彼女は「他者の可能性を引き出す者」としての身体を手に入れた

 

 

 

最近アニメをよく見るので、YouTubeにこんなゲームの宣伝が入ってきます。

「吹き抜けろ、僕らの音楽──

生徒と奏でる青春育成ゲーム『ウインドボーイズ!』

吹奏楽部の顧問になって生徒たちと青春の日々を過ごそう!」

https://windboys.jp

 

きらっきらの男子高校生26名と関係性を構築し、コンクール優勝を目指す乙女ゲーム。

 

…友達の音楽教師に教えてあげようと思う。

(せめてここで夢を見てね☺と)

 

 

 

 

吹奏楽部の顧問の先生たちをいろいろ見てきたけど…もう大変なところしか見たことが、ない。

 

朝は早くて、昼休みなし。夜は一番遅く、暗くなってから鍵をかけて学校を出る。

盆も正月もない。みんな命かけていた気が。

 

しかも、どっちかというと構成メンバーは女子が多い。

(なので、なんやかんやといらぬ心配(人間関係)も出来する)

 

 

 

 

思い出すのは一人の先生。

 

 

その先生がやってきたのは定例の4月だったか覚えていないのです。

 

 

はっきりと覚えているのは、多分「初赴任、初先生」の学校だったのだということ。

挨拶のために職員室の前に立ったそのやや内股な立ち姿を見た時、

 

「リカちゃん人形がやってきた!」(皮肉じゃないです)

 

と感嘆したくらいに、目が大きくて、可愛らしくて華奢だったこと。

 

 

 

彼女は音楽科(ピアノ専門だったか?)だったので、

自然と吹奏楽部の顧問になった。

そして…

 

 

 

その学校は、もともと吹奏楽が強かった。前顧問の影響力も大。

そんな中、生徒たちの信頼を得て部を統率することが、いかに困難だったか、想像に難くない。

 

(確か「音楽室、生徒鍵しめ事件」

なんてものもあった気が。部員たちが籠城したんだったか。記憶がはっきりしないのだけど)

 

 

 

 

 

そんな話を漏れ聞きつつ、夏休みの明けた、9月1日。

 

 

 

集会の後、そのまま吹奏楽部の壮行会が行われ。

 

全校生徒と先生たちの見守る中、彼女は指揮台に立った。

そして、指揮棒を構えた。

その瞬間、

 

 

 

 

「ゾワっ…」

 

 

 

体育館の空気が一変した。確かに。

彼女の背中から、何か出ている…。

 

 

 

確か彼女、指揮未経験。

 

けれど、立ち方から何から、全てが違う。

完全な別人。

もう、何か降りてきている、としか思えない。

 

 

 

あごをくいっと持ち上げ、すっと水平に上げた両の腕と、

真っ直ぐに立ち上がった背中のラインとの間に出来た空間の、なんと深くて優雅なこと。

 

 

 

 

自分の拡げた身体のうちに、部員と全ての楽器を内包し、彼女は「場をしっかりとホールド」して立っていた。

 

 

 

 

 

今でもはっきりと、その美しい後ろ姿を思い出すのです。

 

 

 

結局、曲が終わるまでの間、わたしは彼女の指揮に釘付けだったわけですが、

彼女の指揮に心動かされたのはもちろんわたしだけではなく、

隣にいた50代の丸っこいおじちゃんたち(先生です)が、

 

 

 

「指揮っち言うのは、あげんかっこよかもんやったんやなあ〜」

 

 

 

と、囁き合っているのを確かに聞き。

 

 

 

 

わずか数ヶ月。ここまで「変容した」彼女を思いました。

 

「指揮は生徒に習いました」

 

と笑っていたけれど。

本当にもう、軽く言葉で書くことなんかできない時間があったんだろう。

 

 

 

 

知識は誰だって容易に手に入る。

 

それをいくらだって「言うことが」できる。

でも、人はそれだけではついてこない。人はそれだけでは心を開かない。言葉を受け取らない。

最も大切な、

 

 

「教師としての身体」。

 

 

教員だけではない。

 

「学び・成長の場を創り」「人が共振しあう場を創り」「人の中からその人の最高を引き出す」

 

ことをやる人間ならば、必ず備えていなければならない、

 

 

「技化された身体状態」

 

 

を彼女は恐ろしい勢いで、開発せざるを得なかったのだ、と思った。そして、それをやった。

「指揮をする」ということは、そう言うことだから。

 

そして、忘れてはならないのは、「身体と精神はつながっている」。

 

 

 

吹奏楽にまつわる思い出の中でもひときわ美しい思い出です。

 

今でも吹奏楽は大好きですが、それは、沢山の聞き覚えた音楽の向こうに、

 

 

「成長するのに、先生も生徒もない。ただ、真剣な場と、そこに向き合う真剣な大人がいればいい」

 

 

 

というたくさんの実例を、いろんな人たちの「変容していく顔と姿」を、

リアルに思い出すからかもしれません。

 

 

 

 

その差は「つながりを作る力」の差ー炭治郎と鬼たち

 

 

 

鬼滅の刃の「鼓屋敷編」「那田蜘蛛山編」を見て思ったのだけど。

 

 

 

 

炭治郎の力の源。

いざ、という時に危機を切り抜ける、その力は一言で言うと

 

「つながりの力」

 

がもたらすものだな、と。

 

 

決して万能ではなく、ヒーローでなく、

切れば血のでる身体を持ち、「努力の人」以外の何者でもない炭治郎が

持っている能力を何かこう、超えて「力」を発揮するとき、

 

炭治郎の背後には、家族をはじめ、

今はいないけれど彼を支えている人たちの存在があり、

彼も、そこへの思いを原動力に力を発揮する。

 

 

 

 

 

 

 

かえって。

「鬼」というのは、

「つながりをつくれなかった(つくることに失敗した)人たち」

ではないか、とも思うのだ。

 

 

鼓屋敷の鬼は、

自分の書く小説を否定されて、

つまりは、

「自分が世界と関わるために

(自分が自分であると世界に向けて表現するために)

一番大切にしていた部分」

を失ってしまった。

 

 

もちろん、否定の言葉を受け取らない選択肢もあったろうけれど、

彼にはそれができなかった。

(もしあれが炭治郎だったら、きっと受け取らなかったろうとも思うのだ)

 

 

 

 

 

那田蜘蛛山の鬼は

親から受け入れられていないと思い込んで、

親を殺してしまった鬼。

そして、「本物の絆」とやらを探して、無理矢理に恐怖で周囲を従わせて

「家族ごっこ」をしている。

それでも孤独は埋まらず、ますます残忍な支配に走る。

 

 

 

 

 

 

世界が自分に背を向けている、と感じたとき。

心が折れてしまったと思ったときに。

 

人をこの世界に(人間に)とどめるものは何か。

(「鬼」を呼び込むことなく)

 

 

 

 

この世界を生きるわたし達に、

炭治郎のような身体的な危機は訪れないが、

心の危機はいつでも容易に訪れる。

 

現実世界に鬼舞辻無惨はいないけれど、

誰でも、ちょっとしたきっかけで、容易に「鬼」になってしまえるのだ、とも思う。

そんな危うい瞬間に、人をこの世界に繋ぎ止めるものは何か。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を慰撫し、癒す力。

「いろいろあるけれど。そして、こんな小さな(どうしようもない)

自分ではあるけれど、それでも明日も生きてみよう」

 

 

 

 

と、踏みとどまらせる力。

それは、「つながりの力」しかない。

それでしかあり得ない、と思うのだ。

 

 

「自分はつながっている」というしっかりとした感覚。

家族、友達、自然…形あるもの、ないもの、なんだっていい。

自分が生まれ落ちたこの世界との絆。

 

 

 

 

善逸も伊之助も。

彼らの人生の中での、数は少ないけれど、涙が出るほど大切な関係性が、

実は彼らを生かしていることが丁寧に描かれる。

 

 

 

 

けれど、鬼たちには、人生において残念ながら「それ」がなかった。

気づけなかった。

鬼と炭治郎(&禰豆子)を分けたものは、

ただそれだけにも思えるのだ。

 

 

 

 

炭治郎は、その素直な心根で今日も「つながり」を作り続ける。

彼はそれが持つ力に微塵の疑いも持たない。

 

 

 

 

 

 

 

日本のアニメが世界の子どもに与えたよい影響、という記事を昔、読んだことがある。

「信頼」「仲間」「つながり」「違う個性同士の協力」といったものが、

根底のパターンとしてある、と。

それは、欧米のものとは少し違うらしい。

 

「日本のアニメを見て育った世界の子達の心にそれらの価値観が染み込んでいく。

それは世界平和に貢献しているのではないだろうか」

 

と言った内容だった気がする。

 

 

 

 

 

 

鬼滅の刃の世界観は徹底的に「残酷」。

人は惨殺され、鬼はどこまでもこれでもかというくらいに気持ち悪い。

 

 

炭治郎の人生も、お話にならないくらい可哀想で、過酷なものだが、

それでも描かれるのは彼の太陽のような心であり、

彼が醸し出す「泣きたくなるような優しい音」であり、

倒すべき鬼にまで向けられる彼の慈愛の情だ。

 

 

 

 

 

 

 

壮大なるメタファー。

それはこの「変わりつつある世界」をこれから長く生きていく子どもたちへの

「贈り物」なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

炭治郎の瞳に、声音に、笑顔に、言葉に。

大袈裟だけれど、わたしは希望を見る。

 

 

 

近づき、ふれあい、手を取って、大声で笑い合う。

天を仰ぎ、思いっきり呼吸する。

 

そんな、人として生きるに最も必要不可欠な

「つながりを欲する」自然な欲求すら抑えられ、

成長を強いられた世代として大人にならざるを得ないかもしれない。

 

それが、身体に、精神に、彼らの無意識にどんな影響を与えているか、

今、この時点では誰にもわからない。

はかることすらできない。

 

 

 

 

そんな「かつてない(誰にも予想できない)世界」を、

これから生き続けなければならない子どもたちの無意識に。

 

 

 

 

どんなに過酷でも、人は潰れない。

人の心の力はそんなものではない。

そう、

「今日も、これからも、折れていても、挫けることは絶対にない!」

と。

 

 

人は、

何があっても、どんな状況であっても、

前を向いて生き続けることができる。

人を愛して、最善に向かって生きることができるのだと。

 

 

鬼滅の刃という世界観は、

全身全霊で、そう大声で叫んでいるように思える。

 

 

 

 

 

 

 

答えは外からは与えられない。

力はいつも、自分の中にその源がある。

 

 

しっかりと呼吸をするのだ。

呼吸はウチと外(自分と世界)をつなぐ。

 

「全集中」で。

自分の身体を取り戻せ。

自分の軸を取り戻せ。

世界とのつながりを取り戻せ。

 

 

 

 

そして、

「前へ。前へ。進め」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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