こどもの身体のセンサーを鍛えよ(でないとスタバで着替える子になっちゃうぞ)

 

 

【思いを語って世界を変える〜プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ

 

 

11月27日・30日】はこちら

 

 

 

 

写真は鹿児島市の城山遊歩道。全長2キロ。

 

 

早朝。

広い遊歩道の落ち葉を、

わずか1時間半でこんなにきれいにしてしまうその技術に

ついお声がけしてしまいました。

 

 

 

この方は基本「ブロー」(風でブワッと飛ばすやつ)

は使わないのだそう。

 

(数分前、それを使って豪快に吹き飛ばしていらっしゃる方がいたので

お聞きしてみたのです)

 

 

竹ぼうきでザッザッ。その動きが軽快で!

ブローを使わない訳は

「観光の方々にうるさいから」。

 

 

 

 

 

で、思い出したんですが…

去年、聖武天皇陵に行った際、

誰もいなかったのでやったー!静かに語り合える!(聖武天皇と)。

 

と思ったら、この「ブロー係」の方がやってきて、

大変残念な思いをしたのでした…。

 

 

 

 

 

 

 

話戻って。

ブローを使う際も

 

「お客様が来たら止める」

「道具は見えるところに置かない」

 

と、細かな取り決めがあるそうで、この方々の気配り…

 

「空間への配慮」

「その場がお客様にとって何であるのか」

(非日常であり、まさに旅、である)ということ

 

をしっかり理解され、

身体でちゃんと「演出」なさっていることに

ますます嬉しくなりました。

 

 

 

 

 

鹿児島市内の景観美しい有名観光地の売店で

スタッフさんたちの世間話が賑やかで

(しかも、売店の端から端へ)

 

「ここはあなたたちの茶の間じゃないのよっ!」

 

と突っ込みたくなったことがあります。

いちいち氣になる自分も自分なんですが…。

 

 

 

 

 

 

 

その場、その空間に合った

(広さ、意図、文脈、すべてにおいて)

 

「意識の使い方」

「身体の使い方」(身のこなし)

 

があり、それを自然と体現している人を見ると、

とにかくとても嬉しくなります。

それらは例えようもなく「美」である、と感じます。

 

 

 

 

 

で、この話と並行して書きたいのが一つ。

 

昨日、

スターバックスでお茶を飲んでいたところ、

席で着替えている女子学生がいた

という話。

 

スカートから上着まで、そりゃあもう見事に!!

いつも教室でああやって着替えているんでしょうね…。

みんなでわいわいしながら。

 

 

 

 

 

最近

「公の場ので身のこなしと、私的な場での身のこなし」

 

の話が、

医療系専門学校の先生をなさっているクライアントさんとの間で

話題になっていたのでした。

学生さんが、とにかく「それが出来ない」と言うのです。
もう、敬語がつかえないとか以前の問題、と。

 

 

実習先で、患者さんに接するとき腰を落とせない。

(上から見下ろして語る、ということですね)

「落として」と指示されるとヤンキー座りで落とす。

 

頭では彼らもわかっているんでしょう。

でも「身体に刻みこまれて」いないので動けないのです。

 

立ち姿、挨拶の声の大きさ、表情、立ち居振る舞い…

公の場での身体の張り、

緊張感の保ち方(まさに身のこなし)というのは

慣れ、日頃からの積み重ねですもんね。

 

 

 

 

 

「場に対する心身のセンサー」が発達していない。

 

「公共の場」という概念がない、というか

意識を広げられない子が増えているのはセミナーでも感じます。

意識の及ぶ範囲が自分の半径50センチで止まっている子。

 

 

 

「気配り」

 

 

 

なるものをして生活をする場面がない、ということなのでしょう。

身体の感覚(場に対するセンス)が、

本当に磨かれていない。

 

なので、「コミュニケーション力アップのための研修を」

の対象が若年層な場合は

必ずこの力を開発できるプロフラムを組み入れます。

 

 

身体感覚を、揺り動かし、それを使わずには成立しないあれこれ。

もう本当に「会話力が」以前の問題。

これらなくして会話も人間関係もあったものじゃないだろう!

と思うのです。

 

 

 

 

ちなみに、少し横道にそれますが

昔の子どもたちがみんなで普通にやっていたような遊び。

(はないちもんめ、とか陣取り鬼、ハンカチ落とし、だるまさんが転んだ、などなど…)

 

 

ああいうものを小さいころ、普通にやっていれば、

こういう感覚の土台は築かれているのですけれどね。

 

 

 

 

 

 

さて

20代の若者たちの「それ」までも鍛えなければならない

我がクライアントさん。

相当大変らしいです。

 

 

 

※話は大きく戻って、作業をなさっていたのはシルバー人材センターの方。

写真、載っけていいよ〜、と快くOKしてくださいました。

 

 

 

「キンロウカンシャノヒ」って美しいか?語感の話。

 

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今日、11月23日はもともとは「新嘗祭(にいなめさい)」です。

 

昔からなぜか「村まつり」という童謡が大好きだったんですが、つまり、それですね。

天皇(おおきみ)を中心とした日本中の「収穫祭」。

 

 

 

『新嘗祭とは五穀豊穣の収穫祭にあたり、新嘗の「新」は新穀(初穂)を、「嘗」はご馳走を意味し、天照大御神はじめ天神地祇(てんじんちぎ すべての神々)に初穂をお供えして、天皇陛下自らも初穂を召し上がり、神様の恵みによって初穂を得たことを感謝するお祭りです』

http://jpnculture.net/kannamesai-niinamesai/

 

 

 

春に苗を植え、手をかけ、心をかけ、長い時を経て、今年もたわわに穂が実る。

…その嬉しさ、有難さは今よりきっとずっと日本人の身体にしみこんでいたことでしょう。

米は日本人の命をつなぐもの、そのものでしたから。

皆で神様に感謝をお伝えするっきゃない!

歌って踊るっきゃない!

というその氣持ち、よ~くわかります^^。

 

新嘗祭というのは、

私たち日本人と自然、宇宙を

今よりずっとしっかりと結びつけるものであったような氣がします。

 

 

 

 

この「新嘗祭」。

御多分に漏れず、

GHQの「日本人の心も身体も骨抜きにしちゃうぞ」政策によって神道から切り離され

「勤労感謝の日」なるものになりました。

個人的には、この名前に「美しさ」を感じません。

日本語の音感としてどうなの?と思うわけです。

なんとも人為的なゴツゴツ、ぎくしゃくした肌触りです。

「にいなめさい」のほうがずっと美しい!

そして、美、なきところに真・善なし、というのが個人的な感覚です。

 

 

 

語感、つまり、「音の響き」というものはとても重要で

人の体感覚に(つまりひとつひとつの細胞に)大きな影響を与えます。

波動ですから。

(試しに「キンロウカンシャノヒ」って何度も言ってみてください。

なんの高揚も心地よさも感じないですし【わたしはだんだん身体が重苦しくなります】)

 

人の細胞は、言葉の持つ固有の波動に容易に共鳴します。

ですから

日々耳に、身体に入れ続ける「言葉」は

「美しい」「心地よい」響きであることが本当に重要です。
(言葉を発する意図=声、もそうですが)

 

 

 

話がそれました。

言い換えれば、今日は約70年前

日本人の大自然への畏敬の心、敬いの心、「自然とともにあるあり方」が

本来の言葉の持つ意味、感覚とともに、ひとつ、切り離された日

ということもできるでしょう。

 

 

 

 

 

『勤労感謝の日 本当の意味』

http://haigyo.net/orange/?p=6553

プレゼンは「造花」であってはならない。そこに「息吹」が必要

 

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写真は世界産業遺産、鹿児島市の「仙巌園」専属ガイドの中村こず恵さん。

 

 

 

 

先日、仙巌園特別企画「歩いて楽しむ薩摩切子ツアー」に行ってきました。

 

この企画は、(多分)彼女の発案。

彼女がいかに薩摩切子が好きで、勉強をなさっているか、

ガイドの質を高め、いわゆる「ガイド」から

「プロフェッショナル・ストーリーテラー」へ進化しようと

(この名称は私が彼女につけたんですが^ ^)

頑張っていらっしゃる姿を見てきたんですが。

 

今日の60分間のご案内、とても見事でした。

 

 

しっかりとグラウンディングした立ち姿の安定感。

全ての言葉が彼女の「中心」から、

彼女の「肚」としっかりつながって出てくるのです。

つまり…全ての言葉が「覚えました」レベルではなく、

 

「理解し」「納得し」「自分で体感した」

 

生きた言葉として発せられるのです。

なので、私たち参加者の身体の中にしっかりと入ってくる。届く。

 

 

 

 

毎日毎日、この歴史ある美しい庭園の中で呼吸し

キラキラ光る薩摩切子に触れ…

彼女は、きっと、毎日毎日ずっと、嬉しかったのです。

幸せだったのです。

 

その「嬉しさ」を。「感動」を。

自分が感じた「すごい!」「キレイ!」をそのまま私たちに伝えようとした。

純な切子の輝きのように、彼女は「それ」を忘れることなくしっかり身体に秘め、

そことつながって

今日の60分を創り上げた。

 

 

 

 

「伝わる」とは

つまり、そういうことです。

技術と知識と身体技能は必要ですが

根っこに「それ」がないと(彼女における切子の輝き)

美しいだけの造花になってしまいます。

造花には香りもない。柔らかな肌触りもない。

そして何より大切な

「場を震えさせるホンモノの波(振動)」がない。

 

 

 

何より

今日、彼女はきれいでした。

凛として匂い立つ菊花のごとく。

 

 

 

「そのことが好き」「伝えたい!」

という思い、使命。

それこそが、人を輝かせ

その「波長」こそが

「人を巻き込み、魅了する場」を創ります。

 

 

 

みちしるべはどこにある?~それは自分の五感の中に

 

 

 

 

ただ今、5人姉弟の姪っ子の上から2番目が世界一周旅行中なんですが

途中の国で

 

 

「ハンモック買ったよ!」

 

 

と嬉しそうに姉弟専用ラインにアップしていた…

と姉(彼女らの母です)から聞き。

なんでも彼女、それから地元にいる三女、ともに「ゲストハウス」をやりたいらしく、

そのためのハンモック?のうわさあり(笑)

 

長女は実家で菓子工房兼カフェをやっているので

そのうち何かからんでいくのかな…と思ったり。

 

末っ子の四女は伝統工芸の道に進みたいらしく

奈良のそちら系の大学への進学目指して受験勉強真っ最中です。

 

 

 

 

まあ、

みんな見事に「好きなこと」に向かってまっしぐらだなあ~

と思うわけです。

普通に「世間」との間でみなが人生で悩むようなことをしっかりと悩みつつも

 

 

自分の中にはためく一筋の「旗」

自分の中でなり続けるベルの音

もしくは

どんなに衝撃を与えても、必ず「ある一つの方向」を指し示し続ける羅針盤の針

 

 

をしっかりとキャッチし

OKを出し

自分の人生にそれをもたらすぞ、という意思、そこに迷いはありません。

 

 

 

この子たちの親(わたしの姉)がとにかく「自由自在の人」なので

子どもがさらにそうなるのは当たり前だな~

くらいに思っていたんですが

「身体」という言葉がふっと浮かんできたのは今朝。

セッションで、クライアントさんが自分のお子さんについて

「今は知識よりとにかくいろいろな感覚を身体でしっかり味わってほしい。

だから、いろいろな体験をさせてあげている」

とおっしゃっていたのを聞き。

 

 

 

姉夫婦は専業農家で

小さい頃から大人顔負けの手伝いをして育ってきた子たちなので

自然ど真ん中で身体を使ってきた子たちであることは間違いないんですが

浮かんだのは、厩の光景。

 

「昔は厩の2階の囲炉裏で、しょっちゅうたくさんの人たちが来て

あそこでご飯を食べて遅くまで語り合ったりしてたんだよ。

古くなったんだけど『絶対壊すな』というのは5人の子どもたちなんだよ」(姉、談)

 

姉の家はよく農業研修生を受け入れていたので

それこそ海外からも研修生が来ていたものでした。

 

 

 

 

揺れる火。温度。煙の香り。

囲炉裏の周りでいつもよりずっと楽しげな顔で、声で弾む大人たちの笑顔。

土の香り。

…この子たちの「幸福」「何を幸せと思うか」という価値観は

肌触りや、においや、それとくっついた「ワクワク感」と直結して刻まれている

と思ったのでした。

それはまさに「幸せへの羅針盤」。

そして、それは揺らぐことなく、彼らを導くのだ、と。

 

 

 

 

う~ん

今日はなんだかまとまりませんが

「自分にとっての幸せ」

「自分にとっての『これ!』」

は、すべて身体が知っている。

頭ではなく、身体が、という感じでしょうか。

迷ったら、身体に聴け。

そして、ちゃんと身体との回路をつなげて、開いておくことも大切。

 

 

身体と仲良く!五感と仲良く!

 

 

 

 

 

 

※「伝える」という場面においても五感は大切かつ強力な「道しるべ」です。
自分の身体感覚から出た言葉こそが『頭での理解』を超えて、相手の身体レベルにまで深く染み入り、相手の心を(人生を)動かす可能性が高まるから、です。
これをわたしは「言葉と自分を結びつける」と呼んでいます。
自分の身体感覚と遊離した言葉は、どんなにそれが美しい言葉でも相手の中に入りません。上をす~っと滑っていく感じ?でしょうか。

ということで、ご興味ある方はこちらもどうぞ↓

      11月27日(日)13時~ *11月30日(水)18時半~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが自分だ!」という一点を探り当てたとき、エネルギーは爆発する

 

 

 

 

 

「仕事における独自のメソッドの開発」

をテーマにセッションを受けていらっしゃるクライアントさんのセッションでのことなんですが。

 

 

少し身体を動かす時間などとりつつ

お話をお聞きしていたんですが

その中で

 

「思い出したことがあります!」

 

と。

 

それは次のような体験でした。

ひとつは、昔その方が参加した身体のメンテナンスの講座での体験。

 

 

「向こうに向かって、ただ歩いてみて」

と先生に言われ、それでは、と歩いてみた。ただ普通に、まっすぐに。

すると、講師さんがその背中のある一点を「つん」と突いた。

 

 

それは本当に

指で軽く、背中を「とん…」と突いた、だけだったのだそうです。

けれど、その瞬間、電流が走ったように。

「背筋がピン!と伸びたのだ」と。

 

「ものすごく姿勢がよくなって…すべてが変わって、とにかくすごかったんです」

 

と。

 

 

 

もう一つは

その方が受けた声楽の個人レッスンでのこと。

なんでも、外国からいらした有名な先生のレッスンだったらしく

それを受ける機会があったのだそう。

 

レッスンの内容は、「発声、発声」そしてまた「発声」。

基本の発声練習を徹底的に、というもの。

ピアノに合わせて声を出しつつ

先生が、身体の位置を細かく調整してゆく。

 

 

「もっと右肩を上に」

「もう少し」

「少し下げて」

「左足を少し前へ」

「首を左へ」

 

それはそれは細かく、「微調整」の指示が続いたそうで。

そして!

またもや「それ」はやってきたのです!

次の瞬間

 

 

 

「(ドッカ~ン!)」(爆発音)

 

 

 

としか言いようのない、声の爆発!

ご自分でも驚くような、「どっから出てきたの⁉」としか言いようのない

声の奔流。エネルギーの奔流。

…聞いてみたかった!

 

 

「でも…その時だけだったんです。

あとからどんなに『どうだったっけ…?』と身体を動かしても

あんな声は出ないんです」

 

 

 

 

先のメンテナンスの先生。

そして、声楽の先生。

は、「その人本来の『位置』」「あるべきところ」を見て取ることのできる方、だったのだろうな、

と思います。

 

 

人はもともと生まれたときは「そこ」にいる。

心も、身体も。

子どもを見ているとつくづくそう思います。

そして時は過ぎ…まあ、いろいろ端折って

わたし達は今、すべての場面において再び

「自分として」この世界に立ち、表現することを求められています。

いえ、そうでなくてもいいんですが、それが楽で、一番うまくいく。

そして、「自分である」ことこそが

他者に、世界にもっともいい影響を及ぼすことができる。

 

 

わたしが個人セッションにおいて

そしてセミナー、ワークショップにおいて

テーマは様々違えども、切り口(山の登り口は)違えども

目指すのはすべてそこ、です。

 

 

 

 

11月末プレセミナー。

来年1月より始める「プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」。

 

「情報を伝えた」「いい話をできました」というのはプレゼントは言いません。

それは単なる「説明」という行為に過ぎない。

人が本当に動き、行動が変わるのは「心が動いたとき」。

「他者の深いところに染み入る」「心を動かす」

そんな「場」をつくるための

 

自分の言葉を

自分の身体を

自分の軸を

 

笑いと楽しみの中で創造していく時間です。

 

 

      11月27日(日)13時~ *11月30日(水)18時半~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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