学校でなぜ芸術が教科としてあるのか

 

 

今朝、セッションで

「今、怪獣のバラードですね」

 

という喩えがつい口をついて出て来。

小中学生がよく歌う合唱曲です。

 

 

クライアントさん、

はじめは「なんですかそれ?」

だったのですが、そのあと、メールで

 

「youtubeで聞きました。

昔は何とも思わなかったけど、今聞くと泣けました」

 

と。

 

この方にも、

何度目かの旅立ちの時が訪れているようです。

 

砂漠を行くキャラバンの「旅立ちの鈴の音」を

聞いてしまった人は、

もう元に戻ることはできないのです。

 

住み慣れたあたたかい砂漠を出て、次の世界へ旅立つときが、

みな、人生で何回か、訪れるものです。

海を見るために。人を愛するために。

https://www.youtube.com/watch?v=_9VCTbHXfOQ&index=1&list=RD_9VCTbHXfOQ「怪獣のバラード」

 

 

 

 

さて、

今日は、本題はこちらでして。

今日はそのセッションからこっち、ずっと合唱曲を聞いています。

 

 

やっぱり、

教員だったころに子どもたちが歌っていたものが懐かしい。

 

「怪獣のバラード「大地讃頌」「マイバラード」「心の瞳」…

「空かける天馬」

も懐かしい。

 

こうやって聴いてみると、あらためて思うのは、

まあ、大きな言い方をすると「芸術のすばらしさ」(必要性)

です。

ひらったくいうと、子どもの頃に、

「質の良い、美しいものに触れることの大切さ」。

 

 

 

合唱はいいですね。

 

ただ「触れる」(見る、聞く)だけでなく、

自分の身体、呼吸、全細胞を使って表現する、

しかも、マックスにエネルギーを出して表現する。

 

歌詞と、自分の心の中にある感覚と感情を結び付け、

増幅して、自分の想いを乗せて思いっきり発する。

 

 

 

 

どなたかがテレビで、

中学校で合唱コンクールがあるのはとても理にかなっている、

ということを言った人がいましたが。

 

 

 

なかなか感情が言葉になりにくいこの時期。

身と心に溢れる、得体のしれないエネルギーをもてあますこの時期に、

「洗練された、美しい言葉」と「美しい旋律」を借りて

 

 

「自己を思いっきり表現する」

 

 

これは、計り知れない効果をもたらしているのでしょう。

 

 

 

そしてさらに。

その体験は、身体と心に、一生をつらぬく財産となって刻まれます。

 

Youtubeに書き連ねられている、

たくさんのコメントを見ていると、それをしみじみと感じます。

 

人生のたくさんの場面で、

「その曲の思い出」(と、そこから沸き起こる感覚感情)が

自身を勇氣づけていることを、多くの人がせっせと書きこんでいる^^

 

 

 

 

芸術は、人の魂の至高の発露。

 

絵も、書も、歌も、文学も、造形物も、踊りも…

いわば人の神性の発露。

 

多くの先人たちが、

身を削り、魂を削り、自身と向き合い、

その中から一瞬のきらめきのように見つけた「ほんとう」を

かたちにしたもの、それが芸術です。

 

 

学校で、なぜ、芸術が教科としてあるのか。

 

 

それは、畢竟

 

人としての生き方の美しさ、

人としての生き方の幅、

あい、

いつくしみ、

真善美を希求し続けるあり方、

 

 

そういったものを、

理屈ではなく、細胞に移すため。

瑞々しい細胞にそれを刻むため。

 

それから後の長い人生をくじけず、よろこびの中、歩いていくため。

 

そう思えてなりません。

 

 

 

親御さん。

先生方。

今、子どもたちが身近にいる方々。

どうぞどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

わたしも、

一人の大人として、責任もって、

この世界を「よきもの、美しいもの」で

溢れさせるよう生きたく思います(おー!)

 

 

 

 

追伸;

クライアントさん、ただ今「宣言文」を作成中です。

これからどんな人として、どんな人生を歩むのかを言葉として明確に「宣言」する。

 

「怪獣のバラードをリピートしながら」

書いています、とメッセージがやってきました。

 

 

 

 

 

 

 

❉【今氣に入っている合唱曲「旅立ちの時」】

https://www.youtube.com/watch?v=oaYSb6nwqmk&index=4&list=RD_9VCTbHXfOQ

 

❉画像は映画「くちびるに歌を」から

 

 

 

そもそも自分であること自体が「仕事」

 

 

 

アイヌは、その個性・役割が「名前」になっている、と
聞いたことがあります。

アニメ「ゴールデンカムイ」。
これに出てくるアイヌの女の子「アシリパ」は、
確か「未来」という意味だったような。

時は明治後半。
その名の通り、アシリパはアイヌの伝統を守りつつも、
旧習を打ち破り、大活躍。

 


 (※クリックすると公式サイトに飛びます。ご興味ある方はぜひ。

 アイヌの風習が詳しく描かれていて、出てくる料理がいちいち美味しそう)

わたしたちも、親から名前を授かりますが、
一方、子どもがその名前を選んでいる、とも読んだことがあります。

何で読んだのかは忘れましたが、
子が親に「その名前を思いつかせるのだ」と。

わたしの甥っ子。4歳と2歳。

長男はゆったり、ほんわりとやさしい子です。
おしゃべりで、「ねえねえ♪」とニコニコしながら近寄ってくる。
何だかいつも春風が吹いているよう。

そして、この子はまさに、Yの字からはじまる、
ゆったりした意味と音韻の3文字の名前の持ち主です。

翻って2歳の次男。

生れて2日目、病院に会いに行ったときには驚きました。
大きくてしっかりした手。長い指。
夜だというのに、しっかと目を見開いて、
かっとこちらを見据えるその視線の強さに、

「この子、ものすごく氣の強い子になるね」

と。
赤ちゃんをそんなに見たことのないわたしさえ、
ついそういってしまう眼力の強さ。

この子も生まれる前から「K」ではじまる名前をもらっていました。
うん、何があっても君は、この大海原を
ざんぶと渡っていけるよ…君にピッタリだね、

と、そういう感じの4文字の名前です。

そして、月日はたち、
彼はやっぱりそのように成長しています。
おしゃべりをしているのはおおよそ見たことがありませんが、

入園式の日にはその場に留まらず。
法事の日はお寺の祭壇によじ登り。
運動会の日は、一人フィールド内に突進して行っていました。(もちろん出番外)

その子の持つ「本質」。
もともと持っている「生」の響き。魂の響き。リズム。
それは厳然としてある。

わたしたちは、大人になると「仕事」をはじめます。
職につきます。
けれど。

そもそも「自分であること」自体がこの世界に対しての
大いなる「仕事」なのではないか?

と、あらためて、最近、思い始めています。
昔の…どれくらい昔かはわかりませんが、
例えば縄文時代とか?

その頃の集落では、その人の本質(特質・個性)がそのまま仕事、であり、
それを発揮し、交換しあうことがそのまま、
「皆で生きる」ことにつながっていた。

逆に、そうでなかったらあの時代、生き残れなかったのでは?とも。

「自分を生きる」ことが、
チームへの貢献であり、そのまま全体の繁栄にもつながっていた。

「未来を生きるもの」(アシリパちゃん)。
「ゆったりと時間を刻むもの」(甥っ子1)。
「未知を開き、航ってゆくもの」(甥っ子2)。

ゲームに、
「僧侶」「戦士」「魔術師」「賢者」「戦略家」「道化」…
などなど、出てきて、みんなで旅しながら
ミッションをクリアするものがありますが、
あんな感じでしょうか。

もっとも自分であり、
自分を輝かすことが出来る状態であること。
最高に自分自身であること。

結局、いつも同じことを言っている氣がしますが、
それよりほかにすることはなく、
それこそが最高のこの世界への貢献である、と思うのです。

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《なぜ「話すこと」が役立つのか》

人の無意識に乱れ飛ぶ情報は、夜空の星のように膨大です。
そして人はその中の、ほんの小さな一点しか把握できていない。
それはあたかも、広大な星空を、望遠鏡を逆さにして覗いている感じでしょうか。

広大な無意識という海の底から、自分にとって必要な情報を浮上させる方法、
それは「言葉にすること」。

言語化することで初めて「自身の手に取り」確認し、使うことのできる
「形ある」ものになります。

コーチは、セッションの中で、たくさんの役割を果たします。
「かがみ・共鳴板・伴走者・ナビ・指揮者・ストーリーテラー」…。
それらの力を使って、
一人の思索ではたどり着けない場所に、
早く、確実に行ける。

それがコーチングの効果であり、醍醐味のひとつです。

 

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