生きるために不可欠だったのに、ほとんどの人が十分には与えられなかったもの。 そして、満たされるまで一生追い求めてしまうものー『ニーズ』の話

 

 

 

クライアントさんから「卒乳」の話を聞いて、いたく感動したのです。

 

 

 

「今日は息子の卒乳開始日です」

の言葉とともに、その様子が綴られた文章が。

 

 

 

 

 

前々から丁寧に丁寧に、息子さんと時間を過ごし、言葉かけをし、思いも話し…

と、入念に準備をしてきたらしく、いよいよその日。

 

 

 

 

「先ほど、『最後のおっぱいねー』と、

息子とおっぱいタイムを過ごしました。

 

おっぱいバイバイできる?

と聞くと、

できる、

と言ってくれました。

 

 

 

そして、

あ~っ(ぷはーっ)

たくさん飲んだよー

とおっぱいを離してくれました」

 

 

 

 

 

それを読んで、

先も書きましたがしみじみと感動してしまい。

 

 

 

「ああ、これなんだなあ」

 

 

 

十分に、存分に味わって、飽きるまで味わって、

そして降り注ぐ愛の中で卒業し、

次のステップへ行くのが当たり前なのだ。

 

 

 

 

 

でも、大体みんな、まだまだ欲しいのに、十分に与えられないまま

「引き剥がされて」心の中で泣き叫びながら、

「次へ」行かざるを得ない。

「大人に(時間的なものだけ)」なってゆかざるを得ない。

 

 

 

おっぱいのことだけではありません。

いろいろな場面、感情について、のことです。

 

 

わたしたちは、子どもの頃、自分が欲しいほどには存分に与えられず、

大人になっていく。

そういうものを「ニーズ」というのだ、とコーチングと出会った初期の頃に学びました。

 

 

 

●ニーズ

=生きていく上で、とても必要なものだったのに思うほどに満たされなかったもの。

無意識のうちに、満たされるまでつい追い求めてしまうもの。

(赤ちゃんがミルクを求めて泣き続けるように)

だいたいその根っこは「安心」「承認」「関心を持たれる」「愛」などに帰着する。

 

 

 

 

 

 

大なり小なり、みな、なんらかの「ニーズ」が心の中にあって、

胸の中で疼く瞬間があるのではないでしょうか。

わたしもよく。

 

 

何かに羨ましさを覚える瞬間。

自分が低いものに思える瞬間。

多くのものを手に入れなければ、と焦燥感にジリジリと炙られる瞬間。

 

 

 

 

 

「わたしたちは、なにかしらかみな、「ニーズ」を抱えて生きている」。

 

 

考えてみれば、当たり前のことで、

わたしたちの親自体が、ニーズを抱えていたわけです。

親自体も、「十分に与えられる」ことなく大人になってきた。

その親も。

またその親も。

(ずっと続く、ニーズの連鎖、負の文化的遺伝子、なのです)

 

 

 

ですので、どこかでそれを終わらせなければなりません。

そう、わたしたちで、終わらせなければなりません。

次へそれを渡してしまってはいけないのです。

(と、わたし自身、ずっと思いつつ生きてはいるのですけれどね)

 

 

 

 

 

では、その「ニーズ」をどうやって満たすか、なのですが。基本、自分で満たすしかない。

 

色々やってみたのですけどね。

人に満たしてもらおうとしたり。

まだ、ニーズという言葉を知らない20代の頃、結果的にそういうことをしてしまっていたなあ…

と思います。けれど、他人のそんなものを背負い切れる人は、

どんなに親しい人でも、存在しない。

 

 

 

 

 

 

 

では、ここから、ニーズの満たし方です。

 

 

①自分は「ニーズ」を持っている、と認める。

(注目してほしい、認めて欲しい、愛して欲しい、などなど…自分の中でそういう感情が湧き上がった時に、

「これはニーズだ」「今、自分の中でニーズが荒れている」と認める)

 

 

②それにOKを出す。

(いいよいいよ、まあしょうがないよね、とそれを受け入れる。

「ないこと」には絶対にできません。一時的に押さえ込んでも、ますます「ニーズ」は荒れ狂います)

 

 

③満たす。

1)自分で自分に声をかける。

(欲しかったよね、悲しかったよね、等)

 

2)自分を満たす行動をする。

(好きなことを、やりたいことをする。心地よい環境に自分を置く、等)

 

3)満たしてもらえるよう、他者にリクエストする。

(褒めて欲しい、ねぎらって欲しい、スキンシップをとって欲しい、等、伝える)

 

 

 

 

③の3)はとても効果的なので、ぜひやって欲しいのですが、注意が必要です。

「自分は今、こういう状態なので、それが欲しい。なのでこうして欲しいのだ」と、

しっかりと「リクエストする」ことが大切です。

 

 

 

これをせずに、

(しっかりと相手にオーダーせずに)

欲しいものだけをなんとか掠め取ろうとしてしまうことが結構多いのですよね。

 

 

 

そんなものには全く関心のないふりをして、その実、人から奪おうとする。

(よくある「マウントを取る」と言われる行為などはこの最たるものでしょうか)

 

 

 

以前とある本で、そういう行為をハワイでは「ゴキブリする」というのだ、

と読んだことがあります。

 

 

 

 

以前は「伝えること」が苦手で、

思わせぶりな態度を取ってみたり、意味なく不機嫌になってみたりと、

身近な人から「ゴキブリする」行為をわたし自身、していたように思うのですが、

今はさすがに、だいぶ「ニーズ」を満たす方へ転換することができるようになりました。

(褒めて欲しいので、この話をします。みんな褒めてね!自慢するね!と言えるようになった)

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、「感動の卒乳」の話から

「ニーズを満たす」ことについて書いてみました。

 

 

 

 

誰にでもあるもの。

人生において、それが満たされるまで追い求めてしまうもの。

 

 

幾つであっても、どんな立場の人であっても、奥底に「ニーズ」が存在する。

それが時に、その人の意識や「真の願い」に反した言動につながってしまうことがある。

様々な人の話を聞いてきて、そんな場面を多々見、体験してきました。

 

 

 

 

 

自分自身のために。

そして、周囲の大切な人たちのためにも。

自身の人生、全ての場面の「土台」として、全ての人が、見返し、整えるに足る大切な部分です。

 

 

 

変われるってすごいよねー進化する仙巌園(鹿児島名所)

 

 

 

「仙巌園(せんがんえん)」

 

というのは、鹿児島市内にある「旧島津家別邸」の名称でして、

鹿児島県民は昔から「磯庭園(いそていえん)」と呼んで、

親しんでいる場所なんですが。

 

 

(ここ)

 

 

 

 

「磯庭園」といえば、

小学校の頃、遠足で一度は行くところ。

で、

あとは10年のうち、行って1〜2回、ですかねえ。

県外の人が来たからどこ連れて行こう?

じゃあ磯庭園行っとく?みたいな。

 

 

 

 

 

綺麗なお庭も、立派な御殿も一度見れば十分。

 

県民にとっては、(よっぽどわたしのような史跡好きでない限り)

「何度も行く」場所ではなく、

海沿い、国道10号線の脇にある大きな屋敷と庭園。

観光客が行くところ、の認識だったわけですが。

 

 

 

 

 

 

 

その仙巌園が、

ものすごい勢いで変化を始めたのは、2年前。

県外からのお客様が全く見込めなくなってしまった時。

 

 

 

 

 

 

長く休んでいるなあ仙巌園〜、

仕方ないよなあ〜、

大変だろうなあ〜、

と思っていたのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、休園中の仙巌園が、県内のお客様向けのツアーの募集をしている、

と知ったのは梅雨も近い頃。

しかも、とてもリーズナブルな料金!

 

で、早速応募したわけなのですが。

 

 

 

 

 

当日は、ざんざかぶりの雨。

せっかくのツアーなのに…とちょっとだけ鬱陶しい気持ちで現地に行きました。

が…

 

 

 

 

結果。たのしかった。

とても楽しかった。

今でも、「ああ〜、あの日、楽しかったよなあ」と、

ちょっとほっこりとなるくらいに、楽しかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのツアーは、いわば「パイロット版」。

仙巌園の皆さんの「活路を見出す」ための知恵と工夫とアイデアと「実験」、

そして、何より熱意に溢れていた、

と。

 

思い出すに、そうだったのだろうなあ、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

アクティビティでは、

入社はしたものの、休園のせいで今日まで一度もお客様の前に出たことがありません、

という新人のスタッフさんが、

少しだけ緊張しながらも、全力で体験をサポートしてくれました。

 

(薩摩切子のガラスでアクセサリーを作ったのですが、

説明にはじまって、作成途中での、「素敵な色です!」「いいと思います!」「うまいと思います!」

という可愛らしい声かけがとても嬉しくてですね)

 

 

 

 

 

 

 

衣装の着用体験も、

お食事の時間も、

なんと言いますか…

 

とても「一人一人の『人』として接してもらっている」感じがしたのでした。

一緒に喜んで、一緒に楽しんもらっている感じ?

正直、ここで、こういう「嬉しさ」を味わったのは、初めてのことでした。

(大きな有名どころの観光施設は、少々接客が少々まずくても仕方ない、と、昔はそう思ったこともあり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

何を長々と書いているかと言いますと、

わたしの知人がここに勤めていまして、

 

「今、新しい体験コーナーの準備中で、今日はミシンを踏んでいました!」

 

と。

 

 

 

 

 

HPを見ると、知らぬまに、体験コーナーがたくさん増えており。

(全部体験してみたい〜!)

 

 

ああ、あれもこれも、

一人一人のスタッフさんたちが、

手作りで心を込めて作っているんだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

仙巌園。

以前から「年パス」愛用者ではあったのですが、最近行くのがとみに楽しいのは、

 

「大きな有名観光どころ」から、

(いや、変わらずそうではあるんですが)

 

 

加えて、

「顔の見える、血の通ったもてなしが(人とのつながりが)待っている場所」

へと、

 

 

進化し続けているからだろうな、と思うのです。

 

 

 

 

 

正直なところ、

「老舗」の大きな場所(組織)が、あんなふうに変わって行きつつある、というのはすごいよな、

と素直に思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

がんばれ、全国の観光地。

 

 

 

 

薩摩の歴女コーチ、中村公子の「幕末を舞台とした作品を作りたいクリエーターのための薩摩ことば講座」

 

というものを作ったのですけれどね。

 

(下記をクリックすると、上のページに飛んで、聴くことができます)

https://www.facebook.com/100000890699129/videos/922053405158505/

 

 

 

 

 

きっかけは、

Facebook上の知人(歴史漫画家でイラストレーターさん)から、

 

「西南戦争のこういう場面で薩軍の兵士にこういう意味のことを喋らせたいんだけど、

薩摩ことばではどのように言いますか?

セリフと、イントネーションを教えてください」

 

 

とお願いされたことで。

 

 

 

 

 

上の動画(音声のみですけれど)でも話していますが、

「鹿児島弁」というのは本当に難しい。

 

 

幕末もののドラマでは必ずといっていいほど出てくる言葉ですが、

実は、完璧に使いこなせている俳優さんはとても少ない。

(他の県の人は氣づかない&どうでもいいところでしょうけど、

鹿児島県民にとっては「冷める」こと甚だしい)

 

 

 

 

そんなこんなで、上記を作るに至ったわけなのです。

(ただイントネーションを録音して渡すのでは面白くないので、

「番組風」にしてみたのでした)

 

 

 

 

 

 

で、ついでにFacebookにアップしてみたところ、これが、意外と評判がいい。

しかも、鹿児島県民に。

 

 

「ウケる〜」

「最高〜!」

 

 

などと言いながら、みんな、総じて妙に「上機嫌」で、

「次回作を待つ!」

 

 

といった反応。

(真面目な語学番組を装いつつ、

薩摩ことばをいわゆる「ディスる」ようなニュアンスも結構入ってしまっている氣もするんですが。

明らかにそこも含めて「喜んでいる」感じが)

 

 

 

 

 

 

日頃、あまりにも当たり前にそこにある、どっぷりと浸っている

「自分たちの言語」を客観的に、

 

「外から見る」

 

機会というのは、なかなかに面白かったり、嬉しかったりするものなのかもしれない、

と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

「あなたたちとは、このようなものなのだ」。

「あなたたちとは、このような存在なのだ」。

 

 

 

言葉や文化に関して触れる、論じるということは、

つまり「自分とは(自分たちとは)何者か?」

という、土台(ルーツ)に直面するということでもあります。

 

 

 

 

 

鹿児島弁。

明らかに、国中の、どこの言葉ともあまりに違いすぎる、奇々怪界なイントネーション。

多用される「詰まる音」。

速度も速い。(とても早口な言語だと思います)

 

 

 

 

 

この言葉ができたプロセス。

この言葉を生み出すに至った風土。

民族性。

(なんというか、暑苦しいんですよね無駄に。繊細さを感じないと言いますか。

それに、南国だからか?真ん中に火を吹く山があるからか?

身体の中から湧き出るようなリズムも感じます)

 

 

 

 

そんなものを、この言葉に向き合うと、想像し、

また、しみじみと感じてしまいます。

 

そして、そんなことを思いつつ「切り取った」この言葉の断片を、

わたしの知人の鹿児島県民たちも、総じてお気に召したようで。

(どうしてでしょうねえ・笑)

 

 

 

 

 

鹿児島の人も、そうでない人も。

幕末好きも、そうでない人も。

興味ある方はぜひ、お聴きください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変わった」んじゃない。元々持っていた「力と輝き」にやっとアクセスできたのだ

 
 
 
 
 
 
研修やセッションをやっていて、
 
「すごいですね。(受講者が)変わりましたね!全然違いますね(はじまった時と)」
 
と言われたりしたとき。
そういうのって「殺し文句」と言いいますか、
ついつい「ですよねえ!(喜)」と
嬉しくなってしまう危うい瞬間ではあるんですが、
 
 
「変わった」のではなく、「もともと持っていた力が発動し始めた」
 
 
という言葉が本当なのです。
(そもそも、人を変えることはできない)
 
 
 
わたしのクライアントさんで、
自身のクライアントさんがその「劇的な変化」を起こしたという方が
喜びの報告をくださったんで、
わたしも嬉しくて、盛り上がって返事を書きました。
 
 
 
 
 
『その人を変えたのはあなたです。
 
いえ、本当は「変えた」という言葉は当たらず、(人を変えることはできないので)
 
その人の中にある「力、輝き」。
そこを揺さぶって、共鳴を起こして、目覚めさせ、引き出したのは、
と申しましょうか。
 
 
 
すごいです。本当に。
 
そこを揺さぶるには、自分の「それ」をそちらへ向けて、思いっきり投入し、
まずは自分自身を「振動させ」「鳴らす」しかないのですよね。
 
 
相手に振動が伝わるには、その何倍もの熱量が必要です。
それは、決して、言葉のみでは成し得ることではない。
 
 
 
 
 
 
 
まさに音叉と同じです。共鳴現象。
 
あなたは、それをやってのけたのです。
これが、どれだけ尊いことであることか…。
 
 
 
そう。
すごいね!目標達成やったね!ももちろんなのですが、それを超えて「尊い」ことなのです。
 
 
 
人が、その人の最も強く美しい本来の響きを奏で出す。
これほど美しくて感動する瞬間があるでしょうか。
 
 
 
 
 
 
これからは、
相手の中にある「本来の力(響き)」を信じ、揺り動かし、
その人が、自分でそこにアクセスできるよう「回路を開く」手助けができる…
 
そんな力とエネルギーと、思いを持った人が活躍していく、
そう心から思います』
 
 
 
 
 
 
 
最後のところが本当に恋願うところで、
特に、教育現場などには、こういう人が増えてほしい、と(それができていなかった自分を思い出しつつ)
 
 
願う次第なのです。
 
 
 
 
 
 
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