「クレヨンの思い出」

知人よりキャンドルをいただきまして。

香りがとても良いのです。

夜に火をつけると、その大ぶりなオレンジ色の体からゆらゆらと上る炎が

なんとも気持ちを落ち着かせます。

そのお礼もかねて

その方のお誕生日も近かったので

わたしも何かお送りしたくなり買い物に出かけました。

立ち寄った数件目の店で

吸い寄せられるように目に入ったのは

「クレヨン」。

太いクレヨンが、色とりどりに缶ケースに入って楽しそうに(と見えた)

並んでいます。

日本のものではなく、ドイツかどこか?のものだったような。

「うわ~。なつかしい」

瞬間、あの、クレヨンを紙にぎゅっとおしつけたときの「ぬりっ」という感触と

独特の香りがよみがえってきました。

どこまでもどこまでも伸びていく

太いクレヨンの線。

小学校2年の時にかいた「虫歯予防ポスター」が

ものすごく褒められたんですよね。

みんなの前で先生から「この絵はどこが素敵か」という解説までしてもらい

賞をもらって、長いこと、校内に貼ってありましたっけ。

クレヨンと水彩で描いたんですが

自分の中からあふれてくるものを一気に描きあげたあの感覚を

今でも思い出すことができます。

体の中から自然にいろんなアイデアがあふれてきて、もう楽しくて楽しくて…止まらなかった。

体の中で脈打つ「何か」を

何らかの形で表現せずにはいられない、表出せずにはいられない

そんな感覚。

それからしばらくたって

ふと、以前のようには「描けなく」なっている自分に気がつきました。

鉛筆の線は小さく、硬くまとまり、伸びやかさのかけらもなく。

消しゴムの後だけが残り、

何分たっても四分の一も埋まらない白い紙の空白。

子どもながらに愕然としました。

もう、体の中にあの「リズム」を感じなくなっていることに気づいたのです。

代わりに聞こえてくるのは自分の中の声。

一本線を引くごとに

「こんなのじゃだめだ」「もっとうまく」「こうじゃない」…。

小3の時のことでした。

(NLP的にいうと、あるプログラムが形成された瞬間であり

ある「ビリーフ」を私が自分の中に取り入れた瞬間、ということですね)

さてこのように…神とつながっていられる天使の蜜月の時代は

いとも簡単にわたしの中から去って行ったのでした。

クレヨンを見ると思い出す「あの感覚」。

確かに、わたしにもあんな頃があった。

あの頃の私は「つながって」いた。創造の源と。

そして、自由に表現した。歌い、踊り、さえずり、存分に自分の響きを高らかに奏でていた。

絵をかくのが好きなその方に

そのクレヨンをプレゼントすることにし

こう手紙を添えました。

「自由に、あなたの色を存分に描いてください。

紙からはみ出したってかまわない。

あなたの絵を、これからも存分に描いてください。力強く」

実は、何より自分へのメッセ―ジなのですが。

人は「何かを獲得」するからすごくなるんじゃない。幸せになるんじゃない。

「自分に還る」ところに

すべてを解きほぐす「鍵」があるんだなということを

再び思い出させてくれた

「クレヨンのにおい」でした。





「チーム自分」

友人コーチからメールが来ました。

ご親戚が入院中で

そのつきそいによく病院に行っているとのこと。

「看護三昧でちょっとお疲れモードです。

でも!

その病院は

チーム医療が県内ではトップクラスの病院で

ベッドの周りに10人以上のスタッフ

(医師・看護師・理学療法士・作業療法士・言語聴覚士・歯科衛生士・管理栄養士・薬剤師・介護福祉士)

などが集まり

最初の動きのチェックがあり、共有していました。

おじやん

(ってこの方はご親戚のことを呼んでいるのですね^^)

がんばれ~!」

その人の

「目標達成」のために

エキスパートが全員で集まり

方向を確認しあう。

「よし、これでいこう!」とみんなで手を取り合う。

連携を取り合ってともに進む。

「おじやん」のために結集した

これはまさに「チームおじやん」。

か、かっこいい…。

こういうの、聞いているだけで身震いしてしまいます。

おじやんも、なんとも心強いことでしょうね。

さて

そして、私たちの中にも「チームおじやん」ならぬ

「チーム自分」がいる、というお話なのです。

自分の中にいるたくさんの自分。

(NLPではこれを「パート」なんて呼びます)

自分にとって好ましいパート。

好きなパート。

私だったら、『好奇心』パート(羽の生えた子どもの姿をしている)

や人前で場に浸透する波紋のような気を出さないといけない瞬間のパート

(吟遊詩人とか、アメノウズメのミコトみたいなイメージです)

は好きですね

その存在を受け入れている「パート」です。

そして

いなければいいのに、とつい思ってしまうパート。

(私の場合は例えば「怖がり」のパート。なかなか前へ進めなくなるときが)

ほんとうは、

「好きな」パートはもちろん

「嫌っている」「受け入れがたい」パートも

自分のために、よきことをしようと頑張ってくれているパートなのです。

怖がりのパートは

実はわたしを危険から守ろうとずっと奮闘し続けてきたパートです。

私が幼い頃から、ずっとわたしを見守ってきてくれたかけがえのないパートです。

イメージだと「老執事」かな(笑)。

「お嬢様!おやめくださいっ!」みたいな…

いつも私の後ろで私が危険なことをしないよう、「常識」を説いてくれます。

袖を引いてくれます。

さて

自分の中「子ども」や「詩人」や「老執事」。

そのほか「学者」や「武士」などなどの…(すいません、いろいろいます)

たくさんの「わたし」。

つまり、わたしをわたしたらしめ、わたしの望む人生を作っていってくれる

大切な「チーム自分」。

わたしたちの仕事(コーチの仕事)というのは

ひとえにこの「チーム自分」を

あの、おじやんのチームのように

「お互いの存在と力を認め合った」「結束力のある」チームとすること。

最高の力を発揮できる状態に調整していく、というところにあります。

チームの中に「嫌われ者」として扱われる人がある限り

そのチームは力を発揮できません。

その人を「排除」すれば済むという問題ではない。

また、次の「嫌われ者」を生むだけです。

自分の中に敵はいない。

すべてを自分のリソースに変えてゆくこと。

すべての自分が手を取り合って、進んでいく。

「チーム自分」がみな仲良く、うまくいっているときほど

その人の人生は軽やかに、スムーズであり

わたしたちは他にも求めなくとも、ただ、今、あるがままの「幸せ」でいることができると

感じます。

ただ内側から満ちてくる幸せ。

自分の中のたくさんの自分。

「チーム自分」。

大切にしたいものです。

「麹菌をまく」

姉がクリスチャンなこともあって

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」

などという言葉を

10代の頃

意味も変わらずただ何となく覚えていたりしたのでしたが。

この

「種子をまく」

というイメージ(メタファー)は、わたしの日々の生活のあちこち

仕事をする場面でも

結構お気に入りのイメージとして出てくるものです。

焦るとき、成果を急ぎたくなる時…地に足がつかなくなりそうなわたしの心を鎮め

目の前にある「この瞬間」に、丁寧に

集中させてくれます。

先日、もっとふつふつとイメージを掻き立てられる(モチベーションの上がる)

メタファーを発見しました。

知人の講師が言いました。

「たとえば、そのセミナーの一時間の中で、うわ~っと劇的な変化が起こって

受講生さんが『先生!よかったです!』なんて言ってくるのをやっぱりどこかで望んでいたけれど

最近、そんなものでもないかな、と思い出した」

そうそう。

確かに、そういうことがあると、その場の満足感や「やった~!」という達成感はあるんですけれどね。

「講師満足」ってやつ。

 

彼女が今担当しているセミナーは

リレーのように、さまざまな講師がバトンをわたしながらクラスの授業を進めていくという形です。

彼女が担当するのはその一番初めの2時間のみ。

わたしと同じくコミュニケーションを専門とする彼女は

そのクラスが「学べる集団」になるように、一番最初の「土台作り」

(土を耕し、やわらかくし、物事がしみこむ土壌を作る)

という役割を担っています。

彼女はいつも、その「耕した畑」にその後、どんな変化が起き、

クラスの人たちがどのように成長して行くのか、それをともに味わい、見届けることはできないのです。

最後の収穫をともにすることは、ない。

「寂しいけれどね~」

確かに。

「でも、最近思うんだけど

この人たちの中に、麹菌をぽつ、と埋め込むような、そんな時間でいいのかなと」

麹菌。

あの独特のにおいが一瞬、よみがえりました。

子どもの頃、うちで味噌を作っていました。

蒸した麦の上に麹菌をふりかける。

見た目は変わらないのに、でも、「確実に中で何かが起こっている」あの感じ…。

温かくなっている「もろぶた」の中を覗き見ては叱られたものでした。

私が寝ている間も、くぷくぷと、静かに、ゆっくりと、生命活動は進行し…

そして翌朝には麦は「変なにおい」になって真白くなっていましたっけ。

そしてその

変化した麦と大豆がまたさらに絶妙な化学変化を起こしてくれる。

うちの味噌…本当においしかった。

「ああ、楽になりますねえ…」

つい、そういう言葉が出ました。

ていねいにていねいに、

目の前の人たちに、ただ麹菌をまく。

今すぐの、目の前で「劇的な変化」でなくていい。

その人の中で、ゆっくりと、確実に、くぷくぷと化学変化が進行していくことを意図し。

その人の人生でいずれ豊かに「醸造」された「成果」がその人の人生を潤すことを意図し。

コントロールへの欲求を手放し

相手を信じ、場を信じ、願いを込めてひとつぶの麹菌を手渡す。

どんなものに変わるのか…出会う要素によってさまざまな変化の可能性を秘めた

くぷくぷ…という音が聞こえます。

小さいころに体で聴いた、あの音です。

肩の力がどっとぬけて

そしてとても大きな自由を感じました。

広い地平線を見渡しているかのような自由。

何かから解き放たれたような感じ、というのでしょうか。

先生方

親御さん

世の「人に何かを伝え、人の変化を促す」ことをしている多くの方にも

お伝えしてみたくなり

書いてみました。

「もっと世界を、あたしは見たい」

という本があるんですよね。

中村公子のコーチングna日々♪

以前、わたしのクライアントさん。

今も大切な友人である方が、貸してくださった

本です。

一人の女性が

バスを借り切って、大陸横断のツアーに挑む

というお話なんですが。

この本を貸してくれた方とわたしが出会ったのは

この方が管理栄養士をしていた頃でした。

現場でのこの方のリーダーとしての奮戦記を聞くのはとても楽しく

自分が知らない世界の

さまざまな「事件」、をいつも笑いながらクリアしていくこの方の「軽やかさ」には

心浮き立つものでした。

「冷凍の魚を焼いたら

なんと、ぜんぶ(人数分、すべて、数百食分)溶けちゃったんですよ~。

おかずがなくなっちゃって困りました。」

てなことを

とても楽しそうにおっしゃるのです。

まるで「その問題」が問題ではなく

自分に新しい世界を見せてくれる扉であるかのよう。

「こんなことになっちゃった。わたしってどう対処するのかしら」

「こんな状態で、どういう可能性を切り開ける?」

というのがこの方の常なる「基本スタンス」。

その出来事と、まるで戯れているかのような軽やかさ。

さて

この方がずっと温めてきた夢は海外青年協力隊に参加することで

そのための資格の一つとして、管理栄養士をとり、現場経験も着々と積んでいらしゃったのでした。

わたしが出会ったころは、ちょうどその「夢」にそろそろ移行しようかな…

という頃だったのですが。

結果、

彼女の能力とは全く関係ないところのちょっとした事情で

その夢はかないませんでした。

それからしばらくは日常が続き・・・。

ある日彼女は

「また連絡します!海の上からスカイプしましょ~」

との言葉を残して

船上の人となってしまいました。

(100日間世界を旅する船に乗っかったらしいです)

わたしの手元に上記の本を残し。

「ああ、ついに世界を見に行ったか…」

(気持ちは港に立って出航を見送る父の気持ち)

結局

その「海上スカイプ」は一度も実現することはなく^^

(彼女は恐ろしくPC関係が苦手な人だったのです)

次に彼女に会ったのは半年後くらいだったでしょうか。

少し日焼けした満面の笑顔で100日間のスライドショーを見せてくれました。

それから

元気だという風の便りを聞くのみで彼女と会うことはほとんどなく。

返しそびれた本を手元に月日は流れ…

先日、4月、彼女の誕生日。

プレゼントを添えて本をやっとお返ししました。

住所、変わってないかなあ、と心配しつつ。

GW真っ最中。

電話がありました。

「お久しぶりです!今、大宰府です~。プレゼント、ありがとうございました!」

お休みを楽しんでいるのだな…と思っていたらそうではなく
彼女は旅を仕事にする人になっていました。

電話の向こうの彼女の声はことさら高揚するでもない、いつもと変わらぬ声。

が、わたしの方は感無量でした。

「もっと世界を、あたしは見たい」

ずっと、見続けていたんだな。これからもずっとそうやっていくんだな

と思いました。

栄養士さんだった時も

夢がかなわなかったときでさえも

自分の心の奥底に流れる旋律。

自分の魂の指し示す「センサー」の声を聞き続け

自分の人生の「流れ」に沿ってそれを生きている。

無理することなく。

自分の人生の中で、そのときにできる方法で、それを実現している。

彼女はわたしの中で、そういう風に生きている人の五本の指の中に入ります。

彼女は本当に、軽やかです。

彼女が旅から帰ってきたら

また会うことを約束して電話は終わり

今からとても楽しみにしているところなのです。

「忘れえぬ場面」

なぜか心に残っていて、ときおり何の脈絡もなくふっと思い出す光景

というのが誰しもあるのでは、と思うのです。

朝方見た番組のせいもあって思い出したんですが

わたしには

そういう二つの場面があります。

どちらも子どもの頃、どこかの友達の家で見たマンガの一場面なんですが。

一つ目は、「愛のアランフェス」というマンガだったと思います。

こんな感じのお話でした。

フィギュアスケートのシングルの選手として将来を嘱望されていた女の子が

ペアに転向することになる。

組むことになった相手も、男子シングルの世界での相当の実力者。

周りからも

「あの二人ならきっと大技を入れてくるだろう」と期待されている。

女の子は、彼についていこう、自分と組んで、彼のレベルが下がった、と言われないよう

もう必死で、がむしゃらにがんばります。

「もっと速く」「もっと高く」「もっともっと」…。

が、彼女の努力は「力み」となって、空回りを続けます。

さまざまな葛藤が多分あり(このあたり、ほとんど覚えていないのであしからず)

最後に試合で二人が見せた演技は

大技も何もない、とてもシンプルなものでした。

会場はざわっ…と二手に別れます。

「え、たったこれだけ…?」

という反応と

「二人が合っていてよかった」

という反応。

そして、次の一言、これが、わたしの「忘れえぬ場面」なのですが。

完全に調和した、まさに「一糸乱れぬ」演技をする二人。

それをみて、コーチ(?)が一言、ぽつりと言います。

「…あいつら、ペアがわかったな」

「もっと速く!」「もっと高く!」というエゴの先にある

二人で創るという世界、それを表現する新たなる喜びに目を開いた二人の姿と

繰り広げられるその演技に

とにかく震えるような感動を覚えたのでした。

もう一つの「場面」は

もう、タイトルすら覚えてないマンガ(笑)

指揮者の話でした。

天才的な指揮者があるコンクール?で指揮をしている場面。

その指揮者が一瞬「視線」でオーケストらを制する。

その瞬間、会場に「海」が見えたりする。

会場がざわ…っとどよめき

(こういうマンガのお定まりです。ギャラリーが「いかにすごいか」の解説者となる。

「い、いま、目で…」(すごいっ)

と、圧倒される。

それだけ。

そこしか覚えていないんですけれど。

わたしの記憶に執拗にまとわりつく2つの「場面」。

結局わたしはその2つの場面の根底に流れていた「エッセンス」(醍醐味)を

自分の人生のにおいて、存分に味わう道を選んだなあ、と思います。

言葉にするとやっぱり

「場の力」

「場を創る」

「共鳴」「共振」

「コミュニケーション」

(自分とのコミュニケーション、他者とのコミュニケーション、自然とのコミュニケーション…

言語・身体・その他すべてを含む広い意味での)

ということになるのでしょうか。

人が自分の魂とつながり、その本質を存分に表現し、その響きが「場」に伝わったとき

その場はすごいことになります。

響きは波のように共鳴を起こし、広がって大きく大きく増幅され

そこにいる人たちすべてが「自分の本質」に気づき「最高の能力」を発揮し

生み出せる可能性を持つ場となります。

つまり

「奇跡」が起きる場となりえる。

そして

その「奇跡」がおきる場をいかにつくるか

それをずっとずっと考えているのが自分たちの仕事である気がします。

その場をつくれるのなら、(その力を与えてくださるのなら)

滝にも打たれましょう、座禅もくみましょう、の勢いです。

セッションの時も、セミナーの時も

そんな場が創れることをしんしんと祈りながら

日々対している気がします。

「理由はないけれど、心惹かれる感覚」

「小さいころから、ただ、好きだった感覚」

「それをずっと、味わっていたいと感じる感覚」

「そういうのを『価値」と呼びます」と昔、コーチングのテキストにありました。

「たましいのご飯」と言った人がいて

わたしはそっちの方がわかりやすくて気に入っています。

きっと、みなさんの記憶の中にも

ずっと、主旋律として、皆さんの人生の根底を脈々と流れる「ある静かなメロディ」が

あるのじゃないかなあ、と思います。

人生を流れる「自分だけのメロディ」。

主旋律をあらためて確認するということは

自分の軸を確認し、凛と立って自分の人生を生きるために欠かせないものです。

そして、明日へのモチベーションを生み出してくれます。

自分の中の、決して枯れることのない、「大きな源」の一つがこの部分なのだと感じます。

いつか、みなさんの「主旋律」のお話を

ぜひ聞かせてください。

「刀を抜くときには」

近頃やっと居合が面白くなってきました。

はじめたのは去年の今頃でしかた。

ほとんど練習しないまま1年が過ぎ…何とも遅い開眼です。

面白い、と言っても

まだ一番初めの型さえ満足にはできず

型の更にはじめの刀を抜く「しゅき~ん♪」という動作を楽しんでいる段階。

(その、超初心者が抜刀について書くというのが恥ずかしいのですが)

とにかく

すかっ!

すぱっ!

と刀が抜けると、本当に気持ちの良いものです。

(そういうのはめったにないですが)

正座の状態から右ひざを立て

目にもとまらぬ速さで刀を前に抜き、払う、

という動作なんですが

まあ、「目にもとまらぬ速さ」になるには何十年かかるのかしら…と思いつつ。

面白くて、何回も何回も…飽きずにやっています。

何が面白いかというと

刀を抜くのは右手、だと思っていたんですが

左手(鞘に沿えた手)がとても重要な役割を果たすのです。

抜刀の動作に限らず、刀を両手で使う時は「左手」がメインで、右手は「添え手」になるのだそう。

抜刀のとき

当たり前ですが、右手は柄をつかんで前へすっと抜く。

と同時に

左手は鞘を後方に向かって引いている。

更に、切っ先三寸まで抜いたところで

左手(鞘)を更に後ろへぐっと引くことで

鞘から刀がはじけて飛び出す状態を作る。

二本の手が、相反する方向へ瞬時に動くことで、あの長い「刀」という代物を

速度をつけて「抜刀」できるということになるわけです。

逆に、納刀のときは

右手で鞘に納める動きと同時に

左手が鞘でもって「迎えに行く」という感じがあります。

この、二本の腕の相反する、瞬間の呼応した動き。

それを作り出す体の美しい開き具合と、全部を統合して「型」たらしめている「間」(呼吸)。

先生方の動きを見ていると

いつも

「お見事~」

と声に出して、拍手をしたくなります。

利き手ではない手こそ大事。

そこが大きな「仕事」をしてくれている。

抜くと同時に、本当は「引いて」いるのだ。

その二つが相まってよき仕事が生まれている。

これらの感覚(体験)は

居合から離れて

今、日常の様々な場面での、わたしの中での密かな「ブーム」となっています。

物事を見るとき

考える時

これまでとは違った視野が

自分の中で生まれている気がします。

頭(思考)での理解だけではなく

「身体」で実際に「わかった」感覚、体に培われた感覚こそが

応用できる

つまり、人生の中で使えるものとなる、というのは

こういうことなんでしょうか。

体が「知らない」「できない」ことは

心も精神も本当の意味ではそれを「できない」。

さて

ここまで書くと

日本人としての「身体技能」や「言葉」の伝承の話になってくるんですが

熱く語ってしまいそうなのでまたいつか。

昨日の雨が上がって今日は一転、いいお天気なので!

中村公子のコーチングna日々♪-20120503_112729.jpg

「脳を見る~秘密 THE TOP SECRET」

人は自分の見たいようにものを見て、聞いて、感じている。

万人に共通の、不変の「事実」があるのではない。その人それぞれの「現実」があるのだ。

というのは

コーチングやNLPなど

コミュニケーションを扱う(「脳」の特徴、癖を扱う)分野ではあたり前のことですが

その「脳」をテーマにしたマンガ

秘密~THE TOP SECRET 」がこのたび完結しました。

中村公子のコーチングna日々♪

友人のNLPerがつい「大人買い」をしてしまったというこのマンガ。

(わたしもですが)

2060年。

日本の警察機構では

「個人の脳の中にある映像データを見る」という捜査方法が

確立されています。

死後、摘出された脳に電気刺激を加え

死者が生前見ていた映像を再生し

それをもとに犯罪を捜査する「法医第九研究室」。

死者の脳が見た映像を再生するということは

死者が見た犯人の映像だけでなく、その人が「見た」生活すべてが再生されてしまうため

(トイレの中からベッドの中まで、とにかく「見た」ものはすべて映像として再生可能)

プライバシー侵害の観点から

法医第九研究室(通称「第九」)で扱うのは猟奇的殺人などの凶悪犯罪のみ

ということになっています。

このマンガで興味深いのは

「人は同じものを見ても、同じようには認識していない」

ということが見事に描かれているということです。

例えば、ある事件で複数の人が死ぬ。

同じ場所に居合わせ、事件に至る数日間のプロセスを全員が共有しているのに

脳を見てみると皆「違ったもの」を見ている。

Aさんを憎んでいるBさんの脳に映っているのは

実際よりとても醜く、みすぼらしい姿の「Aさん」。

幼いころに虐待を受けた若者の脳に残っている映像は

大人の顔が欠けている。

もちろんほんとうに欠けていたわけではなく

「視覚者」(脳の持ち主)には「そう見えていた」わけで、そのとおりに再生されます。

「見ている人」のフィルター(心の状態やものの見方の癖)を通して「認識した」とおりのものが

そのまま映像としてスクリーンに映し出されるのです。

これが

読んでいて、切なかったり、怖かったり…さまざまな感情を呼び起こします。

人のどうしようもない醜さ

エゴ

現実からの逃避

狂気…

本来、その人だけの「秘密」。

永遠に他者に知られることはない最後の「聖域」である「視線(の向こうにある思い)」までも

すべてを残酷に、余すところなく「白日の下」にさらしてしまう

この「脳を見る」という捜査は

本当に重く、救いがないように感じられます。

こんなふうに

「犯罪被害者の脳」「殺人者の脳」を見る、という話なので

基本、気持ち悪い絵がたくさん出てくるんですが

中には光のあふれるような美しい場面もあります。

それは

そういう思い(フィルター)を通して世界を見ている人の「脳の映像」。

事件に巻きこまれ、殺された盲目の少年「学」と飼い犬「ZIP」

少年は目が見えないので、脳に事件の映像が残っていない。

そこで、捜査員はZIPの脳を見ることを思いつきます。

ZIPの見ていた映像が決め手となって事件は解決するのですが

最後に捜査員はZIPの見ていた「日常」を目にします。

満開の桜の木の下、空を見上げる学。

振りむく学。

手を伸ばし、近づいてくる笑顔。

犬の目線から見た見上げるような桜の巨木。

降り注ぐ光と花びら。

スクリーンに大写しで広がる学の笑顔。

「色のほとんどないZIPの見ていた日常は

いつもいつも少年を見ていて

あまりにも倖せで倖せで

すべてが優しさと愛情に満ち溢れていたので

本当にこんなに世界が美しいのなら

本当にこんなに愛があふれているのなら…」

人の「秘密」。

本来秘めておきたいとだれもが願っている「すべて」を捜査という名のもとにさらけ出し

それを見続けるという「第九」の仕事の重さに苦悩していた若い捜査員は

(青木といいます。主人公)

この画を見て泣きます。

そして

「自分と世界や人とのつながり」を、再び信じてみよう(というような意味のことを)

思う。


今、自分の脳を覗かれたら

いったいどんな映像が広がっているのだろう。

もし自分が死んで、脳を取り出されたら。

「世界」をわたしの目を通して誰かに見られることがあったら

いったいどんな世界としてスクリーンに映し出されるのだろうか…。

そう思うと

つくづく「2060年に生まれていなくてよかった」(笑)

と思います。

「秘密~THE TOP SECRET」。

数々の事件に秘められた「秘密」を軸に

登場人物たちの人生を巻き込み、うねり、とんでもない方向に激走しつつ

今月、完結!


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