「彼の人は『体験の人』。そしてあなたは?」

 

 

 

数日前に、

知人とお茶を飲んだときの事。

 

同年代のこの知人は、最近大きく環境が変わり

自由な時間、空間、環境がどっと一氣にやってきた。

で、

 

 

 

「いま、とにかくやりたいことをやっているの」

 

 

 

と。

その「やりたいことを何でも」の話を聞きながら

知人があんまり楽しそうなもので、

 

 

 

 

「バンジージャンプとか、いっちゃいそうですね」

 

 

 

とつい。

すると、知人、満面の笑みで、

 

 

 

 

「来週スキューバダイビングには行くけどね♪

水着も数十年ぶりに買っちゃった。

昔っからやってみたかったの」

 

 

 

 

 

そ、そうですか。

本当にすごいです。

わたしなど、夏の海とかもうカンベンですから。

手足が塩気でベタベタするじゃあないですか。

 

 

 

 

「とにかくわたし、なんでも体験したいの。体験したがりなの、とにかく!」

と知人。

話は進んで。

 

 

 

 

「そういえば、さっきバンジージャンプと言ったでしょ」

 

 

 

 

はい、言いましたが。

 

 

 

 

「わたし、バンジージャンプは嫌なの。

スカイダイビングならすごくやってみたいけど!」

 

 

 

 

へえ。

なんでだろ。

 

 

 

 

「スカイダイビングをやって、

もし、途中でパラシュートが開かなくなったとするでしょ。

最後、びたん!と(ジェスチャー付きで)

地面に落ちるとするでしょ」

 

 

 

 

こ、こわいです…。

 

 

 

 

 

「わたし、それでも全然いい!

だって、それまでに(地面に落ちるまでに、ってことですね)、

あんな体験ができるんだもの。

風がゴォ~っとなって、空をワァ~っと飛んで…」

 

 

 

 

 

目、きらきら°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°。

 

 

 

(「あんな体験」って、こんな体験のことですね)

 

 

 

 

 

「でも、バンジージャンプはダメ。

だって、途中でゴムが切れたとするでしょ。

あっという間に地上にびたん!でしょ。

距離がない。なさすぎる。あっという間すぎる。そんなの嫌だ」

 

 

 

 

 

そりゃまあ確かに…。

というか!

どうして「開かない前提」、「切れる前提」なんですか⁉

初めから!

…かわいい、かわいいよ、知人。

 

 

 

 

 

 

 

まるで、10代の女の子のような、彼女の出す雰囲氣を全身で感じつつ、

 

 

ああ。

あなたは「体験の人」。

 

 

そんな感覚がふっとわきました。

このヒト、

はるか昔、地上に降りてくるときに決めてきたな。

「今回は、たっくさん体験する、がミッションです。わたし」

と。

なんだかそんなイメージが浮かび。

 

 

そう、

確かにそうなのです。

同じことを体験しても、彼女とわたしは体験の「質」「方向性」が違うのです。

(あたりまえですが)

 

彼女の場合はきっと「体験すること」そのものに意味がある。

彼女の魂は、

無垢な子どものように、

この世に存在するありとあらゆる事象に出会い、ただ、

 

「体験する」

 

次々と体験する。

それこそを、欲している。

そのこと自体が目的で、その瞬間、

子どもの瞳のようにきらきらと輝きを増す。

それまで知人に感じていた感覚が、

ひとつストンと言葉になったような氣がしました。

 

 

 

 

 

「決めて(生まれて)きましたね~」。

 

 

 

 

と冗談半分、言ってみたのですが。

知人は、笑って肯定していたように思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

「それが果たされないことは、死よりつらい」。

 

 

つまり、

それをしないと(味わわないと)生まれてきた甲斐がない。

それを魂の方向性、というのでしょうか。

 

 

 

 

 

そして、知人は今、

それをやっている。

解き放たれた羽のように。

南国の空、上空1000メートルを吹き渡る風のように。

その柔らかくみずみずしい姿はまさに美しい。

光に満ちている。

(譬えではなく、本当なんです^^!

最近、明度と彩度が4段階くらい上がって見えるような…。

レフ板持ち歩いてます?って感じ)

 

 

 

 

 

こりゃあ、

中身が(魂が)光りまくっているな(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

魂が、と書きましたが、

なんとなく今日はそれがしっくりするので書いたまでで、

人によって、その表現するところ(言葉)はなんでもいいのです。

本質

人生の目的

真のゴール

 

 

 

 

 

 

 

それをしないと(味わわないと)生まれてきた甲斐がない。

それは、自分自身にも純然と存在するな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

わたしの知人は「体験の人」。

さて、あなたは?

 

 

 

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~

【お知らせ】

 

平成29年9月9日(土)

~自分の物語を見つける~

人生を導くアーキタイプを探すワークショップinみた
か井心亭

 【詳しくははこちらから】

 

 

 

九月九日は「重陽の節句(菊の節句)」です。

 

わたしたち日本人の生活には「節目」がかかせません。

 

節句。

祭り。

季節ごと、折に触れ、

旬のものをいただき、酒を酌み交わし、

自然の恵みに感謝し、神様に感謝し…

そういった場を昔から大切にしてきました。

 

そうして

日々たまった「氣枯れ」を払い、エネルギーを取り戻す。

そしてまた、元氣にはたらく。

そんなふうに繰り返してきたのが、

わたしたち日本人の暮らしです。

 

さて

 

そんな祭りが少なくなった今

こういった「ワークショップ」の場も、

おおいにその役を果たしているのではないか、

と実はいつも思いながら場を創っています。

 

周囲の人たちと、自然と、場と、

そして何より自分自身と「つながり直す場」。

自分のブレを正し、軸を再確認する場。

エネルギーを満たす場。

これを「祭り」と言わずしてなんとしましょう!

 

 

節句というステキな日の力を借りて

今回のワークショップのテーマは「物語」です。

誰の中にもある「物語」を探求します。

 

日々

生きていれば日々、いろいろなことが起こり

息切れしてしまうこともたまにはありますが

(まさに「氣枯れ」ですね^^)

そこに「意味」を見出すことが出来たなら

わたしたちはずっと楽に進んでいける、と思うのです。

 

「意味」。つまり「物語」。

 

自分は何者か?

今、どこにいて、どこへ行けばいいのか?

どんな未来をつくるのか。

自分の中に脈々と流れる

「あなたは何者であるか?」という物語の話です。

 

詳しくはこちらから。

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/sekku

 

 

「10歳までの言語が『脳の仕組み』=思考力・感性・情緒、をつくる」

 

 

 

 

先日テレビを見ていたら

ものすごくかわいい声で

 

「○○○○(←名前です)。よんさい! りっしゅん!うすい!けいちつ…」

 

と、暗唱がはじまりました。

「けいちつ」が言えてなくて「けいちちゅ」になっているのがカワ(・∀・)イイ!!

 

 

何をしているかというと、

これです。

 

 

 

「にほんごであそぼ」の暗記のコーナー。

「ああ、いいなあ」と思います。

 

 

こんな小さな頃から

これら日本語の美しい語感、そしてそれぞれの漢字が表す意味とイメージを

しっかりとからだに刻み込むとは、なんとよきことかな、と。

 

 

 

 

 

それで思い出したのですが、

以前「英語化は愚民化」(集英社新書 施 光恒)

というなかなかショッキングなタイトルの本を読んだことがあり。

英語の過度な早期教育、学校教育の過度な英語化に

警鐘を鳴らす一冊です。

 

 

以下、抜粋。

 

 

 

=====

 

 

●「言語が我々の知性、感性や世界観を、形作ってきた」

日本語が日本人の考え方や感じ方、日本社会の在り方にまで影響を与えている。

ゆえに日本社会の英語科を進めてしまうことは、

我々が想像する以上に日本社会に与えるダメージは大きい。

究極的には「日本らしさ」や「日本のよさ」「強み」を根底から破壊する危険性をはらんでいる。

 

 

●「日本語や日本文化は『高文脈』の言語であり文化」

日本語は「会話をしている状況」あるいは

「会話の相手の気持ちを適切に読み取っていく力」

いわば「察する力」が要求される。     【文化人類学者エドワード・ホール】

 

(英語の過度な早期教育によって)

日本語の求める

「関係性や反省能力を重視する、柔軟な自己」を形成すればいいのか、

英語の求める

「自己主張の強い、世界の中心としての固定した自己」を作り上げればいいのか、

子どもは当惑するのではないか。

 

 

●「創造性を損なう外国語での思考」

なぜアジアで日本だけが次々とノーベル賞受賞者を出しているのか?と中韓から問われ…

➡母国語で専門書を読むことができる日本の優位性   【ノーベル物理学賞 益川敏英氏】

 

 

●「このままではインド版アントニ・ガウディは永遠に生まれない」

高等教育はほぼ英語で行われるインド。

長年にわたって「インドの諸言語」は現代の科学技術的議論から切り離されてきたために、

「非科学的な考えを表すのにしか向いていない」とされてきた。

その結果、土着の言葉や伝統は、崩れかかった図書館の分厚い本のなかで忘れ去られている。

 

専門教育が英語でしか提供されない環境では、他人のコピーしか作り出せない。

英語化すれば学問の水準があがり、創造性や研究開発力が増すというのは幻想にすぎない。

 

 

●「大学の授業の英語化についての弊害」

各学問分野の最先端の概念が日本語で翻訳、出版されなくなる。

日本語で書かれる学術書も消えていく。

➡日本語は「専門的語彙」を持たない言語となる。

➡知的な思考や議論が日本語では行えなくなる。

高度な議論を行うための語彙を備えた「国語」である日本語が、「現地語」へと退化する。

 

 

 

●「母語での思考こそ創造性の源泉である」

製造業を「擦りあわせ型」と「組合せ型」に分類すると、日本が得意なのは前者。

後者はアップル

思いやり、譲り合い、協調➡擦りあわせ型の製品開発を円滑に進める効果。

譲ることなく議論する姿勢を当然のものとすれば、

「擦り合わせ」の効果は下がり、日本の強みは低下。

やがてどこにでもある「普通の水準のものづくり」に転落していくのでは。

 

英語化の推進が日本の経済力の強化につながるかどうかは疑わしい。

むしろ、創造性やものづくりといった日本の産業の強みを破壊し、

ますます経済を弱体化させてしまうだろう。

 

 

●「知的格差をつくらない日本語の力~日本語の表記システム。『音読み、訓読み』」

外来の抽象的概念を、身近な日常語に結びつける働きを持つ仕組み。

「高級語彙」と日常の言葉にあまり断絶が生まれない日本語。

「知識人」「一般の人々」という仕切りをあまり生じさせず、格差を作り出しにくい平等な言葉。

戦後、GHQの「ローマ字政策」の道を歩まなかったことが戦後日本の発展を支えた。

 

 

 

=====

 

 

 

 

角田忠信 「日本人の脳」(大修館書店)によると。

 

日本語は世界で数少ない「母音主体の言語」であり

そのことが、日本人の独特の脳のしくみを形作る。

 

 

 

虫の声や動物の鳴き声、風の音などの「自然音」。

西欧人は機械音と同じく「雑音」として

「劣位半球」(一般的に右脳/感性担当)で処理するのに対し

日本人は

「言語半球」(一般的に左脳/論理担当)で処理。

 

 

スズムシの声を心地よく聴く。

あれは言葉に準ずるような「意味ある音」として聞いている、ということだったのですね。

そして、それは日本人だけの感覚である、と。

 

 

 

 

その理由を角田さんは

日本語が「単一母音で有意語をなす言語だから」と言っています。

一音の「母音」そのものに意味がある言葉だ、ということ。

(つまりういうことですね➡意・井・胃・医/絵・柄・餌…)

 

そしてこれは他の国の言葉にはない特徴だそうで。

一音だけで意味を成す、という単語はごく少数の例外を除いて西欧の言葉には存在しない。

 

そんなわけで、日本人の脳は、「母音」に対して特殊な反応を示す。

母音に近い「自然音」にも。

こんなふうに。

 

 

(角田さん「の本にあった図を簡単にしてみました。

図は「西欧人」「日本人」と分けていますが

日本以外はミクロネシア諸島の言語を除いて、すべて「子音優位」の言語らしいので

この図はほぼ「日本語対その他の言語」の図、ということになるかと)

 

 

 

 

 

つまり…

雨の降り方を何百もの言い方で使い分け

風鈴の音を愛で

静寂の中、茶室で釜の湯の沸く音に耳を傾け

(湯の沸く「「チリチリ…」という音を「松風」と呼びます、と教えてくれたのはお茶に詳しい友)

鹿威しの「かっぽ~ん」に背筋を正し

ウグイスの「初音」を聞いた!と喜び…

 

わたしたちの生活に普通にあふれる

この、音と対話するかのような繊細な感覚。

「遊び心」は

「至福感」は

日本語で育った脳の特徴、ということだったのですね。

 

 

 

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 

 

 

 

この句の静寂。

一瞬の中の永遠を感じられるのも

日本語脳ならでは、ということで。

そして、この「日本語脳」こそが、

先に抜粋であげたように「ものづくり日本」はじめ、

「日本らしさ」や「日本のよさ」「強み」~まさに「和の文化」を作り上げている、と。

 

 

 

 

 

 

さて

本文中、

民族音楽学者の小泉文夫氏と角田さんの対談で

オペラなど、西洋音楽は4~5歳からの早期教育が必須だが、

専門の技術が全部身に着いてしまってから、ある年代から違和感を持つようになる、

という話が出てきます。

 

「そうすると(早期に始めると)、日本人でなくなっちゃうわけですね」by角田さん

「そうなんですよ。(笑)それが今までの日本人の理想像だったわけですね。

理想像を追っているのだけれども、結局は違和感と言いますか…」by小泉さん

 

 

 

 

 

「言語はそれを使う人の『精神構造』を造る」。(by 角田さん)

そして、それを左右するのは「10歳までの言語」なのだそう。

 

 

 

 

 

人生、寄って立つ「精神構造」があやふやになることの危うさ

(脳の中がどこの国の人間でもなくなってしまうことの危うさ=アイデンティティの危うさ)は

黒川伊保子「なぜ日本語は美しいか」(集英社新書)

でも述べられています。

 

 

「外国語の過度な早期教育、学校教育の外国語学習の強化」の弊害は

言葉を発する土台。

つまり一つの言語による精神構造(思考力・感性・情緒)、

が確立されなければならない時期に

ほかの言語に過度に触れることで

それらが育たなくなる(混乱する)恐れがある、ということ。

 

いくつかの本を読んで理解したのは、そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

英語を早くからやってちゃんと話せるように。

ネイティブと同じ発音に。

話せないのは恥ずかしい。

 

 

…わたしたちは、思えば、世代をまたいでずっと「英語コンプレックス」に

さいなまれてきたのかもしれません。

が、

考えてみれば「英語を世界共通語にします」というのも

「人間」(西欧諸国の)がつくったルールですし。

いつまで、その土俵の上で「より上を!」をどこまで目指すのか。

上とはどこか?

ネイティブと同じになること?

 

それは、圧倒的少数である母音優位の「日本語脳」である限り、絶対にムリ、なのでしょう。

そして

完璧になろう、とすればするほど根本から(脳の中から)

「日本人」であることをやめないいといけない、

ということ、になる。

(書いていてなんだか不思議な氣分になってきました)

 

 

 

 

 

 

もろもろ書いてみましたが。

実は、わたし、英会話教室に通う、というのがこの数年の悲願でして^^。

今より話せるようになりたい、

たくさんの国の人たちと語ってみたい、

日本の文化のこと、他国の文化のこと、それこそ、こんな「脳」の話などなど…

たくさん語り合ってみたい!と結構な強さで願っています。

 

 

 

が。

我が子が小さかったとして、

上記のような「危うさ」を内包しつつ

英語圏の人たちと「完全に肩を並べなければ」と

「英語脳」を子どもに埋め込むか?というのは大いに考えるところです。

虫の声をノイズとしか感じない大人に我が子がなる、

というのはちょっと…。

 

学校がそういう教育方針だったら、

「ち、ちょっといったん待って!」と言ってしまうかもしれません。

 

 

 

これから、(もしかして)世界を股にかけて活躍するかもしれないが

でも、この日本の国をベースとし、ここをふるさととし、心のよりどころとして生きていく子。

先祖の血を受け継ぎ、多くの先人たちの思いを受け継ぎ、これからこの国をつくっていく子。

 

世界に羽ばたくならなおのこと、

まずなにより、「日本人」としての「土台」を

しっかりと体得してほしい、と思うことだろうなと。

 

 

 

 

 

思うのです。

何のために言葉はあるのか。

何のために言葉は生まれてきたのか。

ビジネスのため?

グローバルに活躍するため?

それも大事ですが。

 

 

 

 

まず、何といっても

人は、

最も身近な、愛する人と氣持ちをかわし、分かり合うために言葉を使うのです。

同じものを見て共感し、響きあい、感動を分かちあうために言葉を使うのです。

 

自分の胸の内に渦巻く思いを

自分のからだの感覚としっかりとつながって

余すところなく、存分に、感情をのせて表現し、大切な人に、そして世界に伝えるために

言葉を使うのです。

そのために言葉は生まれた。

 

 

 

そして

言葉の深さは「その人が感知できる、触れることが出来る世界の深さ」です。

言葉=思考力。

言葉の量と質と深さの分だけ、人は自分自身を知ることが出来ます。

世界を知るこ
とが出来ます。

 

 

 

 

言葉と「自分」の、そんな確固たる「つながり」を

まずは子どもに与えてあげること。

それがまず、一番大切なことである、と感じました。

 

 

 

 

 

そんな「言葉と自分との真の回路」を

しっかりとつなげられるのは10歳まで。

 

 

 

 

外国語を学ぶこと、

コミュニケーションツールを増やすことに、まったくもってやぶさかではないのですが

自分のバックボーンとなる国、土地、風土、文化、人々との

「つながり」をまずはいかにしっかりとからだの中に結ばせるか、

 

 

 

というところを

忘れてはならない、ということを。

 

 

 

 

話がやっと戻りますが、

「りっしゅん、うすい、けいちつ…」

を聞きながら思い出して、

そして

画面の中の嬉しそうな子どもの顔を見て、

嬉しくなっていたところです。

 

 

 

 

 

 

 

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