話を聞こうよ、とりあえず!(それだけでいいからさ)

 

 

 

 

コーチングを始めた頃。

住んでいた場所もあってか、クライアントさんにアーティストさんが多かった。

踊る人に作る人、等々。

 

 

 

 

で、今また、先々週から1年ぶりに、

その頃からのクライアントさんのセッションをしている。
(大きなプロジェクトがあるときなどに、定期的にお声がかかる)

 

 

 

この方はダンサーさんで、
当時はご自分のダンススクールを主催されていた。

 

 

 

 

 

 

それから幾星霜(笑)
話を聞きながら
「変わらずすごいエネルギーだなあ」と。

 

 

 

とにかく、このエネルギーが途中で止まらないよう、
私は、聞いて聞いて聞きまくる。
溢れながら、どんどん太く、深く、この方が「自分自身」とつながっていく
その「回路」を、確保し続ける。

 

 

 

 

 

 

「出すだけ出して」
軸(方向)をはっきりさせて、
事柄を並べて、
優先順位をつけて、
整理する。

 

 

 

そのプロセスを手伝う、というのが役割。

 

 

 

 

 

 

 

で、先週。
ふと昔話が出た際、
(なんだかんだで長いですよね、と)

 

 

 

「公子さんが一番話せるんです。
わたしは『何言ってるの?』『できるわけない』というエネルギーが
本当にだめで。
伝わってくると詰まってしまう。パタンと閉じてしまう」

 

 

 

 

 

 

自慢ではなく。
その時、何に驚いたかって、

 

 

 

 

この方と出会ってから16年。
未だ厳密な意味で、本当の意味で
「語れる」のがわたしだけなのか⁉︎

ということに軽い驚愕を覚えたわけなのです。

 

 

 

 

 

人がいかに、
「掛け値無しの、聞き手」
=自分のエネルギーがどんどん溢れるような状態の場、

を求めているのか。
なのに出会っていないという…
それがある意味、とても腹立たしく(笑)。

 

 

 

 

 

 

ということで、今日は改めて言いたいわけです。

 

 

 

「とにかく、聞こうよ。目の前の大切な人の話をさ!」

 

 

 

それによって。

 

 

 

 

どれだけ「ひらく」人がいることだろう。
どれだけ「自分の源泉」とつながれる人がいるだろう。
どれだけ、前へ進める人がいるだろう。
どれだけ自信を持てる人がいるだろう。
どれだけ、本当に自分を愛せる人が育つだろう。
(いつも言いますが、これこそが「一生の財産」「真の生きるスキル」)

 

 

 

 

 

 

 

 

この方は、ただいま日本全国行脚の旅の準備中で、
それは、

「聖地への奉納舞の旅」

 

なのだそう。
各地の神社で、もはや粛々と始まっている。

 

(日本における
土地と、人と、祭り(=祀り・奉り)の関係・効果については、
わたしも大いに語りたいところですが、また後日)

 

 

 

 

 

 

 

初めて会った時、
この方の踊りに「アメノウズメ」を見たわたしなので、
(それはもう、太古の天岩戸にどかんとタイムスリップしたような氣分になりましたよ。
今でも思い出します)

 

このプロジェクトも、いともストンと腑に落ちつつ。

 

 

 

 

「共有」
「共振」
「増幅」
そして
「俯瞰」

 

 

 

の役割を通して、
いくばくかなりとでもお役に立てればと思っているところです。

 

 

 

 

「掛け値なしの、この人が、溢れる。

溢れて広がるその先に、

変化を起こす人、場所、地域、土地が必ずある。

それが起こる」

 

 

 

 

 

それを「知っている」のが、

究極私たちのような仕事の者の役割かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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【コーチング・秋の特別体験セッションー「チーム自分」のつながりを強固にする】

 

 

 

 

 

 

みんなで同じものを食べることの意味・食べるという場を共有することの意味

 

 

 

 

 

 

 

最近、ウエディングプロデューサーをしていた頃のことをよく思い出すのは、

当時の同僚と最近、

フェイスブックで繋がり、たまにやり取りをすることがあるからなのです。

 

その人は今、古民家にてフレンチレストランをしており、

当時のあの仕事ぶりから察するに、

そのレストランには、微に入り細に入った、細やかなもてなしが、

氣っ風のいい爽やかな風と共に吹いているんだろうなあ、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

さて。

その仕事をする際に、色々とたくさん勉強をしました。

例えば、

「ウエディングケーキをみんなで食べる意味」

なども。

 

 

 

「丸いもの」というところの意味の他にも、

みんなで同じものを食べる、というところに、

祝福や、共有、幸せを分かち合う、という意味もあったような。

 

 

 

 

 

 

 

で、話は飛びますが、

昨日「夜のピクニック」に行きまして。

「食べたいものは持ち寄り」の。

 

 

 

 

 

シートの上にずらずらと並べられたもの数々。

 

・ペンネ

・パプリカのクリームチーズ詰め

・ノドグロの干物

・フグせんべい

・クロワッサン

・チーズケーキ

・ねったぼ

・ポテチ(トリュフ味がポイント)

・チーズかまぼこ

・ブロッコリー(冷凍)

 

鍋と火を持参でカマンベールチーズを溶かそうとする者あり。

(ここに冷凍ブロッコリーをin)

酔ってのどぐろをばらまく者あり。

 

 

 

 

 

 

まだまだたくさん並んでいて書ききれないんですけど。

 

どんな風にして作ってきた、とか、誰が作った、とか。

どこでどんな風に手に入れた、とか。

目の前の食物を手に取るたびに賑やかで。

 

(親が作ったの〜。ひとパックでいいって言ったんだけどね。

ああ、親ってそうだよね、とか)

 

 

 

 

 

その人の「味」をみんなで共有する。

一緒に味わいながら話を聞く。

そこに、その人の嗜好はもちろん、

 

生活が見える。

家族が見える。

歴史が見える。

人生が見える(大げさ?)

 

 

 

 

 

 

 

みたいな。

 

その時にふっと

「みんなで、一つのものを食べる意味」

(さっきの、ウエディングの)

 

 

 

 

 

 

 

というのを、

妙に「ああ、そうか!」と腑に落ちて思い出していたんでした。

こういうことね!!!

この感覚ね!と。

 

 

 

 

 

 

 

昨日は、

いろんな人の「珠玉の一品」を通して、

みんなをより愛おしく感じた秋の夜、でした。

 

 

(次回は「マイFavoritep駄菓子持ち寄り」を提案中)

 

 

 

 

 

 

食(感覚)を共有すること。

 

人間にとってもっとも原初の欲求であり、

生きるための必須であり、

楽しみであり…。

 

 

それを共有するということ。

(中身もですが、やはり、「時間と場」でしょうか)

 

 

 

 

 

馬鹿になりません。

大切です。

 

 

 

 

人生初、私が「母」になった日(笑)ー人生に必要なのは「想像力・類推力・推理力」その他もろもろ

 

 

 

 

今朝方、夢で「ものすごくいい『表現力開発のワーク』」を思いついた。

というか、夢の中で熱くなってやっていた。

(目が覚めてからも行けそうなので、これは12月のワークショップでやろうと)

 

さて。

ちなみに、どうしてこういう夢を見たかというと、

多分、昨夜、鴻上尚史の記事を長いこと読んでいたから。

 

 

 

 

 

 

数年前、

鴻上尚史の演劇ワークショップに参加したことがある。

行ってみたら、役者のたまごだらけで、

若者だらけで(というか若者しかいない)さすがにだいぶ緊張した覚えがある。

 

 

 

 

 

 

「最近、いるんですよ。

役者志望じゃなく、申し込んでくる大人の方が。

前回は議員さん(だったかな?うろ覚え)が来ました。

なので、こういう需要もあるのかな、と思って」

 

と事務方さん。

 

 

 

 

 

疲れたな〜、大変だったな〜、

という思いがあるのだけど、その中でも思い出すのは

「3人一組」でやる短い劇。

 

 

 

 

 

 

 

その台本は、

「恋人同士と、その友」

といった設定だったか。

 

 

 

 

 

基本の台本に、自分たちで手を加えて

「セリフ+『心の声』(セリフの裏にある心情)」までを、

声に出して演じる、というものだったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

私のチームは、若い男の子と、女の子と、そして私。

私はやる氣満々で、彼らと台本について話し合っていたんだけど。

 

そこへ、

鴻上さんが「さささあ〜っ」と駆け寄って来て、

とってもすまなそうな表情で⬅️(と、私には見えた^^)

 

 

 

 

 

 

「あのさあ、このチームはちょっと設定を変えて、

『お母さんと息子』ってことでいいからさあ」

(もしくは、そうしようか!だったか)

 

 

 

 

 

 

 

あっという間に、恋人設定から、

私は人生初の「お母さん」になってしまった。

 

 

 

息子が初めて家に彼女を連れて来ているのを「発見」した母設定。

 

どう感じるんだろう?何を思うんだろう?

と思うまもなくそれ(演技)は始まり、

 

 

 

表「あら、可愛いお嬢さん」とセットで

裏セリフ「いったいどこの馬の骨⁉️」(アドリブ)

をガンガンと繰り出す自分がいた。

 

(だいぶ性格の悪いお母さんになった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨夜読んでいたのは、

「鴻上尚史の人生相談」。

 

 

 

とても面白くて、氣づくと夜中の2時になっていた。

(なので今日はちょっとキツい)

 

 

 

 

 

 

何が「面白い(すごい)」のかというと、

たくさんあって未だ言語化しきれないんですが、

 

「人の視点を変える」

(思い込み/正しいと思ってずっと生きて来た価値観から、その人を外へ連れ出す)

 

いう最も難しいことを、

とても丁寧に、愛を持って、そしてうまくやってらっしゃる、という点。

(いきなり敬語)

 

 

 

 

 

 

 

「人のことを考えなさい」

「思いやりを持ちなさい」

「相手の立場に立って」

 

 

 

 

 

 

これら、

私たちも、誰かにきっと、一度や二度は言っているはず。

ほんと、まっとうなキレイな言葉(笑)

(私は教員時代にきっと言っていたんだろうなと)

 

 

 

けれど、これ…「はいそうですか」と、できますか???

そう「言葉で」言われてできるもんじゃない。

(それができるなら、世のコミュニケーションに関する問題は、

全てなくなっているはず)

 

 

 

 

 

 

 

鴻上さんは、

それを豊かなたとえ

(例えばあなたが〜だと想像してみましょう)

時間軸の移動

(あと10年後に行ってみたとして)

 

等々…

 

 

 

を使って、

相談者に「別な世界」「他者の視点」を見せる。

味わわせる。

 

 

 

 

 

 

 

こういった「質問」だけなら

使う人は多々いるだろうけれど(私たちコーチもそう)

 

 

 

 

 

 

鴻上さんは、

静かに、すぐそばにいて、手を握って話を聞きながら、一緒に

丁寧に、寄り添いながらゆっくり「そこへいざなっていく」。

(文章なんだけれど、それが伝わってくる)

 

そして、何と言っても、そのたとえの場面設定が絶妙。

 

 

 

 

 

 

 

「特質」「才能」もあるんだろうけれど、

これが「演じる」「表現する」ということに

命を傾けて来た人が会得した視点であり、在り方ではないか、

 

 

 

とも思うのだ。

 

 

 

 

 

 

一人の人を演じるということは、

ものすごい「想像力」を必要とする。

「想像力」「類推力」「洞察力」「共感力」「身体でそれらを感じる力」…

 

 

 

 

そういったものを総動員して、

初めて、「紙の上に書いてある一人の人間」

が、

立体となって立ち上がり、他者に伝わる息をして、「生き始める」。

 

 

 

 

あらゆる角度から、

スポットライトを当てるように、

立体的、複合的に人を見て、聞いて、想像できて、

そして何より

「身体レベルでもそれを感じる」力。

(最後のがないと、単なる「評論家」「解説者」になってしまう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話がまとまりませんが。

 

一昨日、専門職&学生を指導しているクライアントさんと、

 

「勉強ができない子(段取りが組めない子)って

想像したり、類推したり、推理したり…

という経験を人生でほぼしないで大きくなって来てますよねえ

(このすぐ先に、もう「世の中」が待ってるんですがねえ)」

 

 

 

という話になったことを書いて、

とりあえず終えておく。

 

 

 

 

 

  ↑

※鴻上さんの人生相談は本になったらしい。

リンクを上手に貼れなかったので自分で探してください☺️

 

 

 

 

 

あなたの「当たり前」が誰かの「特別」になるー強みとは自然とついやってしまう行動のこと

 

 

 

「TABICA」ってご存知ですか?

 

 

私が知ったのは結構前で、テレビでやっていたのを見たんですが、
散歩好きの人が、

いつもの自分のお氣に入りの散歩コース(東京・吉原界隈)、

 

それを案内するという「ツアー」にしてしまった、というお話でした。

 

 

自分の休日に、無理なくやるツアー。
少人数で「いつもの自分の散歩道」を巡る。(それがたまたま吉原な訳ですが)

お土産は吉原の名物煎餅1枚、という感じの氣張らないほっこりツアー。

 

 

でも、それが、

 

 

 

「よそからの人」
「吉原の歴史を知りたい!という人」

 

 

にはとても新鮮で、人氣のツアーになっている、
と。

 

 

 

 

 

「誰かの『当たり前』は誰かの『特別』になる」

 

 

 

 

 

これは、その「吉原ツアー」が載っているサイト
「TABICA」のキャッチコピーです。
https://tabica.jp

 

 

 

 

 

 

人が「何か」をするときに、
(「自分」というものを発信するときに)
基本、土台はそういうことなんじゃないのか、と思うのです。

 

 

 

 

 

特別な能力がないと。
もっと研鑽しないと。
もっと実績を積まないと。

 

 

 

 

 

自分には無理…
形が整っていない…
普通はこうだ…

 

 

 

 

 

そういうことではなくて、
「それでいい」
「そのままでOG」「そこからGO」

 

 

 

 

 

 

なぜなら、

自分自身にとっては『当たり前』で、
なんでもないことに思えても、

それが、他の誰かにとってはもはや
『すごいこと』なのだから。

 

 

 

 

 

 

人とは、
その「自分にとっての当たり前」
のパーツを持ち寄って、それが混ざり合って、
自然と、

噛み合って、
融合しあって、
そこからまた新しいものが生まれたりし…

 

 

 

 

そうして、みんなで楽しく生きていく、

 

 

 

 

 

それが、本質に思えます。
(いえ、そうなのです。でないと、こんなにみんなが違う意味がない)

 

 

 

 

 

 

 

 

私はいつも、いろんな人に
「ねえねえ、ブログ始めたら❓」

ですとか、

 

 

「ええ!それ、やったらいいのに〜‼️」

 

と、しょっちゅう言っていますが、
(本当にしょっちゅう)

 

 

 

 

 

私の周りには、
才能に溢れた人が、本当にたくさんいるのです。

 

(コーチングにおける才能、とは
「ほおっておいてもついついやってしまう思考や行動のパターン」

「無理なく、普通にやってしまう思考や行動パターン」のこと。

そこに優劣はない。それを「どう表出させるか」)

 

 

 

 

 

 

 

さて。
今、この「TABICA」を見て、思いついている、
やってほしいツアーは、

 

 

 

●某所、山城跡のすぐ下に住んでいる知人に、

「山城の頂上で眺望と美味しいお茶とお菓子を楽しむツアー」

(この知人は、お茶やお菓子の「心づくしのもてなし」が本当にうまい!いつも感動します)

 

 

 

 

 

 

 

それから、ツアーじゃないけれど、
映画のレビューをとてもわかりやすく書く知人がいて、
(その人の「視点」を通してみると、本当に映画が魅力的に切り取られる)

 

その人も、ブログをやったらいいのに、

と思っているところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※写真は、「もてなし名人」の知人の〈あるもので作ったおやつ〉。

ナッツをローストして
お芋で丸めて あんこで包んでお団子に
栗みたいなお芋のお菓子になりました。

 

 

だそう…。

添えてあるのは

ホーリー(聖)バジル(別名:トゥルーシー)。

 

こういうのが、するっと、瞬時に手の中から生み出されるんですよね(感動)

 

 

 

 

 

「チームおじやん」の話ー自分の中のたくさんの自分と手をつなぐ

 

 

 

 

 

 

「おじやん」

 

 

という言い方が、方言なのか、その人独特の言い方なのか、

わからないんですが。

 

 

 

 

 

 

長崎に親しくしているコーチがいます。

以前、親戚が入院中で付き添いによく行っていたそうで。

以下、彼女の言葉。

 

 

 

 

「看護三昧でちょっとお疲れモードです。

でも!

 

その病院は、チーム医療が県内ではトップクラスの病院で、

入院初日、ベッドの周りに10人以上のスタッフ

 

医師

看護師

理学療法士

作業療法士

言語聴覚士

歯科衛生士

管理栄養士

薬剤師

介護福祉士

 

などが集まり

最初の動きのチェックがあり、共有していました。

 

 

 

おじやん、

がんばれ~!」

 

 

 

 

 

 

 

その「チームの結集」ぶりと、

おじやんのベッドの周りで行われる自己紹介が、

とにかく、とてもかっこよかったらしい(笑)

 

 

 

その人のためにエキスパート全員が集まり

方向を確認しあう。

「よし、これでいこう!」とみんなで手を取り合う。

連携を取り合ってともに進む。

 

「おじやん」のために結集した、これはまさに「チームおじやん」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして。

私たちの中にも実は、「チームおじやん」ならぬ

「チーム自分」がいる、というのが今日の話です。

 

 

自分の中にいるたくさんの自分。

(NLPではこれを「パート」と呼びます)

 

 

 

 

 

 

 

自分にとって好ましいパート。

私だったら「好奇心パート」(なぜかイメージは8歳児)や

人前でどかんと何かをやらないといけない瞬間に発動するパート

(イメージ→アメノウズメノミコトみたいな?)

 

それは、自分でその存在を受け入れている「パート」です。

 

 

 

そして、

いなければいいのに、とつい思ってしまうパートもある。

(私の場合は例えば「怖がり」のパート。なかなか前へ進めなくなる)

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲の人間に対して「好き、嫌い」があるように、

私たちは自分自身に対しても「好きな自分」「嫌いな自分」がいる。

 

 

本当は、

「好きな」パートはもちろん

「嫌っている」「受け入れがたい」パートも

自分のために、よいことをしようと頑張ってくれているパートなんですが。

 

 

 

 

 

 

 

例えば、怖がりのパートは、

実はわたしを危険から守ろうとずっと奮闘し続けてきたパートです。

 

イメージだと「老執事」かな(笑)。

「お嬢様!おやめくださいっ!」みたいな…

 

いつも私の後ろで私が未知なることをしないよう、袖を引いてくれます。

それをすると「どんな怖いことが起こるか」を

とうとうと説いてくれる。

 

 

 

 

 

 

さて

自分の中「子ども」や「表現者」や「老執事」。

そのほか「学者」や「武士」などなどの…(いろいろいます)

たくさんの「わたし」。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの仕事(コーチの仕事)というのは

ひとえにこの「チーム自分」を、

 

 

あの、おじやんのチームのように

 

「お互いの存在と力を認め合った」

「それぞれの個性の発揮をかけがえのない『強み』にできる」

 

チームとすること。

最高の力を発揮できる状態に統合していく、というところにあります。

チームの中に「嫌われ者」として扱われる人がある限り

そのチームは力を発揮できません。

その人を「排除」すれば済むという問題ではない。

(また、次の「嫌われ者」を生むだけ)

 

 

 

 

自分の中に敵はいない。

すべてを自分のリソース(宝)に変えてゆくこと。

すべての自分が手を取り合って、進んでいく。

 

 

 

 

 

「チーム自分」がみな仲良く、うまくいっているときほど

人の人生は軽やかに、スムーズです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チーム自分」の統合に興味がある、という方はこちらへ。

体験セッション、秋分を挟んだ1ヶ月間実施中。

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/nagatuki

 

 

 

 

 

(この記事は、過去記事の再編集です)

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