求めよ、さらば与えられんー私に「魂のごはん」をくれたかの人へ

 

 

 

 

 

もう、書いてしまった氣もするんですが、

再び書きたくなったので、今日は懐かしい話を書きます。

 

 

 

 

 

 

数年前、セミナーに参加してくださったお客さんと二人で

銀座をブラブラしていました。

 

 

ベトナム料理のお店でものすごく美味しいランチなど食べ、

そのまま足は自然と歌舞伎座へ。

 

 

 

 

新しくなった歌舞伎座は空中庭園があると聞いているし、

とにかくどんなになったのか見てみたいと。

「そこまで興味はないのですが」というその方を引っ張って。

 

 

 

 

 

 

地下の売店から屋上庭園と、

歌舞伎を見なくても入れるところは全部入り、

最後に「歌舞伎座ギャラリー」へ。

(歌舞伎のセットや、小道具がある、ちょっとした体感スペース)

 

 

 

そこで、

馬とか船とか乗れるものには全部乗り、

ポーズをとって写真も撮り、

触れる小道具にはしっかりと全部触って味わい尽くし、

 

 

 

 

 

「(初めてでしたけど)いいものですねえ、歌舞伎って~」

「ですよねえ」

 

 

 

 

と二人で、椅子に座ってしばしぼ~っと。

(つまり遊び疲れたわけです)

 

 

 

 

 

すると、不意に

「今日はもう、歌舞伎はご覧になったんですか?」

 

 

と声が。

見ると、まだ若い女の子が(はたちを少々越したくらいの)立っており。

 

 

 

 

 

「いえ、今日は予定していないんです。

チケットも買っていないし」

 

 

 

 

と正直に伝えると、

 

 

 

「チケットならあります。よかったらどうぞ」

 

 

 

見ると、一枚じゃなく、軽く3~4枚。

さらにしかも、今日の分だけでなく、明日の分も。

 

 

 

 

「え…!?」

 

 

 

と戸惑う私たちに、

 

「私、関係者なので、チケットが手に入るんです。

このチケット、後10分(15分だったかな)で始まりますけど、

どうします?」

 

 

 

 

 

 

 

 

10分後。

 

 

私は、連れのお客さんと別れ、

なぜか?

10分前にあったばかりの女の子と、隣り合わせで、

歌舞伎座の客席に座っていました。

 

(連れの方は、用があるので長時間いられない、とのことで

「私に構わず行ってください!」と)

 

 

 

 

なんと不思議な感覚…。

 

 

 

 

彼女は、歌舞伎座の隅から隅まで知り尽くしており、

「ここのたい焼きは美味しいです」

(それは、いつ買いに行くといい)

 

 

などなど…

細かに「レクチャー」してくれ、

私は先達の導きで、とても安心して「新歌舞伎座」での芝居を味わうことが

できたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芝居がはねた後。

私は半ば無理やり彼女をお茶に誘い、

そして色々と質問。

 

 

 

どうしてチケットが手に入るの?

歌舞伎の仕事ってなにをしているの?

 

 

 

 

 

 

詳しくは書きませんが、

彼女にとって、舞台を見ることは勉強であること。

なので、OFFの日は、こうやって観客として歌舞伎を見るのだ、ということ。

 

 

 

この仕事が好きで、

インターンとしてはいり、そのままその会社に就職したこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は言いました。

 

 

 

「(数組いたギャラリーの客の中で)

一番、楽しそうに、感慨深そうにしていたのが、お二人だったんです」

 

 

 

 

その時、私の頭の中に、表題の言葉が

大音量でよぎったんでした。

 

 

 

「求めよ、さらば、与えられん」

 

 

 

子どものように、ただ楽しんで、

喜んで、味わって、今この瞬間の幸せに生きている人のところに、

「それ」

はやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は、歌舞伎座の階段の踊り場に飾ってある

「青獅子」。

 

中を案内してくれた彼女が、

つっと立ち止まって

 

 

「私、これ、好きなんです」

 

 

と言った絵です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、歌舞伎もお休み。

 

 

 

彼女は何をしているかなあ、と思います。

きっと、この期間も次の準備をし、

研鑽に励み、技を磨いていることだろうなと、

彼女の会社のfacebookページを見るたびに、そう思います。

 

 

 

 

本当に、この、青い獅子のような感じの人でした。

凛として、しっかりと軸のある。

 

 

一日も早く、また彼女が存分に腕をふるう場が再開されますように。

ついでに、

世の中の、演劇、音楽…あらゆる「魂のご飯」分野に携わる方々に

この時期も心からの元氣をもらっていることに感謝しつつ、

 

また、たくさんの作品に触れられるときを楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

追伸:

私の「連れ」の方なのですが、

その方は、翌日の券をもらってお帰りになり、

翌日、歌舞伎座で、ちゃんとお芝居を見たそうです。

(その方をほっぽって、私だけが見たわけではない!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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神から預かりしものを、ただ花開かせるー研ぎ師に学ぶ『人育て』の本質

 

 

 

 

 

「漆黒の村正」

 

 

 

 

戦時中、刀身保護のためやむなく全身に漆を塗られてしまい、

そう呼ばれるようになった名刀を

今によみがえらせる、

という番組を見ていました。

 

 

 

 

「これは市民全員で守ってきた刀です」

 

 

と、重すぎる責任とともに刀を託された若い研師さんが、

一心に刀を研ぐ。

 

 

 

十数種類もの砥石や道具を使いながら

七十年越えの漆を剥ぎ取り、

下地研ぎ

仕上げ研ぎ…

 

 

と進んでいく様子を見るのはものすごく面白い。

 

 

 

 

 

 

「あくまでも刀の後ろに立って

応援してあげるって言ったらいいんですかね。

 

とにかく、オレがオレが、

研師がどうだっていうのは

あまりいい研ぎではないんです」

 

 

 

 

 

 

そして、

やがて、刀の表面にやっと、美しい刃文が顕れる。

 

かつて刀鍛冶が精魂傾け、技の全てを注ぎ込み、表した刃文。

刀本来の美しさ。存在意義。

 

 

七十数年前、

人の世の勝手な都合で本来の輝きを封印され、

いわば「刀としての生を封印されてきた」村正。

 

 

その輝きと刃文の出現は、

感動とともに、刀にそこまで興味のない私もついつい見入る美しさで。

 

 

 

 

 

 

 

研ぎを終えた、研師さんの最後の言葉。

 

 

 

「きちんとした仕事。

きちんとした砥石の当て方さえすれば、

刀がどんどん自らきれいになっていって、

美しくなっていってくれる、みたいなことを感じたんです」

 

 

 

 

 

 

そのとき、

僭越ながら、自分の仕事もまさにそうだな、との思いが浮かび。

 

 

私には、その研師さんがこう言っているようにも聞こえたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

「神から賜りしものを預かり、ただ花開かせる。

そこに『他意』は必要ない」

 

 

 

 

 

 

 

「親」から始まり、

世の中の全て、「人と出会い、能力(本質)を開花させる」ことをしている人も、

実は「育てている」などということではなく。

 

つまりこういうことなのではないか、と。

そんな風にも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたにとっての、

「きちんとした砥石の当て方」とは何ですか。

 

 

対象が、自ずとその本質を。

持って生まれた輝きに自ら氣づき、あるがまま、存分に発揮しだす。

それを援けるあなたのースキル、考え方、精神の拠り所、

そして自身の「在り方」

等々。

 

 

 

 

 

 

あらためて考えてみるのも意味あることなのではないでしょうか。

これから、ますます「確固たる自分自身の『それ』」が

試され、必要とされる世の中になっていくようにも

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それ」が合う子もいる〜オンライン授業の可能性

 

 

 

 

 

クライアントさんに、学校の先生や、なんらかの「教授」をしている方も多くて、

必然的にその方達の、

 

 

 

「今の頑張り・苦労」

 

 

 

を聞くことが増えています。

 

 

 

で。

皆さんに共通しているのは、

戸惑いはしたが、やってみると

 

 

 

「新たな可能性を感じている」

 

 

 

ということです。

例えば、

 

 

 

「オンライン授業に切り替えてから、子どもの自主性が高まった」

 

 

 

というピアノの先生。

教本を開き、色ペンを準備し、メトロノームを合わせ

…レッスンの準備を全てを自分でスタンバイして、先生を待つ。

 

画面の向こうの先生とのやりとりを、

こちら側で「具現化」し、形にするのは全部自分。

 

自分から動かなければ「オンラインレッスン」は成立しない。

 

 

 

 

 

 

 

また、

ある数学の先生は、

オンライン授業を開始してから、

 

「丁寧な質問」

 

がくるようになった、と。

 

 

生徒さんと自由にやりとりできるオンライン上の「部屋」に、

 

 

 

「ここから先のやり方がわかりません」

 

 

 

と。

 

解答の写真を貼ってもらう。

それを見ながらこちらも、細かくアドバイスができる、と。

 

 

 

その「やりとり」に、

いつもの「30人教室一斉授業」ではない楽しさ、新鮮さを

感じてらっしゃるのが伝わって来て。

 

 

 

 

 

 

話を聞いていると、

確かに!こういう形の方が合う(自分を出せる)

生徒も案外多いかもしれない、と思えます。

 

 

 

わたし自身は、

「リアルな場」のもたらす波、うねりが何より好きなんですが、

でも、確かに…

 

 

 

これはこれで、

先生と個別につながりながら、

(嬉しい気持ちとともに)

静かに生き生きと…

学びの実感を得られる子も、

多いかもしれないな、と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

オンラインの今こそ、

対面ではちょっとおろそかになっていた、

 

「できること」

「開発できる力」

 

がある。

(親子ともに。さっき見た、Eテレの「学びサポート番組」では

「学びに向かう力を育てる」と言っていましたが)

 

 

 

 

 

と。

そう思うと、

元氣が出て来ます。

 

 

 

 

 

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