「秋満開」

昨日は

鹿児島の南、南九州市の頴娃町にての研修でした。

夜七時からでしたので

夕刻にかけて移動をしていたのですが。

なかなか会場に着きません^^。

中村公子のコーチングna日々♪-未設定

中村公子のコーチングna日々♪

遠くに海が見えるんですが

わかりますか?

中村公子のコーチングna日々♪

頴娃町は

開聞岳を仰ぎ、海を眼下に臨む風光明媚な土地です。

桜島もいいですが毎日この山を見上げる生活もなかなかよさそうです。

途中、

頴娃のさまざまな景色に見入ってしまうのです。

何度車を路肩にとめたことか。

なかなか前へ進まない。

この景色をずっと見ながら日々を過ごして来られた皆様方との時間も

景色と同じく心に残るよき時間となりました。

頴娃の町よ。

そしてみなさまがた、ありがとうございました。

「『先生』の話」

わたしの歴史仲間の「先生」のお話です。

先生は

大学に在職中「英語史」と「映画史」を教えていらっしゃったそう。

その頃はよく

「二足のわらじですね」

と言われたそうです。

ご本人からすると、それは結構不本意な言葉であったとか。

「世の中で言語と映像はほとんど一体となって存在しているのに」と。

つまり、先生にとっては、しごく整合性のとれた、統一感のある世界なのです。

「言語と映像は表現の媒体として『一足』」ということなのだそう。

先生の熱き思い入れのこもった言葉に

大きくうなずいたことでした。

さて

わたしから見ると、先生の軸はまさに「史」の部分にある、といつも感じます。

先生は

古い日本の歌謡にも造詣が深くていらっしゃり

明治~昭和の歌を通して、その歌を生み出した時代の背景などをよく語ってくださいます。

先生の話を聞いていると

メロディに、歌詞の、言葉の一つに、その時を生きた人たちの生の息遣いを感じます。

「この歌詞の背景にはこの事件を感じますね」

「えっ、あの有名な・・・(教科書に載ってたあれですか!?)」

というようなやりとりが

メールや何かでたまに飛び交うんですが

そんなとき

とてもワクワクします。

モノクロの古写真に、いっきに色がついて

動画になってカタカタと音をたてて回り始めるような感じがします。

そのメロディを、言葉を万感の思いをこめて

口ずさんだであろう

自分と同じに普通に生きていた人々の姿が見えるような。

教科書に載っている死んだ歴史ではなく

言葉や映像といった

人の生活に密着して存在し

喜怒哀楽をダイレクトに表現し、反映してきたものを通して

見え、聞こえ、体感できる

「生きた歴史の息吹」をこよなく愛し

それを人に伝える人ことをなさっている人

というのがわたしの先生に対する感じ方です。

(先生はそうじゃないとおっしゃいますが)

それは、どんなにか素晴らしい大切なことだろう、と

歴史好きのわたしはいつも思います。

それになにより

人がそうやって自分自身の「軸」に沿って生きているのを見ると

なんとも言えずワクワクします。

自分の惹かれるもの、心の導くものに沿っているとき。

人はそういうとき、魅力的だなあと感じます。

年を経るごとに

自分の生き方がそのようになってくるごとに

さまざまな世界で、全身で「本質」を生きていらっしゃる方々と

時間を共にする機会が増えているのは

ほんとうに幸せなことだなあと

思っています。

わたしの地元で唯一の

歴史仲間の「先生」のお話でした。

「七年に一度の『コッコデショ』」

長崎の知人。

送ってきたメールの調子がいつもとなんだか違っていました。
どちらかというと穏やかで物静かな印象を持つ方
と感じていたのですが。

翌日。
電話でその方と話す機会がありました。
声を荒げるのなど聞いたこともないその方なんですが
…何かが違う。

なんといいますか
第一声から大きい。いつもよりも。なんだか勢いがある。はずんでいる。
(夜の10時過ぎにもかかわらず)

さて
先に書いた
その方のメールには用件178文字に対して約300文字にわたって熱く
「あること」が書かれていました。
それは…

「コッコデショ」
(大事なところなので、久しぶりに字を大きくしてみました)

今年も長崎くんちが始まること。
蛇踊りが有名だが、これは毎年やっていること。
今年は七年に一度の「コッコデショ」が出るということ。
そして
その「コッコデショ」がいかに「かっこいいか」ということ。

この方を
ここまで熱くさせる
常なるテンションとは変えてしまう「コッコデショ」とはいったい何だ…???
否がおうにも興味津々です。

さて
これが「コッコデショ」

「みこしを上に放り上げて受けるところ
声量のある揃った歌声
数十人がそろって型が決まっているところ
担ぎ手や携わる人々の気合を感じ胸に響きます」
(メールより)

確かに。
これは…すごい。
美しい。
なんと言っていいのか。
ほれぼれします。


また、別の長崎人よりメールが。

「よかでしょ~コッコデショ
(中略)
あれ、生で見たら
ただぽろぽろぽろーと涙が出ます。
なんの前触れもなく」

祭りとは、いいものですね。
そして、人にとって、とても必要なものであると感じます。
3日ほど前、偶然、京都祇園祭の番組を見ましたが。
ああいったものが伝えているものの大きさに
思わず身震いしたことでした。

祇園祭の「かね」を一人前に叩けるようになるまでは
10年かかるのだそうです。
それを、小さな子達が、正座をして黙々と練習している。
教えるのは若者たち。
当然ながら、この営みは数百年の昔からずっと続いてきたもの。
「町衆」の中で、自然と受け継がれ続けてきたものです。

連綿と
親から子へ、子から孫へ
さりげなく伝えられてゆく同じ「形」。
そして、形を通して受け継がれていくものの大きさ。深さ。

齋藤孝
「日本人の心はなぜ強かったのか」(PHP新書)
にこんなことが書いてありました。

日本人はかつて
「心」と「体」と「精神」のバランスがとれていた。
今は「精神」と「体」を形成するということが疎かにされ
結果「心」の肥大を招いている。
「個の心の問題」が人生における最大の「問題」になってしまっている。

以前の日本人は
「心」を律する「精神」「体」を持っていた。
それらは例えば、幼いころから無条件にやる論語の素読であったり
武道であったり、日々の立ち居振る舞いであったり。
日々の生活の中で
「形」(体の動きを伴うもの。考え方、すべて)を踏襲することを通して
自然と伝えられた。

それら伝承の営みは
特に第二次大戦後、アメリカによって
徹底的に破壊されたと。
そして、今に至る日本。

とまあ、だいたいこんなことが書いてあったような。
(わたしの言葉で言い換えているので、解釈が違っていたらご勘弁を)

「コッコデショ」。

七年に一度のこの日のために
この町のみなさんは、どれだけ練習をしてこられたことでしょう。
子どもたちは小さいころから
「コッコデショ」に出ることを目標としているに違いありません。
あの、父や兄のようになるのだと願い、成長する日々。
みこしを担ぐ意味の学びや体の鍛錬を通して
子どもたちの体の中には
きっと
模範としたい、基準となる強い「精神」の軸が形成されるのではないでしょうか。

少しのことではぶらされない
強い強い「精神の軸」。

「担ぎ手や携わる人々の気合を感じ胸に響きます」
「あれを見ると、ただ、ぽろぽろと涙が出ます」

彼女らの胸を響かせ
涙を流させるものは何なのか。
「祭り」を通してわたしたちは確かに何かに触れ
日本人としての
人としての「何か大切なこと」を呼び起こされるのだろう…そんな気がしました。

「コッコデショ」。
七年後は
必ず長崎で、この目で見よう!と思ったことでした。

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