いつも、普通に、周りに「見えている、聞こえている、感じている」ものが人を形作る

 

 

 

 

朝の番組の「名店の技・塩むすびを握る」で、

いかにご飯をふっくらと炊くか、

握る回数はふわっと三回だけ、

 

というのをやっており、

その名店さんの握る手つきを見た瞬間、

 

 

 

 

「あ、これできる…」

 

 

 

 

どうしてそう思ったかというと、

わたしがとても小さい頃、近所のおばちゃんたちがみんな、

「まさにその手つき」

で握っていたのをまざまざと思い出したからなのです。

 

 

 

正月だったかお盆だったか、お葬式だったかお祭りだったか。

何かあるたびに台所でおばちゃんたちが集まって

おにぎりを握る。

みんな、こんな握り方だった。

 

丸い柔らかい手で、

身体の中から生まれる小刻みなリズムとともに

ふわっと丸めるような手つきで生み出される柔らかいおにぎり。

 

 

 

分厚い手の中から魔法のように次々と生み出される、

白くてふわっとしたあったかいおにぎりが、

もろぶたに並んでいくのを、

飽きずに眺めていたもんでした。

 

 

 

 

 

 

なんでもですけど。

 

その環境にいた、普通にそれが周りにあった、というもの。

何かしら身体に刻まれている気がします。

(そしてそこには初心者よりも多少「勘所」が生まれる)

 

 

 

 

親がそれをやっていた、

などというのはそれの最たるものでしょうか。

やっぱり、

見えていた、聞こえていた、嗅いでいた、感じていた…というものは、

自然と身体に入ってしまうといいますか。

 

 

 

 

 

人って、

後付けでたくさん知識も手に入れますが、

土台のところは、

囲まれているものから(無意識に五感から入ってくる情報から)

でできている、

と、

 

 

いつも実感していることをまた思い出しています。

それが人を形作る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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