらの『根幹』にあるものを…。

 

「あなた達は『伝えられる』ものを持っているか?」

 

「国家の品格」にあったと思うのですが

幕末?明治?の海外留学生は、英語はまったく流暢ではなかったが、西欧人から

とても尊敬されたと。

それは、自国の文化にちゃんと造形が深く、日本人として「語るべきもの」(自分の考え、核)を

持っていたからだと。

さらに、どんなに早く英語教育をし、仮に、英語が上手く話せるようになっても

「しっかりした語るべき内容」を持たぬ人間は意味がない(という表現ではなかったと思いますが)

というようなことが書かれていたのを思い出します。

 

その、「語るべき内容」とは、「思考すること」からうまれるものであり

「思考の深さ」=「母国語の習得度合い」と深く関わってくると。

だから、幼い時期は特に英語より、まずは国語。何をおいても国語の勉強であると

著者の藤原さんは力説なさっていますよね。

 

話が少し、それました。

今回の講座で「母国語は~」とか「日本の文化はあ~」とやるつもりはないんですが

どんな質問がよくでるか、ではなく

「どんな質問が出ても、自分の言葉で、自分の心からの思いを伝えられる」ために

今、何をすればいいのか

 

といったようなことを

学生さんとみんなで考え

体験する時間を作ってみようかな、と思ったことでした。

 

最後に

またまた話は少し飛びますが、1週間ほど前、「維新ふるさと館」に行ったのです。

幕末、明治維新を中心に、鹿児島の歴史に触れることが出来る場所なんですが。

そこで

「薩摩スチューデント、西へ」という短い映画を見ました。

慶応元年に、薩摩から英国へ留学(幕府は許可していませんので、見つかれば大罪です)した19名。

イギリスで、彼らの聡明さや理解の速さは驚嘆されたそうです。

イギリス人にどんどん質問をしている姿が映画には描かれていました。

そんなかれらの飛躍の土台にあったのは、紛れもなく日本で培った、日本人の学問、文化、価値観でした。

 

オシム監督が言っていた、もう一つの言葉があります。

「日本人らしさを追及せよ」

 

「日本人らしさ」は「自分らしさ」ともつながります。

自分は、何者で、何を大切にしていて、これまで何をしてきて

これから何をしたいのか…

 

それらを考えて考えて、整理して言語にして、人に伝えてみることで

「どんな質問が来ても、ゆるがない」自分の「軸」のようなものを少しでも探ることが出来たなら

学生のみなさんに、何よりもよいプレゼントになるかなあと

そんな気がしています。

 

「嗚呼、お見せしたい!」

今日研修をさせていただくところが

今、わたしが研修させていただいているところでは

「桜島、間近で見える度ナンバーワン」です。

中村公子のコーチングna日々♪

ほら、このとおり。

中村公子のコーチングna日々♪

少し角度をかえて、もう一枚。

…幸せです。

ほんとうはこんなものでなく、もっともっとすごいのですよ。

山肌の、すじの一本一本までがくっきり、はっきりと間近に迫ってくるこの迫力。

この光景、研修中も大いに生かされます。

この光景を横におきつつ、参加されるみなさまなのですが

研修中、ふっと視線がそれるAさん。

 私「今、何をごらんになっています^^?」

 ご参加のAさん「…ちょっと海を…潮目を」

 (この方は、大の大の釣り好きでいらっしゃるのです!)

 私「潮目かあ…今、潮はどうなっているんですか?」

 Aさん「あの、色の違うところが…(以下、生き生きと説明くださるAさん)」

 私「へえ~、そうなんですね!Aさんは『ルアー』で釣るのでしたっけ?」

 Aさん「はい」

 私「質問っていうのは、まさに、そのルアーみたいなものなんですよ~。相手の深い意識の海の中に

  適切なルアーを投げ込んで、答えを引き出す(と引っ掛けるまね)」

 Aさん「ああ、すごくわかりました!」

前回は「虹」の話をしていたら、なんと、この光景に「二重の虹」がかかりましたしね^^

みなさまと、しばし研修を忘れて見入ったのでした。

こんな雰囲気に助けられてか

本日2回目、短い時間の研修であるにもかかわらず、しっかりと自分をみつめ、言葉に出来る

よきラポールができている場であるような気がいたします。

(もちろん、ご準備くださる方々のお心使いと、参加の皆様のお気持ちあってのこの雰囲気なのですが)

桜島よ、今日もありがとうございます。

(ああ…本物をお見せしたい。みなさまに。)

中村公子のコーチングna日々♪

最後に…

赤く染まった桜島です。

「いい仕事の核には震える弱いアンテナが…」





先週の金曜日はキャッチワークかごしまにて

「求職者のためのコミュニケーション能力アップ講座」で

一日若い方々と過ごしておりました。

特に、若い方々は「緊張する」「人見知りする」「あがる」「上手く話せない」(と自分で思っている)

ことへの思いをおっしゃる方が特に多いのです。

「人前で上手く話せない」という一人に

周りのみなさんが

「それは、丁寧に言葉を選んでいるからだよ」

などなど…すてきな「視点の変化」の言葉をプレゼントしているのを聞きながら

その日を終えたのですが。

さっき、PCの整理をしていたら

こんな詩が出てきたので、転載してみます。

以前、昔からの知人が同じようなことを言っていたときに

プレゼントした詩です。


「汲む ~Y・Yに~」(茨木のり子)

  (前略)

   初々しさが大切なの

   人に対しても 世の中に対しても

   人を人と思わなくなったとき

   堕落が始まるのね 

   墜ちてゆくのを隠そうとしても

   隠せなくなった人を何人も見ました

   私はどきんとし そして深く悟りました

   大人になってもどぎまぎしてもいいんだな

   ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

   失語症 なめらかでないしぐさ

   子供の悪態にさえ傷ついてしまう
  
   頼りない生牡蠣のような感受性

   それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

   年老いても咲きたての薔薇

   やわらかくなく外に向かってひらかれることこそ難しい

   あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
 
   震える弱いアンテナが隠されている きっと…

この詩を、プレゼントしたときに

実は一番染み込んでいたのは

自分自身だったことを思い出しました。

彼らにも、この詩を読んであげられたらよかった。

「首はどこへいった~新選組六番組長、源さんの首の埋葬地」

 

 

今日は久しぶりにゆっくりした一日。

書類の整理や、お礼状の作成などをやっております。

 

 

お礼の手紙を書きながら、思いついたので

今日は市川さんの話をします。

 

 

市川さんは「日野新選組ガイドの会」のガイドんさんで

『日野宿本陣文書検討会』のメンバーでいらっしゃいます。

先日の日野での研修の際も、公私にわたり、大変お世話になった方なのです。

 

 

 

さて、話は飛んで140年と少し前の慶応4年1月。

幕府軍と薩長軍による「鳥羽伏見の戦い」がはじまりました。

この戦いで、新選組は伏見奉行所に陣を置き、薩長軍と戦っていました。

(ちなみに、わたしはこういうのを書くときに、資料を再読しませんので、「うろ覚え」です^^。

間違っておりましたらあしからず。

あんまり違うと失礼になりますので、ここから先は「維新の道」2009年10月号の

市川さんのエッセイをもとに書きますね)

 

この、鳥羽伏見の戦いでは、多くの新選組隊士が命を落としたのですが

その中に、六番隊組長、井上源三郎がいました。

源三郎さんは日野の出身で、新選組の中核をなした近藤・土方と同じ「試衛館道場」のメンバーです。

剣は強く、温厚な人だったらしいのですが

この戦いのときは、大砲で最後まで薩摩兵に反撃を試み、銃弾を受け亡くなりました。

 

戦いのさなか、遺体の埋葬などできません。

ともに参戦していた源三郎の甥の泰助くん(12歳)は

源三郎さんの首と刀を羽織に包んで大坂へ運ぼうとします。でもあまりの重さに持ちきれず

断念して、途中のお寺の門前の田んぼに首と刀を埋め、退却したのだそうです。

12歳の子どもの体験としては、すごいものだと思いますが…当時は戦ともなればあたりまえのことだったのでしょうか。

 

この、源三郎さんの首を埋めたお寺の名前は、長い間わからないと言われてきました。

 

 

時はたち…

今から2年ほど前、市川さんは淀(源三郎さん戦死の地)を訪れました。

東軍の位牌や、砲弾の跡などを見、慰霊碑を探して散策などしたそうです。

その際、淀城の跡入り口で見つけた古地図のパネルで「敗走ルート」を指でたどって見ると

「欣浄寺(ごんじょうじ)」という名前があったそうです。

それは、日野の井上家(源三郎さん生家)の前にあるお寺と同じ名前でした。

そのとき、市川さんは「泰助が源三郎さんの首を埋めたのは、このお寺に違いない」となぜか

確信したのだそうです。

 

市川さんは、今はない淀の「欣浄寺」を調査をし、絵地図の写真をとりよせ

その存在を井上家五代目、井上源三郎資料館の館長さんにお伝えしました。

するとなんと

「泰助が首を『欣浄寺』に埋めた」と

館長さんの祖母ケイさんは言っていたということがわかりました。

そうなのです!

実は、井上家では、祖母のケイさんから「首を埋めたお寺は欣浄寺だ」と聞かされていたのですね。

ところが、たまたま「欣浄寺」という名前のお寺が家の前にもあったため

「おばあちゃん、それは家の前のお寺でしょう。ボケてしまって何言ってるの」

という感じで、長い間、ケイさんの言葉は周囲に信じてもらえないまま現在に至っていたのです。

 

「泰助さんが、故郷と同じ名前のお寺を見つけ、ここならおじも安らかに休めるだろうと埋葬したのでは」

と市川さんは想像したそう。

 

銃弾飛び交う激しい戦のさなか

悲しさなど感じるひまもなく、おじの首と刀を抱いてよろよろになりながら逃げる道すがら

遠く離れたふるさとの、家の近くのお寺と同じ名前のお寺を目にしたときの

12歳の泰助くんの想い、察してあまりあるものがあります…。

中村公子のコーチングna日々♪

そして、源三郎さん埋首地の土は

ご子孫によって日野の地に無事持ち帰られ

盛大に百四十回忌が行われたそうです。

やっとふるさとに帰ってきた源さん。

よかった。ほんとうによかった。

源さんは、今も日野駅の近く、宝泉寺に眠っています。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

 

最後に、この「維新の道2009年10月号」に記された市川さんの

言葉を。

 

「千両松の慰霊碑を探し国道を歩きましたが、疲れたので

歩道橋で休んだとき『こちらへ来て』と聞こえました。

後でわかった埋首地の近くです。本当に不思議なことが

あるものです」

 

市川さんの「調査」のお話を聞いていると本当に面白いのです。まさに「捜査は足」!

現地をくまなく歩き、あるときは図書館にこもり…ていねいに、ていねいに今に残るかすかな痕跡をたどって

糸をさがし、つないでいくその作業は本当に根気のいる作業だと感じます。

 

市川さんには合っているんだろうなあ、凄いなあと思うのですが

それだけではない「心」も感じるのです。

かつて生きた人々の行動を、できるだけ克明に今に伝えよう、という強い想い。

 

歴史的な「証拠」の保存はまさに「時間との戦い」です。

刻一刻と「証言者」は減り、残っている建物も、ともすれば「不便なもの」として残念ながら取り壊されていく。

(保全にはやはりお金がかかりますから、公が動かなければ、個人では持ちこたえられなくなっているという

現状のようです)

 

それらを

時間の霧の中にうやむやに消散させはしないぞ

という、静かな情熱を感じます。

 

そういう「無心」な思いで動いている人には、こんな奇跡もおこるんだなあ。

 

人は、自分のことをわかってほしい。

それは、生きている人でも、もう形のなくなってしまった人でも同じなのかも知れません。

そんな人たちの声を、市川さんは聞いている人なのでしょう。

だから、源さんも(と、勝手に思っている)市川さんに語りかけたのかな あ。

 

日野新選組ガイドの会、市川さんのお話でした。

 

 

 

「旗」

先月研修させていただいた

鹿児島は指宿市の観光協会様から

こんなよきものをいただきました。

中村公子のコーチングna日々♪

旗です。

80×120くらいでしょうか。

それに

この篤姫が背中に入ったガイドさんたちの制服も。

旗っていいなあ、と思います。

なぜか、わくわくするというか、高揚する。(わたしだけでしょうか)

そういえば、昔学校にいた頃

体育祭のときに「クラスの旗」というのを必ず作るイベントをする学校がありました。

クラスの色(赤組か、白組か)の地の色の布に

自分たちで考えたデザインで絵をかいて、色を塗って仕上げます。

(最後に受け持ったクラスの旗、実はまだ大切にもっているのですよね。

ポスターカラーで塗ってあるので、もうゴワゴワになってしまって

しかもところどころカビたりしているんですが・・・捨てることはできませんねえ)

図柄は

何人かの子がデザイン画を書いて

その中からクラスみんなで投票で選んで一番になったものでした。

炎が燃えている構図になっています。

(今思えば熱い絵です^^)

そして

体育祭のときは、この旗を振って応援!

そのあと、何かイベントがあるたびごとに、体育館に全24クラスの旗が

ずら~っと、並べて張り出されるものでした。

自分のクラスの生徒達がつくった旗を見ると、そのたびに

なんとなく嬉しいような、誇らしいような気持ちになったことを覚えています。

今、自分がすべてを一人でやっているからか

同じ旗の下に集まって何かをしている人たちを見ると、少しだけうらやましくなることがあります。

といいますか

その旗のもとに集おう!その旗をだれかといっしょに掲げよう!と思える

仲間に出会っているということがうらやましいという感じでしょうか。

ここまで書いていて思ったのですが

旗を見ると

自分の中にも幾度かあった、あの

「かけがえのない仲間達と旗をかついで疾走していた」ときの感覚が

蘇ってくるんですね。

なので、ワクワクするのですね。

さて

みなさんには今「誇れる旗」がありますか?

それをともに掲げる仲間はいますか?

話は飛びますが

若い方々へのコミュニケーション講座をしていて思うことは

そういう体験が一度もないという人が増えている、ということです。

「つながった」体験は、自分への確たる信頼感や

人への信頼感を築く根っこになるような気がするのですが、それが、ない。

個人的には、人生に一度くらいは「仲間と旗を…」の体験があったほうが絶対いいと

思っている人間なので、なんだか寂しいなあと思うことしきりです。

「色々な黄色」

今日、伯父の家に行きました。

この伯父は、うちから車で30分くらいの、ちょっと田舎に住んでいる伯父です。

伯父は整体院をやっており

この整体院は

わたしの「困ったときの神頼み」「最後の砦」といった存在となっています。

色々と病院にいって

それでも直らないときに、いつも最後に駆け込むのはこの伯父のところ。

それで結局、夏の「胸郭出口なんとか」も

とにかく、たいていの不調は最後は治ってしまいます。

恐るべし、わが伯父よ。

(伯父がすごいのか、全身のバランスをトータルで見てメンテナンスすると言う東洋医学がすごいのか)

さて

この伯父の家の庭には

「実のなるもの」がたくさん!

木の枝には柿のみが刺してあって、小鳥もたくさんやってきます。

中村公子のコーチングna日々♪

「レモンの色はわりでなあ」(悪いからね)

「ゆずは今年は水分が足りんと~」(足りないんだよ)

「ついでにデコポンも持っていっきゃん」(持って行きなさい)

伯父がそういいながら剪定ばさみでとってきてくれました。

真冬のこと

沈んだ色合いの庭に生っている実も、一本一本の木にあるときは

くらく沈んだ、灰色に見えていたんですが

こうやってひとつところに集めてみたら・・・不思議です。

こんなにたくさんの、豊かな「黄色」が集まりました。

色鮮やかというには程遠い、くすんでざらざらした手触りのレモン

小さくてところどころあばたのゆず

冬の雨と雪の中、「もういけません。ぎりぎりでっせ~」とでも言うかのように

木にしがみつくようにやっとのことで花びらを保っていた花

(名前を忘れてしまいました。いいにおいがする花なんですけど)

なのに

集まってみると

なぜこんなに、しみいるように美しいんだろう。

決して、絵の具では出せない色。

冬の黄色は、少ない日差しを一生懸命に吸って、そのすべてを色に出そうとしているのかなあ

どんなときでも

やっぱりその瞬間、生きているものは美しい。

そんなことを感じた冬の黄色でした。

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