自分の中心から動くと、最も自然に力が発揮できる

 

 

 

 

2週間ほど前、ちょっと動くと途端に首がバリバリと痛くなることが数回あり、

考えた挙句、

 

「重い荷物を腕だけで持ち上げようとする」

 

のが原因だなあ、と気づきまして。

 

 

筋力の衰えに反して(筋力が落ちているのも問題ですが!)

持ち歩く荷物の重さは変わっていないもんなあと。

 

 

そうなると「腕から動く」のをやめる必要がある。

腕の力のみに頼るのをやめて、

 

「中心から動く」。

 

「古武道の身体の使い方を介護に活かす」

的な番組で見た知識を思い出しながら、

臍の下。丹田と呼ばれるあたりから動く。そこを意識して、連動して動く。

を意識しているのだけど、

そうするとだいぶよいのです。楽になった。

(今やすっかり首は元気です)

 

 

 

ここで思い出しているのですが。

 

ダンスを踊る際に、

「腕を動かす」「足を動かす」というような意識の踊り方だと、

一見、派手に上手に踊れているように見えても、

バタバタした素人くさいダンスになってしまうのです。

 

 

身体の中心に落ちた一滴の水。

その波紋が同心円状に全身に広がっていくような感覚で動くといい。

 

身体の中心で起こった静かな揺れが、

指先、足先までしんしんと広がっていくような動き。

 

そして、自分の手、足を通り越して、

空間全体に「わんわん…」と広がっていくようなイメージで動くと、とても美しい。

 

 

(わたしが教員だった頃の教え子さんでこういう動きをする人がいましてね。

肩先をピクン、と動かしただけなのに、

場の空気を一瞬にして変えるような彼女のダンスを今でも思い出します。

微かな動きの中に、

彼女の中心から湧き出る『律動の強さと純粋さ』を感じたものでした)

 

 

 

 

そして。

これは身体の動きに限ったことだけではなく。

(と言いますか、一時が万事。共通している)

 

 

語るということ。

言葉で伝えるということも全く同じなのです。

 

 

自分の中心で起こった振動。(思い。感情。意図)

自分の中心で発生する、

純粋な「最初の一滴」を常に捉え、

そことのつながりを保って、そこから言葉を発するといい。

 

 

自分の「最初の一滴」から生まれた振動が、

同心円状に外にしんしんと広がっていくように、

声を出し、言葉が出せるととてもいい。

 

 

そこには余計な飾りなど発生する余地は全くなく。

 

「どう言おう?」

 

も、

 

「かっこよく言おう」

「いいふうに言おう」

「ウケないといけない」

「面白くないといけない」

 

も何も存在しない。

 

 

 

そういうふうに、

「本当の言葉」

「自分の中心としっかりと繋がった言葉」

「その瞬間、その場で、その相手との間にしか生まれない、鮮度100%の言葉」

 

を出している人や場面に出会うと、本当に心動かされます。

 

 

 

「立て板に水」とか、「話すのが上手いよね」

などとは全く次元を異にする語り手。

 

そんな人が、いるものです。

(そして、実は誰でもそういう言葉を持ち合わせている)

 

 

 

ちなみに。

わたしは先に書いたダンスの上手い教え子さんの語る様子も好きでした。

ゆっくりと、時間をかけて、言葉を探し出すように話すときの視線。

自分の中に深く降りて、

最もしっくりくる言葉を丁寧に捕えようとするその雰囲気が。

 

 

 

 

 

もしも。

 

言葉が「一語いくら」と値段がついているものであったら、

一瞬たりとも、一語たりとも無駄に使うことはできない。

みんな、自分の「真の意図」を最も表現できるものを、

探して探して、厳選して選び出すだろうなあ、と思います。

 

 

 

 

そして、

実はそれくらい意識して言葉を使ってもよいのでは、とも思っています。

 

言葉は確かにただですし、

湯水のように溢れるようにダダ漏れさせても誰も何も言わないし、

いくらだって走らせることができる。

 

 

けれど、

「自分の中心と繋がっていない言葉」

は人に届かない時代に、これからますますなっていくように思います。

 

 

届かないどころか、

自分の人生に対して。

自分の大切な人たちの幸せに対して。

早晩しっぺ返しが来るような氣すらするのです。

 

「小さな気がかり」こそ、完了させると大きな力が戻ってくる

 

 

 

 

一昨日、知人の腕時計を見せてもらったんですが、
それが、

 

 

「中学生の時から使っている」

 

というものだったのです。
お祖父様からのプレンゼントだそうで。

 

お祖父様、本当にいいのもを選ばれたのだなあと、
その思いや、大切に使っている知人の思い。
また、丁寧で繊細な生活の仕方に本当に感動してしまい。

 

 

 

で、
ふと思い出したのは、仕事机の引き出しの中で眠っている自分の時計。

分解清掃もしてもらい、大切にしていたのですが、
最後に電池が止まってから、なんとなくそのままにしていたのですよね。

 

 

理由は、

⚫︎分解清掃しても、電池のもちが徐々に短くなっていた。
⚫︎「丁寧にメンテナンスしながら使うといい時計は3万円くらいからかなあ〜」と、

時計屋さんからのレクチャーを受け、なんとなく気持ちが「しょぼん」となっていた。

 

 

そんなところでしょうか。
けれど。気に入って買ったものなので、
そしていろんな時間を共にしてきたものなので、

自分が気持ちいいのが一番、と。
時計屋さんに走って行ったわけなのでした。

 

 

 

時計屋さんで、早速にわたしの感動、
(知人の腕時計の話です^^)
それからあれこれ…

 

「この時計、今の仕事を始めた時に買ったもので、
思い入れがあるので大切に使おうかなあと思って」

 

などと勝手に決意表明までしていたところ、
時計屋さんがニコニコと満面の笑みで、

 

 

「いいですねえ😃✨✨
それに、今日はちょうど『時の記念日』ですしねえ」

 

 

で、ますますテンションが上がってしまったのでした。

 

時の記念日?
時の記念日に、止まっていた時間が動き出すなんて…
なんていいタイミングなの⁉︎
なんて素敵なの!

 

 

と、言葉にするとそんな感じでしょうか。
時計屋さんが「なぜ今日が記念日か?」まで教えてくださり。
(語呂合わせではないのですよ。
天智天皇の水時計まで遡る、立派な記念日なのです)

 

で、最後に
「時の記念日来店記念」で
可愛いものまで頂いてしまいました。
(しじみ貝の根付け。いい柄、いい色合いだと思いませんか^^)

 

 

 

つまり今日、何を言いたいかと言いますと、

 

「時計が動きだして、嬉しい」
「なんか、来てる気がする(いい感じのタイミングが!)」

 

以上喜びの報告、2点なのですが、
何より大きいのは、

 

 

「これでスッキリ」

 

 

ということかなあと。

 

 

心の中に、微かに、微かに。
日頃忘れていても。思い出しもしないくらいに微かなことであっても、

それでも、「小さな気掛かり」はわたしたちの中に音もなく積み重なり、

 

わたしたちのエネルギーを奪う。
微かなる「エネルギー漏れ」は続いていく。

なので、「穴は塞ぐ」。
徹底してふさぐ、ことが大事。
小さな穴ほどふさぐ。即、ふさぐ。さっさとふさぐ。丁寧にふさぐ。

 

 

 

つまり「未完了は完了させる」。

 

コーチングでは、とても大切な視点&日々の行動の一つになってます。
(の割に、こういう気掛かりを放っておいたりするのですが)

 

 

とにかく、
今日は本当にほんとうに「スッキリ」しました。

 

 

もうすぐ節目の夏至もやってきますし。

夏至までに「小さな未完了」の書き出しと、「集中して『終わらせる』」週間。

皆さんにもおすすめします。

 

 

 

 

西郷隆盛→「のちに鹿児島土産のフリー素材になる男」(楽しい人物紹介)

 

 

 

 

鹿児島は磯街道沿い。

島津の殿様の別邸、仙巌園で開催中の「だんドーン」原画展に行ってきました。
(写真は会場でアンケートに答えるともらえるオリジナルポストカードです)

 

よくよく考えてみれば、今につながる警察の土台を作った人。
すごいことだよなあ、
と思うのですけど、なのに鹿児島では語られることのたいそう少ない郷土の偉人。

そして、明確に、明らかに「嫌い」と公言する人もいる、という薩摩の偉人。
それが「川路利良」。

 

(一応書いておきますと、
「だんドーン」はその川路が主人公の漫画。作者は「ハコヅメ」の泰三子。

この方、鹿児島出身ではないかという噂がある)

 

 

さらに鹿児島以外の人のために書いておくと、

川路が鹿児島で「嫌われキャラ」なのは、

「西郷どんを殺そうとした男」

「故郷に弓引いた男」

ということになっているから、なのです。(西南戦争の際のあれこれでですね)

 

 

 

わたしが川路利良を意識したのは、
東京で歴史イベントに参加した際、そこで【川路の大ファン❣️】
という人に会ったからで、その人が書いた、

 

「サムライたちの警視庁」

 

という本がとても面白かったからなのです。
(明治初期、警察機構の黎明期にお巡りさんになった
サムライたちの経歴、お墓を網羅した珠玉の一冊)

 

 

その方が、
「鹿児島行った!皆与志から鹿児島中心部まで、
川路が毎日歩いていた道を自分も歩いてみた!」

と嬉しそうに言ったわけで。
(何キロあるか忘れたけれど、ゆうに10キロは超えている結構な距離。

 

歴史の好きな人って、それくらいサクッとやってしまうんですよね。
ちなみにわたしの夢も「旧暦の6月5日に、新選組と同じ重さの装備を背負って、
四条から三条池田屋まで走りたい」です)

 

 

さて。
鹿児島の幕末〜明治史というもの。
わたしにとって身近にありすぎて、
しかも結構感情が絡んでしまっており。

 

と言っても大した感情ではないんですが。

 

子どもの頃、父親や周りのおじさん連が西郷どんが好きすぎて、
色々と押し付けられすぎて、
なんだかもう「いい加減にしろ」な感じでして。

 

わたしにとって、西郷や大久保といった「有名どころ」は、
残念なことに、学校の副読本の暗い色の表紙に象徴される、
自分を縛り付けていた、ままならぬ、なんとも言えない
「鹿児島的なるもの」。
固定され、動かない閉塞感と言ったような感覚と
しっかりと結びついてしまっている。

 

 

話戻って。

そういう感じなので、何度本を読んでも、大河ドラマを見ても、
西郷どんが何をして、どういう人だったのか、
理解できないという…。
(知識としては知っているんですけどね、もちろん。
リアルな人間としての姿が立ち上がってこない)

 

で、この「だんドーン」。

…立ち上がってきております!

 

 

きっと、世の中には怒る人もたくさんいるんだろうなあ。
「西郷隆盛。後に鹿児島土産のフリー素材になる男」
ですもんね。(西郷どんの説明が)

 

けれど、
わたしにとってはなんだか(やっと)風が轟々と吹き抜けて、
厚い雲が取り払われるような感じを感じており。

 

 

そして、この風が、
長い間固まっていた鹿児島の「何か」にも変化をもたらすんじゃないか、
と密かに思ったりもしているところです。
(少なくとも、川路を知る人が増えるだろう、
そして、「川路いいよね!」という人も増えるかなと)

 

結構いいバランスなんじゃないか、と思ったりしているところなのです。

 

 

 

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