「演じる」ことの効用はー演劇が及ぼす力

 

 

 

 

 

姪が参加している劇団の公演を見に行ったのです。

 

 

見たもの聞いたものは自分に移ってくるので、

基本、表現活動は自分が「これはいい」と確信したものだけ見るようにしているんですが、

今回はやはり「身内」ということで。

 

 

 

 

わたし自身も、20代、地元の劇団で、この姪のように

お芝居をしていた時期があるんですが、

公演を見ながら、しみじみと、

 

 

 

「お芝居っていうのは、エネルギーがいるよなあ」

「昔は、これだけの体力とエネルギーが自分の中にもあったんだよなあ」

 

 

と、そんなことを思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

本題は「演劇が人に及ぼす効用」について。

 

 

 

 

 

私自身、

演劇経験を通して、

大げさにいうと『人生変わった』感覚があり、

 

教員時代は、

その『効果』も意図して、子どもたちと、

中学生にしては結構高難度な舞台を作っていました。

 

 

 

 

人って、本当にどこまでもどこまでも伸びていく。

限界がない。

そして、何者にもなってゆく、

 

ということを毎回実感していたものでした。

(ああいうのを「生きていると感じる瞬間」というんでしょう)

 

 

 

 

 

 

人前では耳まで赤くなる。

顔すらあげられない、

つっかえつっかえ喋るような子が。

 

 

 

やがて、腹の底から朗々と、

響き渡る声を出すようになる。

その、まっすぐ前を見る目に、宿る光の強いこと!

 

 

 

 

さて、

演劇のもうひとつの効用なんですが、

それは、

『セリフがあること』。

(何じゃそりゃ、当たり前、と言われそうですが)

 

 

 

『自分のものではない、他者の言葉で他者の人生を生きる』

 

 

 

 

これがとてもいいところ(大切なところ)。

前に書いた、

『人の変化』

 

 

 

それがなぜ起きるかというと、

『大きな声を出す訓練をしたから』。

ただそれだけではないのです。

 

 

 

 

●『他者の言葉、他者の人生に仮託して、自分の感情を解放する』

●『他者の言葉、他者の人生に仮託して、自分も知らなかった、

  自分の内なる能力にアクセスする』

 

 

 

 

 

優れたストーリーと、優れた『言葉』を持つ演劇では、

これが起こります。

演者を、1人では越えることができなかった、

そもそも、その存在すら知らなかったような(未知の)世界へ、枠の外へ、

いとも簡単に連れてゆく。

 

 

 

 

それが、優れた脚本と、優れた演劇が持つ力です。

身体、精神の両方とも

「枠を超え、はるか先へ行く」ことができる。

 

 

 

 

ここまで書いて、

日本でももっと、

演劇を取り入れた授業やビシネスセミナーが盛んになってもいいのにな、

とつくづく思います。

 

 

 

「知識」「分析」「判断」「思考」…

そういったものを超えた(包括した)

感覚こそが、これから必要とされる時代が来る、

 

と、そう思います。

 

 

 

 

12月ですが、

地元でやる関連ワークショップ。

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/arumoni

家族の幸せのために何を?-その人は日本の歴史を学び直すことを選んだ

 

 

 

 

 

少し前、

「松平家のお片づけ」

という本を読んでいました。

(松平家、というのは徳川家の元々の家系、ですね)

著者、松平洋史子(よしこ)さんが子どもの頃のこと。
年末に自分の持ち物を全て点検し、いらないものはお手伝いさんが処分する、
ということを毎年やっていたのだそう。

で、よしこさんは、ある年、間違って国語の教科書(だったかな?)
を「いらない」方に仕分けしてしまった。

お手伝いさんはそれを処分し、
そして3学期。

教科書は当然、ない。

よしこさんは「忘れました」と言ってその場をしのいだそう。
けれど、それも何回もは通用せず。

先生はやがて、家に連絡をした。

すると、よしこさんのお母さまだったかお祖母様だったか
(ちょっと忘れましたが)
が言った。

「娘の判断ミスです。
本人に責任を取らせてください。
教科書は書き写させてください」

すごい…。
腹が据わっている。

自分の持ち物について考える。
年に一回、総ざらえして見直す。

自分の部屋という限られたスペースの中で、
何を手元に残し、何を手放すのか。
(松平家では、収納棚を安易に増やす、ということは
許されなかったらしい)

それは、
自分はこの一年、どう過ごすのか。

まさに、「自分」について考える、ということです。
自分の生活を(人生を)「プランニング」をする、ということです。
しかも、毎回毎回真剣勝負^^ 

何を書きたいかというと、
上記のような視点が、子どもの頃から自然と息づいていたということ。

この価値観を土台とした「思考と行動の訓練」が、
子どもの頃から自然と行き届いていた、ということ。

さらには、多分「松平家」という場所だから、
特に残ってきたのであって、
日本人、どの家も昔はそれが「普通」であったのではないか、ということ。

「断捨離」
「ときめくお片づけ」

それらをことさら言葉にしなくても、
それは日本人として、当たり前にできていたことだったのではないか?
ということ。

今日のタイトルは、私のクライアントさんのことです。
この方とのコーチングセッションはもうすぐ10年。

お子さんも増え、
そして、
緻密な努力と不断の工夫を続けてこられたお仕事も順調。
(そのプロセスをずっと私は見、聞き続けてきたわけですが)

たくさんの自由な時間を生み出すに至っていらっしゃる。

その、生み出した自由な時間で、クライアントさんが選んだ一つが
「日本の歴史を学び直すこと」
だったのです。

教科書に書かれていたものではない、
より本質の情報を学ぶため、有料受講なさっている。

「寄って立つもの」を。
「自分たちの中に流れているはずのもの」
を学び直したいのだ、

と、
一言でいうと、そういうことなのかなと。
(そういう言い方はなさいませんが)

子どもに、何を伝えればいいか?
子どもに、何を身につけて大人になってほしいか?

皆さんは、どうですか?
何を思い浮かべますか?

「必要とされる能力」

なんてものは、
時とともにどんどん変わっています。
例えば私たちが子どもの頃から、いまに至るまでの指導要領の移り変わり。

今は、「AI台頭」を前にまた色々と言っている。

何が正しいのか?
何にすがればいいのか?
どうすれば「幸せ」になれるのか?
(そもそも幸せとは何か、ですが)

大量のネズミが
あっちへだ〜っ、こっちへだ〜っと移動するように、
目先の旗に踊らされて右往左往してきたのが、多分この七十数年の私たち。
では、なぜ右往左往しているのか?

それは、私たちが、日本人としての「水脈」と。
「通奏低音」とのつながりを絶たれているから、なのではないか、と思うのです。
それを知らないから。

繰り返します。

私たちにとって、「美しい」のは何か?どんな価値観か?
本来何が私たちに「合って」いるのか?

この細長い島国で。
豊かに変化する四季の中で。

西欧文化とは明らかに違う、世界でも特殊な脳の機能を作り上げてしまう
「日本語」という言語を使って、
2000年以上にわたって営々と歴史と文化を紡いできたのが私たちです。

(詳しくはこちら)
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12292650593.html?frm=theme

自分の子どもたちの心身の中に、脈々と流すもの。
遺すもの。
つなげるもの。

将来、
意識や思考を超えた、
最も深い部分で、彼らの人生を導き、方向付ける「在り方」として、
私のクライアントさんは、

「お天道様が見ている」

に代表される、「日本人」としての在り方、を選んだのだろう、
と思います。
何かあった時に
「寄って立つ」在り方として。

これは、私のクライアントさんのお話なのですが。
改めて、
あなたは、何を残しますか?何を伝えますか?

それを考えるということは、
つまり、自分自身の人生をどう使うかを自分自身に問う、
ということなのです。

 

あなたが幸せならあなたの一番大切な人たちも幸せなのだ-「父の長火鉢」

 

 

 

 

 

 

クライアントさんが家族のお話をするのを聞いていて、
ふと思い出したんですが、
父が、福岡だかであった長期研修から
帰ってきたときがあったのです。

 

で、
そのときの父の様子が、あきらかに違った。

一言で言うと「テンション、高!(笑)」。
あれあれ?こんなにしゃべる人だったっけ? 

 

研修先でいい仲間に出会い、その仲間たちと数週間。
(はっきりとは覚えていないんですが)
みんなで頑張ってきたんだな、
いいチームが出来たんだな、

 
 
というのが、今思えばよくわかる雰囲氣でした。
父は上機嫌で、焼酎を飲みながら、見たこともないいろんな人(仲間)
のことを語り、語り、語り…。

ああ、違う世界を見てきたんだな~、というのが
よくわかりました。

 

 
どんなに父が盛り上がっていたかというと、
それから数日たって家に届いた巨大な箱状の荷物。

研修が終わってから、街で仲間たちと遊び、
そして大好きな骨董品やさん巡りもしたらしく、
大きな四角い火鉢まで買ってきてしまっていたのです。

(木製の。時代劇でよく見る長いやつ。親分が座っていそうな)

 

他にも、細々と、矢立てなども買ってきていたような。
母、そこに関しては無言。
(私は嬉しかったですが)

 

わたしが小学生の頃の話です。
細かいところは本当にもう覚えていないのですが
でも、とても鮮明に覚えていることがあります。

 

それは「感覚」。

この出来事は、わたしにとって、とても幸せで、
楽しくてたまらないという満ち足りた「感覚」で満ちている。

 

父の表情。
何を言ったかはもはや、全く覚えていませんが、
得意げに語るその調子。

 

数歳若返ったような。
まるで若者のような父の高揚した「存在感」。
きっと、その研修は、父にとって
存分に自分の力を自分らしく発揮できた場であったのでしょう。

それは、わたしたち家族にとっても、
ほんとうにほんとうに幸せな時間であり空間であり、空氣でした。

 

仕事や人生、普通に悩んだ時期もある父で、

その時期も子どもながらにしっかりと見、
そのときの薄いブルーに沈んだ湖の底のような
家の空氣も味わって育ちました。

 

それだけに。

父が笑っているということ。
本来の父であること。
(本来の父は、頭がよく、学ぶことが好きで、
社交性にも企画力にも創造力にも富んだ、
なかなかの『出来る男』でした。多分…)

 
その質そのままでそこにいる父の存在を感じることが、
ほんとうに嬉しくて、楽しくて幸せでした。

 

ちなみに、うちは6人家族。
そして、多分この頃は弟が生まれたばかりで、乳飲み子状態でした。
いや、母はもしかしてお腹が大きかったかな。臨月?
父よ、よく行った。

 

ここまで書いて。
あの時の父は、とくにわたしにとっても誇りなのだな、
と今、思い至りました。

 
 

そして
今日のタイトルへと行きつきます。

「あなたが幸せなら、あなたの一番大切な人たちも幸せ」。

 

 
どうぞ、
自分を生きることに。
自分を存分に表現することに、躊躇しないでください。
遠慮しないでください。
氣は使わないでください。

 

何よりあなたが幸せなら。
笑っていたなら。

あなたがあなたの人生を存分に生きていれば、
その、拡大したあなたから醸し出される
生き生きとした豊かな波長を全身で浴びて
あなたの大切な人たちも幸せです。

 

 

そして、それこそは
大切な人たちの身体に染み入り、記憶に刻まれ…
あなたがいなくなっても、
大切な人の一生を鼓舞し続ける。

あなたが大切な人たちへ手渡せる
何よりの、そして消えることのない財産なのです。

 

 

 

 

 

願いはただ一つ「自分の手で触る。自分の目で見る」ー「どろろ」の話

 

 

 

 

久しぶりにアニメを一生懸命見ています。

手塚治虫の「どろろ 」。

1969年に一度アニメ化されていて、50年ぶりのリメイク作品。

 

 

*  *  *

 

 

戦国時代。

 

 

 

鬼神と契約し、

生まれてくる自分の子どもの身体と引き換えに

権力と国の安寧を手に入れたとある領主がいた。

 

 

 

 

 

その子は生まれた瞬間、

目も鼻も口も手足も12の鬼神にもぎ取られ、

密かに川に流される。

 

 

 

16年後。

辛くも命を取り留め、

義手義足義眼ながら神のごとき身体能力を身につけた子「百鬼丸」は、

自分の身体を取り戻すため、

12の鬼神を倒す流浪の旅に旅立つ。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

という…

なんか、身体を取り戻す話だよな〜、

というのは知っていたんですが、

設定が結構きついのでそこ止まり。

けれど、見てみると面白い。

 

 

 

 

 

 

 

「どろろ」は

貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)

(尊い生まれの子が捨てられ、試練を経て親を超え世に正義をなす物語のパターン)

なおかつ

ロードムービーの基本構造を持ちつつ、

2019年、漫画とも1作目とも違う、いろんな意味で新しい進化を遂げている。

 

 

 

 

 

 

 

2019年のどろろは

百鬼丸が身体のパーツを取り戻すごとに、

 

 

 

「世界と(自分と)繋がりを取り戻す」

 

 

 

という「自分探し」のお話になっている。

 

 

 

 

 

 

 

手足はもとより、視覚聴覚嗅覚、声、触覚の全てがない頃は、

感情もない。

 

暑い寒い、痛いもわからない。

周囲は自分に「敵意があるか、ないか」のみで分けられているのだけど、

 

 

 

皮膚感覚を取り戻し、

聴覚を取り戻し、

 

世界と触れ合う感覚が増えるごとに驚き戸惑うその様は、

まさに、生まれたての赤ん坊が

ゆっくりと世界と出会っていく様子そのまま。

 

 

 

 

 

 

声を取り戻してからも、

「自分の声がうるさい」

(声は骨伝導でも聞くので、わんわん響いてうるさかったんでしょう)

 

 

 

という理由で言葉を話さなかった百鬼丸が、

初めて人の名前を呼ぶ場面はちょっと感動的。

 

(一緒に旅するどろろの名前を、かすかに絞り出す。

ものすごく変なイントネーションなのが笑える)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今現在、私の見ている百鬼丸は、

 

 

 

どろろを除く周囲の人間全員から

「自分の身体を自分の元に取り戻す」

という当たり前のことをガンガンに阻まれながら、

(百鬼丸が身体を取り戻すということは、父である領主の国が滅ぶということなので)

 

 

 

 

 

 

「ジブンの…てで…さわる…!」

 

 

 

 

 

 

ずっと一緒に旅してきたどろろを、自分の手で触るのだ、

自分の目で見るのだ、

 

 

 

 

と、その一心で血を飛ばしまくり、

闘っているところなんですが、

(その願いが切ない)

 

一体この後どうなるんだろう、百鬼丸は幸せになれるんだろうか、

と大いに心配なところなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私がこのどろろと百鬼丸の旅を見ていて思ったのは、

私たちも、

 

 

 

「本当の自分の目」「自分の耳」「自分の感覚」

 

 

 

というものを取り戻している旅の最中なのではないか?

と。

 

 

 

自分のものだと思っているこの「世界を見る目」、

「世界を見て聞いて感じる視点」は

本当に自分のものか?

 

 

 

百鬼丸のように、本当はどこかへ置いてきているんじゃないか?

どこかに人質みたいに、

置いてきたんじゃないか?

 

 

 

代わりに持っているのは、誰か他のもの。

常識という名で(もしかして過去数十年?数百年?)

ずっと信じてきた何か。

そういうことにしておきましょう、というようなもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういうものが、

どんどんあらわになって、自由になる時代。

本当の意味で、

「自分の目で見て、聞いて、感じ、言葉にする時代」

を私たちは生きている。

準備はいいか?

 

お前の目と手と耳は戻ってきているか?

 

 

 

 

 

 

 

と、そういう物語にも見えます。

 

 

 

 

 

 

(とにかく絵が綺麗✨✨)

 

 

 

 

 

 

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