と、
表題のように、
「禅」の番組を見ていてふと思ったわけです。
毎日掃除をする。
廊下を拭く。
落ちる枯葉を履く。
季節が移るごとに、日々の仕事(作務)は変わる。
作務は毎日毎日出現し、
そして繰り返される。
そういったものが、
昔はたまらず。
なかなか意味を見出すことができなかったのですが。
昔から、なぜか?
「何かを成し遂げなくては」
「ここではないどこかへ行かなくては」
という感覚が強く、
結局、目の前の「この瞬間」の物事はないがしろにされる。
という状況がわたし自身、
長いこと、あったように思います。
この、雲水たちの生活を見ていると、
その箒の「ひと履き」のなかに、
「すべて」が詰まっている、という感覚が
すうっと腑に落ち。
「その『ひと履き』こそが修行であり…」
と、禅では考えるようですが、
わたしには「自己表現」という言葉の方が、
しっくり来るような氣が。
どう履く
どんな重さの箒を使い
どちらから
どんな工夫をし
所作は
身体をどう使う
…
何であっても、昨日と同じ、というものは
実は存在しない。
毎日一見変わらぬものの中に、
小さな変化を見出し、
そこへ丁寧に創意工夫をすることの喜び。
すべては、
「自分」という人間が現われ出でたもの。
卓を右から左に拭く、その数10センチの行為にさえ、
そこに「喜び」を見出すことが出来る。
美しさを追求することができる。
昔、知人が(まだ年若い知人でしたが)
「このカップをどう洗うか?
その『洗う』
という行為に集中するのだ」
と。
あの頃は、
「今、ここに集中する」という
その意味が、頭ではわかっても、
(良いことだ、と)
身体では理解できなかったのですが。
今、やっと、少し、わかってきた氣がしています。
この「一瞬」に永遠が宿る、という感覚。
そぼふる雨の一滴に、全てが宿る、という感覚。
そして、
「やっとわかってきた」だけに、
それをずっと「やってきた」人たちがすごいな、と思うのです。
心から敬意を表したい、と思うのです。
どこかの禅僧とか、雲水さんとかのことではありません。
「あなた」のことです。
毎日頑張ってきた「あなた」のことです。
大切な人たちのために、
日々の暮らしを毎日毎日毎日…
時には愚痴なんか言いながらも、
丁寧に続けてきた「あなた」のことです。
そして、
その「継続」によって、
わたしたちに「良きもの」を文化、伝統、風習として
繋げてくれた、
たくさんのご先祖様たちのことです。
朝日。
露のにおい。
炎天の蝉の声。
鉢にかかる水の粒の美しさ。
夕餉のちょっと焦げた魚の香り。
…
挙げればきりがない「今、生きている感覚」。
日々の生活を味わい、
丁寧に生きたいものだと、
感謝とともに、
最近ますます思い始めている、この数ヶ月です。