教員よ、プロとしての声と言葉と身体を持て、と思う

 

 

 

少し前、大勢の子ども達を前に、
先生たちが話をしているところ見る機会があったのです。

 

「この先生は、いつ、どんな場所でも、
このリズム、この声、この表情、この話し方なんだろうな」
(「子どもにはこういう話し方がいい」な歌のおにいさん的声と笑顔)

 

という人と、

「この先生は場の空気をちゃんと把握して、咀嚼しているな」
(自分の声や身体を子どもの反応に合わせてるな。瞬発力あるな)

という人、さまざまで。
で、当然後者の方が場が生き生きとしている。
子どもの自然な反応が湧いていて楽しい。

 

 

 

さて。

 

わたしが教員になるとき、
「どう伝えるか」という、
声や身体、表現については全く勉強しなかったんですよね。
そもそもカリキュラムになかった。

 

ズブの素人が、何のトレーニングも「構え」もない
「素人の身体」のままである日突然人前に立つ。
あとはとにかく「毎日やりながら」なんとかしていく。

それが教員の世界でした。
(今はどうなんだろう)

 

なので、つくる「場」。
その空気、質の個人差がとても大きかった。
元々のセンスのある人、ない人の差がはっきりと分かれる。

 

今思えば、なんと恐ろしい…とまではいかないですが、
なんと罪作りなこと!

 

 

と、当時を思い出すに、
子どもたちに申し訳なくてしようがない気持ちになるのです。

 

 

で、そういう話を知り合いの先生に、
(高校生相手に百戦錬磨の強者の大先輩)
ちょい熱(あつ)で語ってみたのです。

 

すると、
「ほんと、その通りだよ」
の同意とともに、
「今はねえ…昔よりもっとひどいんだよ」

 

と、なんだかすごい言葉が帰って来たのでした。
(で、それは一体どういうことなの!?とものすごく気になっているところなのです)

 

 

 

さて。

教員よ、「伝える」「導く」「場を作る」プロとしての身体と声と言葉を磨け。
と、ずーっと思っています。

「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。あなたの身体の通りになるのだ」
(竹内敏晴 演出家)

 

大人・子どもに限ったことではなく、
コミュニケーションの鉄則ですが。
言葉より前に、
自身の身体状態、身体からのメッセージが相手に伝わります。

 

 

 

さらに付け足すと。

学びへの「意欲」や「学ぶ喜び」「熱」。
それは、教師の身体を通して、その教師の想いと共に、【伝染してゆく】ものなのです。

 

決して、言葉で言われて、
「ああそうか」「じゃあ頑張ろう」と湧き起こる類のものではない。

 

 

「教師自身の身体感覚」を伴わない、
音として聞こえるだけの言葉は子どもには伝わらない。
子どもには「先生のほんとう(無意識)」が伝わります。

 

だから、教師にとって、知識と同じに、

自分の身体を「コミュニケーションのできる温まった身体」にしておくことは大切です。
自由自在にあり方を変えられる「開いた身体」にしておくことは大切です。
場を察知する「身体センサー」を鍛えておくことは必須なのです。

 

 

 

 

ちなみに。

 

なぜ、日本の学校では、先生たちの「そういう力」が重視されないか、
トレーニングすらないのか、
(今は存在していて欲しいんですが)
ということなんですが。

 

想像ですが、日本の授業の形が、未だ、ざっくりいうと
「明治から変わっていない」
ということが挙げられるのでは、と思います。

 

未だに約40人を箱の中に詰めて、
50分間前を向かせておく形態が多い。生徒は「静かに聞く」ことが求められる。
小さい頃からそういうふうに「身体も心もしつけられる」。

 

これは、言い換えるとつまり「先生の身体は楽できる仕組み」ということです。
努力して「聴衆を魅了する場」を作らなくても、
「まあなんとなくやっていける」(子どもも文句言わないし)。

 

 

 

 

 

話がそれますが。
今の日本の教育システムで十何年育つということは、

 

⚫︎自分の身体感覚(本質、本音)、身体の声を大切にできない。
⚫︎身体と自分自身がのつながりが切り離される。
⚫︎「自分の身体に備わった叡智」を人生の羅針盤の一つに据える能力が育たない。
(たくさんの知識を得るのがすごい。「頭で考えて」合理的な答えを出すことが一番正しい、が王道になる)

 

と。
そういう大人に「仕上がる」ように思うのですよね。
「身体」「感覚」「感性」は未だ、蔑ろにされているのかなと。
(どうなんでしょうね?)

思うに、
先生自身もそうやって大人になっているわけなので、
それが普通、になってしまっているのは仕方ないな、とも思うわけです。

 

 

 

 

繰り返しますが。

教師には「場を作る力」が必要です。
そしてそれは言葉だけではなく身体で作るものです。

 

開いた身体を持ち。
自身の全細胞が起こす振動で空気を震わせ、場を震わせ、子どもの身体を揺さぶる。
子どもの「吸収したい!」という開いた心と身体を作る。

 

 

自分の身体としっかりとつながった「ホンモノの言葉」で、
子どもの身体を揺さぶり、火をつけるのです。

 

 

そんな「生きた身体」を持ち、
その身体の中心「自分の根から出た言葉」を
一人一人の胸に、肚に、しっかりと届けることができる人、

それを「先生」というのではないか、と思います。
(過去、自分が会った数ある教員の中で「師」と呼びたい人たちは、
皆そういう人たちであったように思います)

 

 

 

ということで。

「教員よ。プロとしての声と言葉と身体を持て」
から、
「全ての大人よ、生きた身体と言葉を持て」

とここまで書いて思っているところです。

 

「どういうふうに言ったらいいですか?」とよく聞かれるけれど、それはそもそも「言い方」の問題ではない

 
 
 
子育て番組でやっていたんですけど。
 
 
 
受験期を迎えた子どもが勉強しない。
(自分の思ったようには)
 
で、あれこれ言う。
 
 
 
 
「やってないの」
「なんでやらないの」
「何時からやるの」
「こんな問題もできないの」
「なんでできないの」
「そんな高校いくの?」
「そんな仕事、うまくいくかわからないじゃない」
 
 
 
 
 
 
子どもはどんどん離れていく。
「うざったい」という反応を示す。
何も喋らなくなる。
どんどんコミュニケーションが取れなくなる。
 
 
 
 
 
 
で、上の質問になる。
「子どもになんと言ったらいいでしょう」
「何か、いい言い方はないでしょうか」
と。
 
 
 
 
 
 
で、わたしはこの「言い方は…」という「言い方」に、
すっきりしないものを感じるわけです。
(こういう質問、よく聞くのですよね。
親と子の関係だけじゃなく、いろんな関係性において)
 
 
 
なんと言ったらいいか?
その答えは一つしかない。決まっている。
 
 
 
 
 
 
 
「これまでうるさく言ってごめん。もうあれこれ言わないから。
自分の考えで自由にやって。お母さん(お父さん)見てるから」
 
 
 
 
 
 
 
そう言えばいいのだ。
子どもが真に望んでいる言葉はこれのみであり、
親のこのスタンスなのだ。
 
(プラス「悩んだ時はいつでも力になるからね。
いつでも聞くから、話したくなったら話してね」くらい付け加えておけばいい)
 
 
 
 
 
 
 
けれど、そうはならない。
そういう言葉ではない何かが欲しいのだ。
「何かいい言い方」イコール
 
 
 
 
 
「波風立てず、子どもに嫌われず、
なおかつ『子どもが自分の言うことを聞くような』言い方はないですか?」
 
 
 
 
 
ということなのだ。
相手をコントロールしたい。
 
 
 
 
 
 
で、声を大にして言いたい。
「そんなもの、あるわけない」と。
 
 
 
 
 
 
 
子どもが自分の巣立ちに向かって、自らの羽を研ぎ出す時。
それは、親自身も全身全霊で、
自分自身を見返す時なのだと思う。
 
 
 
 
 
子どもが、
「生きるってどう言うこと?」
「自分はこれからどう生きていくの?」
「自分とは何者?」「自分にとっての幸せとは?」
という一生の命題に真剣に向き合うとき。
 
 
 
 
 
それは、親自身も、
「一人の人間として、これまでどうやって生きてきたか」
「一人の人間として、これからどう生きようとしているか」
を問われているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
「普通はこうでしょう」
「これまでこうやってきたから」
「自分はこれでうまくいったから」
「みんながこうやっているから」
「幸せとはこう言うものだから」
 
 
 
 
 
 
 
そんな使い古された(そして楽な、使い勝手のいい)
言葉と感覚ではなく、
親自身が、自分自身の「生き様」から滲み出、醸し出された
真の言葉で語れるか?を、
子どもから問われ、見られている時なのだ、と思う。
 
 
 
 
(ちなみに、この時に、これらをおろそかに扱うと、
いづれ何らかの「人生の節目」で倍返しみたくなって
返ってくることになるので注意。
例えば結婚式のときとか…
まあ、準備の過程でいろんなことになる親子を見たもんです)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
子どもは、先に生まれたものを助けるために生まれてくるのだ、
と何かの本で読んだことがある。
 
 
 
これまで、いろんな親と子を見てきて、
話を聞いてきて。そうだなあ、と思う。
 
 
 
 
 
例えば子どもの反抗や、不登校や。
それらを通して自分を見直さざるを得なくなり、
結果、生き方が変わった親御さんとたくさん出会った。
 
 
 
みな、何か「とらわれていたもの」から解放され、
「自分軸」を生き始めていたように思う。
それはもう、見事に。
自分を生き始めていたように思う。
その姿、輝いているのですよね。
 
 
 
 
 
 
 
子どもってすごいのだ。
 
 
彼らはある時期、
自分でもどうしようもない破裂音を身のうちに抱える。
身体の中でそれはベキベキと音を立て。
それは彼らの「魂の叫び」なのだけど。
 
 
 
ともすれば自身をも破壊しかねないそのエネルギーのもの凄さは、
親をも「檻」から引っ張り出すに十分なのだ。
 
 
 
 
 
 
彼らは、自分だけでなく、
 
「もっと自由な世界へ。
存分に自分を生きることの喜び」
 
の世界へ、親をも連れてゆこうとしているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
願わくば、全ての子どもの「その企て」が、
潰されることなく成功しますように。
と切に願う。
 
 
 
 
(写真は鹿児島市の「石橋公園」。
本文とあまり関係ないんですけど。
30年前までは現役で人と車を(2車線で!)渡していたすごい橋だったのです)
 
 

ふと『予祝』してみた9月1日の朝ー今年の年末、どこで何していたい?

 

 

 

 

春のお花見が古来より秋の豊作の「予祝」であった、
ということを以前書いたことがありますが。

 

 

「いや〜。こんなに実ったねえ。神様、ありがとう!」

 

 

と。
花を稲穂に見立てて前もって祝ってしまう。
喜んでしまう。
喜びを先に味わってしまう。
それによって「豊作」を現実にする。
(引き寄せる、ってやつでしょうか)

 

 

 

 

 

NLP(神経言語プログラミング)の講座の後、
受講のみんなで、

 

 

「ヒーローインタビュー」

 

 

なるワークを(一杯ひっかけて)やった覚えがあります。
自分の夢に対して「もはや成った」ものとして、
インタビューを受ける。

 

 

そして、その氣になって答えまくる。
周りも盛り上げまくる。
「○○さん、すごいですねえ!
どうやってこれを実現したんですか??」
と。
喋っているうちに、本当にそうなる氣がするから不思議です。
(あの時の夢、叶えた人もいるんじゃあないかしら?)

 

 

なかなかに楽しい時間でした。

 

 

未来を描く。そこへ行く。
もはや「成った」場所から、今を見てみる。
NLPやコーチングにも「予祝」視点は満載です。

 

 

 

 

 

 

で。
ふと今年の年末に「飛んで」みた9月1日の朝。
浮かんだのは、心やすい友たちとどこかの座敷で飲んでいる様子でした。(忘年会?)

 

10人くらいのその場所はぎゅうぎゅうで。
(もっと広い場所でやりなさいよと思いつつ)

 

 

わたしはあまり飲みに行かないので、

 

 

「おや、これはこれは…」

 

 

 

と思いつつ見ていますと、
みんなで「今年の自分の10大ニュース」なるものを
発表し合っていました。

 

 

「わたしはどんなニュースを発表しているのかしら??」

 

 

と思っていたら、
まあ、結構なことを言っていましたよ(笑)
とっても嬉しそう。

 

 

そして、みんなから
「おおお〜!(どよめき)おめでとう!よかったねっ!」
と渦のような祝福を浴びていました。

 

これは…熱い(場所が狭いからそもそも暑いのよ!と思いつつ)
ちょっと恥ずかしい。
そして、なんと氣持ちのいい。

 

 

 

 

 

さて。
興味ある人は、やってみられては?
と思いここに書いているわけです。

 

 

ポイントは、
⭐️リアルに想像する

 

です。

 

・温度(何度、ではなく、暑い、肌寒い、など)
・質感(肌触り)
・音(声、言葉、生活音…どんな音が聞こえている?)
・におい
・周囲(場所の様子、人の表情)
そして、
・自分の「感情」と「身体の状態」(ここ大事)

 

 

 

もしかして、「それ」が。

 

いえ、もしくははるかにイメージを超えた「素晴らしい場面」が、
年末、あなたにやってくるかもしれません。

 

なにせ…
先人たちもずっとやってきた
わたしたちにとってある意味王道の方法ですし!

 

 

 

《追伸》

※もう一つ、大切なことは
「心身ともにいい状態」を作ってから想像する(未来へ飛んでみる)ということです。

くれぐれも、なんだか落ち込んでいる時、身体がぼやっとだるい時…
などにやらないように。

 

試しに続けて2回やってみたんですが、
(1回目ー普通の状態/2回目ー深呼吸&心地いいことを考えて、リラックスした状態)

 

 

1回目と2回目、予想通り出てくる想像が全く違いました。
2回目の方が大きく大きく広がっていました。世界が。

 

どうぞ、自分をいい状態にしてからやってみてください。

 

 

 

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