人は結局自分の物語を表現するしかない。(それが一番強く周囲に響き渡り、人の心に届いていく)

 

 

 

最近、

①宮崎駿は自分のために(自分を解き放つために)アニメを作っている。
②久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

ということに少し感動してですね。

 

 

 

まず①について。

 

その番組では「君たちはどう生きるか」の制作を通して、
2018年に死去した「パクさん(高畑勲)」への
宮崎駿の断ち難い、憧憬、愛情、おそれ、呪縛、…等々、

 

一言では言葉にすることのできない、山ほどの想いへの対峙と、
それをなんとか超えようとしているプロセスが描かれていました。
(作品内に「これはパクさん」と、
位置付けているキャラが出てくるのですよね◁わたしは見ていないけど)

 

 

 

 

 

それを見て、

 

「ああ、この人は、何より誰より、まず自分を癒すために、
アニメを作っているんだな。
自分の心的旅路を作品にしているんだな。
作ることを通して、昇華し、癒されようと(もしくは次へ行こうと)しているんだな」

 

と思ったのでした。

 

 

 

 

そして、それでいい(ものすごく、いい)と。

 

 

 

世の中のすべての創作活動というものは、
畢竟そういうもの…
というか、その要素がないものは、
他者の心に響くものにはなり得ないのでは?と。

 

 

一人が旅をする。
周囲は、その「旅」を共にし、追体験することを通して、
そこから自分自身にとって必要なものを獲、
感じ取って癒され、成長する。

そこに必要なのは、ただ、掛け値なしの
「クリエイター」自身の本気の旅、自分自身の旅のプロセスなのだ、と。
それだけが、真の響きを放ち、
周囲を巻き込める可能性を持つのでは、と。

 

 

 

そして②。

久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

 

 

ドメスティック(domestic)は
「家族的な」とか「自国の、国内の」意。
(わたしはドメスティックとバイレンスをくっつけて、妙な覚え方をしていました!)

 

 

番組では、久石譲が、世界各国の有名なオーケストラで指揮をし、
シンフォニーや、そしてもちろん、宮崎アニメの曲が、
大喝采を浴び、受け取られている様子が映し出されていました。

 

 

どこか懐かしい、わたしたち日本人にとって
心揺さぶられるような数々の楽曲が、
こんなふうにたくさんの国の人たちに
熱狂的に受け入れられているなんて。
(正直、涙が出るくらい胸がキュッとしてしまった)

 

ニューイヤーコンサートで毎年見る、
ウィーン楽友協会の絢爛たるホールで鳴り響く
「となりのトトロ」を聴きながら、
とても誇らしく思うと同時に、少し「うるっと」き。
(そして、なんだかちょっとクスッと笑える感じ)

 

 

先の言葉。
これは、久石譲の「宮崎駿のつくる世界」についての言葉なのだけど、
久石譲の曲自体が、まさに、自分の中に湧き上がる
「ドメスティック」
な部分を、追及して今に至っているのだろうなあと。

広く、でもない。
万人に受け入れられるか、でもない。
世界はどんなのが好みなんだろう?
どんなものが受け入れられるんだろう、でもない。
自分の中に湧き上がる、ただ一つの響き。

 

繰り返し、繰り返し、自分に力を与えづつける、決して枯れない泉。
魂に刻まれたもの。細胞の記憶。

 

そこを探究し、追及し、
それが今、世界の、多くの人の心を震わせている。

 

 

 

さて。
というこの2つの話を、
少し前、クライアントさんとしたところだったのです。
「何を他者に伝えるか?」
について。

 

(ですので、自分の中から真に湧いてくる、断ち難い思い、
最も興味あること、最も伝えたいことを伝えればいいのでは!と
お伝えしてみたところでした)

 

 

今この瞬間、
「何を伝えるか?」
「自分とは何か?」
「これから自分は何を表現するのか?」

 

で迷っている人がいたら、
よろしければこの話、何かの糧にしてください。

 

 

 

(絵は、想像だけで描いてみたトトロ。似ているけど何かが違う…。
こういうのを「これじゃない感」というんでしょうか)

 

「自分に戻る」ことが今、一人一人のやること。最も大切なこと

 

 

 

 

さて、セッションで話を聞いていると、みんな話していることはそれぞれなのだけど、
つまりは「ズレを戻して」自分の「中心」に戻る作業をして、
自分の「中心」を再確認して、つながって、
そして再び自分の生活に出発しているんだな、と思います。

 

 

「グリッド。
碁盤の目。
そこに一人一人が立っている。

 

が、
これまで、全員がズレていた。
自分の本来の場所から、なんらかの理由でズレた位置に立っていた。
一人がズレると、その隣も、そのまた隣も…と、
全員が押されてズレ始める。

それが今まで。

 

 

けれど、逆に、
一人が気づいて自分の位置に戻ると、周りも押されて「中心」にもどり始める。

 

みんなが『自分の位置』に戻る時代がやってきた」

 

 

 

 

 

いう内容が載った本を買ったのは30年前。
今でもとても鮮明に自分の中に刻まれています。

 

 

自分に戻る。自分を生きる。
それが一番大切で、わたしたちはそのために生きているのだ、と思います。

 

自分の本質。
自分の本来の位置。
自分の周波数。
自分のリズム。
自分が本来もつ響き。
(わたしはこの表現がとても好きで、感覚的にもしっくりくるので、昔から使っていますが)

 

 

どんな表現でもいいんですが、
そこにいる。それを生きる。
それより他にやることはないし、
それだけで、その状態で生きているだけで、
わたしたちは周りに貢献出来ているのだ、とつくづく思います。
(まあ、貢献するために生まれてきているわけではないですが)

 

 

 

 

そして、
そのために、わたしたちのような役割(仕事)のものもいるんだな、と思います。
いわば「調律の場」を作る役割。
「調律」の手伝いをする役割。
「声を聞く」ことをたすける役割。

 

 

 

 

 

今これを読んでいる忙しいあなた。
自分の調律をしっかりとしてください。
「その時間」を取ってください。

 

なるべく日々の中に小さく、細やかに散りばめてください、と。
(そのお願いを、クライアントさんにも改めてしたところです)

 

 

 

一人になって、自分に声をかける時間をとってください。
あなたが一番ほしい言葉は、
結局自分で自分にかけることでしか、
本当には満たすことができないものなのです。

 

 

 

 

 

旅人が旅の途中、ふと立ちよる

 

せんせんと清水の湧き出る泉。
柔らかい下草の生えた木漏れ日美しい木陰。
暖かい焚き火の燃える居心地よい洞窟。

 

そんな場所と時間を取ってほしいと思います。

 

 

そこで、
この世界で誰よりも大切な、最も近しい、
ずっと共に歩んできたパートナーである
「自分自身」と、ただ共にいる時間、
そして声を聞く時間、語らう時間をとってほしい、と思います。

 

 

 

全てはそこから始まる、
と思うこの秋なのですよね。
改めて。
(ざっくりですけれど)

 

 

 

 

 

(写真は、車のフロントガラスに乗っていた桜の落ち葉。
綺麗だったので、一枚だけ「お土産」と、持って出かけたところ、
知人はとても喜んでくれ。
こういうものを「美しい」と喜んでくれる感性がとても嬉しかったんでした)

 

 

夏休みが始まったので、世のすべてのお父さんお母さん じいちゃんばあちゃん先生方にエールを送っておく

 
 
 
(写真はやっと撮れた蜻蛉。3回飛んで行かれて、4回目のトライ。
羽根が綺麗ですよね)
 
 
 
 
 
ついさっき、
隣のテーブルにブルーシートやら何か、
工作の道具やらを山ほど持った
女性たちの一団がやって来。
 
 
 
 
あ〜、子ども達のために何か準備をしているお母さんたちだな、と思い
 
 
「席、変わりましょうか」
 
 
と言ってみたところなんですが。
(わたしのテーブルの方が広かった)
 
 
 
 
 
 
 
数日前、正午。
朝顔の鉢と一緒に歩道橋の上を
たくさんの小学生が歩いているのを見て、
 
 
 
「ああ、始まったなあ〜夏休み」
と。
 
 
 
この数日、
いろんなお父さん、お母さん、先生方…の話を聞くにつけ、
 
 
 
 
「世のお父さん、お母さんって、こんなに考えて、頑張ってくれているのか(くれていたのか!)」
 
 
 
と、
なんだかもう感動することしきりなのです。
 
 
 
 
 
生活のリズム。
体験。
どんなふうに作っていこう、どんなふうにデザインしよう…。
(確かに。放っておくと、恐ろしいほど「安きに」流れてしまう、それも子ども)
 
 
 
 
 
 
 
どんなふうに子どもたちと過ごそう、
楽しませてあげよう、一緒に楽しもう、と。
 
 
そんなお父さんお母さんの
夏の「戦略」「プラン」「計画話」「企み」を聞くにつけ、
 
 
 
「すごい…」
 
 
 
と思うのです。
(何か、すごく特別なことをする、とそういう話ではないのですよ、念のため)
 
 
 
そこに感じるのは、やっぱり大きくいうと「切なる願い」でしょうか。
 
 
 
 
 
 
子どもにとっても40日というのは、それはすごい時間です。
 
 
 
 
 
 
中学生でさえ、40日経って会う子どもたちは、
明らかに「大きく」なっていた。
 
どこが、というのではない。
何が、というのでもない。
けれど、明らかに表情が変わり
(いろんな方向、いろんな意味で(笑))
 
 
 
 
そうですね。
細胞に満ちている「もの」の質が、一学期までとは違っている。
 
 
 
 
 
40日間という時間がどんな時間であったか、
それが、その子どもの表情や視線、雰囲気の向こうに透けて見えるような。
 
 
 
 
 
 
 
 
子どもにとって、黄金の時間。
それが夏休み。
 
 
 
 
 
 
自分の子どものころを思い出すに、
暮らしが順調であった時も、そうでなかった時も、全てをひっくるめて、
 
親が「その時の精一杯」で共に過ごしてくれた
夏のいろいろな時間を懐かしく感謝すると共に、
 
 
 
 
「ああ、世のお父さん、お母さん、お疲れ様…頑張って!」
(だれんごとやってください!)
※鹿児島弁です。「疲れないように」
 
 
 
 
 
 
と思う、今日、7月24日なのです。
 
 
 
 
 
 

「なぜコンビニの前に座っていてはいけないのか」を子どもになんと説明するか

 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。

 

コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、

「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」

と問われたら、なんと答えるか、と。

 

 

で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」

 

 

 

本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。

 

 

 

 

で、わたしの率直な感想は、

「理由が…いるか?」

でした。

 

 

 

 

なんというか。

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。

 

 

そんなものは全然「通って」いなくとも、

 

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

 

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)

 

 

 

 

 

 

 

知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。

 

 

「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」

 

 

 

 

ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)

 

 

 

で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

 

「では、自分で再度見つけるしかないか」

 

と。

 

もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、

 

 

 

 

と思ったのだそう。

そのためには知識が必要。

 

 

 

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。

 

 

 

それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)

 

 

 

とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)

 

 

 

 

 

わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

 

 

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

 

 

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。

 

 

 

 

 

先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)

 

 

の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。

 

 

 

 

そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。

 

 

 

 

たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

 

 

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)

 

 

生きる人になってほしいと思ったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、

 

子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)

 

 

 

 

 

 

※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍

 

 

 

 

この地球上に、誰一人として「同じ人」はいないと改めて実感する。 例え同じことをやったとしても、全く違うものが出来上がるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウエディングプロデュースの会社にいた頃の話なんですが。
当時流行り始めていた「人前挙式」の台本を、
近隣のホテルの婚礼担当の人たちがもらいに来ていたのです。

 

「どんな風にやるのですか?」
「進行台本を下さい」

と。

 

 

 

 

 

わたしのいたプロデュース会社の社長の方針は、
「惜しげなく、全て与える(空いた空間に、また新しいものが入ってくるのだから)」。

 

 

 

 

同地域のホテルの方々にも、台本や、
その際に使う革のフランス製(だったかな?忘れた)のかっこいい署名シートや…

そんなものを全て。

 

つまり「挙式を美しく、厳かに、新郎新婦とご列席の方々、全ての心に
一生残る最高の時間と空間になるための演出を」

惜しげなくお伝えしていたと記憶している。
(今考えても本当にすごいな、と思う)

 

 

 

 

 

 

で。
いつだったか。

プロデューサーを辞めてからだったかもしれないんですが、
「見た」のですよね。どこかの式場で。

とてもそっくりな台本と進行で人前挙式をやっているところを。
その時、ちょっとびっくりしながら思ったのです。

 

「同じものをやっても、こんなにも違うものなのか」

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてこのことを思いだしたかというと、
知人がこの度、新しいことを学ぶことになりまして。

 

で、その方が、ちらっと、
「他にもやっている人はいるし、もっと早くから取り組んで、もはや形になっている人もいる。
けれど…『どうせ自分は』と言ってしまうのはもったいない」

 

 

と。
ほんとうに、その通り!(どうせなんて思う必要なし)

 

 

 

 

「これまでに様々な体験をして、いま、この瞬間にいる、という、
その『これまでの体験』込みですごいと言いますか。

あなたが今後、されることは、
それ単独ではなく、これまでのあなたの『すべて』の上に乗っかって、
構築され、これまでの全てと渾然一体となって、
ますますあなたならではの『価値』を発揮していくことになると思います」

 

 

 

とメールを送ったのですが。

 

 

 

 

 

 

世の中の1000人が1000人、同じことをしたとしても。
この世の中に形となって現れるものは全部違う。
元は同じ水でも、あなたという「地層」を通って、
唯一無二、その人だけの「ミネラル含有の水」になって滲み出てくる。

 

 

子供のころの記憶。身体に刻まれた体験。
やってきた仕事。
喜び、悲しみ。
何度となく味わってきた心震える感動の瞬間
本当の望み
そして、何より「それ」を通して、どんな思いを表現したいのか

 

全て、みんな違う。

 

 

 

 

 

こんなにも違うのに、
その「唯一無二」の「そのあなた」を通して出てくるもの、
この世界に表出されるものが、ありきたりなものであるわけがない。
そんなことあるわけがない。
そして、この世界には、

 

 

「そこがいい!」
「あなたのそれこそがツボにハマる」

 

 

 

という人たちが必ずいる。
そういう人たちと出会うことになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

例え万人「そのこと」をやっている人がいたとして、
神様は、「あなたに」「あなたの方法で」
表現してほしいのだ。
発信して欲しいのだ。

だからこそ、神様はこんなにもたくさん人間を作った。

 

 

 

 

 

 

 

 

早いもので、今年もあと少し。
2023年、何かを始めようと、少しドキドキしながら動きだしている「あなた」。
よろしければこの言葉、心の中にinしてお進みください。
(心から応援しています)

 

 

 

 

 

生きるために不可欠だったのに、ほとんどの人が十分には与えられなかったもの。 そして、満たされるまで一生追い求めてしまうものー『ニーズ』の話

 

 

 

クライアントさんから「卒乳」の話を聞いて、いたく感動したのです。

 

 

 

「今日は息子の卒乳開始日です」

の言葉とともに、その様子が綴られた文章が。

 

 

 

 

 

前々から丁寧に丁寧に、息子さんと時間を過ごし、言葉かけをし、思いも話し…

と、入念に準備をしてきたらしく、いよいよその日。

 

 

 

 

「先ほど、『最後のおっぱいねー』と、

息子とおっぱいタイムを過ごしました。

 

おっぱいバイバイできる?

と聞くと、

できる、

と言ってくれました。

 

 

 

そして、

あ~っ(ぷはーっ)

たくさん飲んだよー

とおっぱいを離してくれました」

 

 

 

 

 

それを読んで、

先も書きましたがしみじみと感動してしまい。

 

 

 

「ああ、これなんだなあ」

 

 

 

十分に、存分に味わって、飽きるまで味わって、

そして降り注ぐ愛の中で卒業し、

次のステップへ行くのが当たり前なのだ。

 

 

 

 

 

でも、大体みんな、まだまだ欲しいのに、十分に与えられないまま

「引き剥がされて」心の中で泣き叫びながら、

「次へ」行かざるを得ない。

「大人に(時間的なものだけ)」なってゆかざるを得ない。

 

 

 

おっぱいのことだけではありません。

いろいろな場面、感情について、のことです。

 

 

わたしたちは、子どもの頃、自分が欲しいほどには存分に与えられず、

大人になっていく。

そういうものを「ニーズ」というのだ、とコーチングと出会った初期の頃に学びました。

 

 

 

●ニーズ

=生きていく上で、とても必要なものだったのに思うほどに満たされなかったもの。

無意識のうちに、満たされるまでつい追い求めてしまうもの。

(赤ちゃんがミルクを求めて泣き続けるように)

だいたいその根っこは「安心」「承認」「関心を持たれる」「愛」などに帰着する。

 

 

 

 

 

 

大なり小なり、みな、なんらかの「ニーズ」が心の中にあって、

胸の中で疼く瞬間があるのではないでしょうか。

わたしもよく。

 

 

何かに羨ましさを覚える瞬間。

自分が低いものに思える瞬間。

多くのものを手に入れなければ、と焦燥感にジリジリと炙られる瞬間。

 

 

 

 

 

「わたしたちは、なにかしらかみな、「ニーズ」を抱えて生きている」。

 

 

考えてみれば、当たり前のことで、

わたしたちの親自体が、ニーズを抱えていたわけです。

親自体も、「十分に与えられる」ことなく大人になってきた。

その親も。

またその親も。

(ずっと続く、ニーズの連鎖、負の文化的遺伝子、なのです)

 

 

 

ですので、どこかでそれを終わらせなければなりません。

そう、わたしたちで、終わらせなければなりません。

次へそれを渡してしまってはいけないのです。

(と、わたし自身、ずっと思いつつ生きてはいるのですけれどね)

 

 

 

 

 

では、その「ニーズ」をどうやって満たすか、なのですが。基本、自分で満たすしかない。

 

色々やってみたのですけどね。

人に満たしてもらおうとしたり。

まだ、ニーズという言葉を知らない20代の頃、結果的にそういうことをしてしまっていたなあ…

と思います。けれど、他人のそんなものを背負い切れる人は、

どんなに親しい人でも、存在しない。

 

 

 

 

 

 

 

では、ここから、ニーズの満たし方です。

 

 

①自分は「ニーズ」を持っている、と認める。

(注目してほしい、認めて欲しい、愛して欲しい、などなど…自分の中でそういう感情が湧き上がった時に、

「これはニーズだ」「今、自分の中でニーズが荒れている」と認める)

 

 

②それにOKを出す。

(いいよいいよ、まあしょうがないよね、とそれを受け入れる。

「ないこと」には絶対にできません。一時的に押さえ込んでも、ますます「ニーズ」は荒れ狂います)

 

 

③満たす。

1)自分で自分に声をかける。

(欲しかったよね、悲しかったよね、等)

 

2)自分を満たす行動をする。

(好きなことを、やりたいことをする。心地よい環境に自分を置く、等)

 

3)満たしてもらえるよう、他者にリクエストする。

(褒めて欲しい、ねぎらって欲しい、スキンシップをとって欲しい、等、伝える)

 

 

 

 

③の3)はとても効果的なので、ぜひやって欲しいのですが、注意が必要です。

「自分は今、こういう状態なので、それが欲しい。なのでこうして欲しいのだ」と、

しっかりと「リクエストする」ことが大切です。

 

 

 

これをせずに、

(しっかりと相手にオーダーせずに)

欲しいものだけをなんとか掠め取ろうとしてしまうことが結構多いのですよね。

 

 

 

そんなものには全く関心のないふりをして、その実、人から奪おうとする。

(よくある「マウントを取る」と言われる行為などはこの最たるものでしょうか)

 

 

 

以前とある本で、そういう行為をハワイでは「ゴキブリする」というのだ、

と読んだことがあります。

 

 

 

 

以前は「伝えること」が苦手で、

思わせぶりな態度を取ってみたり、意味なく不機嫌になってみたりと、

身近な人から「ゴキブリする」行為をわたし自身、していたように思うのですが、

今はさすがに、だいぶ「ニーズ」を満たす方へ転換することができるようになりました。

(褒めて欲しいので、この話をします。みんな褒めてね!自慢するね!と言えるようになった)

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、「感動の卒乳」の話から

「ニーズを満たす」ことについて書いてみました。

 

 

 

 

誰にでもあるもの。

人生において、それが満たされるまで追い求めてしまうもの。

 

 

幾つであっても、どんな立場の人であっても、奥底に「ニーズ」が存在する。

それが時に、その人の意識や「真の願い」に反した言動につながってしまうことがある。

様々な人の話を聞いてきて、そんな場面を多々見、体験してきました。

 

 

 

 

 

自分自身のために。

そして、周囲の大切な人たちのためにも。

自身の人生、全ての場面の「土台」として、全ての人が、見返し、整えるに足る大切な部分です。

 

 

 

「変わった」んじゃない。元々持っていた「力と輝き」にやっとアクセスできたのだ

 
 
 
 
 
 
研修やセッションをやっていて、
 
「すごいですね。(受講者が)変わりましたね!全然違いますね(はじまった時と)」
 
と言われたりしたとき。
そういうのって「殺し文句」と言いいますか、
ついつい「ですよねえ!(喜)」と
嬉しくなってしまう危うい瞬間ではあるんですが、
 
 
「変わった」のではなく、「もともと持っていた力が発動し始めた」
 
 
という言葉が本当なのです。
(そもそも、人を変えることはできない)
 
 
 
わたしのクライアントさんで、
自身のクライアントさんがその「劇的な変化」を起こしたという方が
喜びの報告をくださったんで、
わたしも嬉しくて、盛り上がって返事を書きました。
 
 
 
 
 
『その人を変えたのはあなたです。
 
いえ、本当は「変えた」という言葉は当たらず、(人を変えることはできないので)
 
その人の中にある「力、輝き」。
そこを揺さぶって、共鳴を起こして、目覚めさせ、引き出したのは、
と申しましょうか。
 
 
 
すごいです。本当に。
 
そこを揺さぶるには、自分の「それ」をそちらへ向けて、思いっきり投入し、
まずは自分自身を「振動させ」「鳴らす」しかないのですよね。
 
 
相手に振動が伝わるには、その何倍もの熱量が必要です。
それは、決して、言葉のみでは成し得ることではない。
 
 
 
 
 
 
 
まさに音叉と同じです。共鳴現象。
 
あなたは、それをやってのけたのです。
これが、どれだけ尊いことであることか…。
 
 
 
そう。
すごいね!目標達成やったね!ももちろんなのですが、それを超えて「尊い」ことなのです。
 
 
 
人が、その人の最も強く美しい本来の響きを奏で出す。
これほど美しくて感動する瞬間があるでしょうか。
 
 
 
 
 
 
これからは、
相手の中にある「本来の力(響き)」を信じ、揺り動かし、
その人が、自分でそこにアクセスできるよう「回路を開く」手助けができる…
 
そんな力とエネルギーと、思いを持った人が活躍していく、
そう心から思います』
 
 
 
 
 
 
 
最後のところが本当に恋願うところで、
特に、教育現場などには、こういう人が増えてほしい、と(それができていなかった自分を思い出しつつ)
 
 
願う次第なのです。
 
 
 
 
 
 

話を聞こうよ、とりあえず!(それだけでいいからさ)

 

 

 

 

コーチングを始めた頃。

住んでいた場所もあってか、クライアントさんにアーティストさんが多かった。

踊る人に作る人、等々。

 

 

 

 

で、今また、先々週から1年ぶりに、

その頃からのクライアントさんのセッションをしている。
(大きなプロジェクトがあるときなどに、定期的にお声がかかる)

 

 

 

この方はダンサーさんで、
当時はご自分のダンススクールを主催されていた。

 

 

 

 

 

 

それから幾星霜(笑)
話を聞きながら
「変わらずすごいエネルギーだなあ」と。

 

 

 

とにかく、このエネルギーが途中で止まらないよう、
私は、聞いて聞いて聞きまくる。
溢れながら、どんどん太く、深く、この方が「自分自身」とつながっていく
その「回路」を、確保し続ける。

 

 

 

 

 

 

「出すだけ出して」
軸(方向)をはっきりさせて、
事柄を並べて、
優先順位をつけて、
整理する。

 

 

 

そのプロセスを手伝う、というのが役割。

 

 

 

 

 

 

 

で、先週。
ふと昔話が出た際、
(なんだかんだで長いですよね、と)

 

 

 

「公子さんが一番話せるんです。
わたしは『何言ってるの?』『できるわけない』というエネルギーが
本当にだめで。
伝わってくると詰まってしまう。パタンと閉じてしまう」

 

 

 

 

 

 

自慢ではなく。
その時、何に驚いたかって、

 

 

 

 

この方と出会ってから16年。
未だ厳密な意味で、本当の意味で
「語れる」のがわたしだけなのか⁉︎

ということに軽い驚愕を覚えたわけなのです。

 

 

 

 

 

人がいかに、
「掛け値無しの、聞き手」
=自分のエネルギーがどんどん溢れるような状態の場、

を求めているのか。
なのに出会っていないという…
それがある意味、とても腹立たしく(笑)。

 

 

 

 

 

 

ということで、今日は改めて言いたいわけです。

 

 

 

「とにかく、聞こうよ。目の前の大切な人の話をさ!」

 

 

 

それによって。

 

 

 

 

どれだけ「ひらく」人がいることだろう。
どれだけ「自分の源泉」とつながれる人がいるだろう。
どれだけ、前へ進める人がいるだろう。
どれだけ自信を持てる人がいるだろう。
どれだけ、本当に自分を愛せる人が育つだろう。
(いつも言いますが、これこそが「一生の財産」「真の生きるスキル」)

 

 

 

 

 

 

 

 

この方は、ただいま日本全国行脚の旅の準備中で、
それは、

「聖地への奉納舞の旅」

 

なのだそう。
各地の神社で、もはや粛々と始まっている。

 

(日本における
土地と、人と、祭り(=祀り・奉り)の関係・効果については、
わたしも大いに語りたいところですが、また後日)

 

 

 

 

 

 

 

初めて会った時、
この方の踊りに「アメノウズメ」を見たわたしなので、
(それはもう、太古の天岩戸にどかんとタイムスリップしたような氣分になりましたよ。
今でも思い出します)

 

このプロジェクトも、いともストンと腑に落ちつつ。

 

 

 

 

「共有」
「共振」
「増幅」
そして
「俯瞰」

 

 

 

の役割を通して、
いくばくかなりとでもお役に立てればと思っているところです。

 

 

 

 

「掛け値なしの、この人が、溢れる。

溢れて広がるその先に、

変化を起こす人、場所、地域、土地が必ずある。

それが起こる」

 

 

 

 

 

それを「知っている」のが、

究極私たちのような仕事の者の役割かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/nagatuki

【コーチング・秋の特別体験セッションー「チーム自分」のつながりを強固にする】

 

 

 

 

 

 

家族の幸せのために何を?-その人は日本の歴史を学び直すことを選んだ

 

 

 

 

 

少し前、

「松平家のお片づけ」

という本を読んでいました。

(松平家、というのは徳川家の元々の家系、ですね)

著者、松平洋史子(よしこ)さんが子どもの頃のこと。
年末に自分の持ち物を全て点検し、いらないものはお手伝いさんが処分する、
ということを毎年やっていたのだそう。

で、よしこさんは、ある年、間違って国語の教科書(だったかな?)
を「いらない」方に仕分けしてしまった。

お手伝いさんはそれを処分し、
そして3学期。

教科書は当然、ない。

よしこさんは「忘れました」と言ってその場をしのいだそう。
けれど、それも何回もは通用せず。

先生はやがて、家に連絡をした。

すると、よしこさんのお母さまだったかお祖母様だったか
(ちょっと忘れましたが)
が言った。

「娘の判断ミスです。
本人に責任を取らせてください。
教科書は書き写させてください」

すごい…。
腹が据わっている。

自分の持ち物について考える。
年に一回、総ざらえして見直す。

自分の部屋という限られたスペースの中で、
何を手元に残し、何を手放すのか。
(松平家では、収納棚を安易に増やす、ということは
許されなかったらしい)

それは、
自分はこの一年、どう過ごすのか。

まさに、「自分」について考える、ということです。
自分の生活を(人生を)「プランニング」をする、ということです。
しかも、毎回毎回真剣勝負^^ 

何を書きたいかというと、
上記のような視点が、子どもの頃から自然と息づいていたということ。

この価値観を土台とした「思考と行動の訓練」が、
子どもの頃から自然と行き届いていた、ということ。

さらには、多分「松平家」という場所だから、
特に残ってきたのであって、
日本人、どの家も昔はそれが「普通」であったのではないか、ということ。

「断捨離」
「ときめくお片づけ」

それらをことさら言葉にしなくても、
それは日本人として、当たり前にできていたことだったのではないか?
ということ。

今日のタイトルは、私のクライアントさんのことです。
この方とのコーチングセッションはもうすぐ10年。

お子さんも増え、
そして、
緻密な努力と不断の工夫を続けてこられたお仕事も順調。
(そのプロセスをずっと私は見、聞き続けてきたわけですが)

たくさんの自由な時間を生み出すに至っていらっしゃる。

その、生み出した自由な時間で、クライアントさんが選んだ一つが
「日本の歴史を学び直すこと」
だったのです。

教科書に書かれていたものではない、
より本質の情報を学ぶため、有料受講なさっている。

「寄って立つもの」を。
「自分たちの中に流れているはずのもの」
を学び直したいのだ、

と、
一言でいうと、そういうことなのかなと。
(そういう言い方はなさいませんが)

子どもに、何を伝えればいいか?
子どもに、何を身につけて大人になってほしいか?

皆さんは、どうですか?
何を思い浮かべますか?

「必要とされる能力」

なんてものは、
時とともにどんどん変わっています。
例えば私たちが子どもの頃から、いまに至るまでの指導要領の移り変わり。

今は、「AI台頭」を前にまた色々と言っている。

何が正しいのか?
何にすがればいいのか?
どうすれば「幸せ」になれるのか?
(そもそも幸せとは何か、ですが)

大量のネズミが
あっちへだ〜っ、こっちへだ〜っと移動するように、
目先の旗に踊らされて右往左往してきたのが、多分この七十数年の私たち。
では、なぜ右往左往しているのか?

それは、私たちが、日本人としての「水脈」と。
「通奏低音」とのつながりを絶たれているから、なのではないか、と思うのです。
それを知らないから。

繰り返します。

私たちにとって、「美しい」のは何か?どんな価値観か?
本来何が私たちに「合って」いるのか?

この細長い島国で。
豊かに変化する四季の中で。

西欧文化とは明らかに違う、世界でも特殊な脳の機能を作り上げてしまう
「日本語」という言語を使って、
2000年以上にわたって営々と歴史と文化を紡いできたのが私たちです。

(詳しくはこちら)
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12292650593.html?frm=theme

自分の子どもたちの心身の中に、脈々と流すもの。
遺すもの。
つなげるもの。

将来、
意識や思考を超えた、
最も深い部分で、彼らの人生を導き、方向付ける「在り方」として、
私のクライアントさんは、

「お天道様が見ている」

に代表される、「日本人」としての在り方、を選んだのだろう、
と思います。
何かあった時に
「寄って立つ」在り方として。

これは、私のクライアントさんのお話なのですが。
改めて、
あなたは、何を残しますか?何を伝えますか?

それを考えるということは、
つまり、自分自身の人生をどう使うかを自分自身に問う、
ということなのです。

 

「天から降りてくる糸は、自分でいかようにも太くできる」

 

 

 

 

レンコンが好きなもので

数日前の「ためしてガッテン」のレンコン特集、

録画して、前のめりでみました。

その中に、ミャンマーの「蓮の糸の織物」が出てきました。

 

ミャンマーでは、レンコンの栽培は盛んだが、レンコン自体は食べない。

葉っぱから糸を取って、織物にする。

その糸の、細く、繊細で、きれいなこと。

 

 

 

 

と。

その美しい糸のイメージもさめやらぬ昨日。

クライアントさんと話していたら、またもや糸の話が。

前記事のクライアントさんと同一の方です。難関突破で見事望む仕事に就いた方)

 

 

 

 

 

「どうしても、公子さんに言いたいことがあるんです。

はじめ、私の前に降りてきたのは

本当に細い糸でした。

いつ、プツン…と切れてもおかしくない。

『その糸はつかんでもムリ』とも言われ。

そんな中で、その糸をともかくつかんでみよう、と思えたのが不思議なくらいでした。

でも…」

 

 

 

 

それでもつかんでみよう、と

そこにこそ縁を感じますねえ…

と思いつつ。

でも?

 

 

 

 

「そのことについてセッションで話をして

そして、他にもたくさんの人に話をして…

そうするうちに、どんどん糸が太くなっていった氣がするんです」

 

 

 

話すことを通して、

自分の中に浮かぶ夾雑物をの正体を見、手放し。

さらに

自分のリソースを見つけ、糸の先にある未来をイメージし。

それははからずも、どんどん糸に自分の意識を=エネルギーを向けて、注ぎ込むこと

ということだった、ということなんでしょう。

もちろんプラスの。

 

そして、「なんであれ、エネルギーを向けたところのものが大きくなる」は自然の摂理。

 

 

 

 

 

 

ふと、美しい蓮の池のイメージが浮かびました。

そこから、キラキラ光る蓮の糸が地上へ向けて降りてゆく。

その糸に、クライアントさんが手を伸ばす。

そして、満面の笑みで糸を撚っていくんです。自分の手で。

それはそれは楽しそうに。

キラキラと光りながら、糸はどんどん太くなっていく。

もう、完全に綱引きの綱みたいになっている。

 

 

 

 

 

 

 

公子さんは、若い方々のセミナーもしてらっしゃるから、と。

とその方は言いました。

伝えてほしいのだ、と。

「あなたの前のその糸は、自分でいかようにも太くすることができる」

と。

「糸は切れる」

「その糸はつかんでもムリ」

というのは、本当にあなた自身の考えなのか?

ともおっしゃっていましたか。

 

 

 

 

 

 

 

 

お釈迦様が蓮の池から降ろしたのは蜘蛛の糸でしたが。

 

 

わたしたちは、

糸を選べる。

糸を太くする方法を知っている。

なんと自由自在な。

なんと幸せな時代に生まれたことだろう、

とそんな感想を抱きました。

 

 

 

 

 

 

◆―そろそろ自分の聲と言葉で世界に向けて語りだそう―

 

アーカイブ
Copyright © Communication Works All Rights Reserved.