その人が本当に求めていることは案外本人も知らないところにあるー弁当から価値観へ

 

 

 

 

 

先日の「質問」セミナー。最後のクライマックス

(と、自分で書くのもなんですが)。

 

 

 

 

 

参加者全員でコーチング。

 

一人の課題に対して、参加者全員で「適切な質問」を

投げかけ、投げかけ、投げかけ…

本人の中から「解決」を導く。

 

とまあ、そういう場面があったんですが。

 

 

 

 

 

 

 

クライアント役が

エクササイズ用に出してくれた「テーマ」は「弁当」。

 

 

 

「食費節約のためにもお弁当を作りたいけど、

ギリギリまで寝てしまうので、なかなか作れない…」

 

(可愛い♪学生さんです)

 

 

 

 

 

 

さて。

この彼女に向かって、

あきらかに倍以上生きている百戦錬磨の大人たち(笑)が、

手を変え品を変え…

この日、取得したばかりの「質問」を投げかけ、

「答え」をみちびきだす。

 

 

 

 

 

 

「朝起きられないのはなぜかな?」

 

「週に最低何日お弁当を作れたらいい?」

 

「夜は、何をしていて寝るのが遅くなるのかな?」

 

「夜、さっと寝ることができるときはどんなふうに動いてる?」

 

 

 

 

 

 

などなど…

質問は大学での時間の過ごし方にまで及び。

 

 

問われるままに、自分の中から言葉を探し出し、

ゆっくりと言語化を続ける彼女。

しばらくして。

 

 

 

「あっ…」。

 

 

 

目を少し上にあげて、瞬間。

「私…、自分がやらなくていいことまで、やっているかもしれないです…」

 

 

 

 

 

 

授業の課題以外に、ゼミ、学友会(的なもの)の仕事、先生からの頼まれごと…

そして、夜はもちろんバイト。

 

 

「(大学の中の仕事で)

これ、私がやらなきゃいけないのかな、と思うことが…結構あります」

 

 

 

自分の「パターン」。「癖」。

ずっと自然にやってしまってきているものだからこそ、

自分ではわからない。氣付きにくいものなんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

「弁当が作れない」という訴えは、彼女自身わかっていなかった

(彼女の意識の上にはのぼっていなかった)

 

「自分にとって、大切なものは何か?」

「自分のエネルギーをどう使うのか?」

 

という、人にとって結構根本的なところに結びついてた。

 

 

 

 

 

 

 

すかさず、「百戦錬磨メンバー」がサポートの言葉を投入。

 

 

 

「自分の時間をどれに集中させるか。

この取捨選択は、一生ものなんですよね。私もそうです」

 

(しみじみ、あったか〜な低い声音で。

そして、もちろんご本人は、「サポート」なんて思ってらっしゃらない。

つまり、芯から滲み出た言葉で…こういうのが本当に「効く」)

 

 

 

 

 

 

 

「問題」だと思っていることの根本は、案外違うところにあったりする。

この一連の流れを見ると、

 

 

 

「表層にあらわれた『問題』だと思われるもの」

 

 

 

だけを槍玉に挙げ、

例えばアドバイスや指示をすることが、いかに無益なことかわかります。

そのことの真の答えは、

 

 

 

 

 

「本人自身の『深い思考』と『氣付き』の中にこそある」

 

 

 

 

 

他者に対しても。

そして、自分自身に関しても、そう。

 

 

 

 

そして。

大切な人と、そういう関わりができたとしたら、

何にも勝る宝を。

(思考する力・本質を抑える力・人生の根本を理解し、変える力を…)

 

「その人」に残すことができる。

それは何よりも大切なこと。

 

 

 

 

 

そう思いませんか。

 

 

 

 

 

「そのこと」を通して「何を味わいたいか」は一人一人違う

 

 

 

 

 

別なところへ行くつもりが、なぜかここで引っかかってしまいました。

 

 

 

 

明石屋という和菓子屋さん。

鹿児島では老舗で、弘化4年創業?かな?

 

 

ここは庭も美しくて、

外では苔の上の葉っぱや枯れ草を綺麗にするのに余念のない庭師さんが二人。
ちょっとお声がけしてみたんですが、

鹿児島市は吉野の「庭吉」さんの庭師さんだそう。
(サイトがとてもかっこよかったので貼っておきます)
https://niwakichi-kagoshima.jp/

さて。
この2ヶ月のうちに、

脳天カチ割られたように「庭師になりたい!」と思った瞬間があり。

(人生で数回、衝動的に思うことがある?

昔から好きだったのですよね)

そして今、
外の二人の若い庭師さんの姿を見ていて
(苔の上を片手サイズの竹ほうきで履きながら、小さな枯れ草まで丁寧に撤去✖️30分)

「あ、やっぱり無理だ…」

庭をつくるっていうのは、つまりずーっと
「続けていく」「保つ」
ということなんですよね。
(当たり前じゃないか、とツッコミつつ)

以前、結婚式の仕事をしていたのは、
「空間演出」
が好きだったこともあったんですが、

●演劇
●ウエディング

わたしの辞書に「創る」はあっても「保つ」という言葉はない!
(「瞬発力」「爆発」とかも上位に載ってます^^)

自分は「消えもの」専門だなあ〜

と庭師さんたちの姿を見ながら、
さらにしみじみと実感でした。

「そのモノ」に惹かれるわけ。
「そのモノ」の中の、どの特質に惹かれるのか?
自分の最も譲れない(動かせない)本質と何パーセント合致しているか?

仕事のミスマッチを起こさないポイントでした?
 

 

 

 

 

 

例えば、

これをやりたい。こういう大学に行きたい、

こういう仕事につきたい!とお子さんが行ってきたとき

上記の様な質問をしてあげることは、

意味があることなんじゃないか、と思います。

 

 

 

 

親族をはじめとして、

周りが妙齢の親たち(つまり、子どもの巣立ち(進路選択)に直面している親たち)

が多いもので、そんなことをふっと思いました。

 

 

 

 

(結構、「修羅場」を見聞きするもので。

まあ、横から見ている分には気楽なものです^^

もっとやれ!と思う。

 

今、妥協しないでお互い、徹底的にやりあわないと、

後からもっとグダグダになるぞ〜、と)

 

 

 

 

 

 

 

丁寧に、真剣に、大人と同じく尊重し、本質を、平易にー子どもへの言葉

 

 

 

 

コタロウくんの質問

「食虫植物は筋肉もないのにどうやって素早く動くの?」

(わたし「そりゃそうだ。君すごいね」)

 

 

 

  *    *    *

 

 

「食虫植物いうてもウツボカズラみたいにただ待っとるのもあるんや。

コタロウくんがいうとるのはハエトリソウやね。

 

 

 

 

 

 

コタロウくん見たことある?

あ〜、テレビで見たんやね。

 

 

 

ハエトリそうの葉には、3つの針がついとるんや。

その針に、一度触れただけでは葉はとじないんや。

2度触れたときに閉じるんや。

 

 

 

 

 

 

一度触れたときに、ある物質…まあ名前難しいからこんなん覚えんでもいい。

「ある物質」としとくけど、

それが発生するんや。

そして。2度触れたときに2度分発生する。

 

 

 

その物質がある分量を超えると、

そこに電気みたいなものが発生するんや。

そして葉がぱたっと閉じるんや。

 

 

 

(中略)

 

 

 

コタロウくん、植物育てたことある?

肥料がいるの、知っとる?

 

 

 

肥料には三大肥料いうのがあって

「窒素・リン酸・カリウム」…せっかくやから今日これ覚えよか。

「ちっそ・りんさん・かりうむ」

はい、ゆってみて。

 

 

 

その、ちっそが大事なんやけど、

ハエトリそうのところにはなかったんや。

 

 

 

だから、

こういう方法を編み出して、ちっそを取り入れようとしたんや。

(わたし「へえ〜!!!」)

 

 

 

 

 

 

『人と違う』ことをすることで、

生き抜いてきたんやね」

 

 *

 

 *

 

 *

 

というやりとりを車の中で聞きながら来たんですが、

聞いた時は大感動だったんですが、

全然再現できない。

(ほとんど忘れている…)

 

 

けど。

 

 

「ちっそ」

も言えない子どもの(何度やっても「ちっと」になる?)

 

 

 

「へえ…」

「へえ〜!」

 

 

 

という声は、

未知の世界にガツンと触れた喜びが満ち満ちていました。

 

 

 

 

この、ハエトリそうの先生の熱意。

よかったです♪

 

子ども相手でも、全く揺るがない「研究者魂」と言いますか、

細かい差異をおろそかにしない説明ぶりで、

 

でも、平易。

 

 

 

この子の感動は、

案外そんなところからも生まれているのでは、と思ったり。

 

 

 

 

 

 

 

昨日も移動中、聞いていたんですが、

ここの先生方(夏休み子ども科学電話相談です^^)

の共通点は「受け入れ力」のすごさ。

 

子どもなので、話がどんでもない方向に行くこと多々あり、

でも

 

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

「なるほど〜」

「○○くんはそうなんだねえ」

 

 

 

と必ずいったん「受け取って」から、静かに本筋へと戻して行く。

 

 

 

大人のコミュニケーションはかくあれかし

(お釈迦様の掌状態)

 

とも思う。

 

 

 

 

 

大人が無意識に持つ「問い」は子どもに受け継がれ子供の人生を左右する

 

 

 

 

 

 

仕事がAIに奪われる?これからの時代、子どもに何を学ばせたらいい?」

という趣旨の番組で、プログラミングの教室に通う子ども達の様子が出ていました。

 

 

 

プログラミングがなんたるか?私自身、よくわかっていないんですが(笑)

子ども達のやることを見ていて、

 

 

 

 

「ある目的を達成するために

 

●どう思考を組み立てるか

●そこに至るどんな工夫をするか

 

それを、自分であれこれ考え、

推測し、想像し、材料を変え、手を替え品を替え、

 

 

「トライ&エラー&トライ&エラー&トライ&…」

 

 

を繰り返し、

そして最後に形にする(達成する)」

 

 

 

というプロセスを、一つのルールにのっとって、

体験しているんだな、と思いました。

 

 

 

 

実際、教室の先生は、

 

「これで、プログラマーになってください、なんて全く思っていない。

これで何を成し遂げていくかは個々の子どもの人生。

これは、自分の興味のあることを深めるための手段です」

 

と。

 

 

 

 

けれど、それを習わせている親に関しては、

 

「来年から必修に入ってくるので、やっておいた方が授業に入りやすい」

「急に授業が始まって、ついていけないとかわいそうだから」

 

という理由の人たちがピックアップされていて、

ああ、やっぱりみなさん心配なのね、

 

 

と思ったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

さて、番組最後、

 

「AI時代を生きる子どもたちに必要な力は?」

の問いに対して、に「専門家」が答える。

 

 

「AI時代を生きる子どもたちに必要な力は『問いを持つ力』だ」

 

 

「AIはデータを学習するときに、

なぜこれを学習しないといけないの?とは問わない。

AIは鵜呑みにするが、人間は問いを持つ。

そこが大きな違いだ。 

 

 

『何のために生きるのか?』

『この仕事はそもそも何のためにあるのか?』

 

 

一つ一つのことに、

目的と意思を持っていることがこれからの人材には必要なのだ。

 

 

 

そのためには何より、

まず、親である自分自身が、問いと目的意識を持つことを始めること。

 

『自分自身は何を大切にして生きていくのか?』

 

それが、一番初めにやらなくちゃいけないこと」

 

 

 

 

 

 

心の中にその人が持つ「問い」はその人の人生そのものです。

 

 

なぜなら、

人は、日々自分自身に投げかける「問い」の方向を見ることになるから。

 

 

問いの方向性が人生の方向性を決め、

問いの質が人生の質を決める。

 

 

そして、親が無意識に自分に、人生に対して持つ「問い」は

子どもに受け継がれ、子どもの人生を左右します。

 

 

 

 

 

 

 

「テクノロジーが進化して世の中が激変する世界」

と番組内の専門家さんが言っていました。

本当にその通りです。

 

 

 

過去数十年やってきた方法が。

 

みんながそうだから、

ずっとそうだったから正しいと思ってきた方法が、ゴールが。

揺らぎ、動き、どんどん覆り始めている今。

 

皆が、自分自身の

(いえ、私たち日本人にとっては本来の、かもしれませんが)

「軸」を持たなければ。

羅針盤を持たなければ。

 

 

どこに向かって進みましょう。生きていきましょう。

子どもに「何を幸せ」と伝えましょうか???

 

 

 

 

 

それにはまず何より、親自身が。

大人自身が人生の軸をはっきりさせることが必要。

 

そのために、私たちは日々、

自分自身に問いかけ続けなければならないのです。

自分の本質を知るために。

 

 

 

 

自分にとっての「真・善・美」は何か?

 

自分にとって、最も美しく、善く、価値ある方法で、

世界と繋がる方法は何か?と、

問いかけ続けなければならないのです。

 

 

 

 

 

人は私たちの言葉ではなく、私たちの出す「音」を聞いている

 

 

 

 

 

というのは、今、心地の悪い響きで発せられた言葉を聞いて、

それに「刺された」ので、

(比喩ではない。いつも心臓のあたりが痛くなる)書いているわけですが。

 

 

 

言葉を聞いていないというのも言い過ぎで、聞いてはいるんですが。

でも、「言葉の内容」と「音」。

どちらがより根元的に、深いところで相手に影響を与えるか、というと「音」です。

響き。

 

 

 

 

 

 

 

理由は、

言葉の内容は頭(意識)で捉えるが、

音は身体(無意識)で捉える、から。

 

 

 

 

 

私たちは、どんな言葉を発するか、以前に、

自分がどんな音(音色/おんしょく)でもってその言葉を発しているか。

どんな波長でもってその言葉を発しているか。

 

 

 

自分の出している「音」にもっと敏感になり、

繊細になり、注意を払う必要があります。

音には意識的、無意識的に感情や意図が入る。

 

 

 

「こんなときはどう言ったらいいですか?」

 

 

 

などとよく聞かれますが、言うこと以前に、

「出す音を少し繊細に、

(とか、柔らかく、とかエネルギーを入れて、とか、どどんと!…)

すればいいんじゃないの?」

 

 

 

などなど、思うことがよくあります。

文言を(表皮部分を)変えてうまくいけばラクではありますが。

(問題の本質はそこにはないんですが)

 

 

 

 

 

 

「(例え言葉がどんな言葉であっても)

傷つけるような『音』を出していなければ傷つかない。

音に、摩擦のエネルギーや荒さがないから」

 

 

 

といったのは並木良和さんですが、本当にその通りだな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一つ、大切なのは何より大切なのは、

「言葉の内容」と「音」を100%一致させること。

 

 

 

私がしょっちゅう言っている氣がする

「言葉と自分を一致させる」

ということなんですが。

これが一致していないと氣持ち悪いことおびただしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前の人は、生身の人間です。

頭でどんなに「いい内容喋ってるんだけどね」と理解したとしても、

 

 

 

身体は嘘をつけない。

言ってることと出してる音にズレがあるなあ〜、

ということをちゃんと身体は(無意識は)キャッチする。

 

「あれ、なんかわかんないけど氣持ち悪いなあ」ということになる。

 

自分にとって「共振」しない音には身体も心も開かない。

 

 

 

 

 

 

 

例えばプレゼンとは、つまりは

自分の出す音でもって、目の前の人と場を共振させる、ということ、なのです。

そして、その第一条件は、

「使う言葉と自分の出す音の一致感」。

 

 

 

 

 

 

 

つらつら思い返せば、

私の身近なコミュニケーション巧者・プレゼン巧者は

(世間一般にいう声の良い人、や「立て板に水」の人ではなく、心から信頼できる巧者たち)

例外なく、私にとって「言・音一致」の人たちです。

 

 

 

 

 

 

そして、

そのこの上ない一致感、しっくり感の上に立って、

「豊かに、自分の表現したいことに沿って自身の音を自由自在に使える人」

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

すごいものを見た!ー背中で語る男たち

 

 

 

 

瞬時に「背中の貴公子」!と命名してしまったんですけど。

 

 

 

知人から誘っていただいた日舞の公演。

当日ぽかっと時間が空き、急遽見に行ったのですが、

そこですごいものを見ました。

 

 

 

 

その公演は、鳴り物も全部生演奏で、

唄、三味線、鼓、笛…もう本当にすごくて

(Eテレ「古典への招待」でいつも見ている通り←書いていて悲しい。所詮テレビなのです)

 

知人の踊りもまあ!美しくて、

そのことも書きたいんですが、今日はさらに滅多に見られないものについて。

 

 

 

 

 

 

それは、これ↓(下記写真参照)黒の紋付と袴の人。

「後見さん」と言うそうです。

 

(写真は資料です。お借りしました)

 

 

 

 

 

 

踊り手のサポートをする人。

刻々と変わっていく小道具を舞台上で渡し、取り替え、

衣装のラインをこまめに整え…

「引き抜き」と言われる衣装の舞台上での早変わりを執り行う人。

 

 

 

 

常に、踊り手に意識を注ぎ、

踊り手が最高の美しさで踊れるように存在する人。

 

 

 

踊りの流れも、

そして、

観客がその世界にどっぷりと浸ることも決して妨げてはならない。

 

 

 

 

 

そこにいるけれど、いない人。

それが「後見さん」なのです。

 

 

 

 

 

このお役目。

踊りと、場面の進行と…ものすごくタイミングを要する複雑な仕事なのですが、

決して踊り手を、

 

 

 

「ガン見」

 

 

 

してはならない。

なぜなら影だから。

正面を向いて座っていることは愚か、

くいっと顔を向けて舞い手を見ることすらしない。

 

 

 

そこに自身の存在があってはならないのです。

 

 

 

 

 

 

したがって、後見さんは、

 

「背中で」

 

踊り手を、見る。

舞台奥。

客席に背を向けてしん…と端座し、

まっすぐに伸びた背筋、やや首をうつむかせ、面をかすかに斜めに傾け…

 

 

 

 

 

背中で。

そして全身で、全神経を集中させて、舞い手と、舞台全体を

「見て、聞いて、感じ取って」

いるのです。

 

 

その姿は美しい。

後ろを向いているのに、その人の背中から出た「意識」が

舞台上に張り巡らされているのが見えるような氣がしました。

 

 

 

 

 

 

そして、そんな舞台上の踊り手と後見さんに、

なぜか私の口から飛び出てしまったのは…

 

 

「君ら…オスカルとアンドレかっ!」

 

(古い。古すぎる)

 

 

 

 

 

影なのに美しい。

影の役割をこんなにもまっすぐに全うしている、その姿は美しい。

 

 

 

 

 

ちなみに、

舞台上で使い終わった衣装や小道具を、

曲の途中で袖に持っていったりもするのですが、

当然、「スタスタ」とフツーに歩いて荷物を持ってはけることなどしない。

客席に背中を向け、ススス…と、

「なきもの」として持って、去っていきます。

 

 

 

 

 

 

さて。

本当に、滅多に見ることができない「すごいもの」を見てしまったのですが。

いろんなところで、

 

 

 

「部下が動かない」

「学生が動かない」

 

 

 

 

と言う「困りごと」を聞く日々。

 

 

 

 

「一度後見さんの訓練をしたら、

みんな恐ろしく『氣づけて、即、身体が動く人』になるだろう」

 

 

 

 

 

と思ったのでした。

(まあ、そんなことのために来られても、

日舞の世界の方々、迷惑なだけですけどね^^)

 

 

 

 

 

 

[追伸1]

「背中の感覚を磨く」と言うのは、私もとても大切にしている部分で、

若者セミナーや表現系ワークショップでは必ず取り入れているんですが、

今回さらに「やっぱりそうか」と確信を持ちました。

 

 

[追伸2]

この体験を通して、一つ思うところがあったのですが…

つまり、「こんなに後見さんが美しくていいのか?」

「こんなに後見さんに、ある意味目が行ってしまっていいのか?」という。

 

後日、Eテレで、ものすごく「枯れた」後見さんの「後見ぶり」をみて、

「なるほど〜」と思いました。

つまり、先日の「後見さん」の役の方にも、もしかしたら、

もっと先の世界があるのかもしれないと。

 

 

 

 

(美しい男性の話①「腰から動く男はかっこいい」はこちら)

https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12492381046.html

 

 

 

腰から動く男たち(はかっこいい)

 

 

 

 

 

エアコンの取り付け作業がものすごく面白くて、

邪魔かも、と思いつつ横で「ガン見」していました。

 

なんというか…かっこいいんですよね。

なんでも、無駄のない流れるような動きは「美しい」。

特にこの、腰に巻いたベルトにつけたバッグから、

瞬時に工具を取り出すところなんかもう…♪

 

 

 

腰回り、ほぼ360度に大から小から…

いろんな工具を入れたバッグを下げてらっしゃるんですが、

 

さっと伸ばした手が、寸分違わず目指す工具にたどり着く。

背中側のだってもちろん同じ。

今に、手にした工具を「くるっ」と一回回してから

使っちゃうんじゃないか、と思うくらいかっこいい。

 

 

 

 

「いいなあ~。いいなあ~。

わたし、腰にそういうのを下げる仕事をしたかったんですよね。

庭師さんとか大工さんとか」

 

 

「そうなんですか?(笑)」

と工事の方。

(映画村で大道具を作る人とか、

というのは恥ずかしかったので黙しておきました)

 

 

 

 

さて。

必然的に、この結構な重さの「腰のベルト」を中心に、

動くことになる、この方の動きは、

しっかりと腰が座っています。

なので無駄がない。

(腰を要として全ての動きが波紋のように出てくるので、

バタバタ感がない。無駄がない。

小さな動きで最大の効果、という感じでしょうか)

 

 

バイトでついてきている学生さんの

「ひょこんひょこん」

としたアップダウンの多いパタパタした動きとは違う。

 

 

 

 

 

「この仕事を始めた頃はもう、腰が痛くて痛くて…。

ベルトは重いし。

下手な動きをすると、腰をやってしまうんですよね。

今はどれだけ重くても大丈夫ですけど」(職人さん)

 

 

 

 

 

 

腰を落とした際の動きもかっこよくて、

以前テレビで見た、

 

 

「古武道の股関節の動きを使って疲れない移動をする」

 

 

動き方に似ている。

(武士がさささ、とにじり寄ってくる動きみたい)

 

 

狭い室内での限られたスペースでの作業も多いでしょうから、

自然と「一番合理的な」動きを会得されたんだろうなあと。

 

室内に大荷物を広げまくることもなく、

最小限のスペースで着々と進む作業の手際も面白くて、

ずっと見ていました。

 

 

 

 

 

さて。

何をするにしても、

動きが汚いのは「アウト」だなあと思います。

(自戒を込めつつ)

動きの美しさと、仕事の質、仕事のセンスは直結している。

美しい、というのは、

 

 

身体の理にかなっている。

作業の理にかなっている。

場の理にかなっている。

 

 

という感じでしょうか。

 

それは、同時に、

その人の中の、

きちっと系統立てられ、整理された段取りや、思考をも表している。

 

 

 

 

 

幸田露伴と娘の文(あや)。

露伴が14歳の文(あや)に仕込んだのは、何よりまず

「掃除の仕方」でした。

はたきの使い方、雑巾の使い方、バケツに水をどう汲むか…

つまりは「身体の使い方」。

 

 

 

「水の扱えない者は料理も経師も絵も花も茶もいいことは何もできないのだ」

  (BY 露伴)

 

 

 

かつては、日本人誰もが、普通に生活のあらゆる場面を通して

身体に『型』という知恵を刻み込む、

(授けてもらう)

機会を持っていた、と思います。

 

例えば、まっすぐ座る。

背筋を伸ばして箸や茶碗を持つ。

それも「型」。

 

 

それらは「生活の中で使う型」ではあるんですが、

実はそこを遥かに超えて、

考え方の土台、精神の土台となって

人生の様々な場面で応用、活用できる大切なものだったような氣がします。

 

 

 

 

そして今、私たちの型がだいぶ廃れている

ということも事実なのです。

型が崩れている、ということは、

「型によって得ていた大切なもの」

も崩れている、ということなのです。

 

 

 

 

腰はら文化の話を書こうと思っていたんですが、

型の話になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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