「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「首はどこへいった~新選組六番組長、源さんの首の埋葬地」

 

 

今日は久しぶりにゆっくりした一日。

書類の整理や、お礼状の作成などをやっております。

 

 

お礼の手紙を書きながら、思いついたので

今日は市川さんの話をします。

 

 

市川さんは「日野新選組ガイドの会」のガイドんさんで

『日野宿本陣文書検討会』のメンバーでいらっしゃいます。

先日の日野での研修の際も、公私にわたり、大変お世話になった方なのです。

 

 

 

さて、話は飛んで140年と少し前の慶応4年1月。

幕府軍と薩長軍による「鳥羽伏見の戦い」がはじまりました。

この戦いで、新選組は伏見奉行所に陣を置き、薩長軍と戦っていました。

(ちなみに、わたしはこういうのを書くときに、資料を再読しませんので、「うろ覚え」です^^。

間違っておりましたらあしからず。

あんまり違うと失礼になりますので、ここから先は「維新の道」2009年10月号の

市川さんのエッセイをもとに書きますね)

 

この、鳥羽伏見の戦いでは、多くの新選組隊士が命を落としたのですが

その中に、六番隊組長、井上源三郎がいました。

源三郎さんは日野の出身で、新選組の中核をなした近藤・土方と同じ「試衛館道場」のメンバーです。

剣は強く、温厚な人だったらしいのですが

この戦いのときは、大砲で最後まで薩摩兵に反撃を試み、銃弾を受け亡くなりました。

 

戦いのさなか、遺体の埋葬などできません。

ともに参戦していた源三郎の甥の泰助くん(12歳)は

源三郎さんの首と刀を羽織に包んで大坂へ運ぼうとします。でもあまりの重さに持ちきれず

断念して、途中のお寺の門前の田んぼに首と刀を埋め、退却したのだそうです。

12歳の子どもの体験としては、すごいものだと思いますが…当時は戦ともなればあたりまえのことだったのでしょうか。

 

この、源三郎さんの首を埋めたお寺の名前は、長い間わからないと言われてきました。

 

 

時はたち…

今から2年ほど前、市川さんは淀(源三郎さん戦死の地)を訪れました。

東軍の位牌や、砲弾の跡などを見、慰霊碑を探して散策などしたそうです。

その際、淀城の跡入り口で見つけた古地図のパネルで「敗走ルート」を指でたどって見ると

「欣浄寺(ごんじょうじ)」という名前があったそうです。

それは、日野の井上家(源三郎さん生家)の前にあるお寺と同じ名前でした。

そのとき、市川さんは「泰助が源三郎さんの首を埋めたのは、このお寺に違いない」となぜか

確信したのだそうです。

 

市川さんは、今はない淀の「欣浄寺」を調査をし、絵地図の写真をとりよせ

その存在を井上家五代目、井上源三郎資料館の館長さんにお伝えしました。

するとなんと

「泰助が首を『欣浄寺』に埋めた」と

館長さんの祖母ケイさんは言っていたということがわかりました。

そうなのです!

実は、井上家では、祖母のケイさんから「首を埋めたお寺は欣浄寺だ」と聞かされていたのですね。

ところが、たまたま「欣浄寺」という名前のお寺が家の前にもあったため

「おばあちゃん、それは家の前のお寺でしょう。ボケてしまって何言ってるの」

という感じで、長い間、ケイさんの言葉は周囲に信じてもらえないまま現在に至っていたのです。

 

「泰助さんが、故郷と同じ名前のお寺を見つけ、ここならおじも安らかに休めるだろうと埋葬したのでは」

と市川さんは想像したそう。

 

銃弾飛び交う激しい戦のさなか

悲しさなど感じるひまもなく、おじの首と刀を抱いてよろよろになりながら逃げる道すがら

遠く離れたふるさとの、家の近くのお寺と同じ名前のお寺を目にしたときの

12歳の泰助くんの想い、察してあまりあるものがあります…。

中村公子のコーチングna日々♪

そして、源三郎さん埋首地の土は

ご子孫によって日野の地に無事持ち帰られ

盛大に百四十回忌が行われたそうです。

やっとふるさとに帰ってきた源さん。

よかった。ほんとうによかった。

源さんは、今も日野駅の近く、宝泉寺に眠っています。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

 

最後に、この「維新の道2009年10月号」に記された市川さんの

言葉を。

 

「千両松の慰霊碑を探し国道を歩きましたが、疲れたので

歩道橋で休んだとき『こちらへ来て』と聞こえました。

後でわかった埋首地の近くです。本当に不思議なことが

あるものです」

 

市川さんの「調査」のお話を聞いていると本当に面白いのです。まさに「捜査は足」!

現地をくまなく歩き、あるときは図書館にこもり…ていねいに、ていねいに今に残るかすかな痕跡をたどって

糸をさがし、つないでいくその作業は本当に根気のいる作業だと感じます。

 

市川さんには合っているんだろうなあ、凄いなあと思うのですが

それだけではない「心」も感じるのです。

かつて生きた人々の行動を、できるだけ克明に今に伝えよう、という強い想い。

 

歴史的な「証拠」の保存はまさに「時間との戦い」です。

刻一刻と「証言者」は減り、残っている建物も、ともすれば「不便なもの」として残念ながら取り壊されていく。

(保全にはやはりお金がかかりますから、公が動かなければ、個人では持ちこたえられなくなっているという

現状のようです)

 

それらを

時間の霧の中にうやむやに消散させはしないぞ

という、静かな情熱を感じます。

 

そういう「無心」な思いで動いている人には、こんな奇跡もおこるんだなあ。

 

人は、自分のことをわかってほしい。

それは、生きている人でも、もう形のなくなってしまった人でも同じなのかも知れません。

そんな人たちの声を、市川さんは聞いている人なのでしょう。

だから、源さんも(と、勝手に思っている)市川さんに語りかけたのかな あ。

 

日野新選組ガイドの会、市川さんのお話でした。

 

 

 

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