「よくも断じたまへるものかな」という龍馬の言葉を思い出した日

 

 

という言葉は(タイトルの)

徳川慶喜が大政奉還をした際に、龍馬が慶喜に対して言った言葉、らしいんですが。

 

 

知り合いがPTA活動や地域の活動に尽力していることは
結構前からFacebookでおりに触れ見ていたのだけど、その知り合いから、
「市議を目指しているので、よかったら応援してください」
のメッセージが来たときに、
頭の中にぽやん…と浮かんだのは、

 

「…かくすればかくなるものと知りながら…」

ご存知の通り、吉田松陰の歌で、
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
(こうすればこうなるとはわかっているけれど、やむにやまれぬ思いが私を突き動かすのだ)

 

 

 

議員になるとは、
わたしのイメージは「盆も正月もない24時間の仕事」。
自分の全人的なもの、
全てをかけて取り組まねばならない仕事であって、

 

本人だけでなく、
家族全員の在り方も全方位に向けて問われる。
そんなものはもはや「仕事」という言葉でくくれるものではない。

なので、

 

「ああ、本当に、やむにやまれぬ思いがあってのことなのだな」

 

と素直に思ったのでした。
そして、次に浮かんできた言葉が、タイトルの言葉だったわけです。

 

 

 

知り合いは、きっと「やるだけやった」んだろう。
自分の立場で、学校と、教育と、子どもを育むべき地域に関わって、
やるだけやって、
そして最終的に選んだ道なのだろう、
と。

 

 

 

ちなみに。
知り合いが「市議を目指したい」と言ったときに、
2つの反応があったそうで。

 

一つはわたしと同じ。
「よくも断じ給へるものかな」
な反応。

 

もう一つは、
「いいねー。当選したら何にもしなくてもお金入ってきて生きていけるもんね」
的な反応。

 

それを聞いて、改めて驚いたんですが。
(へええ〜😳❗️と)

 

 

 

さて。
「よくも断じ給へるものかな」。

 

誰の胸の中にも、
今の世の中への憤り、
「ああ、もっとこうであったら」
「人が自然に、健やかに、ただ幸せであれる状態はどこにある?」

 

(そうであれば、これからこの世界を生きていく若い子達に、
「どうだ、生きるって素晴らしいんだぞ!」といろんなものをもっと胸張って手渡せるだろうに)

という思いがあると思います。

 

 

 

そんな中。
自分には出ようもない勇氣の選択をした人に対して。
「すごいよね」
「頑張って」
という素直な感嘆の気持ちがこの文章を書かせているわけなのですが。

 

 

そして、その「思い」が実をむすんで欲しい。
勇氣を出して、無私の心を持って「断じた」人たちが、
その使命を全うできる場へと、
願わくば運んでゆかれますようにと、
これも素直に願っているところです。

 

 

直接仕事とは関係ないのですが、ふと浮かんだので書いて見ました。

 

 

 

(写真は仙巌園からの山桜。
この季節に思い出す歌といえば、

 

「敷島の やまとごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」

 

というのもありますね。本居宣長。

 

ーわたしの中にある日本人の心とは?と問われたら、
それは朝日に美しく輝く山桜に感じ入るような心、だろうかー

というような意味)

 

「どうする家康」。時代考証グッジョブ!(ナンバ走りに萌えた夜)

 

 

 

 

 

 

昨日の「どうする家康」。

女の子(阿月ちゃん)爆走の回。

 

 

 

時代もので走る場面で、100M走の走り(現代の走り方)で
思いっきり全力疾走するのがいつも違和感だったのですが、
昨日はちゃんと「ナンバ走り」でした♪

 

(手を身体の横で上げ下げして、変な走り方だなあと思った人も多いのでは。

ちなみにあれが本当にそのまんま、当時の通りなのか、

もちろんわたしにはわからないのですが)

 

 

 

 

 

 

以前、この「ナンバ走り指導」の方の動画を見て
「ナンバ走り」を習得しようとしたことがあるんですが、なかなか難しくて。
(ナンバの動きを日々の動きに取り入れられると身体が楽で効率的、と聞き)

 

 

 

 

 

 

 

 

(動画はこちら)

https://www.youtube.com/watch?v=G29X8CBlzBs

 

 

 

 

昨日、確かにこの走りでしたよね。

 

 

 

 

子どもたちも、役者さんも頑張ってたなあと。
(こういう細かい考証が地味に嬉しい)

 

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

「日本に「西洋の動き」(運動・体育)が入ってきたのは、
幕末。
幕府によるフランス軍事顧問団の招聘による。

 

 

 

 

明治以前、日本人には
身体と心を分けるという概念がなかった。
(「カラダ」は死体のことで、
生きているこの身体は「み(身)」と言った。

 

 

 

それから約160年。
生活様式の変化とともに、わたしたち日本人は
「日本人の伝統的身体」「身体技術」
というべきものを忘れ去りつつある。

 

 

そして、
身体は「もの」として扱われ、
「ここを5センチ細く」
と…
自分の身体をモノとして
(商品のように)
「評価する」ようになった。

 

 

 

 

身体と心、精神はつながっている。
身体技術が受け継がれないと、
精神も受け継がれない。
(それを「感じたことがない」「感じられない」わけなので、本質は伝わらない)

 

 

160センチに満たない身体で
40キロのセメント袋(当時は重かった!今は25キロらしい)
を担いで軽々と山道を登っていた父の
腰肚を要とした使い方、腰の座り具合、力の出し方。
足のひかがみ(膝裏)の使い方等々…

弟には受け継がれていない。
(もちろんわたしにも)

 

 

 

 

 

日本人はどこへいくのか?」

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

 

 

昨年春のわたしのセミナー
「日本人の身体と精神と言葉の話
ーわたしたちはどこへ行こうとしているのか?ー」

 

からちょっと抜粋してみました。

 

 

 

 

 

 

マスク解禁→世界を表す声と言葉と表情を取り戻す。いや、以前よりずっと豊かに生き生きと。

 

 

 

 

3ヶ月ぶりに訪れたカフェのバイトの女の子の「言葉数」と表情が
とても豊かになっていました。

 

 

3ヶ月前は慣れていなかったのか、硬い表情で、お茶を置いて、

「こちら、紅茶になります」
(それはもはや紅茶であって、「ならない」のよ、

それ以上変身しないのよ(笑)と思いつつ聞いていましたが)

 

という言葉を投げかけて去るだけだったのですが、

今日は(やや噛みつつも)
「もう少し茶葉を蒸らしてからお召し上がりください」
&
目が合うとはにかむ目元、というおまけがついてきた。
かわいい…。

 

で、幸せを感じているところです。

 

 

 

 

 

朝ドラの少し前の回で、言葉にまつわるこんな場面が。

 

広辞苑を見ていた中学生の女の子が、
「こんなにたくさんの言葉、いらんやん」
と。

「中学行ったらな、みんなに合わせて、

 

かわいい。
ヤバい。
キモい。

 

のどれかを言っておけばそれで済むねん」

 

 

 

 

それに対して、
主人公の旦那さん(歌人)が、

「たくさんの言葉は自分の気持ちにぴったりのものを見つけるためにあるんやで」

と。

 

 

 

 

 

言葉の数=世界に目を向けることができる広さと深さ、精密さ、
を表している、とつくづく思います。
言葉はまさに「絵の具」。

 

目に見えるもの、聞こえるもの、感じるもの…
決まったほんの数色で塗り固めてしまうにはもったいないくらいに、
世の中はたくさんの色で溢れている。

 

 

 

 

と、どうしてこういうことを書いているかというと、
「伝える力が伸びる!12歳までに知っておきたい語彙力図鑑」
を読んでいるからなのですが。

 

「かわいい」を他の表現で言い換える。
「やばい」を他の表現で言い換える。

 

今これを読んでる方、いくつくらいの表現に
言い換えることができるでしょう?
(大人でも戸惑うと思うのです)

 

 

 

 

 

こと、「感情」に関して。
今、自分の中で何が起こっているのか、
しっかりと「感じる」ことができ、
なおかつ、それをなるべくピッタリくる言葉で表現できた方がいい。
多くの言葉があった方がいい。

 

自分の中で何が起こっているのか。
自分が何を感じているのかがわからない。
または、のっぺりと一色で塗り固められた、記号化したような言葉でしか感知できない、

というのはなかなかに生きづらい。

 

(色々と弊害が起きます。まあ、人生迷いますよね。

感情は自分の魂の声の出発点であり、人生を指し示すセンサーであり、

一生大切に持ち歩く羅針盤だからです)

 

 

 

子どもの場合は、大人が丁寧に、

「聞いてあげて」
「受け止めて」あげ、

適切な問いを「問いかけて」あげることによって「自分の感情を言葉にする力」
が身につきます。
答えが返ってくるのをゆっくりと待つ。

 

 

 

 

大人の場合は、
今から自分自身で自分の感情を聞いてあげることをやっていけばいい。
(わたしも、そっちのくちです。大人になってから自分で癖づけたクチ)

 

 

専門家の手を借りるのもいい。
わたしも、これまでずいぶん助けてもらいましたし、
他者の「そのプロセス」をお手伝いもしてきました。
(一人でやるより早いし楽なのです)

 

 

 

 

 

 

さて。今日は春分です。

マスクも外れて一週間。
(元々「任意」だったと思うんですが、
けれど「解禁!」という言葉がやっぱりしっくりきます)

 

 

 

わたし達は、再び言葉を取り戻さなくてはならない、と思います。
豊かな表情を取り戻さなくてはならない。
この美しい世界を表現する言葉と、表情と、身体能力を取り戻さなくてはならない。

 

 

 

この3年間が、わたしたちの、そして特に若い人たち、子どもたちの
その身体に=無意識層に、
刻み込んだであろう影響を思うと、この先が予想もできないのですが。

 

 

 

 

 

世界は美しい場所だと。
そして、その世界で存分に自分を知り、自分を愛し、
自分の本質を表現していいのだと。

 

大きな声を存分にあげ、湧くままに踊り、
自分の響きを全身で表現するために、
わたし達は生まれてきたのだと。

 

 

 

そして、一人一人の「それ」こそが世界へのギフトなんだと。

 

 

 

わたしたち大人は、
声を大にして、そう再び彼らに伝えなければならない。
何より「その姿」を生きて見せねばならない。

 

そう思います。

 

 

 

 

 

「自分は幸せである」と感じる理由を「人」だけに頼るのは危うい

 

 

 

 

 

 

 

と、いうようなことを養老孟司先生が言っていたのですよね。
(YouTubeの、しかも「切り抜き動画」を見ただけなのですが)

 

 

 

講演会の会場の人たちに、事前アンケートをとって、
(あなたは幸せですか?ならびに、そう思う理由)
それを元に、養老先生が話している。

 

 

 

 

「10代の時にいじめを受けた人が、20代になってそのことを書いた本を読んだ。
皆さんのアンケートを見て、その本を読んだ時と、同じ印象を受けた」

 

 

 

と。
その「同じ印象」とは、養老先生の言葉でいうと、

 

 

 

 

 

 

「花鳥風月が一切出てこない」。

 

 

 

 

 

 

場内アンケートにあったのは、

「こういう人間関係があるから幸せ」
「こういう友がいるから幸せ」
「家族がこうだから幸せ」

 

 

 

幸せの「よって立つ」ところが、人、人、人…

 

 

 

 

これは、裏を返せば、「人(人間関係)」によって、
いとも簡単に「不幸」にもなる、と言うことだ、と。
(いじめなんて、まさにつまりそういうことだ、と)

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。
花鳥風月、とはつまり「自然」ということなのですが。

 

 

「人間関係が辛い時に、
自分だったら
『死体(死体は「自然」だから)』(←解剖学者)
『虫』(←虫大好き)

そういう世界と語らっていたら、
人間関係の悩みなど、どうでもよく思えてくる。(生きてるだけですごいだろう!と死体を見ていると思うし)」

 

なんだそうで。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間関係が全て。
うまくいかないと、もう行き場がない。逃げ場がない(心の)。
他に「繋がる」ところを知らない。

 

 

というのは、確かに危ういなあ、と思います。
それで、命をたつことを選んでしまう人もいるわけですし。

 

 

 

 

 

 

「そこに、風は吹いていなかったのか?
鳥は鳴いていなかったのか?」

 

by養老先生

 

 

 

 

 

 

 

齋藤孝は、現代人の「感情」と「精神」のバランスの悪さを書いています。

 

 

 

現代人は「感情」が肥大してしまい、感情に振り回され支配されているが、

かつては「精神(志・こころざし)」というものが、
感情の暴走を抑え、心のバランスをとっていた。

が、戦後、「精神」という言葉は、

「愛国精神」「軍国精神」

と言ったように、
何か悪いもの、古臭いもののように扱われてしまっている…

と、そういう内容だったかと。

 

 

 

 

 

 

 

さて。
養老先生が小さい頃は、人の世界と、自然、「半々」だったそう。
どちらも「近しかった」。
ほんの七十数年ばかし前のことですよね。

 

 

 

わたしたちの祖先は、たくさんの世界とアクセスし、

 

「そこで心を自由に羽ばたかせる」
「心をあそばせる」

 

あり方を知っていた。
この広大な世界の中で「人との関係」というのは、

 

 

 

「その一部に過ぎない」

 

 

 

 

ということを、体感的にわかっていたんだと思います。

「侘び」
「寂び」
「もののあはれ」

なんていう言葉は、そのことをよく表している。

 

 

 

 

 

 

今日はちょっとまとまりませんが。
(テーマが壮大すぎるのだよ、と思いつつ)

 

 

けれど、
自分を生かすものは、目の前の人間関係だけではない、
ということは、ものすごく思うのです。

 

 

 

ミルフィーユの如く、重層的に、
わたしたちは、実はたくさんの世界にまたがって生きている。
多くのものとつながり、
実は時間も空間も超えて、多くのものからのエールを受けつつ、生きていると感じます。

 

 

 

 

そうそう…。
そういうふうに生きられたら、狭い視野の中できつい思いしなくていいよ、

ということを養老先生は言いたかったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

写真は一昨日の渡月橋。
ちょっと用があって京都に行ってきたんですが、
(弾丸ツアーな感じであまりゆっくりできなかったんですが)

すっかり京都、元に戻っていて、人だらけでした。
ここで「いろんなもの」と語らうには、ちょっと集中力が…。

けど、わたしにとっては
京都はとても「アクセスしやすい」場所なことは確かなのでした。

 

 

 

いい時間でした。空気は冴えて、山は美しい。

 

 

 

人生史上、餃子が最高にうまく焼けた話

 
 
 
というテーマで先日書きましたが。続きです。
 
 
*  *  *
 
 
「身内が餃子のお店を始めたんです。よろしければ、お裾分けを…」
 
 
 
というなんともありがたいお話をいただき、
ありったけの保冷剤を詰めた「ミニ保冷バッグ」持参で、知人と会ったのが昨日。
 
 
 
(なんでも、美味しく焼くためにはカッチコッチの冷凍のまま
フライパンに置くのがポイントだそうで、「溶け」をなんとしても阻止しなくては、と)
 
 
 
 
 
 
 
さて、
知人と過ごした楽しい数時間の詳細は省き、
夕方5時半。
家に帰りつき、速攻でフライパンを出し、「焼き」の作業に入りました。
 
 
 
 
 
 
「焼き方」(絵付き)の説明書をみながら、最新の注意を払い。
 
(何せ、いつもの餃子とは違います。餃子専門店の餃子!期待大なのです)
 
 
 
 
 
「フライパンに大さじ一の油を敷き、
プライパンを熱して、その後弱火にしてから餃子を間隔を取って並べ…」
 
 
 
 
 
説明書をガン見しながら頑張ること10分ほど(かな?)
 
いい色に焼けた餃子(形も美しくキープ)は、
カリっとした歯触りと、その後の「パシュ…」感(旨み広がる感)
 
 
…美味しかった。
とてもとても美味しかった。
そして、先にも書きましたけど、こんなにうまく焼けたのは初めてで(喜)
 
 
 
 
 
 
で、焼いていて、本当に「焼きやすかった」のですが、
そのポイントが説明書に書かれた「音」だったのです。
 
 
 
 
「七十度のお湯を餃子が5ミリほど浸かるくらいに入れ、蓋をする。
その音が、
『グツグツ、ブクブク』から『チリチリ、パチパチ』になったら蓋を開けて水分を飛ばし…」
 
 
 
 
時間指定などよりも、
ずんとわかりやすい。なんて「安心ガイド」。
 
 
 
 
 
 
さて。
この日、わたしはこの餃子お裾分けの知人に「玉ねぎ」を進呈したのですが、
(いつも書きますがうちの姉の無農薬農園謹製)
 
 
その際、とある食べ方をして欲しく、
直径15センチもある大きな玉ねぎを一つ、入れておいたのです。
 
 
 
その「食べ方」と言うのは、「玉ねぎステーキ」なのですが。
直径15センチを横一文字に切って2分割。そのままフライパンに置いて豪快&丁寧に焼く。
 
そうすると、
 
塩胡椒&バターでも美味しいし、
花がつお&ポン酢でもいける。
試していないけれどきっとチーズ&トマト系ソースもいけるぞ!
 
 
 
という…
とろっとろの玉ねぎの甘さを楽しめる、最高に美味しい一品になるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
夜、知人からメールがきました。
今日の御礼とともに、
「玉ねぎステーキ、わたしの腕がまずく、
火が通らないところが少し残ってしまい…火の通ったところはめちゃくちゃ美味しかったです!」
 
 
 
 
 
 
 
…ああ、知人よ。
それはあなたの「腕」のせいではなく、明らかにわたしの「説明不足」。
 
 
 
焼く感覚は「トロトロ」と。
(中火の弱火とか言ってしまったんですが、家のコンロによってそんなの違いますもんねえ)
断面は「ふやっと」。
側面は「ツヤツヤ」。
全体的な感触は「ややくたっと」。
 
こういう「感覚」はなんにも伝えなかったなあと。
 
 
 
 
 
 
 
どんなデータよりも確実に、
(いえ、データはすごいし、大切なんですけど)
わたしたち日本人に、
 
「ものすごく膨大で繊細な量の情報を一瞬にして伝達してしまう」
 
「擬音語、擬態語、擬声語」という話でした。
 
 
 
 
 
そして。
日頃、「データ重視」。理路整然と語るのが当たり前、という世界に住んでらっしゃる方。
オノマトペなんて子どもっぽい、と言わず。
フォーマルじゃない、なんて切り捨てず。
 
 
 
 
バランスをとりつつ、少しだけこの、豊かな「オノマトペ」の世界を
挟んだりしてみてもいいかもしれない、と思うのです。
 
 
伝わり方、
伝わる人種、
「あなた」という人の見え方
 
 
などなど。
いろんなところに案外「可能性を開く」ものになるかもしれない、と思います。
 
 
 
 

日本語は、地球上で一番『世の森羅万象を細かく、隅々まで表現できる』言葉

 
 
 
 
 
知人が英語を勉強しているのですが、
先生(アメリカ人の宣教師さんだそうで)にタケノコの食感を聞かれて、
 
 
「シャキシャキするんですよ!」
 
 
「…?」(先生)
 
 
先生には、「シャキシャキ」がどんな感覚なのか、がわからなかったらしく。
 
 
 
 
 
 
その話を聞いて、
 
「わからないんだ〜(新鮮!)」(わたし)
 
「でしょう〜!」
 
と知人。
 
 
「あちらには、そういうのを表す言葉は『crispy(クリスピー=カリカリ)』しかないみたいなんです」
 
「カリカリ!?それだけ!?」
 
「そうなんです。
日本には、しゃりしゃり、パリパリ、ぽりぽり、ぼりぼり、サクサク…いろいろありますけど…」
 
 
 
 
 
 
 
旬のタケノコの食感は、そのどれでもない。
あの、水分をたっぷり含んで内側から弾けるような細胞、
その細胞壁が歯にによってパシュ…!と断裂し、
細かくなっていく感覚は、
 
 
「シャキシャキっ✨✨✨」
 
 
でしかないのです!
(注:わたしと、知人の体感です。個人の好みあり)
 
 
 
 
 
 
何でに書いてあったのか忘れましたが、
「日本語は、この世界の事象を、最も細やかに、たくさん表現できる言語」
だと読んだことがあります。
 
 
 
雨の降る音一つとっても…
 
 
 
ここにわたしが羅列するのもヤボだと思うくらいに、
今、皆さんの頭の中に山ほどの雨の音の表現が浮かんでいる、
と思うのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
宮沢賢治の作品は、「オノマトペ」が多いことで有名です。
彼の作品を読んでみると、
本当に、豊かな擬音語、擬声語、擬態語があふれている。
 
 
 
「どっどど どどうど どどうど どどう
甘いりんごも吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう」
 
 
風の又三郎の一節。
調べなくてもすぐに浮かんできるくらいに、個性的な「風の音」。
賢治には、本当に、さまざまな現象が見えて、聞こえていて、
それをそのまま「音」として表現したんだろうなあ、
 
と思える擬音語、擬声語、擬態語が彼の作品には満ち溢れている。
 
 
 
 
 
 
 
そして、
これも何で読んだのだったか忘れましたが、
いっとき、賢治の作品は「格が低い」と言った感じで扱われていたことがあったとか。
 
それはひとえにこの、
 
 
「擬声語、擬態語、擬音語が多い」
 
 
というのが理由だったと。子ども向け、と。
何を言っているんだ、と思いますけれどね。
 
 
 
 
 
 
これこそが、日本語の特徴の一つ。
この宇宙に渦巻く現象を、余す所なく、
丁寧に「おと」として写し撮り、表現できる「自然に最も近い」言葉。
自然(=かみ)に近い言葉。
 
 
 
 
 
そして、
工場では「機械に不調が出たことを知らせるランプ」が点灯する前に、
その「耳」で微かな異音を察し、
修理してしまえるという耳を持った能力を培うに至った言語。
 
 
(これも以前読んだのです。
同じ機械を使って、同じラインで製造をしていた日本の工場と外国の工場があり、
日本人の工場の方は、一度も「機械の不調を知らせるランプ」が光らなかった、と)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タケノコの話からまたもや壮大になってしまいましたが。
 
「中」にいるまさに空氣。
特徴、特異点もなかなかわからないものですが、
「外」と比べてみると、それが浮き上がってくる。
 
 
わたしの「ええ〜っ!」という驚きを皆さんと共有したく、書いてみました。
 
わたし自身は、日本語のこの、なんともなんとも細やかなる特徴が大好きなのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「綺麗な漢字にうっとり♡」

 

 

 

 

久しぶりに本を買いました!と知人から、

メッセージが送って来ました。

いわゆる「大正浪漫」の香り華やかな、きれいな表紙の写真とともに。

 

 

 

「久しぶりに文字にゆっくり触れて、
言葉の言い回し、
綺麗な言葉、
綺麗な漢字を見ては読んではうっとり♡

日本に生まれてよかったなとしみじみ感じているところです^^」

 

 

 

 

この方、まだお若く、
20代後半にやっとなったくらい?でしょうか。
(けど、3人のお子さんのお母さんなんですけど)

 

 

「若者」が、
「綺麗な言葉、綺麗な漢字」
と書いてらっしゃるのが嬉しくて、今これを書いているわけです。

 

 

 

 

 

「綺麗な漢字」。

 

 

 

 

音と同時に、その形からも、
しんしんと意味とセットで私たちにたくさんのものを伝えてくる「漢字」というもの。

 

 

 

表語文字
(ひとつひとつの文字が「意味」と、「発音」を同時に表している文字体系のこと

…昔は「表意文字」と教えた覚えがあるけれど)

 

である漢字を、表音文字である
ひらがな、カタカナとまぜまぜにして使っている私たちですが、

 

 

 

 

これまで日本の長い歴史で、2度ほど
この「漢字仮名交じり」方式、危機を迎えたことがあったそうで。
(幕末と、戦争後の2回。漢字、いらないでしょ、と。

漢字、ダサい。漢字、難しすぎ。ALLローマ字に変更!と)

 

 

 

そんなバカなことにならず、

残って本当によかった。

 

 

 

 

 

 

この、
「漢字仮名交じり」であることは、

 

私たち日本人の理解力、思考力、学問の深まりにも、
大きな役割を果たしているわけですが、
それはおいておき。

 

 

 

 

 

日常で情報をやり取りするツールが、
同時に美しかったり、面白かったりもする。

 

単純な、その字が持つ「意味」以外の、いろんな「空氣」をまとうことができる。

「芸術」の一端をに担ってしまったりもする。

 

 

 

 

 

そういうものを味わっている人を見ると、
とても嬉しくなってしまいます。

 

 

 

 

 

(本文中の本と、写真は関係ありません?)

 

【遊】という字の意味は「祖先の靈力を宿した旗を持って未知へ進む」

 

 

 

 

新年明けましておめでとうございます。

2018年もみなさまにとりまして素晴らしい年となりますように。

 

 

*    *    *     

 

 

とある本を読んでから、

毎年年末に「来年の自分を象徴する漢字」を一文字、決めることにしています。
今年はさらにたくさんの人と共鳴できたらいいなと思っていたので、

「結」

という字かなあ〜となんとなく思いつつ、
実際決めたのは元旦。
いざ、決める段になってどん!と浮かんできたのは

「遊」

でした。「へえ〜、面白い」と意外に思ったんですが。

そしてまあ、

呼応するかのようにこの日は「遊べ!」のメッセージがやって来る。
(ふとひいた「日本の神様カード」やら、いつも読むメルマガやら)

 

 

 

で、
氣になって【遊】の字源を調べてみました。
そうして出てきたのが表題の意味。

 

ユウの古代文字は「先祖の靈を宿した旗ざおを持つ人の姿」。

 

 

 

・靈力の宿った旗を押し立て、その力に守られながら未知の世界へ出て「ゆく」

(「ゆく」がしんにょうの意味)。
  ⇩
・旗に宿る神さまが氣ままにあちこちゆく。
  ⇩
・「あそぶ」

と意味が変化したそうで。
そもそも「遊んで」いるのは神さまだったというわけです。
(以上、白川静博士による)

 

(白川静博士直筆の「遊」の甲骨文字。旗ざおを持つ人に見えますか?)

 

なんとも壮大な字だったのだなあと思いつつ、

昔、教員になりたての頃、大枚はたいて買った本が

白川静「字統」「字訓」をだったことを懐かしく思い出しています。

 

 

 

 

【遊は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に他ならない。
この神の世界にかかわるとき、
人も共に遊ぶことができた】 (白川静 「遊字論」)

 

 

 

 

神の世界、というのは「無心」ということかなあ、と思ったりもします。

子どもが夢中になって遊んでいるときの、澄み切った瞳。

何かを発見した!とばかりに振り返る瞬間の表情。

それらは確かに、

神さまと通信しているんだろうなとしか思えない美しさだったりするのです。

 

一つ事に集中する職人さんや、

それからスポーツ選手も時にとても美しい。

 

 

 

人にとって幸せというのは、

この瞬間をよりたくさん味わうことではないかと思えます。

自分の本質とつながり「自由に」「ゆたかな創造」をする瞬間を、

人生でどれだけ味わえるか。

 

 

 

 

まあ、なんだか難しくなりましたが
とにかく美しく、カッコいい言葉です。

「遊」。

「絶対の自由」「ゆたかな創造」というところがもう。

 

 

 

 

 

ということで、今年は【遊】。
祖父母、おじおば、それから父。
そこに連なるたくさんのご先祖さま。
日本人という「氏族」の靈力の宿った旗。
その力に守られて…何をするのか、未定ですが、

存分に【遊】を楽しもうと思います。

 

 

そして、守られているのは皆同じ。
だただ無心に楽しむ。
集中する。
今の自分を100%、存分に生きる時、

人は大きなものと、ただただつながっているのではないか、と思えます。

 

 

 

 

今年も、

響きあう人たちと一緒に「遊」のたくさんの場面を過ごせたら幸せです。

 

 

 

 

◆☆◆「自分の人生を存分に生きる人のためのコーチングセッション」◆☆◆
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 今まさに、「目覚めの鐘の音を聞いている人」のためのセッションです。
 自分が発揮すべき特質を明確にしたい方。
 自分の人生の軸を明確にしたい方。
 自分の中に今ある方向性をさらに開花させ、前へ進む後押しが欲しい方。

 

 

◆☆◆「今日をスッキリ整理して、明日への風通しをよくするセッション」◆☆◆
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 新しい年のスタートアップに。
 毎日の生活の中のちょっとした「氣になること」「終わっていないこと」
 がわたしたちから奪っているエネルギーは案外大きいもの。
 それらを「見返し、整理し、手放す」ことで、たくさんのエネルギーが戻ってきます。

 

「キンロウカンシャノヒ」って美しいか?語感の話。

 

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11月27日・30日】はこちら

 

 

 

 

今日、11月23日はもともとは「新嘗祭(にいなめさい)」です。

 

昔からなぜか「村まつり」という童謡が大好きだったんですが、つまり、それですね。

天皇(おおきみ)を中心とした日本中の「収穫祭」。

 

 

 

『新嘗祭とは五穀豊穣の収穫祭にあたり、新嘗の「新」は新穀(初穂)を、「嘗」はご馳走を意味し、天照大御神はじめ天神地祇(てんじんちぎ すべての神々)に初穂をお供えして、天皇陛下自らも初穂を召し上がり、神様の恵みによって初穂を得たことを感謝するお祭りです』

http://jpnculture.net/kannamesai-niinamesai/

 

 

 

春に苗を植え、手をかけ、心をかけ、長い時を経て、今年もたわわに穂が実る。

…その嬉しさ、有難さは今よりきっとずっと日本人の身体にしみこんでいたことでしょう。

米は日本人の命をつなぐもの、そのものでしたから。

皆で神様に感謝をお伝えするっきゃない!

歌って踊るっきゃない!

というその氣持ち、よ~くわかります^^。

 

新嘗祭というのは、

私たち日本人と自然、宇宙を

今よりずっとしっかりと結びつけるものであったような氣がします。

 

 

 

 

この「新嘗祭」。

御多分に漏れず、

GHQの「日本人の心も身体も骨抜きにしちゃうぞ」政策によって神道から切り離され

「勤労感謝の日」なるものになりました。

個人的には、この名前に「美しさ」を感じません。

日本語の音感としてどうなの?と思うわけです。

なんとも人為的なゴツゴツ、ぎくしゃくした肌触りです。

「にいなめさい」のほうがずっと美しい!

そして、美、なきところに真・善なし、というのが個人的な感覚です。

 

 

 

語感、つまり、「音の響き」というものはとても重要で

人の体感覚に(つまりひとつひとつの細胞に)大きな影響を与えます。

波動ですから。

(試しに「キンロウカンシャノヒ」って何度も言ってみてください。

なんの高揚も心地よさも感じないですし【わたしはだんだん身体が重苦しくなります】)

 

人の細胞は、言葉の持つ固有の波動に容易に共鳴します。

ですから

日々耳に、身体に入れ続ける「言葉」は

「美しい」「心地よい」響きであることが本当に重要です。
(言葉を発する意図=声、もそうですが)

 

 

 

話がそれました。

言い換えれば、今日は約70年前

日本人の大自然への畏敬の心、敬いの心、「自然とともにあるあり方」が

本来の言葉の持つ意味、感覚とともに、ひとつ、切り離された日

ということもできるでしょう。

 

 

 

 

 

『勤労感謝の日 本当の意味』

http://haigyo.net/orange/?p=6553

「あはれことのは」

和風の曲を探していたら
こんな曲を見つけました。
邦楽ヴァージョンがアップされたのは去年の8月。
歌詞付がアップされたのは10月らしいです。

コメントを見ていると

「日本語きれい~!」
「鳥肌…」
「泣けるんですけど…」
「文語すごくいい」
「日本に生まれてよかった!」

などなどのコメントが滝のように。

ちなみに、この曲の元の歌はこれなんだそう。

同人ゲームのBGMらしいです。
それを、プロの邦楽演奏家の方々がアレンジジして演奏し
それに感動した人がまた文語の歌詞をつけて歌っている。
コメントにもありましたが
「大人の本気」の演奏への感動の連鎖がこの曲を作り上げたようです。

ちなみに、原曲と「文語ヴァージョン」
歌詞がちゃんと対応しているのですよね。
原曲の歌詞を「文語調」に直したのはこちらの方。
文法的な詳しいところははことはよくわからないんですが
雰囲気あります。

この「邦楽Bad Apple!! 傷林果」を聞きながら思い出したことがあります。
小学生のころ、運動会のたびに開会式で全員で歌う歌がありました。
昔のことなので、もちろん題名などは覚えていないのですが
メロディと歌詞はぼんやりと覚えています。

「みそらは高く
我が意気上がる
平和日本の友情かたく

運動場は競いの庭ぞ
鍛え鍛えし健児の手並み
たゆまずおそれずわれらの心
正々堂々」

子どものうろ覚えなので、違っているところがありましたらごめんなさい。

子ども心に、この歌を歌うと、誇らしいような、背筋がぴん、と
伸びるような心持になったものでした。

特に好きだったのは
「鍛え鍛えし健児の手並み
たゆまずおそれずわれらの心」のところ。
そのメロディとも相まって、なんでしょう、あの感じは…
そう、つまり、文語を口にするのがとても心地よかったのです。
八つの子が

「きたえきたえしけんじのてなみ たゆまずおそれぬわれらがこころ」
(意味は分かっていなかったことは確かです)

今思うと、ちょっと笑えますけれど。
でも、
言葉の「かっこいい感じ」、その言葉の響きが自らの心と体に与える影響は
ちゃんと感じていました。わかっていました。
そして、それを「美しい」「誇らしい」と感じる感覚も
ちゃんと持ち合わせていたものです。

やがて
わたしにとって「ゆゆしき」出来事が起こります。
運動会の歌が変更になったのです。
新しい歌は、わたしのテンションを下げ、何ともプライドを傷つけるものでした^^。
ひと言でいうと「とてもお子様チック」

「そらに~みどりにぃ~あたあらしい~
希望がおこる~わぁ~きあがる~」

子ども心にもっとも腹立たしかったのは次の一節
(なんて子どもでしょう…かわいくない)

「げ~んきに~はくしゅ~
『チャチャチャ♪ チャチャチャ♪」
 

そして、こう続きます。

「きょうは楽しいうんどうか~い
むね~をぐ~んとはって、さあいこお~♪」

手を胸の右上と左下で「チャチャチャ」と小さく叩きながら
こんなの恥ずかしくてできるか!と思っていましたっけ。

あの凛とした世界はどこへ行った。美しき言の葉を口に上らせる
あの瞬間の体震えるような喜びはどこへ行った。

当時のわたしに語る言葉を持たせたら
きっとそう言ったと思います。

(歌をおつくりになった方。申し訳ありません。この歌がいけないのではなく
わたしに合わなかったということなのです)

今、論語の素読を復活させている小学校があるそうですが
よきことだなあと思っています。

わたし自身の体の中に
それほどたくさんではないにしても
幼いころに本を通して、そして「日本語の力」を愛する数々の先生方との出会いによって
声を出し、体に刻んだ「美しき日本語」の名文たちが生きています。
それは理屈を超えて
人生のあらゆる場面でわたしを助け、導き、あるときは鼓舞してくれる
リズムになっています。

「子どもには難しいだろう」「意味が分からないだろう」ではなく
お手軽な、咀嚼しやすい口当たりの良いもののみを与えるのではなく
すべてを驚くほど柔軟に吸収し
それを人生を生きる力に変えてゆく、土台をつくるあの時期にこそ
硬い、中身の詰まった噛みごたえのある「本物」を口にさせてあげてほしい、と感じます。
言葉の事にかぎらず、なんでも。

「かっこよるぎる」
「ゾクゾクがとまらない」

「日本語、大切に使おうと思った」
「大和言葉最高!」

プロの三味線や琴の音色に惜しみない賛美をつくし
「なんて言ってるの?」と言いながらも言葉の流れに「美しい」と書いている
そんなたくさんの(若い人たちの?)コメントを読みながら
なんだかとてもうれしくなっています。

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