「日本の異分子『薩摩』」

先日
鹿児島市内のホテルで行われた
「鹿児島で日本の歴史を知る」

というテーマのシンポジウムに行ってきました。
「九州新幹線全線開業経済効果最大化プロジェクト」
という大きな看板の下がった事業の一環とか。
参加者は約300人。会場にひしめき合う人、人。
会場の色合いは「グレー」。
(スーツ姿が多かった、ということです)
観光に携わる方々の多いシンポジウムでした。

基調講演とパネルディスカッションのコーディネイターは
「逆説の日本史」の井沢元彦さん。

「薩摩は常に日本の中の異分子。異分子として活性化させる役割を担ってきた」

という視点を軸に、その
「異分子ぶり」
を神話の時代から明治まで、さまざまな角度からひもとく、という講演で
薩摩は農耕民族(大和)に追いやられた縄文人(狩猟民族)の
名残の文化を色濃く残している、ですとか
とても興味深いお話が盛りだくさん、でした。

例えば
鹿児島独特の教育システム「郷中教育」などは
狩猟民の学習の方法である、と。
(異年齢集団の中で、年長者のやり方を見て覚えていくという学び方)

そして
「血」や「肉」に対する考え方。

聞けば聞けば
思い当たることばかりで思わず笑ってしまいました。
わたしの家では小さいころ、お正月やお盆や、それから大切な来客があった時など
必ずと言っていいほど、家で飼っていた鶏を殺して(つぶして、と言ってました)
皆に供していたものでしたが
(来客にはしゃいで、家の裏にわ~い♪と走って行くと
白目をむいた鶏が、首から血を流してぶら~ん、と下がってましたっけ)

これなどは日本全体から見ると結構特異な風習なのだそう。
知らなかった…。
どこもそうだと思っていました。
狩猟民族の文化なのだそうです。

血や肉を「けがれ」とする「農耕文化」に対して
狩猟文化はそれを「神からいただいた聖なるもの」として扱っていたと。
東北だとドラマ「アテルイ伝」に出てきた「蝦夷」(えみし)たちがそれにあたるそうです。
そういえば
わたしの実家の地域にはばっちりあります。
史跡「熊襲(くまそ)穴」!
東北の蝦夷。九州の熊襲。
どちらも「征伐」された「原住民」。

何だか…どんどん記憶がよみがえってきました。
うちには所有の山があり、なおかつ父のお友達もなんだか同好の士?が多く
イノシシの肉、シカの肉…頻繁ではないですが
たまに食卓に乗っていたような。
そういえば、うちにはイノシシの頭蓋骨がありましたっけ。
父が「珍しい」と飾っていたんですが。
イノシシの肉、ハチの子、キツネやタヌキのはく製、何かの毛皮…
「またもって帰ってきた~」と思いながら
楽しさ半分、怖いもの見たさ半分で父に付き合ったものでした。

それからそれから…
干したマムシ!
S字型にうねうねっと湾曲した干からびたマムシが
太い串に刺されて台所の壁に「乾燥センブリ」と一緒にオブジェ化してましたっけ…。
うげ。
嫌なもんまで思い出してしまった(涙)
あれは怖かった。
とても怖かった。

父はその頃公務員でしたので
単なる「趣味」かと思っていましたが
今考えると、あれは全部父の身についた暮らしの「技」でした。多分。
井沢さん的に言うと、どう見ても思いっきり
「狩猟民族」の末裔としての風習。
そして、それを自分が全く受け継いでいない、というか
好きではなかったことも思い出します。


それらは消そうったって消しようがないくらい
わたしの血肉に刻み込まれていることも確かです。
(マムシはさすがに刻み込まれていませんが!)

今回は、思いもよらず
遠い遠い悠久の昔からの自分のルーツを垣間見ることができて
とても新鮮な驚きを感じています。
この発見、今のところ「だから何?」という感じなのですが
少し自分の中で遊ばせておこうかなあと思っているところです。
何か、新しい発見や気づきにつながったり
ふつふつと面白い何かが醸成されてくるような気がしています。

さて、このシンポジウム。

「いつの時代も日本の異分子であった薩摩」

がこれから、どんな個性を、特徴を発揮して躍動してゆけるのか
この国に影響を与えてゆけるのか、ということがテーマだったのですが

集まった300人の「縄文人の血を受け継ぐ人々」の中に
どんな波紋を投げかけたのか
皆さんの中で何が醸成されてくるのか
何だかとても楽しみです。
決して

「薩摩の気骨、才能(異分子パワー)は西南戦争で死に絶えた」
(と、パネリストのお一人がおっしゃってました)

なんてことで
あってほしくはないものです。

「『いのち』の写真」

 

 

 

 

一本のメールとともに
声が聞こえるかのような高揚のメールが来ました。

「家に三匹の子猫が生まれたんですよ!

ミュー、ミュー
小さな命!一生懸命生きようとしています。
尊いですね!」

うわ。
小さ…
しかも
なんて頭でっかち。
ギュッとつぶった目。弱弱しい手足。
ぷるぷると
まるでこの世の中に生まれ出でて全身で戸惑っているような。

なのに、この圧倒的な「何か」は何だ??
(意味不明です)
と…
いろいろな気持ちは言葉にならず。

この季節にふさわしい
みずみずしい命のエネルギーです。

「ばくまつる」

忙しい。

といっても
少なくともわたしの周囲と比べると
時間的にきつきつ仕事をしているかというと
そうでもないのですが。
どちらかというと「のんびり」な部類なのでしょうが。
(こういうもの、誰と比べるものでもないんでしょうが)
が、
わたしからするともはや
「満杯」の感覚です。
ああ忙しい。

わたしにとって
自分が自分らしくいるために

「ものすごく広い空間」

が必要なんだなあ
とつくづく思います。
広い広い、「間」。
時間的にも、物理的な「場所」としても。
そうでないと、息がつけなくなってしまう。
感覚的に時間が「詰まっている」と感じ始めると
呼応して身近な空間も着々と詰まり始めますし。
(つまり、家が片付かなくなるということです)

ここのところ
酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせながら
自分を平静に保ちつつ・・・とまあ、頑張っていたのですが。

今朝、長崎から
一陣の風のように便りが。

「ばくまつる」。

 

龍馬やら
後藤象二郎やら近藤長次郎やら大浦慶や陸奥宗光ら…(多分。シルエットから見てそうかな~と)
他に、長崎の「幕末」にゆかりのある名所や風物が
シルエットで染められた手ぬぐい。
その名も『ばくまつる』。
これ
欲しかったんですよね!
(亀山社中のハガキもあるぞっ!)

すとん、と何かが抜け。
で、なんだかすっきりと静かな心持です。
単純~。

好きなものを手にして元気になる。
当たり前のことなんですが
今朝、あらためて気づいたのは
自分にとって「歴史」は
「間」を一気に広げてくれるものだということです。

物理的な「空間」「状況」を動かすことは難しくても
「心」は動かせる。

心はいつもどこへでもいける。
軽やかに時間も空間もダイブして、どこまででも広がってゆける。
体は「ここ」から離れられなくても
意識はいつでも、遥かな時代や、そこで生きた人たちの思いを通して
広い広い世界とつながることができる。
それは今の自分にはない
とても純粋なものであったり
真っ直ぐなものであったり
力強いものであったり
奇想天外であったり
そして、美しいものである気がします。

そして
その奥に、
人としての変わらぬ「テーマ」のようなものを
形は全く違えど「受け継いで」今を生きている自分たちという
鳥の目のような視点が降ってきたりもします。
とても落ち着きます。安心します。
「ああ、自分だけじゃないや」
と思えます。
勇気が出ます。

こういう忙しいときほど
「心」が
「意識」が
どことつながっているか、ということが
自分として立ち続け、自分の声を出し続けるために
本当に大切なことだなあ、と

桜島と海を眺めながら
新しい手ぬぐいのぱきっとした木綿の肌触りを確かめつつ
しみじみと感じている今この瞬間、なのでした。

「パンツァー・フォー!(戦車よ、前へ!)」

 

子どものころから
「チームのお話」が好きでした。
古くは十五少年漂流記ですとか^^。
最近面白かったのはこれ。
 

「ガールズ&パンツァー」

(アニメ公式サイトはこちら)

 

「パンツァー」は「戦車」。

「華道」「茶道」「書道」「香道」などなど…と並んで「戦車道」なるものが

女性の嗜みとして、「伝統武道」になっている…という世界のお話です。

学校では「戦車道」の授業があり、「戦車道全国大会」なんてものまである。

 

主人公は

伝統と格式の「戦車道」家元の娘、みほ。

内気で引っ込み思案な性格の彼女。

戦車と、戦車乗りの家から離れ
「普通の女子高生」になりたくて

戦車道の授業のない「茨城県立大洗女子学園」にわざわざ転校してきます。

が!

学園存続の危機に瀕した大洗女子学園。

起死回生を狙って

「戦車道」の復活と、全国大会制覇を決めてしまうのです。
(余談ですけど、大洗の街がリアルに出てきて、それを見るのも楽しいのです)

 

さて

発足したばかりの超弱小「戦車道」チーム。

そして、家元の娘ということで、チームを率いる「隊長」にさせられてしまうみほ。

みほの運命はいかに!?

大洗女子学園戦車道チームは勝ち上がっていけるのか!?

 

 

 

登場人物中、もっとも「普通」で、どこにでもいそうな
「悩めるキャラ」が主人公なのは

やはり、見ている若い人たちが感情移入しやすいからなんでしょうか。

 

自分が見つからない。

自分に自信が持てない。

そんな彼女が「自分の戦車道(笑)」を見つけていくまでの成長物語が

この話の一つの軸になっているのですが

もうひとつ、この物語でとても「魅力的」なのは

主人公以外のキャラクターの
これでもかというくらいの徹底した「我が道を行く」姿。

周りを固める仲間たちは面白いくらいに「自分の世界」を持っている。
持ちすぎている。

 

 

戦車オタクに華道の家元の子。
歴女。
バレー部復活に命を懸ける元バレー部員。
規則第一の風紀委員…

自分の愛する世界を、自分の価値観を
生きる指針を寸分も疑うことなく

そして

誰はばかることなく存分にその世界を楽しみ
享受しているメンバーばかりなのです。

(主人公はぶれぶれなのに^^

そして、一人一人がその個性をいかんなく発揮して

「戦車」という大きな鉄の塊を皆で動かす。

その「生き生き感」はもはや「爽快」ですらあり。

これもまた

このアニメを見る世代の一つの「憧れ」なのかなあ…と思ったりします。

 

「何をしていいかわからない」

「自分が何を好きかわからない」

 

セミナーで出会うそんな若い人たちを現実の世界で見、その声を聞くにつけ

アニメの中の彼女たちの姿に何かを託しているようにも見えるのです。

 

 

 

さて

みほちゃん。

仲間の助けや励ましを受けながらチームを指揮し

なんとか大会を勝ち上がっていきます。

そしてついに、自分が逃げ出してきたところの「戦車道」そのものと対決します。

(姉の率いる強豪校と決勝で対戦するのですね)

この決勝戦が、いや~、もう迫力で。

 

 

「おねえちゃん。わたし、自分の『戦車道』、見つけたよ!」

 

これが、みほちゃんの最後のセリフ。

勝敗は・・・気になる方はどうぞ、ご覧になってみてくださいね。

 

 

 

 

 

「パンツァーは人生!人生はパンツァー!」

 

 

みほが車長をつとめる「あんこうチーム」、Ⅳ号戦車D型の装填手
戦車オタクの優花里がそう歌います。

大洗女子学園が戦車道を復活させたことで
人生初めての「人間の友達」が出来た優花里ちゃん。
(それまでは「友達」=戦車でした)
彼女の「戦車解説」もこのアニメの見どころの一つなんですが。
もう、それは語る語る…^^。

作品中での彼女の魅力はわたしにとってはまた格別で
まさに
「はじめて自分が自分として『生かされる』場所を手に入れた」少女の
輝きが満載!に感じられます。
戦車に触れて、そのエンジンの音を聞いて、油の香りをかいで…
そんな毎日が
幸せで幸せで仕方がない、とういう彼女の表情を見ていると
何だかこちらまで幸せになってくる。

「パンツァー(戦車)は人生!」

そう堂々と、高らかに歌い上げる彼女の

あまりにまっすぐな、リンと張った混じりけのないその響きの声を聞いていると
(アニメのキャラだってのに)

なぜだか少し胸がきゅっとして

鼻の奥がつんとするような気分になるような。

ああ、こんなに純粋に生きられるって
「好きなもの」を「好き」と言って
全身で味わって、喜んで生きるっていいなあ、と思うのです。

おしゃべり最高!
ショッピング最高!
スイーツ最高!
そして…
何より友達と一緒に乗る戦車最高!

な彼女たちの熱い成長物語。
その合言葉は
「パンツァー・フォー!(戦車よ、前へ!)」

ずっと前に、私も仲間たちと確かに味わったことがある。確かにある。
体の奥のほうにある
そんな、とても懐かしい感覚を呼び起こされるような。
わたしにとってそんなアニメ
「ガールズ&パンツァー」でした。

「声と生き方の関係」

声を聞けば
だいたいのことがわかります。
いえ
頭を通りぬける余計な情報がないだけに
その人の「本質的な多くの情報」をすっと、あやまたず感じることができる気がしています。

先ほどまで、
もうすぐ始まるプロジェクトの打ち合わせをしており
その流れで、
企画の中心となる方のプレゼンを短くコーチングさせていただいたんですが

この方は声量十分。
勢いのある張りのある声で、その勢いの通りの元気な「語り」をなさいます。
部屋の、そして広い会場のどこにいても
この方の声が「聞こえない」ということはまずないでしょう。
けれど、

今日聞いて感じたのは
「聞こえるけれど、届かない」。

5メートル前に座るわたしの耳に、声はしっかりと聞こえるのです。
大きいくらい。
でも、その「話していること」は体の中に入ってこない。
私の体の50センチくらい前でストン、と止まってしまう。
…なる~。
この方らしい。そうかそうか。
でも、
これでは、メンバーの「心」は動かないかも。
「共感」「感動」は起きない。
「ああそうですか」「いいこと言ってますね」的な
頭での理解で終わってしまうでしょう。

この方の立場上
ず~っと「ぐっ」とふんばって、時には強く、皆の前に立って
「旗を振り続けてきた」その長い長い時間と、その陰に隠れた「思い」を
感じつつ。

「わたしの胸部にご自身の声がすぅと染み入って
そのままゆっくりと、体を抜けてここまで(と、具体的距離を示し)
届くように声を出してください。出すんじゃなくて、丁寧に『届ける』んです」


ジェスチャーを添えてお願いしました。
すると、さすがです。慣れていらっしゃる。
瞬間、「あ!」と納得。
声のトーンが変わり、話す速さが変わり、視線の配り方
手を動かす速さまでが変化。ゆっくりと、やわらかく。

先ほどと、同じことを話しているのに
もう、その「言葉が体に入ってくる」度合いは格段の差です。

無理に熱いシャワーを浴びせられそうな先ほどの感じから
ぬるめのお湯に、ゆっくりと、じっくりと浸かって
細胞の隅々まで暖かさが染み入るのを待つような、そんな声と意識に
変化していました。
「ああ、届き始めたな」と実感。
ここまでわずか5分。
人の「イメージ力」とはすごいものです。

声の出し方を変えることによって
この方の「その場をどう作るか」「どう作れば、もっともメンバーのためによいのか」
という意識までが
体感覚レベルで変化したのが感じられました。

声の出し方には、
大きくざっくりと言うと、その人の「生き方の癖」が刻まれている、と感じます。
思考パターン、ビリーフ(こうだと信じていること)
…それら、その人がずっと続けてきた
「生きるための戦略」があり
そのパターンにあった体の使い方、筋肉の使い方が体に染みつきます。
そして、声は、体という骨と筋肉の集合体を使って出すわけですから
声にはその「癖」が色濃く出てくる、と感じるのです。

ですので
逆から言えば「声を開発する」ことで
自分の中に隠れているけれど、(ちゃんとあるけれど)
まだ現れていない(育っていない)特質を開花させることができます。

わたしがこれまで出会った「声が出ていない」人は
たいてい
軸が弱い、芯が弱い、自分を信じていない、自分に規制をかけている…
などの状態にいらした気がします。
が、「自分の本当の声」が出始めると
自然といろんな「軸」が合わせて太くなってくる。
不思議ですが。

また
「強さ」「やわらかさ」「自由さ」…
もう自分にあるけれど、もっとそれを発揮したい、という「性質」があるときに
声の表現力を伸ばすと、だいたいにおいてそれらも
もっと大きく開発されます。
自分の殻、限界を超えるのに、「声を開発する」というのは
良い手だなと思うのです。

これら
何か裏付けがあるかというと(何か研究結果があるとか?)
わたし自信の経験の結果なのですが。

さて
今月から、セミナー講師の卵さんや
「表現」で悩んでいる方(人から「怖い」と言われるんです~、とおっしゃてました^^)
と一緒に月2回
「声を開発するワークショップ」をすることとなりました。
やることはお芝居の練習みたいなものなんですが。

声は「響き」。
ヴァイオリンがそのボディを響かせて、美しい音色を奏でるように
本来声が出ない人などいない。
人も、「自分本来の声」を美しく鳴り響かせることができて当たり前。
声は、自分の本質と自分をつなぐ、開く回路になり得る。

と、そういう七面倒くさいことは置いておいても
とにかく声を出すのは気持ちのいいものです。
体も心も単純に、とてもヨロコブことだと感じます。
何より自分がそれがとても好きなのです。

どんな「共鳴現象」が起きるのか。
期待に静かに胸を膨らませているところです。

「責任持って、幸せでいましょう」

今年の春は
本当に満たされることだらけで。
ことに幸せです。

よく考えると
それは自分が自分にそのことを与えている、許している、ということなのですよね。
もう、たくさんたくさん。山ほど。
そして振り返ると
正直、そうでなかった時間も長かったなあ~
と思います。

小さいころは
無意識どころか、意識の上でも
かなりはっきりと
「我慢するのが当たり前」「欲しいと言ってはいけない」
「自分の人生に、自分の望むものは手に入らない(その資格がない)」
と、思っていましたっけ。
そして、その行動パターンをしっかりと体の中に作り上げていました。

もしかして、そうじゃないんじゃないか…?
といつのころからか思い出し
それからは
「そうでない証拠」を
地道に、一つづつ、集め、集め…丁寧に丁寧に。ゆっくりと。
それはまるで、積もった砂や土砂を刷毛で少しづつ払い
宝を掘り出す発掘作業のようなもので。
そしてここ数年は、それを恐ろしい勢いで塗り替えにかかっている気がします。

すると
なんと、人生というもののスムーズに流れることか。
…なんだ。もっとはやくこうすりゃよかった。

というふうに
とにかく幸せを噛みしめていたこの春
ある方からメールをもらいました。

内容は、私に対してではなく
あることへの非難を書いていらしたんですが
言葉が体に刺さってくるのです。
結構ツライ。
「人の怒りの呼気はハエを殺す、って実験を聞いたことがあるけれど本当だな」
と、ふとそんな記憶が頭をよぎり。

その方の言葉の奥底に感じるのは「不安」と「恐れ」そして「焦り」で
ああ、今、不安定なんだな。大変なんだな、と思いました。
その中で、一生懸命頑張っているんだな。

今自分にできることは何だろう、と思ったのですが
「責任をもって、幸せでいること」
だと思い至りました。
揺るがぬ幸せの状態でいること。
外から与えられるモノや状態によって左右されるのではない。
自分の中から湧き上がる
自分の中の泉とつながった、揺るがぬ幸せ。
いつでも、その状態に自分で帰れること。

自分のために
そして、自分の波動が影響を与えるであろう、周囲の人たちのために
自分がいつも幸せでいたい、と思いました。
責任を持って、幸せでいよう、と。

これからも
わたしは自分にたゆまず、あきらめず、妥協なく
「幸せ」をプレゼントし続ける予定です。
毎日、毎瞬。

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