指導には「褒める」と「厳しくする」の二択しかないという認識

 

 

 

コーチングというものに出会って15年。

業界(?)の中ではすっかり当たり前。もはや空氣なことでも、

外の世界に触れて、

「え、未だに…?」

 

と思うことが数々あります。

 

 

 

 

大坂なおみ選手の全米オープン優勝。

メンタルの成長を支えた!と,

若きドイツのコーチ、サーシャ・バイン氏が話題になっていました。

試合中の大坂選手への声掛け。

椅子にかける大坂選手の前に膝をつき、

 

 

「何にイライラしているんだい?」

「僕に何かできることがあるかい?」

「聞きたいことある?それともアドバイス?」

「うまく行っていると思うよ。君は1セットとったんだ」

「ナオミならできるよ」

 

 

視線を揃えてペース&リード。

現状を言語化させ、自身で整理させ。

選択はするのはあくまでも本人。

うまくいっていないところではなく、できているところに意識を集中させる。

心からの期待を伝える。

 

 

 

これら全てコーチングのスキルでもあるのですが、

テレビのコメンテーターや解説者のコメントによると。

 

 

 

「優しい~❤︎」

「こんなイケメンにこんな距離でこんな風に言われたら、誰でも言われた通りにやっちゃいますね」

「コーチは、言葉だけで説得して(説得ってなんじゃい、と思うわたし)大坂選手を導いたんですよ」

「これからは、厳しくいうのではなく、こんな風に優しく言ったほうがいい」

「持ち上げても慢心する人もいるから、大坂選手にはこれがあっていた、ということ」

 

 

 

バインコーチがやっていることの「本質」をわかっている、

突いているコメンテーターは、今日見たいくつかの番組において、

一人もいませんでした。

スポーツの解説者や、過去の有名プレイヤーも、誰も。

(この人たち、スポーツの専門家でしょうに、とそのことにも驚き)

 

 

 

「褒めて伸ばす」か「厳しく叱る」か。

その二つで話は進み。

 

で、

未だ、いまだ…指導には、その二つしかないのか!?

二者択一ですか!

と驚いたわけなのでした。

さらには、

「褒める」の中に「選手を持ち上げる」というニュアンスまで入っている。

(壮大なる誤解です)

 

 

 

 

声を大にして言いますが、

コーチングは「褒めて伸ばすコミュニケーション」ではありません。

それは、あくまでもほんの小さな一側面であって、

そうですね…

フンだけを観てゾウの全体像を語るくらいに的外れです。

ましてや相手を持ち上げるものなどではない。

 

言葉はや雰囲氣は穏やかでも、

伝えねばならないことを厳然と伝える場面は多々あります。

 

 

 

 

 

「コーチング」と呼ばれるコミュニケーションスキル。

コミュニケーションのあり方の「本質」は。

 

 

「自分の持つほんとうの力に軽やかにつながり、

 自由自在かつ存分に発揮して自分らしく人生を生きる。表現する。

 そのためのアクセスの回路を、その人自身の中に作るプロセス」

 

 

と、今日はそんな風に言ってみましょうか。

 

アクセスすることを妨げる思い癖や価値観を手放し、

新しい回路を作り、繰り返し体験し、定着させる。

その人に最もあった方法で。

 

 

ちなみに「コーチング」なんて横文字で呼ばなくとも、
それをやれている名リーダーは昔からたくさんいた。

 

 

 

 

何より大切なのは、

「コートに」最終的に立つのは選手である、ということ。

その時、そこにコーチはいてあげられない。

 

であればこそ、

いついかなる時も、選手が自分でそれができるように、

選手の身体に根ざした、染み込んだ「使える叡智」となるように。

 

 

毎日毎日の言葉の選択、声かけ、

ボディメッセージ、

そして、自身の存在のあり方そのもので、

瞬間瞬間コーチは「それ」を表現し続ける。

 

 

 

「世界は素晴らしい。

 人間は素晴らしい。

 人は、自分自身を生きるために生まれてきた。

 君には出来るよ。

 さあ、行こう」

 

 

と。

それは、

「優しくいう」とか「褒める」とか、そんな浅薄なレベルの関わりではない。

 

 

 

 

コーチがコートに入れなかった今回の大会。

大坂選手は、きっと自分の中にもはや生きているコーチの問いかけを繰り返しながら、

冷静さを保ち、自分を信じ、戦ったのでしょう。

そして勝った。

 

 

 

 

 

 

テレビで言っていた

「バインコーチ、巧みな言葉で勇気付け♪」「魔法の言葉♪」。

とやら。

 

 

 

 

 

それは、魔法でも何でもなく、

あなたにも、誰にでもできるものなのです。

 

その覚悟さえあれば。

(セミナー等で「わかっちゃいるけど出来ないんですよねえ〜」

という方が結構いらしゃるので、あえて言ってみました(笑))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先人たちも案外きっとそんなものだったんだろう―大人の矜持とやせ我慢

 

 

 

耳鼻咽喉科の待合室から、

 

 

「診察室からこの世の終わりのような泣き声が聞こえてくる。

きっとさっきの女の子。

頑張れ!と密かに応援中」

 

とフェイスブックにアップしたところ、

年若い一人の友人がこんなことをコメントしてくれました。

 

 

 

「前、歯医者に行ったとき、

待合室で向かい側に座った母親が、

怖がる子どもに

『ほら、あのお兄ちゃんは全然怖くなさそうだよ。だから大丈夫』

と諭してて、

(ゴメン、お兄ちゃんも実はめっちゃビビッてるんだ…)

って内心ドキドキでした。

 

とりあえず、あの子どものために、

どんなに痛くても、戻ってくるときは笑顔で戻ってこようと、頑張りました」

 

 

 

素敵だなあと。

まだお父さんでもない、こんなに若い人でも、

いざ、という時には、

 

「大人の矜持」

そして

「大人の責任」

 

 

というものがちゃんと立ち上がってくるんだなあ、と。

 

 

 

 

 

で、

ふっとクライアントさんがおっしゃっていたことを思い出したんですが。

カートや自転車といったスポーツの話。

 

「コーナーを回って、目の前に誰もいない、と分かった瞬間に心が折れる」

 

と。

誰かがいる、

追いつける、と思って走るのと、ひとり行かないといけない、

というのとでは、心の持ち方が全く違うのだそう。

 

誰もいないと、見る間にタイムが下がって、

後続集団に飲み込まれたりするのだそう。

 

 

 

「自転車なんかでもそうで、

一人で走るより、3人以上で走った方が絶対タイムがいいんです。

誰かがいた方がいいんです。なによりラクです」

 

 

 

風よけ、という理由ではなく、

なんですって。

もうほんとうにそれは、人生と一緒ですね、

と頭の中で呟きながら、続きを聞きます。

 

 

 

 

「沿道の応援なんかもそうで、あったほうが絶対に頑張れる。

特に子どもたちの応援がいるときなんか…もう、すごく力が出ます。

そこだけ急に早くなるくらい。

 

みんな、直前までぐだぐだのヘロヘロ。

でも

子どもたちの前だけでは、

シャン!として手を振って、声援に応えるんです。

後ろから見ると『知ってるぞ(笑)』(←さっきまでぐだぐだだった癖に^^)

って思うんですけどね」

 

 

 

 

 

それを聞いて、

なんてなんて美しくて、

そしてホッとする話だろう、と思ったのでした。

 

 

 

 

 

「大人」と呼ばれる年齢になって久しく、

ちゃんとしなければ、

成果を出さなければ、

結果を残さなければ、

と。

 

これでいいのか自分!?

と日々自分の不甲斐なさにガックリし。

 

まるで何もできていないような。

何の価値も無いような。

何ものも生みだせていないような。

そんなふうに感じる日。

それでも、半歩を踏み出さなければならない日。

 

 

 

 

 

もしかして、

父も母もじいちゃんもばあちゃんも…そしてたくさんの先人たちも、

案外そんなものだったんでは、とふと思えたのでした。

 

 

震える足を踏みしめつつ。

もうダメかも自分、と思いつつ。

それでも、

 

 

「ここだけは!」

「今だけは!」

「この子たちの前だけでは!」

 

 

 

自分の中の「矜持」を。

自分の中の「美しさ」「かっこよさ」を表現する。

ぐだぐだになりながら。

 

 

そして、

そんな、たくさんの「一人」の「一日」が積み重なって、

今のわたしたちの生活がある。暮らしがある。

そして歴史がある。

 

…もう、心からのありがとう、しかありません。

 

 

 

 

描きながら、

今、少し元氣をなくしている方などに

読んでいただけたら嬉しいなと思っています。

 

 

さて。

年若い、繊細な友人のコメントに、結構感動しつつ、

「…大人って案外多分、そんなものだから!(だから大丈夫よ^ – ^)」

と、種明かししたいような氣分にもなったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追伸

友人の中に生まれた感情を

「大人の矜持」「責任」と書きましたが、

もっと質の違うもの…

無意識の「願い」とか、「より良きものを手渡す」

といったような、もっと大きなものなんじゃないか、

 

と、書き終わってから思い至っています。

 

 

(最近氣になる戸隠。行きたい!)

 

 

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