「『紫のバラの人』きました(笑)」

夕方
ポストに届いた一通の封筒。

「??」。

大きな封筒。
早速開封です。
開封した途端…

腰が砕けました(笑)
こ、これは…!

同封のカードにはメッセージ。

「こんにちは。
すっかり春ですね~♪

先日本屋で見つけて
何故だか‘公子さん‘にこれをお渡ししないといけない気がして…(笑)
もらってきました
それではまたー。」

なんと、クライアントさんから。
早速ポスターを広げてみます。
これは…なかなかのインパクトです。
B4サイズ一杯に、星をたたえた瞳の流し目全開の妖艶な(?)「速水真澄」。
かすかに微笑む口元に優雅な指先で口づけしそうに寄せられているのは
そう、「紫のバラ」。
おお~。
「香り付き」って、何とも懐かしい仕様じゃないですか。
さらにはポスターの他に

「紫のバラのひと名場面集」

というカードもついています。
うわ~、懐かしい…
(全部知っている)

送ってくださった封筒には表、裏ともに一面に手書きで花が書き込まれ
よく見ると、このポスターにピッタリのサイズの封筒をわざわざ作って
発送してくださっているのがわかります。
この方、来年度、お仕事の環境が大きく変わる予定なのです。
その時期に、この手の込み様・・・。
人を楽しい気分にさせるためなら骨身を惜しまぬタイプ。つわものです。

この方にそんな気持を向けてもらえたことが
嬉しくて楽しくて、ありがたく。

それにしても…
この方と、このマンガ(ガラスの仮面)のお話をしたのはだいぶ前
確か一度くらいだったと思うんですが。
何かのメタファーで使ったのでしたか。
すごいインパクトだったのでしょうか。
そんなに熱く語ってしまったのでしょうか。
それはちょっと恥ずかしい…。

なんというか、顔が赤くなってしまいます。
(それくらい迫ってくるこのポスター)
どういう人生を歩んでいるんだ自分、
いいのか自分?


いろいろな気持ちがまぜこぜに押し寄せてきて
ポスターからそこはかとなく漂う「紫のバラ」の香りに翻弄されながら
「くすっ…」と一人笑いがとまりませんでした。

こんな軽やかな遊び心(子ども心)でもって
毎日に「楽しい」の種を蒔いて生きてるような方とご縁があるのだから
まあ、いいんじゃないかな。

少々熱苦しくっても
オタクでも
マニアックでも
こだわりが強くても
頑固でも
・・・

まあ、いいや。

こんな気持ちで「くすくす」笑っている自分に気づいたのは
少しあとのことでした。

「肌ではじめてわかること」

一昨日は
来年度研修をさせていただくところに
見学に伺っていました。

こちらの企業さんは総合商社で
ご縁は結構長く、雰囲気ともによくわかっているのですが
来年度から関連会社のリーダーさんも研修に参加されることとなり
そちらのほうに伺ったのでした。

社名に「鉄工」とその名の入る、そこは工場です。
以前から話は聞いており
自分なりに雰囲気のイメージは膨らませていたのですが
伺うのは今回が初めて。

「おはようおざいます~」
と事務所棟にまず伺うと
玄関にはずらりヘルメットの列。
おお~、さすが、と変なことに感心します。

常務さんのご案内で、工場建屋へ。

第一工場、第二工場、第三工場とあって
はじめてのわたしから見ると、どれも大きな建屋です。
高い天井には梁のようにわたしたクレーン?があって
鉄を「落とす」(切ることだそうです)
大きな機械がいくつかあり、その他にも見たことのないものばかり。
建物の真ん中は広く空間が開いています。
この空間に直接図面を書き、鉄を置いてモノをつくっていくのだそう。

ここで、設計から手がけ、オーダーメイドの一点物を作る…。
何だか巨大なアトリエ、という感じもするなあ、
と思いながら天井を見上げます。
この天井の高い建物いっぱいの空間で作る、鉄のもの?
もう、わたしには、「船」しか思い浮かびません(笑)。
船を作るには小さいんでしょうが、
なにせ想像ができない。

あとからパンフレットを見せていただいたのですが
焼却炉の設備から製糖工場の設備までほんとうにいろいろ。
このお話がまたとても面白い。

例えば同じ「ベルトコンベアー」であっても
その上に何がのるのか、によって
そこに「オーダーメイド」の工夫が発生するわけです。
言われてみればそのとりなんですが
全く日頃考えたことのない世界のことに
面白さもひとしおです。

自分の日頃「見えない」生活の部分には
こういう方々の手と、工夫が詰まっていてこそ
円滑に流れているのだと実感します。
丁寧に、もっと意識して暮らしていかないとなあ~と。
思わず

「いや…ものすごく勉強になります」

とつぶやくと、常務さんが
「あなたがこんなの勉強してど~するの」
と不思議そうな顔なさってましたが。
気さくで骨太、がっしりとした親しみやすい常務さんでした。

さて製品のお話などもいろいろとうかがえて
どれもどれも未知の世界のお話にそれは興味深かったのですが。

こういうとき、わたしにとって最も大切なのは
「空気」です。
皮膚感覚で感じられる、この感じ。
頭では決して得られない、肌で感じるこの「空気」。

高い天井。
どこか懐かしい機械油のかおりが満ちた硬質な空間。
四方の壁に静かに待機する、使い込まれて黒光りする機械たち。
「あれはもう40年くらい前の溶接機なんだよ~。自分が入った時から
あるからね」
と教えてくださった職人さんの目の表情。
触らせてもらった溶接機のハンドルの質感。
「安全靴」というやつの靴先は「本当に硬い」ということ。
重いものが落ちても指がしっかり守られている。
(叩かせてもらいました^^)

行かなければわからない
この「空気」。
この場所に立ち、厚い鉄板を自分の足で踏み
この空気を吸いながらお話を聞いていると
やはり、一歩間違えばとても危険なお仕事であることもわかります。
そんな中で
個々の技術への誇りを軸にした、みなさんの阿吽の呼吸とチームワークが
いかに大切であるかということ。
そして
それら、誇り高き職人さん軍団を束ねるリーダーさんの思い。

そんなものが
この場所だからこそ「皮膚感覚」として
自分の体の中にしっかりと染み入ってきます。
机の前で話を聞いたのでは決してわからないものです。

あ~、来てよかった、と思いました。
あふれるのは子どもの頃、よく遊んだ父の工作小屋と全く同じにおい。
胸いっぱいに吸い込みながら

「ここ、好きかも…」

と思いました。
そこを「好きになる」。
「親しく感じる」。
そこで日々生きる人たちの「素顔」に触れる。

ちょうど、お弁当販売の移動車が来ていて
「今日のお昼」を真剣に選んでいらっしゃるみなさまの表情を
拝見するのも楽しく。

そんなすべてが
わたしにとっては
とても大切な、欠かせない「創造のための材料」になっています。

「会津幕末歴史検定in同志社」

 

 

2月の中ごろ。
姉から「3月、研修で大阪に行って、帰りに京都に立ち寄る予定」
という連絡があり
いいな~、一緒に京都行きたいな~と思いつつふとサイトを見ると
その日にちょうど、あらなんということでしょう。
やっているではありませんか。

「会津幕末歴史検定」

ということで、せっかく行くのならとついでに参加することにしました。
場所は同志社大学新町キャンパス。
慌てて公式ガイドブックなど買い、図書館に走り、「八重の桜」は欠かさず見て
バタバタと迎えた検定当日。

一応「行ったのだ」という記念に、
校舎入口を写真に撮ってみました。
四隅を無造作に止めたガムテープにそこはかとない寂しさを感じつつ。

今回あるのは初級の3級と中級の2級。
昨年12月の「薩長幕末歴史検定」では
何を間違ったか調子に乗って2級のみ受験してしまい、悲しい結果となったので
今度はちゃんと併願にして、どちらも受験です。

近くのお洒落な町屋カフェのコロッケ定食で腹ごしらえをし
ぐっと力を入れて熱気あふれる会場へ…
と思いきや、3階のとても広い教室の左2列のみにちんまりと座った受験者の列。
何とも静かです。
かすかなしわぶきやちょっと花粉症?な人の鼻をすする声が
高い天井に響く響く(笑)
「会津若松会場と東京会場はもっと多いんだろうな!ちゃんと!」と
薩長検定の時と同じ心配をしてしまいます。

試験は2級3級どちらも100問。
4択のマークシート方式なので
完全に覚えていなくても、「どっかで見た覚えがある」くらいの記憶があれば
解くことができます。
毎回のことながら、それを期待してのさっくりとした受験勉強だっだのですが。

2級第一問。
「松平容保公の家紋はどれか?」

全部葵のご紋ですよね。これ…
(4つの紋の絵を見ながら涙にくれるわたし)
細部のデザインが確かに違うのです。はい。
葉っぱの葉脈の入り方とかが違う。確かに違う。
「八重の桜」の第何回でしたか。
格さんが(伊吹吾郎さんの水戸斉昭が)容保さまにチクリ、と
「その紋、君には重いんじゃない?」
みたいな皮肉を言った場面の映像を脳の底から必死で絞り出します。
確か紋がアップになったよね!
どれだっけ…どれだっけ…。

3級
「八重の二度目のだんなさん、新島襄が作った大学は?」

といったサービス問題もありつつ
どちらも結構難しかったなあ、というのが印象でした。
特に印象に残ったのは
(わからなかったからだと思うのですが)

「〇〇のお墓があるのはどのお寺?」

という、「お寺はどれ?」問題。
何だかとっても多いように感じました。
軽く10問以上はあったような。(数えていないのでわかりませんが)
だんだん
「…知らないわよ!そんなの!」
な気持ちになってきて。
あとから問題用紙を見ると、問題の端っこに
「しらね~よ!」
と走り書きをしていました。よっぽどイライラしたんでしょう。
これはなんとも「ならぬ」態度です(笑)。

  「本物の侍の国、会津。
  その精神は、現代の迷いがちな私達に
  真っ直ぐな光となって
  美しい道を示してくれます

  祈、会津、福島復興」
  (マンガ家の菅野文の検定応援メッセージ)  

そうでした。
そういう幕末の会津の魂に、生き方に敬意を表し
会津頑張れ、との思いも込めて、薩摩代表として(←超勝手な解釈^^)
出て行ったのでしたのに。
勉強不足を棚に上げて、恥ずかしいことでした。

そうでした。
多くのことはできないけれど
でも
「そこに(福島に、東北に)心を向け続ける」
ことの私なりの一つの形として参加した検定でもあったのでした。

今回の検定を通して
また、たくさんの既知の友人が増えました。
(会津の先人たちのことです)
会津のたくさんの人の生き方を通して
幕末という時間を何回も、いろいろな角度から追体験した1か月となりました。

そのときに
自分の立場、役割でできること、すべきことを
誠意を尽くして全うした人たちが
全体としてあのような悲劇を迎えてしまったというのが
時の流れの中での無情さといっていいのか
なんともやりきれない気がするのですが。

が、
それでも(どんな状況でも)それをやりきった人々がいたのだ、ということが。
そして、その後も生きて生きて生き抜いたのだということが。
今の私たちに勇気を与えてくれるのだとも
感じました。

120分の激闘?を終えて
青空の下に放たれ。

「受かってるといいなあ~。どっちも♪」

思いっきり深呼吸しながら、ちょっと都合のいいお願いをして。

そして京都の旅は、つづく。

「ゾクッとするほど嬉しかったものですから」

1月~3月は
たくさん企画書を書きます。

来年度、研修をさせていただくところに
「来年、こんなんどうでしょ」

とご提案をさせていただくためのものなんですが。

この仕事を始めるまで、「企画書」なるものを書いたことがありませんでした。
書かなければならないという段になったとき
ハウツー本を見たほうがいいかな??とチラっと思ったのですが
結局見ないままに好き勝手に書き始め、早10年。現在に至っています。

本の代わりに
頭の中は、好きな映画や小説やらアニメやゲームやマンガやら
絵本やら神話やら歌やら…そんな雑多なものがくるくると飛び交いつつ
企画書から始まるわたしの「創作活動」に今も大いに貢献してくれており、
おかげでわたしは企画書(と自分が思っているもの)を書くのが結構好きになりました。
というか、かなり好きです。
そして
そういうものでいい、というか
そういうものをひっくるめて「わたしでいい」(わたしがいい)
と言ってくださる方々とのご縁がつながっていることを
ありがたく、幸せだなあと感じています。
感じているのですが
半月ほど前。

「企画書を書かなければならないのだけど、すごく苦手。ちゃんとしたモノを書いたことがないので見せてほしい」
と同業の方からメールをいただき、
はた、と困ってしまいました。

「ん~、これを『ちゃんとした企画書とはこういうものです』と言ってお見せするのは
なんというか、責任問題だぞ…」

インプリンティング。初めて見たものをスタンダードだと思われても困る。
実に困る。
大手を振って「お手本」として見せてはいかんでしょう。これは。
みたいな思考がパタパタと働き。

結局この方には「ご参考までに」と「項目」と
それから
「企画書だと思って書くからキンチョ―するんです。書けなくなるんです!代わりに例えば…」
と、激励を兼ねた視点転換のメッセージをお送りしました。
「ちゃんとした」というところに結構反応している自分、を
新鮮な思いで見たのでした。

そんなこともありつつ昨日の夕方
とある研修先の担当者さんからメッセージをいただきました。

「来年度の企画書、拝見いたしました。

1P1P、とても読み応えのある内容でした。
久しぶりに中村先生の言葉を拝見し
先生の紡ぎだす言葉はやっぱり美しい、としみじみ感じております。

1回1回のセミナーの展開が、今からとても楽しみです。
この企画書の醸し出す、ファンタジックだけれども力強い世界を体験させていただけることに
心から感謝申し上げます」

やっぱり、好き勝手に書いてきてよかったなあ。
そう思いました。

「好き勝手」。
つまりわたしにとっては
「自分が生きている」あかしであるところの
「表現する」ということを
こだわりぬく、ということですが。

自分が最も心を砕き、大切にし、いわば命を懸けて表現しているところのものを。
その世界を
ぴたっと感じ取り、響きあい、
それをまた、的確な、わたしにとって震えるような嬉しい言葉で返してくださった。
そんな方と出会えるのは、生きていくうえでの醍醐味であり
けれども案外、稀有なことではないかとも思えます。
そして
人はそういう人と出会い、つながるためにこそ生きているのではないか、とも思えます。
そのために「自分であり続ける」ことをやめてはならない。

放たれた矢が寸分たがわずトッ…と的の中心にまさに「的中」するときのように
絶妙の「そこです!」感をもって
その方の言葉はわたしの胸に到達し、そのままずっと
あたたかな波を広げ続けています。
わたしの中に静かな力を呼び起こしてくれています。
今も。

何だか全くまとまりませんが。
たいそう嬉しい出来事でしたので
書かせていただきました。

「てふてふが一匹」

先日
3年?4年?ぶりくらいに、ある教え子さんと会いました。

ちなみに、いつも
「教え子」という言葉を書くときに、体の中にぐん、と抵抗が起こるのですよね。
彼ら、彼女らから山ほど「教えられた」ことはありますが
今となっては
自分が「教えた」なんておこがましい、とつくづく思うのです。
でも、他になんと表現していいかわからないので
(もう「生徒」じゃないし)
とりあえず「教え子」で。

彼女が今、オーストラリアに住んでいることは
彼女のブログから知っていました。
久しぶりの彼女は
大きなくるんとした目もつやつやの頬も昔と少しも変わらず。
彼女と初めて会ったのは、彼女が13歳の時なんですが
その時からこの目、この頬でした。

彼女の前に座り
あらためてまじまじと顔を見てみます。

少し、ふっくらとして、表情が柔らかくなったかな…
と思った瞬間
左薬指に指輪を発見。
細いラインの上に、まんべんなくダイヤがちりばめてある
とても繊細なデザインのものです。

「先生、わたし結婚したんです」
と彼女。

気ままな外国暮らしを堪能しているんだな~
くらいに思っていたんですが
彼女は向こうで新しい家族をつくり
旦那さんとともに、しっかりと新しい人生を踏み出していました。
ああ、だから、この表情…と、勝手に納得。

2時間と少しでしたが
たくさん話しました。
それぞれの近況から共通の知人、友人の近況
彼女の海外暮らし&国際結婚から端を発した
言葉の話、国ごとの文化の話、歴史の話…
それから
大きく「人生」の話。

そのすべてがとても楽しく興味深く、そしてなんとも繊細で心地よい。
あれ?これは…。
「教え子」だから楽しいんじゃなくて、この人と話しているのが楽しい。

彼女が15歳の頃だったでしょうか。
わたしはもう教員を辞めていたのですが
彼女が手紙をくれたことがありました。

「先生、わたしの目はまだ、あの頃の目のままでしょうか」

初めて会ったときの、その目のあまりに印象的な。
世界の事象を静かに、言葉もなくじっと見据えているような
まるで「世界の真実」を探ろうとしているかのような
深い湖みたいな目に
そのことを伝えたことがあったのです。
「あなたの目はいい」と。

自分では気づいていないでしょうが
そして、そんな手紙を出したことも忘れてしまっているかもしれませんが
彼女はそのままに大人になった気がしました。
生きる上で大切なものは何か。
どうしたら人を大切にできるのか。
世界と自分はどう関わって行きたいのか。
自分の軸をしっかりと持った、やわらかな魅力的な大人になっていました。
人の痛みを自分のことのように感じられる
優しい大人になっていました。

「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った」 

安西冬衛のこの詩を
私自身、卒業に際して恩師からもらったのですが。

あんなに小さかった「てふてふ」は
海を越え、たくさんの旅を重ね
そしてちゃんと「目指すところ」に着いたようです。
もちろん、これからまた幾つもの新しい旅が
待っているのでしょうが。

この季節になると
渡って行ったたくさんの「てふてふ」たちのことを思い出します。

彼らの旅が穏やかで
幸せに満ち溢れたものであるよう
今日も願わずにはおれません。

「姉バカ」

弟の結婚式が先週無事終わり、ほっとしているところです。

弟とは11歳、年が離れています。
その弟から

「ねえさん出番です」

という表題のメールが来たのは式の1週間ほど前。

「退場のとき、一緒に歩いて。」

という内容でした。
披露宴。退場の時のリードが必要と言えばご新婦さま。
和装にしても、ドレスにしてもお決まりの場面。
新婦は自身のお母さんなどと歩く演出が定番ですが…
でも、たくさん衣装も着るみたいだし♪
なぜだかわからないけれど、わたしにもお鉢が回ってきたんだな~
よし!立派に勤めてやろうじゃないの!!
と心ひそかに意気込んだのでした。

そして
お客様総数からざっくりと卓数を割り出し、左手でしずしずと新婦の右手を引くという
イメージトレーニングもさりげなく。
(このあたり、自分の前職がにくいです…)
今思えば、どうしてこんな勘違いをしたのか
自分でもわからないのですが。

そして本番。
「その場面」に遭遇し、大爆笑している自分の顔を、あとで写真で見ました。
おしゃれしたにもかかわらず
まあ、なんて顔…(よってアップできませんでした)

当然のごとく
退場に際し、舞台前でぬぼ~っと待っていたのは、「中川家礼二」似の我が弟でした。

「ええっ!あんたと一緒なの!?」
「そういったじゃん」
「あんたと退場って…、ど、どうするのよ」
「ご新郎さまとお姉さま、腕を組まれるか、手をつながれるかしてください♪」(司会者さん)

ということで
2人で手をつないで、ぶんぶんと手を振りながら歩きました。
せっかくの着物なのに…
せっかくイメトレしたのに…
元気よく歩きました。2人で。小さいころみたいに。
いえ
小さい頃でさえ、こんなふうに手をつないで歩いたことはなかったかもしれない。
なぜって、わたしは姉妹の中で、一番弟の世話が下手だったのです。
多分、最初で最後。

弟の手は骨太で肉厚で大きく、
その温度を感じながらやっと
ああ、弟は結婚するんだな~と実感することができました。
式の時も
披露宴がはじまってからも
「あの弟が??」(おしめを替えたよね)
というような思いが何だか抜けず
まるでお芝居を見ているみたいでどうもピンと来なかったのです。
まるでそこにいるのが自分の弟ではないみたいで。

昔、わたしの手をきゅっと握りしめてきたモミジみたいな小さな手が
今、自分が握っているこの手なのだ。
そうやっと、実感することができました。

この手で
ほんとうに自分らしく、自分の大切なものをマイペースでつかんできた弟。
これからも
この手で多くのものを守り、愛してゆくのでしょう。
彼らしく、周りにたくさんの幸せを振りまきながら。
かつてわたしたち家族のもとに、たくさんの幸せ満載で生まれてきてくれたように。
わたしたち家族を「結ぶ」役目を果たしてくれたように。

手をつなぐなんて
お互いこの年になってしまうとほぼあり得ないし
そもそも恥ずかしくってしようがない。
だからこそ、扉を出るまでのほんの短い時間。
弟がプレゼントしてくれたこの時間は
わたしにとっては
忘れられない大切な時間となりました。

がんばれ、弟よ。
これからも、いつまでも応援しているから。

…すみません。今日は完全に「姉バカ」でした。
弟の新しい人生へのはなむけの気持ちで書いてみました。

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