7月2日/9日。鹿屋市セミナー「わたしらしく生きる!」。お近くの方はぜひご参加ください

 

 

 

 

 

地域限定になりますが(鹿児島は鹿屋市。バラ園の美しい街です)

お近くの方はぜひと思い、案内を載せてみます。

(ついでに今回は「性別も限定」でした。女性対象セミナーとなります)

 

 

*  *  *

 

 

「女性応援セミナー『わたしらしく生きる!』」

 

 

女性起業家によるゲストトーク&セッションと、ワークショップの二部構成。

 

 

 ①7月2日(土)13:30~16:30  

ゲストトークと参加者交流 【ゲスト】  

・里山のおやこえん*にじいろタペストリー   吉留文佳さん  

・リトルオレンジズ   日野尚子さん

 

 ②7月9日(土)13:30~16:30  

一歩前に進むためのセミナー

【講師】  コミュニケーション・ワークス   中村公子さん

 

 

◯場所  鹿屋市 リナシティかのや 情報研修室

 

 

◯定員は各回20人。先着順。6月28日〆切)

 

 

◯詳細とお申し込みはこちら

 

鹿屋市男女共同参画推進室

 

 

*  *  *

 

 

企画者さんは、

「自分の本心を探求し、自分軸を明確にし、前に進むための勇氣が持てたら」

「自分らしく生きること」への一歩を、

 

 

 

との思いで企画されたということで、

わたしも、その意図をしっかりと満たせる「いい場」を作ろう、と、

今から楽しみなところです。

 

 

 

鹿屋市の方々限定になりますが、どうぞご参加ください。

 

 

大人は「仕事脳」でつい子どもに接してしまうー 「SPY×FAMILY」(スパイファミリー)は「親としての変化と成長」を描いたアニメ

 
 
 
 
 
今、放送中の「SPY×FAMILY」(スパイ×ファミリー)。
 
よく行く図書室の司書さんに「今一番おすすめのアニメ、なんですか?」
と聞いて、教えてもらって見始めたんですが。
 
 
簡単にストーリーを書くと…
 
 
*     *     *
 
 
 
 
凄腕のスパイ、コードネーム「黄昏(たそがれ)」は、
とある大物政治家に接触する指令を受ける。
が、その政治家は、自分の子どもが通うエリート校の保護者会にしか姿を見せない。
 
 
したがって「黄昏」のミッションは、
子どもを作り、その学校に入学させ、学業優秀生徒の保護者として保護者会に出席、
その政治家に接触する、というもの。
 
しかも、入試までたったの一週間。
 
 
 
 
 
 
 
「黄昏」は、「精神科医、ロイド・フォージャー」を名乗り、大急ぎで家族を作る。
 
孤児を引き取り、
母親役として、とりあえず出会った女性を妻とする。
が、5歳の孤児、アーニャは実は、人の心が読める超能力者。
そして母役ヨルの本業は「殺し屋」だった…
 
 
 
 
 
 
スパイ、殺し屋、超能力者。
お互いの「真の姿」を知らぬまま、三人の、何とも不思議な、
それぞれの「ミッションクリア」のための生活が始まる…。
 
 
 
 
 
*    *    *
 
 
「黄昏」はアーニャをとにかく合格させなければならないので、初めは山積みの育児書を速読したり。
 
 
 
アーニャはアーニャで、
せっかく手に入れた「家族」から捨てられないために、
黄昏の心をせっせと読み「ちちの任務」完遂のために懸命に勉強し、
入学したらしたで、ターゲットの息子と仲良くしようと頑張る。
が、なかなかうまくいかない。
 
子どもですしね。
 
(面白いのは、いくら黄昏が笑顔でアーニャに接しても、アーニャは黄昏の頭の中に高速で渦巻いている
「ミッション遂行」のための手順や独り言を全て読み取ってしまうところで⬅︎パニくるアーニャ)
 
 
 
 
 
 
 
さて。
黄昏は、初めて体験する「自分の努力とコントロールが全く効かないところに委ねるしかない」
中での任務遂行に大きな戸惑いを覚えるわけなんですが。
 
けれど、やがて少しづつ変化が訪れる。
 
 
 
 
 
 
「何事も一朝一夕ではうまく回らないものだ。
相手が何を考え、何を望んでいるか。信頼を得てふところに入り、それを観察する。
その、地味で忍耐強いつとめをこなしてこそスパイ。
 
まずはあいつ。アーニャを知ることからだ」
 
 
 
 
 
自分のミッション達成イコール、
アーニャがいい成績を収め、
友達をたくさん作り…
 
つまり、
「孤児アーニャが心も身体も『幸せに、健全に成長』することとイコール」
 
である、ということを自然と納得し受け入れていく黄昏…
 
 
 
 
 
と、今、第5話まで見て、そんな感じかなーと思うのですが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
別に、親がスパイでなくとも(笑)。
こういうこと、普通に、どの家でも、どの人にもあると思うのです。
 
 
 
 
仕事の脳、仕事の身体で旋風(つむじ風)のように家に帰ってきて、
そのままのリズムで子どもにあれこれ「指示・命令・要求」すること、
多々あるんじゃないでしょうか。
(わたしのクライアントさんいはく「あります‼︎」と)
 
 
 
 
でも、子どもは違う。
子どもは全くもって子どものリズムで動いており、その世界は最も自然と近いもの。
子どもは「自然物」なのです。
 
そこに、時間は存在せず、「早く」も、「ちゃんと」も存在しない。
彼らはわたしたちとは全く違う「時間の世界」で生きている。
(このあたり、わたしが書くまでもなく釈迦に説法ですね)
 
 
 
 
 
 
 
クライアントさんは、「切り替えが大事ですよね」とおっしゃっていましたが…
まさに。
「相手はあなたの言葉ではなく、身体の通りになる」。
(伝わるのは「非言語メッセージ(身体&無意識層のメッセージ)」が先、というやつ)
 
 
 
 
 
その身体(のリズム)で「やっても、言っても」。そりゃ無理でしょ!通じないでしょ、
と思う場面、よくあります。人を見ていても、自分自身も。
 
 
そして、
親と子、で書いてみましたが、
どんな場面でも…例えば、介護する人とされる人、とか?
あらゆる場面でこういうこと、あるんじゃないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
と、自身、軽く反省モードに入りつつ、最後に「黄昏」の台詞を再び。
 
 
 
「何事も一朝一夕ではうまく回らないものだ。
相手が何を考え、何を望んでいるか。
信頼を得てふところに入り、それを観察する。
その、地味で忍耐強いつとめをこなしてこそスパイ。
 
まずはあいつ。アーニャを知ることからだ」
 
 
 
 
 
 
 
「スパイとしての成功」と「家族の幸せ」。
 
このミッションを、黄昏はいかにクリアするのか?
この「寄せ集め家族」。いったいこれからどうなるのか??
(黄昏、アーニャ、ヨル、みんな幸せになって欲しいんですけど!)
 
 
 
楽しみなのです。
 
 

人生史上、餃子が最高にうまく焼けた話

 
 
 
というテーマで先日書きましたが。続きです。
 
 
*  *  *
 
 
「身内が餃子のお店を始めたんです。よろしければ、お裾分けを…」
 
 
 
というなんともありがたいお話をいただき、
ありったけの保冷剤を詰めた「ミニ保冷バッグ」持参で、知人と会ったのが昨日。
 
 
 
(なんでも、美味しく焼くためにはカッチコッチの冷凍のまま
フライパンに置くのがポイントだそうで、「溶け」をなんとしても阻止しなくては、と)
 
 
 
 
 
 
 
さて、
知人と過ごした楽しい数時間の詳細は省き、
夕方5時半。
家に帰りつき、速攻でフライパンを出し、「焼き」の作業に入りました。
 
 
 
 
 
 
「焼き方」(絵付き)の説明書をみながら、最新の注意を払い。
 
(何せ、いつもの餃子とは違います。餃子専門店の餃子!期待大なのです)
 
 
 
 
 
「フライパンに大さじ一の油を敷き、
プライパンを熱して、その後弱火にしてから餃子を間隔を取って並べ…」
 
 
 
 
 
説明書をガン見しながら頑張ること10分ほど(かな?)
 
いい色に焼けた餃子(形も美しくキープ)は、
カリっとした歯触りと、その後の「パシュ…」感(旨み広がる感)
 
 
…美味しかった。
とてもとても美味しかった。
そして、先にも書きましたけど、こんなにうまく焼けたのは初めてで(喜)
 
 
 
 
 
 
で、焼いていて、本当に「焼きやすかった」のですが、
そのポイントが説明書に書かれた「音」だったのです。
 
 
 
 
「七十度のお湯を餃子が5ミリほど浸かるくらいに入れ、蓋をする。
その音が、
『グツグツ、ブクブク』から『チリチリ、パチパチ』になったら蓋を開けて水分を飛ばし…」
 
 
 
 
時間指定などよりも、
ずんとわかりやすい。なんて「安心ガイド」。
 
 
 
 
 
 
さて。
この日、わたしはこの餃子お裾分けの知人に「玉ねぎ」を進呈したのですが、
(いつも書きますがうちの姉の無農薬農園謹製)
 
 
その際、とある食べ方をして欲しく、
直径15センチもある大きな玉ねぎを一つ、入れておいたのです。
 
 
 
その「食べ方」と言うのは、「玉ねぎステーキ」なのですが。
直径15センチを横一文字に切って2分割。そのままフライパンに置いて豪快&丁寧に焼く。
 
そうすると、
 
塩胡椒&バターでも美味しいし、
花がつお&ポン酢でもいける。
試していないけれどきっとチーズ&トマト系ソースもいけるぞ!
 
 
 
という…
とろっとろの玉ねぎの甘さを楽しめる、最高に美味しい一品になるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
夜、知人からメールがきました。
今日の御礼とともに、
「玉ねぎステーキ、わたしの腕がまずく、
火が通らないところが少し残ってしまい…火の通ったところはめちゃくちゃ美味しかったです!」
 
 
 
 
 
 
 
…ああ、知人よ。
それはあなたの「腕」のせいではなく、明らかにわたしの「説明不足」。
 
 
 
焼く感覚は「トロトロ」と。
(中火の弱火とか言ってしまったんですが、家のコンロによってそんなの違いますもんねえ)
断面は「ふやっと」。
側面は「ツヤツヤ」。
全体的な感触は「ややくたっと」。
 
こういう「感覚」はなんにも伝えなかったなあと。
 
 
 
 
 
 
 
どんなデータよりも確実に、
(いえ、データはすごいし、大切なんですけど)
わたしたち日本人に、
 
「ものすごく膨大で繊細な量の情報を一瞬にして伝達してしまう」
 
「擬音語、擬態語、擬声語」という話でした。
 
 
 
 
 
そして。
日頃、「データ重視」。理路整然と語るのが当たり前、という世界に住んでらっしゃる方。
オノマトペなんて子どもっぽい、と言わず。
フォーマルじゃない、なんて切り捨てず。
 
 
 
 
バランスをとりつつ、少しだけこの、豊かな「オノマトペ」の世界を
挟んだりしてみてもいいかもしれない、と思うのです。
 
 
伝わり方、
伝わる人種、
「あなた」という人の見え方
 
 
などなど。
いろんなところに案外「可能性を開く」ものになるかもしれない、と思います。
 
 
 
 

頭で考える以前に。脳を通して言語化する以前に身体に刻まれた「個性」の話

 

 

お子さん(2歳)が、お米の中に手を突っ込んで遊ぶ、とのことで。

「この間なんか、あっと氣がついたら、お米を撒いてたんです。ぱああっと!」

 

それは、いい音がしたことでしょう(笑)

 

 

 

で、その方。
「食べ物で遊んではいけない」
ということをどう伝えたらいいか、と。

 

 

 

ふむふむ…わかる〜(しみじみ)
わたしも、手ぇ、突っ込んで遊んでましたもん。米櫃に。

 

 

 

あの冷たい感触。
キュッとなる音。
周りからさらさらと崩れてきて、手が次第に埋まってくる、あの「圧」。
…面白くって、何度も何度も繰り返してましたっけ。

 

 

 

 

この話を聞いた時に、まず思ったのは、
「お子さんは『感触』を楽しんでいる」のだ、ということ。

 

お米のサラサラ感。
パラパラという音。
キュッキュッと鳴るあの感じ。

それらを味わいたくてしようがない。

 

 

子どもの興味は、
「食べ物を粗末にして…」という大人の「見方」とは全く違うところにある。
多分、お子さんはそれが「食べ物」である、ということも、その瞬間忘れてしまっているであろう。

 

 

 

 

 

で、お伝えしたのは、上記のこと、

(感触それ自体を楽しんでいる、ということ。
まさに、感触自体を開氣、磨いている途中である、ということ。
そこに「悪いことをして!」というノリで叱っても、意味がないであろうこと)

 

それから、代替物として、例えばクッションの中に入れる白くて小さいビーズに
手を突っ込めるよう準備してみてはどうか、
きっと、米である必要はない。「本質」が同じなら。

 

 

と、その2点をお伝えしてみたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

その「感触」「感覚」について。

人の個性、特質、強みは、頭で考え、言語化される以前に、
実は、そういうところにしっかりとあらわれている、と読んだことがあります。

 

 

上のお子さんは、お米に代表されるような、
さらさら、パラパラという「細かい粒」の感触が好き。
(きっと、小豆なんかも好きでしょうねえ、と言ったらその方いはく「ですねえ!」と)

 

 

けれど、粘土を握ると指の間からニュルっ、と出てくる、
ああいう動きは嫌いなんだそうです。

 

 

 

 

何度か書きますが、
「にほんごであそぼ」の監修、明治大学の齋藤孝先生の話。

 

斎藤先生は「練る」という動きがお氣に入りで、
子どもの頃は駄菓子屋で水飴を買っては、
「練る」。
練って練って、空氣が入って白くなるまで練るのが大好きだったそうで。

 

 

 

 

で、
その「練る」という特質は、大人になってからのご自身の仕事の仕方に、
顕著にその特徴が生かされていると。
内容を「練って練って練る」ことが全く苦でない。

 

その人の好きな動き、好きな感触、
ずっと味わいたい「身体の動き」自体に、その人の「個性」「特質」があらわれている、

 

 

という意味のことを、齋藤先生は書いていたような。

(と…この話、書くにあたって、どこにどの本にあったかと、

あちこちひっくり返してみたんですが、どうも見つけることができず。
「カラダ言葉」としての客観的な話は出てくるんですけどね。
けれど、一応このまま続行してみるのでした。違っていたらまた訂正します。

けど、体感的に「違う」氣もしないんですよね)
                                                         

 

 

 

 

 

 

さて。
わたしは「磨く」とか、好きです。
(今朝も、古いトランクをせっせと磨いたばかり)

 

 

 

企画書にも、
そういえば「練磨」「研磨」といった言葉をよく使います。

他にも「研ぐ」という動きも好き。
小さい頃に、刃物を研ぐ父の手元や、水を含んで滑らかに滑る
刃物の先の「シュッシュッ」という爽快な、
濁るもののない音をよく聞いていたからでしょうか。

 

 

 

 

「研ぎ澄ます」という言葉もよく使いますし、
常にその感覚で、場を作り、言葉を選び、文章を書いている氣がします。

 

 

 

あなたの好きな「動き」は?
その動きから、ずっと味わっていたい、と思える「感覚」は?
心地よかったり、気持ちよかったり…自分の状態をより「整えて」くれる「動き」は?

 

 

 

 

ウグイスは美しい声で鳴き、
ペンギンは流線型の姿で水を弾丸のように切り裂くのが
「自然」なように。

 

 

 

 

言葉で考える以前に。
脳で考える以前に。

 

 

 

ずっとずっと、あなたの「特質」
(あなたは何者で、どんな響きを持ち、何を発揮すればいいのか?)
をしっかりと、はっきりと顕している「方向性」が、
自分の身体の中に埋め込まれ、存在している。

 

それには「氣づいて」いたほうがいい。
まあ、自分の「取説」の一項目とも言えますしね。

 

 

 

 

(そして、お子さんの「強み」「個性」を知る際には、とにかく観察、ということかなと。
言葉以前の、お子さんの身体に埋め込まれた、元々備わった「質」が存在する。
そこに合致した「習い事」などがいいように思うのです)

 

 

目をかけられ、心を向けられ、愛されているものが放つ「ひかり」

 
 
 
 
 
 
知人が実家の冷蔵庫の断捨離をする機会があったそうで。
で、知人いはく、
 
「出るわ出るわ…(賞味期限切れのものが)」
 
の中、
捨てるのがためらわれたものがあったんだそうで。
その「もの」はこんな感じ。
 
 
 
 
『ひとつだけ、手に取った瞬間、なんだか艶が感じられて、捨てるのがためらわれた瓶詰があり』
 
 
 
 
で、お母さまに訊くと、
「それ、あの子が(知人の妹さんですね)が大事にしてるから置いといて」と。
 
 
 
夜になって帰宅した妹さんの反応も、冷蔵庫スッキリ!の喜びの声と同時に、
「あの瓶詰めは…あ、捨てられてない、よかった!」
だったそうで。
 
 
 
 
 
 
『断捨離のブログか何かで、「愛されてるモノかどうかは他人が見てもわかる」
といったことが書かれてたのを見たことがありますが、私も実感しました』
 
と、知人。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
 
 
 
「艶が感じられ」
 
 
 
ここ、なんだかとてもわかる氣がするのです。
 
 
 
 
 
モノはもちろん、
肌も。
食べ物も。
 
 
 
 
 
 
「手をかけ目をかけ」たものは、
例えばかけた金額の多寡や豪華さとは関係なく、何か違う、と感じることが多い。
 
なんでしょうね、あの美しさ、いじらしさ、愛らしさ、しみ入ってくる感じ…
まるで、その「モノ」からも嬉しさが滲み出ているような。
 
 
 
 
 
(こういう話をすると、まず思い出すのは、
昔映画で見た、森のイスキアの「佐藤初女さん」の梅干しなんですが。
天日干しされているそれはもう、本当に完全に「ルビー」状態)
 
 
 
 
 
 
 
そして、この、知人いうところの「艶」。
付け加えるところの「みずみずしさ」「ほのかなひかり」は、
 
 
人を見ていてもそうだよなあ、と思うのです。(特に、身近な人であればあるほどわかる)
 
 
 
 
 
 
 
 
以前、何かで読んだのですが。
 
自宅の部屋に置いた鉢植えの花に、水をやらなければ、やらなければ、と思いつつ、
なんとなく、忙しさにかまけてやらずにいた。
 
毎朝出がけに「あ!」と思うのだけど、時間はないし、まだいいだろう、まだ大丈夫だろう、と。
そうしたら、いつの間にか花は枯れていた。
 
 
 
「ああ、もっとちゃんと、早くに水をあげればよかった。可哀想なことをした」
 
 
 
と後から思う。
花はちゃんとサインを出していたのに。
メッセージを送っていたのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「艶」「ほのかなひかり」。
 
その逆に、
 
「カサカサした感じ」「しょぼんとした感じ」「淋しい感じ」…
 
何かが足りない。
陽の光、水分、栄養…それらが足りない植物のような、そんな感じを人から受けることもあります。
 
 
 
 
 
 
 
人も、モノも、植物も、必要なものは同じ。
「目を向けられ、心を向けられているか?」
 
 
 
 
それを一言で、大きくいうと「あい」ということになるのでしょう。
 
 
 
 
 
(写真はわたしがこの数年「目をかけ心を向けて」いる我が家の紫陽花の鉢植えです。
今日の雨に絶賛風情を醸し出し中)
 
 
 

日本語は、地球上で一番『世の森羅万象を細かく、隅々まで表現できる』言葉

 
 
 
 
 
知人が英語を勉強しているのですが、
先生(アメリカ人の宣教師さんだそうで)にタケノコの食感を聞かれて、
 
 
「シャキシャキするんですよ!」
 
 
「…?」(先生)
 
 
先生には、「シャキシャキ」がどんな感覚なのか、がわからなかったらしく。
 
 
 
 
 
 
その話を聞いて、
 
「わからないんだ〜(新鮮!)」(わたし)
 
「でしょう〜!」
 
と知人。
 
 
「あちらには、そういうのを表す言葉は『crispy(クリスピー=カリカリ)』しかないみたいなんです」
 
「カリカリ!?それだけ!?」
 
「そうなんです。
日本には、しゃりしゃり、パリパリ、ぽりぽり、ぼりぼり、サクサク…いろいろありますけど…」
 
 
 
 
 
 
 
旬のタケノコの食感は、そのどれでもない。
あの、水分をたっぷり含んで内側から弾けるような細胞、
その細胞壁が歯にによってパシュ…!と断裂し、
細かくなっていく感覚は、
 
 
「シャキシャキっ✨✨✨」
 
 
でしかないのです!
(注:わたしと、知人の体感です。個人の好みあり)
 
 
 
 
 
 
何でに書いてあったのか忘れましたが、
「日本語は、この世界の事象を、最も細やかに、たくさん表現できる言語」
だと読んだことがあります。
 
 
 
雨の降る音一つとっても…
 
 
 
ここにわたしが羅列するのもヤボだと思うくらいに、
今、皆さんの頭の中に山ほどの雨の音の表現が浮かんでいる、
と思うのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
宮沢賢治の作品は、「オノマトペ」が多いことで有名です。
彼の作品を読んでみると、
本当に、豊かな擬音語、擬声語、擬態語があふれている。
 
 
 
「どっどど どどうど どどうど どどう
甘いりんごも吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう」
 
 
風の又三郎の一節。
調べなくてもすぐに浮かんできるくらいに、個性的な「風の音」。
賢治には、本当に、さまざまな現象が見えて、聞こえていて、
それをそのまま「音」として表現したんだろうなあ、
 
と思える擬音語、擬声語、擬態語が彼の作品には満ち溢れている。
 
 
 
 
 
 
 
そして、
これも何で読んだのだったか忘れましたが、
いっとき、賢治の作品は「格が低い」と言った感じで扱われていたことがあったとか。
 
それはひとえにこの、
 
 
「擬声語、擬態語、擬音語が多い」
 
 
というのが理由だったと。子ども向け、と。
何を言っているんだ、と思いますけれどね。
 
 
 
 
 
 
これこそが、日本語の特徴の一つ。
この宇宙に渦巻く現象を、余す所なく、
丁寧に「おと」として写し撮り、表現できる「自然に最も近い」言葉。
自然(=かみ)に近い言葉。
 
 
 
 
 
そして、
工場では「機械に不調が出たことを知らせるランプ」が点灯する前に、
その「耳」で微かな異音を察し、
修理してしまえるという耳を持った能力を培うに至った言語。
 
 
(これも以前読んだのです。
同じ機械を使って、同じラインで製造をしていた日本の工場と外国の工場があり、
日本人の工場の方は、一度も「機械の不調を知らせるランプ」が光らなかった、と)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タケノコの話からまたもや壮大になってしまいましたが。
 
「中」にいるまさに空氣。
特徴、特異点もなかなかわからないものですが、
「外」と比べてみると、それが浮き上がってくる。
 
 
わたしの「ええ〜っ!」という驚きを皆さんと共有したく、書いてみました。
 
わたし自身は、日本語のこの、なんともなんとも細やかなる特徴が大好きなのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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