「沼ハマ」と「バーストラウマ」

 

 

 

 

 

 

「沼にハマってきいてみた」というEテレの番組が好きです。

 

 

 

 

 

10代が、自分の「好き」をとことん追求する番組で、

ここ数回は「鉄道沼」。

 

 

 

すごいと思うのは、「好き」がいとも簡単に彼ら、彼女らの世界を広げ、

人の役に立つようになり、

彼らはやがてそれでしっかりと(楽しく)ご飯を食べるようになるんだろうなあ、

ということ。

 

 

 

 

 

 

さて。

若者が社会へ出てゆく際に、

わたしたちの頃とは比べ物にならないくらい、

 

「コミュニケーション能力」

 

が求められていると思える今。

 

 

 

 

その力が、一定の「定義」があるわけではなく、

実は人により、場により曖昧であり、

そもそも、どうやったらその能力が高まるか、ということもなかなかに「曖昧」。

 

「これをすれば必ずそうなる」と決まっているわけではない、

ということも、若者を世の中に送りす側の、

「困りごと」の一つとなっている感じがあります。

 

(と、専門学校にお勤めの知人の話を聞くとしみじみ思う)

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、

企業が(と、いきなり具体的な話になりますが)

どんな若者を採用するか、というと、

 

 

「何かに夢中になった経験を持った人」。

 

 

「何でもいいのです。

何かに夢中になり、それを通して人と繋がり、何かを創り、成し遂げた経験のある人」

(と、平田オリザさんがセミナーで語っていた)

 

 

 

 

 

 

 

とてもいい指標だなと。

それが何であれ、

 

夢中になり、

寝食を忘れ、

好奇心と探究心にとっぷりと浸った瞬間の、あの喜びを知っている子は、

本当に豊かな好奇心に想像力、それに創意工夫の力や

「道なき場所に道を見つけ、開発する」その身に宿しているだろうなあ、

 

と思うのです。

 

 

 

 

 

と、今日はここまでが「前置き」。

もっとわたしにとって興味深いことを書きたいのです。

それは、

 

 

「バーストラウマを癒すのは『何かに夢中になる体験』である」

(天外嗣郎 「教育の完全自由化宣言!子どもたちを救う七つの提言」より)

 

 

 

 

 

『「バーストラウマ」

出生時心的外傷のことで、無意識である赤ちゃんでも、出産前後の出来事によって、

トラウマ(心的外傷:心の傷のこと)を受けることがあるという考え方です。

(中略)

すべての悩みの根っこに、バーストラウマが関わっており、

またその人の人格にも影響を及ぼすと言われています。

バーストラウマがなくなれば、世界から戦争がなくなるという人もいらっしゃいます。』

https://www.yamanouchishounika.jp/blog_natural/367

(こちらの産婦人科のサイトからお借りしました)

 

 

 

 

どんなに幸せな環境に育ったとしても、

この「バーストラウマ」だけは、背負わざるを得ない

母体を離れてこの世に出でる際の「初の苦しみ」「分離の恐怖」。

 

 

それを、生まれ落ちてからの人生のプロセスで、

「癒し」新たに「自分自身の根っこ=世界の土台と繋がり直す」体験が、

何かに夢中になることを通して、自分の中から湧きいずる

幸福感

自己有用感

自分の感覚や感情、存在への「確固たる信頼」

 

 

なのだそうです。

 

 

 

確かに。

自分自身を省みるに、

そういう体験で感じた感覚だけが、自分自身を生かしてきたようにも思うのです。

 

 

 

 

 

「何かに夢中になった体験」。

 

 

 

 

夜も昼も忘れ、

そこにエネルギーを注いだ体験。

中断されることも、否定されることもなく、ただただ「自分の世界」に没頭するという

至福の体験を持つことができた子。

「バーストする感覚」を仲間達と味わった体験をもった子。

 

そんな子は。

 

 

 

「社会性がつく」

「みんなとうまくやっていける」

「コミュニケーション力がつく」

「発想が豊か」

「粘り強い」

「物事を創造することができる」

 

と。

そんな、わたしたち大人が好きそうな「いい感じの言葉」を超えて、

 

 

 

 

「安心して、安定して、深い安らぎの中で。

この世界を信じ、人を信じ、自分自身を信頼して、

存分に自分を発揮し、生きていけるあり方」

 

 

 

 

という、かけがえのない「場所」にアクセスできる力を得るのだ、

という話でした。

 

 

 

 

そして、わたしたち大人の役割はもう。

子どもが「それ」を体験している瞬間、「止めない」ことなのです。

 

自分の価値観で否定しないことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

あなたの中に湧き出る「それ」を止めてはいけない。待っている人がいるから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週書いた文章(退職したクライアントさんのことを書いた文章)をアップした翌日、

 

 

 

 

 

 

 

メールがやってきました。

古い友人からのもので。

 

 

 

「お久しぶり。

公子さんの、このメールを読んでビックリしました。

 

私のことだったから。

 

この3月、退職しました。

時間もできました。またおしゃべりしたいな。

お電話、くださいな」

 

 

彼女は「同じ釜の飯を食った」という言葉が当てはまる数少ないわたしの友人で、

(教員時代の友達。元同僚)

 

 

 

「ええ!退職したの⁉︎(早いよ!)」

 

 

 

と。

まあいろんな意味で驚いてしまったのでした。

(とても仕事ができる人で、わたしから見ると「バリバリ」の人だったので)

同時に、メールをもらったことが、とても嬉しく。

 

 

 

「それはわたしのこと」

 

 

 

これに勝る嬉しい言葉はないなあと。

本当に、自分の中から言葉を絞り出し、書いた甲斐があったなあと。

 

 

 

 

 

さて。

今日何を書きたいかというと、

わたし自身、人生のさまざまな場面でたびたび遭遇することなのですが。

 

 

 

あなたの中に「それ」が浮かんだ時、

(それをしたい!と)

それは意味なく浮かんでいるのではない。

 

 

 

わたしたちは深いところで繋がっており(集合無意識でもなんでもいいんですが)

その言葉が必ず、心に響く人がいる。

その「誰か」のために、

 

 

わたしたちは言葉を紡ぎ、

書を書き、

絵を描き、

歌を歌い、

音を奏でるのだ。

 

そのことを「する」のだ。

 

 

 

 

「あなた」という拡声器を(共鳴体を)

神様が使って、「それ」をなさしめているのだ。

それが今、必要な「誰か」のために。

 

 

 

 

わたし自身が、「それ」を発信者からもらうことで、幾度助けられたことか。

 

 

 

 

 

 

もし、今、自分の発信(やりたい!)に戸惑いがあったり、

少々自信がなかったり、

怖さを感じている人がいたら、

 

 

この感覚を思い出してもらえたらいいかな、

 

と思い書いてみました。

 

あなたの中に溢れる「それ」を止めてはいけない。

「それ」を待っている人がいる。

 

 

 

 

 

(写真は鹿児島、島津家別邸「仙巌園」のお屋敷の中庭にある手水鉢。

こんこんと水が湧いて、みていて飽きない。音も美しい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連休中にのんびりする時間がある人は-「自分のかけら」を取り戻す

 

 

 

 

ホームページ&ブログの引越し準備諸々で、

大変間が開いてしまいました。

もう少ししましたら、こちらのブログは閉める予定です。

いずれ新しいURLのご案内を貼っておきますので、

また新しい場所でもご愛顧くださると嬉しく存じます。

 

 

 

*    *    *

 

 

 

 

 

早期退職した知人なんですが、
職場から持ち帰った大量の資料本その他を部屋に納めるため、
大がかりな片付けが始まった。

いざ片付けを始めると、
「おっと」と思うようなあちこちから、宝物が出てくる。
「宝」というのは知人いはく、文具のことなんですが。

知人は文具が大好きで、素敵なものと出会うと購入するのが楽しみだったそうなんですが、
多忙ゆえに、それを愛でることもなく、
いつの間にか、あちこちに埋もれてしまっていたそうで。

(埋もれて、と書きましたが、「言葉のあや(たとえ)」であって、
本当に埋もれるくらいの部屋であった、というわけではありませんので念のため!)

「ああ、こんなところにあったのか〜」  BY 知人

それを聞いて、
「ああ、ご自分を取り戻しているなあ」
と、そんな感慨を抱いたのでした。
味わい直している、と言ったほうがいいか。

知人の仕事は本当に忙しく、
責任あるポジションで長いこと頑張って来られたんですが、
このたび、人生の次のステップへと移ることを選択なさったんだなあと。

さて。

このお片づけの話で、自分のことを思ったんですが、
わたし達は皆、人生という旅の過程で、あちこちに自分の「かけら」を置いてきているんじゃないか。
とそんな気がします。

思い残し。
やりたかったこと。
大切にしていたこと。
完了させるべきこと。
完了させるべき感情。
自分との約束。

あちこちに、散りばめるように置いてきてしまったそれらは、ずっとそこで待っている。
見つけられ、回収されるのを。
ずっと声なき声を発し続けている。
そんなふうに感じます。
その声をあまりに無視し続けると、人生が楽しくなくなったり、流れが悪くなったりすこともある。

(まさに自分のこととして思います)

なので、
人生のある段階で、手をまっすぐに天に伸ばし、

「戻ってこい!」

と「召喚」する必要がある。

全てのかけらを自分のもとに取り戻す。
戻ってきたそれらは、思いもかけぬエネルギーを私たちにもたらしてくれる。
(もともと、わたし達はそういうものだったのです)

知人は新しい場所に立って、
これまで多くの人のために注いできたエネルギーを、
同じだけの集中力と繊細さで、これからご自分に向けて注いでゆかれる。
その姿はわたしにとって、
仕事で頑張ってらっしゃった時と全くもって同等に魅力的です。
そして、全く同等に、時間を割く価値のある大切なことだと感じています。

さて。
わたしもこの連休は、自分と語り合い、

(と言っても、PCやノートを前に「ボーっ」としているだけですが)

改めて「それ」について洗い出しているところです。
でもって、随分と長いこと(30年にわたって!)
「やりたい」と思ってやっていなかったことを
始めてみたりしています。

どんなエネルギーが自分に戻ってくるのか?
どんな変化を自分にもたらすのか?実験中。

今日の文章を読んで、心動いた方。よろしければご一緒にぜひ。

「自分のかけらを取り戻す」。

 

 

 

 

(何をしたかったかというと、一つは絵をかきたかったのです。

子どもの頃は、それこそ夜も昼もなく、かいて遊んでいたものでした。

 

時代は変わり、「今風に描こう!」と思い、絵を描くソフトを探しているんですが、

決めるのに時間がかかりそうなのでとりあえず鉛筆でざっくりかいてみました。

 

感想→昔はもっと手が動いていたのになあ、などなど、

いろいろ残念な感じを山ほど感じることになりました。

けれど、やっと「始めた」ことなので勇気を出して貼ってみたわけでした。

 

何が自分に戻ってきたかというと、一つだけはっきりと言えるのは、

「たやすく無心になれる時間」でしょうか)

 

 

 

 

 

 

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