ここらで「人の話を聞く」という「超基本」について振り返っておこうじゃないかー私たちは本当に「聞いて」いるか?聞けているか?

 

 

 

数日前、会話をしていて「聞かれてないなあ」とモヤモヤすることがあり、

すっかり元気がなくなってしまったので、

(わかりきっていることですが「聞かれてない」「受け取ってもらってない」

という感覚は結構「来ますよね」心に)

 

 

 

みんなで再確認しましょう‼️

 

 

 

まず、前提として、
「コミュニケーションはキャッチボール」。

 

よく聞きます、知ってます、と思ったあなた。
この「キャッチボール」が本当には「出来ていない」こと、結構多いのです。

 

以下、
わたしが研修で実際にボールを使ってやる
「コミュニケーションはキャッチボール」のエクササイズを、言葉で書いてみます。

 

 

 

 

さて、「心地よいキャッチボール」のルールとは。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる

 

 

当たり前ですね。
当たり前なんですが、ボールを「言葉」に置き換えると。

 

「ものすごい速さのボールが」
「一度に2〜3個飛んでくる」

 

ようなキャッチボールを平気でやっている人がいたりします。
(ボールだと、そんなことしたら「何かの特訓か??」ですけど、
「言葉」だと平気でやってしまったりする)

 

 

 

 

さらに。
心地よいキャッチボールのルールは続く。

 

 

❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる

 

 

これも当たり前ですね。けれど、これを言葉に置き換えると、

「反応がない
(うなづきがない、相槌がない、目が合わない、受け取ったよというメールがない…)」

とても「不安になる」やり取り、溢れているんじゃないでしょうか。
さらに。

 

 

❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

この❹までを完了して、初めて「コミュニケーションが完了した」
ということになります。
ここまでをやって、一つのコミュニケーションが終わる。

 

 

「相手にボールを返さない」
「もらったボールを一人持ちし続ける」

 

 

そんなキャッチボールは「ありえない」わけですが、
これが言葉だと、ある。とてもある。ものすごくある。

 

 

「返事が返ってこない」

 

 

というわかりやすいものから、
あなたが一生懸命話した内容に対して、

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

 

 

の一言で、

 

 

⚫︎「ところでさあ」とあとは自分の話に持ってかれる…
⚫︎「それってこうなんじゃないの」
と断定される、判断される、ジャッジされる、
欲してもいない(合ってもいない)「答え」を返される、などなど。
(ああ、なんて悲しい)

 

 

 

 

 

 

さて。
心地よいキャッチボールのルール。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる
❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる
❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

 

 

ボールを「言葉」に置き換えて、
自分が毎日、どんなふうに、どんな速度で、どんな投げ方で
「言葉というボールを」相手に向かって発しているか、
そして、どんなふうに受け取り、相手に返しているか。
双方にとっての快適な「リズム」はあるか?

 

 

改めて、「イメージして」みてください。

 

 

あなたと大切な人との対話において、
きっと、大いに発見するところがあるのではと思います。

 

「コミュニケーションはキャッチボール」

 

 

このことが、しっかりと「身体で」実感出来ていると、
コミュニケーションというものが、
「なんて言えば…」
とか、
「どんな言葉を使えば…」

 

以前のものであって、
表面的なハウツーのみでは成り立たないものだということが、
よくわかるのではないかと思います。

 

 

 

才能とは何か?ー今年もみんなが自分の才能全開で生きる1年となりますように

 

 

 

 

「わたしの才能は…」なんていう言い方は、
少々(だいぶ)抵抗のある人もいるのではないだろうか。
いや、むしろ言えない、という人もいるのではないだろうか。

 

才能・強み。

 

わたしの専門分野ではそれを、

「放っておいてもついつい勝手にやってしまう、思考パターンや行動」

と定義しているけれど、
最近、いろいろな人の話を聞いていて、

「人には見えていないものが見える(わかる)分野」

という言い方も(わたしにとって)ピッタリくる、
いい表現が見つかったなー、という気がしている。

 

 

ある人と、布の話をしていたのだけど、
話を聞いているうちに、
自分がミクロサイズになって、
布の繊維一本一本が交錯している巨大な織りの空間に
ふわんと浮かんでいるかのような感覚を覚えた瞬間があった。
(大昔、こういうSFドラマがあったぞと思いつつ⇨小さくなって人体に入るやつ)

わたしには想像もつかない視点。
見ているところ、見えているところ。
それは多分、その人にとっては「ものすごく当たり前」で、
わたしにとっては新鮮で驚きだらけのものだった。

 

 

で、
「才能」に関して、小さい頃伝記で読んだ
「シュバイツアー博士」の話を思い出したんでした。

 

シュバイツアーは小さい頃から、
オルガンがうまかった。
メロディに美しい和音をのせて弾く。

 

で、ある日、担任の先生に、
「先生はこうすると綺麗な演奏になることを知らないんだ」
と思い、アドバイスした。

 

翌日、先生が相変わらず、
片手で(一本指で?)オルガンを弾いているのを見て、
「みんなができるわけではないんだ。
これが普通だと思っていたけれどそうではないのだ」

ということを初めて知る、と。
そんな内容だったかと。

 

 

 

そのことが苦ではなく、ずっとできる。
そして、自分にとって、まるで
「そこに空氣があるように」
「ご飯を食べるように」

自然で当たり前のこと、感じ方、見え方、動き方。
それを「才能」と呼ぶ。

 

そしてそれは、もちろんあなたの中にも。
あなたの身近な人の中にも。
皆に備わっているもの。

 

 

それをお互いに交換しあい、
披歴しあい提供しあってつながっていく。
まるでパズルのかけらのように補い合って丸い豊かな世の中になる。

 

そんな世の中、
最高じゃないか!と今年、今この瞬間も、ものすごく思っている。

 

さて。
人はそれに「まみれて」いる時が一番幸せ。

 

今年、あなたはどれくらいの時間、それに「まみれて」生きるだろう?
あなたの大切な人の「それ」を発見し、
彼が、彼女がそれに「まみれる」ことをどれくらい
サポートするだろう?

 

どうぞ、今年も存分にやっちゃってください。

 

「効率」と対極にある「存在するだけでいい」

 

 

 

 

高齢の方がよく口にする言葉に、

 

 

「子どもに(周りに)迷惑をかけたくない」

 

 

 

というものがあるように思うけれど(そして、わたし自身もどこかでそう思っている自分を発見するけれど)
その根っこには、

「役に立たなければならない」
(役に立たないならいる価値がない)

という観念があるよなあ、
と、クライアントさんと話していて思ったのです。

 

 

役に立つか、立たないか。
効率的か、非効率的か。
正しいか、正しくないか。

わたしたちは、ずっと長いこと、
これらの軸を中心に据えて生きてきており、
なんとかして、

 

「役に立つものであろう」
「効率的であろう」
「正しくあろう」

 

 

と。
一生懸命にそっちの方向へ行こうとしていたように思います。
そういうものであろうとしていたように思います。
そして、(世間的に)逆の側にある状態は、

 

 

「見ないようにし」
「非難し」
「排除し」

てきた。

 

けれどもう、その軸から離れていいときがやってきたんだな、
と最近特に、そういうふうに思います。

 

 

 

 

 

 

つい最近、
知り合いに「江戸時代の長屋のたぬき男の話」というのを
書いて送ったんですが。

 

 

 

「長屋にたぬきが大好きな男が住んでいて、
自分の部屋の中にたくさんのたぬきを飼っていた。
匂いもするし…で、同じ長屋の人々は
『困った困った』と思っていた。

 

ある日、長屋が(もしくはそのたぬき男の部屋が?)
火事になったかで、
たぬきが全部死んでしまう。
男はたぬきがいなくなって、すっかり元気がなくなってしまう。

 

すると、長屋の住民がお金を出し合って、
たぬきを買ってあげた」

 

 

 

元々、日本人というものは、そういうものだったんだろうな、と思います。
「多様性」なんて言葉をわざわざ使わなくとも、
様々なものを「ありのままの姿」で大きく包み込み、
みんなでわしゃわしゃと、助け合ってげんきに生きていく、
そういう土壌をはじめから持っていたのだ、と。

とにかく、その際、生きる上での中心軸は、

 

「役に立つか?」
「効率的か?」
「正しいか?」

 

ではなかったことは確かなのです。

 

 

 

 

 

話戻って。
思うに大家族で生活することが少なくなって久しいので、

「上手に周りに頼り、家族や周囲に委ねて身を任せつつ、
人生をゆったりと全うしていくお年寄り」

のモデルがもはや身近にいないんだなあ、と、そういうことも思いつつ。

 

 

記憶の奥底にかすかに残る祖母の姿を思い出しながら、

 

 

(あれを「愛」と言わずになんというんだろう、と思うのです。
わたしが「無条件の愛」という言葉で唯一、思い出すのは、
部屋にちょこんと、ただ座っていたばあちゃんの姿です。
ばあちゃんのふところの温かさです)

 

 

 

これからいい時代になるなあ、と改めて思うところです。
何ってわけではないんですが、
このような話のできる人、響きあえる人、
共感できる人が身近にどんどん増えている、ということを感じ。

 

 

 

このようなつながりを新たな(いえ、本来あるべき)軸として、
やっていこう、動いていこう、という人たちの思いを、
あちこちで感じている最近です。

 

 

(写真は正月二日の鹿児島は城山からの眺め)

 

 

伯母の葬儀で思う、儀式や祭祀の大切さー「プロセスを踏む(体験する)」ということの大切さ

 

 

 

 

 

伯母が亡くなり、葬儀に参列してきたんですが。
一つ一つの儀式。
「手順」を踏みながら、「ああ、これはまさに生きている人間のためのものだなあ」と
あたらめて思ったのです。

 

 

(ちなみに、子どもだった頃
わたしに一番「かわいい」をたくさん言ってくれたのは
確かにこの伯母だったような、と改めて思い出しつつ)

 

 

お経を聞き、
(また、お坊さんは声がいいので、全身に響くんですよね)
お焼香をし、
そして、お棺の中に花を添え、
出棺の儀式があり、

そしてまた、火葬場での一幕があり。
何度も祈り、何度も手を合わせ。

 

 

そのプロセスを通して、
少しづつ、少しづつ、生きている者たちが
「この人は次の世界に旅立つんだ」
ということを身体レベルで「わかり」「受け止めて」いく。

 

悲しみと共にだんだんと「あきらめて」いく。
俗世から次第に離れていく、彼の人を見て、感じている。

 

そのプロセスが、
あの、段階を踏んだ様々な「行動」なんだなあ…と。

 

 

 

弔いの儀式というものは、
故人を新たなる世界へ送り出す場であると同時に、
参列する人間にとっても「死と再生」のプロセスを踏むものなのだな、
と思います。
生と死の境まで行き、そして再び戻ってくる旅。

 

火葬を待つ間、
出された仕出し弁当を黙々と食べながら、
ふと「際(きわ)」から「今」に。
「隠り世」から「こっち側」に帰ってきた感じがものすごくしたのですよね。
まるで長い旅から帰ってきたような?

 

 

ああ、生きてるんだなあ、と。
大きなガラス窓の向こうの、
雲ひとつない秋晴れの高い空を見ながら思いました。
空がほんとうに美しかった。

 

 

 

 

 

 

伯母との別れは悲しかったですが、
そんなふうに悲しみや辛さもあるこの世界を
一生懸命に生きるわたしたちには、
だからこそ「儀式」「まつり」が必要なのだな、と思います。

 

なんといましょうか。
「魂」とか、「存在そのもの」とか自分の心の柔らかいところ。
純粋なる喜び、哀しみ。
生(せい)の実感。そんな、日頃忙しくて、
すっかり忘れ果てている部分や感覚にアクセスし、味わう時間。
哀しみが昇華し、生きるエネルギーに変わる時間。

 

 

 

 

日頃の地面を這っているような近視眼的な視野の世界ではない、
自分が過ごしてきた時間や、
人生全体を俯瞰して見直すような、そんな時間。
命や志のつながりを脈々と実感するような時間。
非日常。異空間。

 

 

 

 

 

 

それを、儀式や祭祀、祭りというものは果たすのだろうな、と思います。
お葬式だけでなく、結婚式、結納の儀、卒業式、入学式…
そんなものも同じく。
土地土地のお祭りも。

 

儀式、祭祀、祭りは人にとって再生の場なのだ、と思います。
再び新たなるエネルギーで生き始めるための大切な時間。
まさに「ヒーローズジャーニー」。

 

旅立って、そして変容して帰ってくる英雄の「小さな旅」なのです。

 

 

 

 

今日は何というわけではないんですが。

 

効率、といったものとは全く別のところで、
人が人として生きるに、とても大切な時間がある、
(わたしたちの心と魂を再生する仕組み、
癒し、再び復活するための仕組みというものが、
わたしたちの伝統風習には、ちゃんと昔から組み込まれているのだなと)

と思ったのでした。

 

 

大切にしたいものだと思います。

 

 

 

転んだとき「我慢すると褒められる」男の子。 人が転んだ時に「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子。 この違いが「感情への感性」の違いを生む

 

 

 

 

 

 

「転んだとき『我慢すると褒められる』男の子。
人が転んだ時に『他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる』女の子。

この違いが『感情への感性』の違いを生む」

 

 

 

というのは、岡田斗司夫氏が言っていたことで。
「男の子は、自分の体の様子や体調不良を我慢すればするほど褒められる。

なので、身体についても感情についても鈍くなるんだ」と。

 

ああ、なるほど。
結局そういうところから始まっているかもなと。

 

 

 

今はそういう親ごさんは少ないでしょうが、
わたしは小さい頃、泣くとよく怒られました。

結果わたし自身、「泣かない子」(我慢する子)に育ち、
なのでなんだかよくわかるのです。

 

 

 

 

 

例えば小さい頃の予防接種。
だいぶ痛かった覚えがあるんですが、
いつも全身&心を石みたいにして我慢していた。

 

 

 

そして、顔を真っ赤にして泣きわめく
周りの「園児たち」(←自分も園児)
の顔を見ながら、
「見苦しいな…」と。

(可愛くない子)

 

明らかに泣かないのが立派なのだ、と思っていました。

 

 

 

 

 

「自分は感情を感じるのがあまり得意じゃない」

 

 

と思ったのは仕事を始めてからのことで。
なので、教員生活の始めの頃は今思えばなかなかに大変でした。
(自分の感情を感じないように、
分厚い皮をかぶっているようなものなので、
子どもの「身体感覚」「感情」と本当の意味で触れ合うのに時間がかかり)

 

 

悲しいこと、びっくりしたこと、怖いことがあった時に。
怒りを感じた時に。
その自然な感情の発露を、

 

 

「それはいけないことなのだ」

 

 

と言われると、
(言葉で言われなくともそういう身体メッセージを発せられると)
確かに「それ」を感じるセンサーの感度は弱くなりますね。
自分の中で「それを感じる」ことへ許可がおりない。

 

 

 

 

けれど、我慢した感情自体はなくならなず、
ずっと自分の中に残り、着々と蓄積され続けるので、
結局「後で」味わうことになるのですけれどね。
(手をかえ品を変え形を変え、
絶対に「気づく」ような出来事が起き、味わうようになっている)

 

ずっと「放っておいた自分」「ないことにされていた自分」
は怒っていて、悔しくて、悲しくて、
寂しくてしようがないわけですから、
全力で「メッセージ」を送り続けるわけです。
気づいてもらうまで。

 

 

 

 

 

そう思うと、
「味わうべき感情」「湧いてきた感情」は
その場ですぐに、存分に味わってしまうのがいいな、
と本当に思います。
白黒つけず、いい悪いもなく、ジャッジすることなく、
ただ、しっかりと味わうのがいい。
(「味わう」と「表現する」は別物なので念のため)

 

 

 

 

 

 

 

家族との関係。
職場での人間関係。
仕事。
対ひと、ひと以外に関わらず
の大切なものとの関係、全てにおいて

 

 

 

 

あれ?と思ったら。
うまくいかないと感じたら。

 

 

その時こそ「今だ!」というメッセージなのだと思います。
「見て!」
「聞いて!」
「気づいて!」
「ここにいるから!」
という、「どこかに置いてきた自分」からのメッセージ。

 

 

 

 

答えは外側にはなく、
全部自分の内側にある。

 

 

「その自分」との語らい、承認、和解。そして愛を注ぐ。
それもまた、

 

前回書いた「自分の中心に戻る」「碁盤の目の中心に戻る」
(=それこそが世界への、あなたの貢献)

 

ということなのかと思います。

 

 

 

 

 

 

追伸:

「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子、

がOK、と言っているわけではなく。

それはそれで行きすぎると色々と弊害が。

バランスですね。

 

 

 

「自分に戻る」ことが今、一人一人のやること。最も大切なこと

 

 

 

 

さて、セッションで話を聞いていると、みんな話していることはそれぞれなのだけど、
つまりは「ズレを戻して」自分の「中心」に戻る作業をして、
自分の「中心」を再確認して、つながって、
そして再び自分の生活に出発しているんだな、と思います。

 

 

「グリッド。
碁盤の目。
そこに一人一人が立っている。

 

が、
これまで、全員がズレていた。
自分の本来の場所から、なんらかの理由でズレた位置に立っていた。
一人がズレると、その隣も、そのまた隣も…と、
全員が押されてズレ始める。

それが今まで。

 

 

けれど、逆に、
一人が気づいて自分の位置に戻ると、周りも押されて「中心」にもどり始める。

 

みんなが『自分の位置』に戻る時代がやってきた」

 

 

 

 

 

いう内容が載った本を買ったのは30年前。
今でもとても鮮明に自分の中に刻まれています。

 

 

自分に戻る。自分を生きる。
それが一番大切で、わたしたちはそのために生きているのだ、と思います。

 

自分の本質。
自分の本来の位置。
自分の周波数。
自分のリズム。
自分が本来もつ響き。
(わたしはこの表現がとても好きで、感覚的にもしっくりくるので、昔から使っていますが)

 

 

どんな表現でもいいんですが、
そこにいる。それを生きる。
それより他にやることはないし、
それだけで、その状態で生きているだけで、
わたしたちは周りに貢献出来ているのだ、とつくづく思います。
(まあ、貢献するために生まれてきているわけではないですが)

 

 

 

 

そして、
そのために、わたしたちのような役割(仕事)のものもいるんだな、と思います。
いわば「調律の場」を作る役割。
「調律」の手伝いをする役割。
「声を聞く」ことをたすける役割。

 

 

 

 

 

今これを読んでいる忙しいあなた。
自分の調律をしっかりとしてください。
「その時間」を取ってください。

 

なるべく日々の中に小さく、細やかに散りばめてください、と。
(そのお願いを、クライアントさんにも改めてしたところです)

 

 

 

一人になって、自分に声をかける時間をとってください。
あなたが一番ほしい言葉は、
結局自分で自分にかけることでしか、
本当には満たすことができないものなのです。

 

 

 

 

 

旅人が旅の途中、ふと立ちよる

 

せんせんと清水の湧き出る泉。
柔らかい下草の生えた木漏れ日美しい木陰。
暖かい焚き火の燃える居心地よい洞窟。

 

そんな場所と時間を取ってほしいと思います。

 

 

そこで、
この世界で誰よりも大切な、最も近しい、
ずっと共に歩んできたパートナーである
「自分自身」と、ただ共にいる時間、
そして声を聞く時間、語らう時間をとってほしい、と思います。

 

 

 

全てはそこから始まる、
と思うこの秋なのですよね。
改めて。
(ざっくりですけれど)

 

 

 

 

 

(写真は、車のフロントガラスに乗っていた桜の落ち葉。
綺麗だったので、一枚だけ「お土産」と、持って出かけたところ、
知人はとても喜んでくれ。
こういうものを「美しい」と喜んでくれる感性がとても嬉しかったんでした)

 

 

「どういうふうに言ったらいいですか?」とよく聞かれるけれど、それはそもそも「言い方」の問題ではない

 
 
 
子育て番組でやっていたんですけど。
 
 
 
受験期を迎えた子どもが勉強しない。
(自分の思ったようには)
 
で、あれこれ言う。
 
 
 
 
「やってないの」
「なんでやらないの」
「何時からやるの」
「こんな問題もできないの」
「なんでできないの」
「そんな高校いくの?」
「そんな仕事、うまくいくかわからないじゃない」
 
 
 
 
 
 
子どもはどんどん離れていく。
「うざったい」という反応を示す。
何も喋らなくなる。
どんどんコミュニケーションが取れなくなる。
 
 
 
 
 
 
で、上の質問になる。
「子どもになんと言ったらいいでしょう」
「何か、いい言い方はないでしょうか」
と。
 
 
 
 
 
 
で、わたしはこの「言い方は…」という「言い方」に、
すっきりしないものを感じるわけです。
(こういう質問、よく聞くのですよね。
親と子の関係だけじゃなく、いろんな関係性において)
 
 
 
なんと言ったらいいか?
その答えは一つしかない。決まっている。
 
 
 
 
 
 
 
「これまでうるさく言ってごめん。もうあれこれ言わないから。
自分の考えで自由にやって。お母さん(お父さん)見てるから」
 
 
 
 
 
 
 
そう言えばいいのだ。
子どもが真に望んでいる言葉はこれのみであり、
親のこのスタンスなのだ。
 
(プラス「悩んだ時はいつでも力になるからね。
いつでも聞くから、話したくなったら話してね」くらい付け加えておけばいい)
 
 
 
 
 
 
 
けれど、そうはならない。
そういう言葉ではない何かが欲しいのだ。
「何かいい言い方」イコール
 
 
 
 
 
「波風立てず、子どもに嫌われず、
なおかつ『子どもが自分の言うことを聞くような』言い方はないですか?」
 
 
 
 
 
ということなのだ。
相手をコントロールしたい。
 
 
 
 
 
 
で、声を大にして言いたい。
「そんなもの、あるわけない」と。
 
 
 
 
 
 
 
子どもが自分の巣立ちに向かって、自らの羽を研ぎ出す時。
それは、親自身も全身全霊で、
自分自身を見返す時なのだと思う。
 
 
 
 
 
子どもが、
「生きるってどう言うこと?」
「自分はこれからどう生きていくの?」
「自分とは何者?」「自分にとっての幸せとは?」
という一生の命題に真剣に向き合うとき。
 
 
 
 
 
それは、親自身も、
「一人の人間として、これまでどうやって生きてきたか」
「一人の人間として、これからどう生きようとしているか」
を問われているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
「普通はこうでしょう」
「これまでこうやってきたから」
「自分はこれでうまくいったから」
「みんながこうやっているから」
「幸せとはこう言うものだから」
 
 
 
 
 
 
 
そんな使い古された(そして楽な、使い勝手のいい)
言葉と感覚ではなく、
親自身が、自分自身の「生き様」から滲み出、醸し出された
真の言葉で語れるか?を、
子どもから問われ、見られている時なのだ、と思う。
 
 
 
 
(ちなみに、この時に、これらをおろそかに扱うと、
いづれ何らかの「人生の節目」で倍返しみたくなって
返ってくることになるので注意。
例えば結婚式のときとか…
まあ、準備の過程でいろんなことになる親子を見たもんです)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
子どもは、先に生まれたものを助けるために生まれてくるのだ、
と何かの本で読んだことがある。
 
 
 
これまで、いろんな親と子を見てきて、
話を聞いてきて。そうだなあ、と思う。
 
 
 
 
 
例えば子どもの反抗や、不登校や。
それらを通して自分を見直さざるを得なくなり、
結果、生き方が変わった親御さんとたくさん出会った。
 
 
 
みな、何か「とらわれていたもの」から解放され、
「自分軸」を生き始めていたように思う。
それはもう、見事に。
自分を生き始めていたように思う。
その姿、輝いているのですよね。
 
 
 
 
 
 
 
子どもってすごいのだ。
 
 
彼らはある時期、
自分でもどうしようもない破裂音を身のうちに抱える。
身体の中でそれはベキベキと音を立て。
それは彼らの「魂の叫び」なのだけど。
 
 
 
ともすれば自身をも破壊しかねないそのエネルギーのもの凄さは、
親をも「檻」から引っ張り出すに十分なのだ。
 
 
 
 
 
 
彼らは、自分だけでなく、
 
「もっと自由な世界へ。
存分に自分を生きることの喜び」
 
の世界へ、親をも連れてゆこうとしているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
願わくば、全ての子どもの「その企て」が、
潰されることなく成功しますように。
と切に願う。
 
 
 
 
(写真は鹿児島市の「石橋公園」。
本文とあまり関係ないんですけど。
30年前までは現役で人と車を(2車線で!)渡していたすごい橋だったのです)
 
 

世界平和のキモはきっと「想像力」なのだ

 

 

 

 

 

「粗大ゴミ」
を清掃センターに持って行ったのですけど。

 

 

 

建屋の中、まさに、
自分の愛用してきたものが、あの巨大&広大な穴の中に
ダイブして落ちて行くところを見てしまいました。

 

 

(はるか足元、穴の底には、
かつて誰かの「愛用品」だったにちがいないモノたちがたくさん)

 

 

別れを惜しむまもなく一瞬で、

「これ、捨てるんですね?」
「あ、はい…」
(「い」が終わる間もなく係員さんの投擲「そいやっ!」)

 

 

 

「あああーっ!さらば〜っ😭‼️」
(とつい声と手が)

 

 

それを見た係員さん、クスッと。
叫ぶ人は少ないんでしょう、さすがに。

 

 

 

捨てるために持って行ったわけで、
しかも後ろには次の順番を待っている車もあるわけで。

(ちゃんと覚悟して持って行きなさいよ自分)
(別れは事前に交わしておきなさいよ自分)

 

 

と自分の不甲斐なさを思ったのですが、
一番実感したのは、

 

「自分の想像力のなさ」。

 

毎日、
燃えるゴミだ、燃えないゴミだと捨てているけれど。

 

たまには粗大「ゴミ」だと、集積所にちょこんと置いておいたりするけれど。

 

 

 

あれは本当に「捨てた」ということではなく、

(そうはなっておらず)

 

こうやって
毎日毎日、かつて「大切なもの」だった「モノ」たちに

「引導を渡し」

その最後をちゃんと見届けてくれている人たちがいるのだと。

 

 

それはリアルに、この光景なのだと。

(それくらい、自分が「捨てた」ものが真っ逆様に
落下して「ゴミ」になってゆく姿は衝撃的でした)

 

 

 

 

 

わたしたちは、
わかっているようで本当にはわかっていないことが多い、
と思います。

 

 

 

ふと思い出したのは食肉のこと。

 

誰かが「命をとる」
ということをやってくれているから
わたしたちは肉を食べられるわけですが、

 

それは(命をとる、は)

日々とても具体的な実態と、もしかして五感を伴った「行為」なのです。

その「リアル」をしっかりとちゃんと想像したならば。

 

 

そのものや、こととの
付き合い方や姿勢、
価値観は変わってくるだろうと。

 

もので言えば、
それを迎え入れるときから(買う時から)
いろいろと考えるんじゃないかな

とそんなことをしみじみと思ったことでした。

 

 

 

「想像する」

よく使う言葉ですが、

なかなかに簡単なことではない。

 

わたしたちが実際にいけて、見ることができ、体験できることも、

会える人も限られます。

世界の隅々まで行けるわけではない。

ずべての事象を体験できるわけではない。

 

 

 

だからこそ、

想像の力こそが必要なのだ、と。

(そして、それはどうやったら鍛えられるだろう?と)

そんなことを考えているところです。

 

 

 

 

 

 

それは愛か?を見分けるのは容易い

 

 

 

 

 

 

 

朝ドラ「らんまん」を見ていて、ふと上の言葉が浮かんだんでした。

 

 

 

主人公の描く精密な、精密すぎる植物の絵。
どんな気分であっても、どんな状態であっても、
そこに植物があったらつい嬉しくなり、じっと見てしまう。
話しかけてしまう。
(牧野富太郎博士自身がそういう人だったんだろう、
とご本人の笑顔の写真を見て思うことなのです)

 

 

 

 

 

 

「愛」というものの土台は、

 

 

「見ている」

 

 

ということなのだと思います。
「まなざしを注ぎ続ける」と表現した方がいいでしょうか。
(または「あたたかい観察」)

 

 

そして「ものすごく細部まで見てとることができる」
「氣づくことができている」
ということ。

 

 

 

 

 

いつも「見ている」。
細部に至るまで「見ている」。
細やかに「見ている」。
朝昼晩、春夏秋冬、ずっと「見ている」。

 

 

朝と夕の変化。
季節ごとの変化。
どんな細かいところまでも、
繊細な葉の筋の一本までも「氣づくことが」できる。

 

そして、「それ」のありのままの姿、
ありのままの特質を心から愛で、賞賛し、尊敬し、慈しむ。

 

 

 

 

 

 

他者から自分に向けられる言葉や行為に対して。
または自分自身から発せられる「誰かへの言葉や行為」に関して。

 

 

 

それは「愛から」のものなのか?
そうでないものなのかを見分けるには、
上に書いた「土台」が根底にあるか?あってのものか?
を判断基準にすればいい、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」からのものとは、

 

 

・いつも見ている、しっかり見ている(あたたかい観察)
・細部まで見ることができている
・対象のありのまま(本質・特質)を見てとれている
・ありのまま(本質・特質)への尊敬、賞賛、慈しみがある
・ありのまま(本質・特質)をこそ、大切に保ちたい、
 伸ばしてあげたいと思う気持ちがある

 

 

 

 

 

それ以外のものがもし入っていたら、
それは「愛」ではなく。

 

 

 

「自分の心配、自分の不安、自分の欲、自分の願望、自分の理想…」

 

 

 

を押し付けられているのかもしれない&押し付けているのかもしれない。

と疑ってみてもいい。

 

 

 

 

 

 

牧野富太郎博士の植物の絵。
あの細やかさ、あの緻密さ、
あれは、「愛」以外の何ものでもない。

 

ただただ、対象をありのまま、真の意味で「愛した」。
愛を持って「見続けた」からこそ描けた人の絵なのだと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

メイドカフェはなぜ人気なのか?ーそれはつまり『参加の喜び』

 

 

 

 

外国の観光客がどのように日本を楽しんでいるか?
という特集をよく目にするようになりました。
こんなところが外国の人は新鮮!感動!というもろもろの特集。

 

で、メイドカフェを楽しむ外国人観光客、というのがあったのだけど。

 

 

 

ものすごくたどたどしく、
英語のカンペを一生懸命「読む」メイドさん。
完全な「日本語発音」なのが逆にすがすがしい。

で、その「たどたどしい導き」にちゃんと乗っかって、

 

 

「萌え萌えキュ〜ん❤︎」

 

 

など言ったりして、女性男性、結構な年齢の方も含めて
みんなポーズを取ったりしている。

 

 

 

 

よっぽどの人でない限り、
心中「ぷっ…」と吹きつつも、
しようがないなあ、とぼやきつつも、
「乗って」しまうんじゃないかなあ、と。

 

で、わたしも実は、一度くらいは体験してみたい、
と思っているメイドカフェなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

メイドカフェの楽しさは。

 

 

 

①非日常の空間
②参加の喜び
③自分も動く(声を出す。身体を動かす。五感が動く)

 

 

 

この①と②は完全に連動していて、
①の空間がしっかり作れていて、演出ができていて、
お客さんが没入できると②の「参加してみようかな」に至る。

 

 

 

そして、③こそとても大事。
③には、自己表現、そしてそれへの承認・賞賛、
さらにはみんなで共鳴、共振しあう…

 

 

 

とにかく「人が幸せを感じるコミュニケーションの瞬間」の
真髄が全て詰まっている。

 

 

 

 

 

 

 

と…

 

この三点ではないか、と思います。
そしてこれは、多くの観光地、
これまた話が広がりますが、
わたしの仕事(研修やセミナー)でも基本は同じよねと、

 

いつもながらに思うのです。

 

 

 

「見て綺麗だった」
「いい話を聞いてよかった」

 

 

 

だけでなく。

②と③があると抜群に「満足度」&「感動の度合い」が上がる。
ここまできて初めて、
「また行きたい」「また参加したい」につながる。

 

 

 

 

 

 

 

先日福岡から知人がやって来、
仙巌園にご案内したのだけれど。

 

 

(島津の殿様の別邸。庭園と御殿が美しい)

 

 

 

 

そんな中、一番楽しそうにしていた瞬間は明らかに、
「四半的」の体験コーナーだったなあ、と。
(薩摩の伝統遊戯。座って弓を射る遊びがあるのです)

 

 

 

 

もう(わたしも知人も)「きゃあきゃあ」言ってましたよ。
スタッフさんとの会話も心地よくて。
(この方もわたしたちとの時間を楽しんでくれているんだな〜、
の感がしんしんと伝わってきて)

 

ますます盛り上がってしまって、
近くで見ていた年配のご婦人二人連れまで
弓に引きずり込んでしまいました。
(小さく売り上げに貢献です♪)

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに。

 

このコロナの3年間を機に、
鹿児島一番の名所の一つである、いわゆる超老舗の「仙巌園」が、
元々あった「非日常」に加えて、
②と③を兼ね備えた場所にものすごい勢いで「脱皮」したことは確かなのです。

 

(以前は地元民にとっては、
遠方から誰か来たときに連れていく場所。
小学校の遠足以降「10年に一度」足を運べばいい場所、
というような位置付けだったように思います。

 

そして、スタッフの人たちと何か会話を交わしたという覚えもあまりない)

 

 

 

 

 

この「脱皮」の様子をつぶさに見ていたこちらとしては、
とても興味深く、
そのプロセスを注視し続けているわけなのですが。

(もちろん、すごいなあ、嬉しいなあ、と思いつつ。
なんにせよ、いろんなお客様を自信を持って、かつ何度も
「連れて行きたい」と思える場所が出来たというのは嬉しく、ありがたい)

 

 

 

 

 

人が動く。
世の中が動く。
堰を切ったように。

 

 

 

 

 

そんなこの春から初夏に向けて、
この雑感が参考になる方々がいましたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

(写真は弓をつがえる知人です。これは五射目。凛々しいでしょう??
スタッフさんのお声がけ(と素敵な励まし!)で、
どんどん姿かたち(&心)が変化していくんですよねえ)

 

 

 

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