「大河ドラマ歴代最高視聴率」
と呼び声高い割に、当時あまりちゃんと観ていなかったので、
「麒麟がくる」休止に伴う特番、
『戦国大河ドラマ名場面集、第一回「独眼竜政宗」』
を
「へえ〜、こんな感じだったんだ」
と観ていたんですが。
ラストシーン。
死に際、迎えにきた母の呼びかけに無邪氣に走って行く幼年の政宗、
少年の政宗、そして、
手を差し伸べる老いた政宗
を見て、
「よかったねえ」としみじみ。
詳しくない方のために注釈しておくと、
(って、私も非常にぼんやりとしか覚えていなかったですが)
・幼年の政宗→「梵天丸は醜いか?」(疱瘡で片目をなくし)
・青年政宗→「これが心尽くしの膳にござるかっ…!」
(実母に毒入り料理を食べさせられ、縁先でゲロゲロ吐く)
これだけでも、
なんだかもう、根っこの土台がハードモードな人生。
うちにあるインナーチャイルドの本に、
幼い頃からの、各年代の、たくさんの自分(悲しかった自分・辛かった自分…)
を連れて、統合するというワークが載っているんですが、
このラストは「まさに、それじゃん」と。
本当の政宗がどうだったかは知らないですが、
人生のある地点で、
「完了する」「すべて許す(自分も他者も)」
というのはとても大切なことで、
死の間際であれ、その瞬間であれ、
すべてのわだかまりが解け、母に駆け寄って行けた幼い政宗たち、
母に手を差し伸べ、
本当に欲しかった言葉を母から受け取ることのできた老いた政宗に、
「本当に、よかったね(涙)」
と、もうそれしか言えない私なのでした。
(↓これが、そのラストなんですが、なんだかこの写真では私の感動があまり伝わらない…)
*
と、上記のようなことをfacebookに書いたんですが、
「自分の中の『それ(インナーチャイルド)』もそろそろどうにかしないとな」
と、コメントをくださった方あり。
「そういえば確かに」
という方あり。
いく人かの方には「響いた」ようで。
「インナーチャイルド」という表現もまた一つの「比喩」で、
自分の体験、感情のあれこれを整理しやすくするための
「捉え方」「表現の仕方」の一つだと思うのですが、今日はそれで進めます。
あなたの中にも私の中にも「待っている子ども」がいるかもしれない。
「いつ迎えに来てくれるんだろう」
「いつ約束を果たしてくれるんだろう」
と、
膝を抱えて。
あるいは、「あの場所」にいまだ立って、
待っている子が。
ちょっとどき…とした人は。
迎えに行ってみてもいいかもしれない。
(いえ、ぜひ迎えに行って欲しい)
そして、手をとって「長いこと待たせてごめんね。さあ、一緒に行こう」
と、歩き出す。
それはすなわち、
私たちの人生に、大きな大きなエネルギーが戻ってくることにつながる、
とそんなふうに感じます。