長崎の知人。
送ってきたメールの調子がいつもとなんだか違っていました。
どちらかというと穏やかで物静かな印象を持つ方
と感じていたのですが。
翌日。
電話でその方と話す機会がありました。
声を荒げるのなど聞いたこともないその方なんですが
…何かが違う。
なんといいますか
第一声から大きい。いつもよりも。なんだか勢いがある。はずんでいる。
(夜の10時過ぎにもかかわらず)
さて
先に書いた
その方のメールには用件178文字に対して約300文字にわたって熱く
「あること」が書かれていました。
それは…
「コッコデショ」
(大事なところなので、久しぶりに字を大きくしてみました)
今年も長崎くんちが始まること。
蛇踊りが有名だが、これは毎年やっていること。
今年は七年に一度の「コッコデショ」が出るということ。
そして
その「コッコデショ」がいかに「かっこいいか」ということ。
この方を
ここまで熱くさせる
常なるテンションとは変えてしまう「コッコデショ」とはいったい何だ…???
否がおうにも興味津々です。
さて
これが「コッコデショ」
「みこしを上に放り上げて受けるところ
声量のある揃った歌声
数十人がそろって型が決まっているところ
担ぎ手や携わる人々の気合を感じ胸に響きます」
(メールより)
確かに。
これは…すごい。
美しい。
なんと言っていいのか。
ほれぼれします。
と
また、別の長崎人よりメールが。
「よかでしょ~コッコデショ
(中略)
あれ、生で見たら
ただぽろぽろぽろーと涙が出ます。
なんの前触れもなく」
祭りとは、いいものですね。
そして、人にとって、とても必要なものであると感じます。
3日ほど前、偶然、京都祇園祭の番組を見ましたが。
ああいったものが伝えているものの大きさに
思わず身震いしたことでした。
祇園祭の「かね」を一人前に叩けるようになるまでは
10年かかるのだそうです。
それを、小さな子達が、正座をして黙々と練習している。
教えるのは若者たち。
当然ながら、この営みは数百年の昔からずっと続いてきたもの。
「町衆」の中で、自然と受け継がれ続けてきたものです。
連綿と
親から子へ、子から孫へ
さりげなく伝えられてゆく同じ「形」。
そして、形を通して受け継がれていくものの大きさ。深さ。
齋藤孝
「日本人の心はなぜ強かったのか」(PHP新書)
にこんなことが書いてありました。
日本人はかつて
「心」と「体」と「精神」のバランスがとれていた。
今は「精神」と「体」を形成するということが疎かにされ
結果「心」の肥大を招いている。
「個の心の問題」が人生における最大の「問題」になってしまっている。
以前の日本人は
「心」を律する「精神」「体」を持っていた。
それらは例えば、幼いころから無条件にやる論語の素読であったり
武道であったり、日々の立ち居振る舞いであったり。
日々の生活の中で
「形」(体の動きを伴うもの。考え方、すべて)を踏襲することを通して
自然と伝えられた。
それら伝承の営みは
特に第二次大戦後、アメリカによって
徹底的に破壊されたと。
そして、今に至る日本。
とまあ、だいたいこんなことが書いてあったような。
(わたしの言葉で言い換えているので、解釈が違っていたらご勘弁を)
「コッコデショ」。
七年に一度のこの日のために
この町のみなさんは、どれだけ練習をしてこられたことでしょう。
子どもたちは小さいころから
「コッコデショ」に出ることを目標としているに違いありません。
あの、父や兄のようになるのだと願い、成長する日々。
みこしを担ぐ意味の学びや体の鍛錬を通して
子どもたちの体の中には
きっと
模範としたい、基準となる強い「精神」の軸が形成されるのではないでしょうか。
少しのことではぶらされない
強い強い「精神の軸」。
「担ぎ手や携わる人々の気合を感じ胸に響きます」
「あれを見ると、ただ、ぽろぽろと涙が出ます」
彼女らの胸を響かせ
涙を流させるものは何なのか。
「祭り」を通してわたしたちは確かに何かに触れ
日本人としての
人としての「何か大切なこと」を呼び起こされるのだろう…そんな気がしました。
「コッコデショ」。
七年後は
必ず長崎で、この目で見よう!と思ったことでした。