「9500年の風」

鹿児島県の霧島市国分に

「上野原」という小高い丘があります。

県民にとっては

なんといっても「上野原」といえば「縄文」。

かつてここを開発している際に「縄文の遺跡が出た」ときのことは

よく覚えています。

発掘途中の現場が公開され

土の色一色に覆われた土煙舞う遺跡に見学に行ったものでした。だいぶ昔のことですが。

今は「上野原縄文の森」として「体験エリア」「見学エリア」と、美しく整えられ

縄文人の息吹を体感できる場所となっています。

さて

一昨日はこの上野原で研修でした。

何の?誰への研修か?

ふふふ…「縄文人」といいたいところなのですが

(誰もそんな答えは期待していませんね)

かごしま産業支援センターさま主催のコーチング研修におよびいただいたのでした。

この上野原

小高い丘の上に「縄文の森」とビジネスエリアが同居しています。

美しい緑に隣合せていくつかの企業さん、そして「上野原ビジネスプラザ」が立ち並んでいるのです。

会社の芝生にはイノシシが出没し

窓ガラスにはキジが激突。

室内へ紛れ込んだ小鳥は出口を求めて飛び回る…

というのが日常の光景。

(ビジネスプラザの所長様が教えてくださいました)

それは…うらやましい。

とてもうらやましい。

第一、それをお話しなさっている所長さんがとてもゆったりとした感じで

楽しげでいらっしゃる。

とにかく、なんだかとても心地よい場所なのです。

その「心地よさ」

この上野原の山に一歩足を踏み入れたとたんに感じていた感覚でした。

車で山頂に向かってぐんぐんと進み

景色が変わったなあと思った瞬間。

なんでしょう…

体の芯のこりかたまっていたところが溶けて

ぐた~っと脱力するような

何とも言えない「気持ちの良さ」を感じたのでした。

言葉にすれば「ここ、すごくいい」「場がいい」という感じでしょうか。

「この場所、すごくいいですね!」

舌足らずな言葉で表現したわたしに、研修の担当者さんが教えてくださいました。

「ここは、9500年前から縄文人が住んでいたところなんですよ」

9500年…!

今の私たちとはくらべものにならないくらい感覚が鋭敏で

私たちが退化させた五感プラスそれ以上の感覚を持ち合わせ

きっと普通に木や花や草やけものと話せていた(気がする)縄文の人たちが

選び、集落をつくり住み続けていたのがこの上野原の地。

それは

いい場所でないはずがない、という気がしました。

どれくらいいいかというと

「…ここにずっと通っていたら、人生変わるかもしれませんよっ!」

と、つい担当者さんに言ってしまったくらい^^。

人はどんな場にいるかに大きな影響を受けるといいますので…

      ↑

   (上野原にいると人生が変わるという確証はありません。念のため)

そして

その土地に毎日毎日お仕事で通っていらっしゃるみなさまが

とてもうらやましくなったのでした。

だって…本当に気持ちがよかったのですから。

そのような様子で

無事、とても心地よく、一日を過ごさせていただくことができました。

研修を企画、ご準備くださいました皆様方。

当日、サポートをくださり、温かい雰囲気でお迎えくださいました皆様方。

そして、研修にご参加くださり、ともに学びのよき場をつくってくださいました皆様方。

本当にありがとうございました。

そして

上野原の大地と風に。

ありがとうございました。

追伸

こちらで研修させていただくときに

とても楽しみなことの一つがありまして

今回も、深い深い新緑の色と味が…本当に体に染みました。

いつも思うんですが「どうやったらこんな色と味が出るの?」と。

そのものの正体はこちら

あの色は、なぜにあんなにほっとするのでしょうね。

…やっぱり、写メを撮ってくれば良かった。

(さすがに不調法と思い、やめたのでした)

ありがとうございました…

「一人が進めば」

一昨日書いた
に、こんなメッセージを下さった方が。
「ブログを読んでいてズシンときました。
『行きたいところ』がはっきりしたとたん、私も怖さが顔を出してきている気がしますゞ
今はただそこにあるな~と感じながらせっせと過ごしてますが。。

恐れが出てくる時は、人が羽ばたかんとしているとき。

とても勇気をもらえました。
ありがとうございました!」

とても嬉しく、お返事を書かせていただきました
「恐ろしさのあまり
『見なきゃよかった』(行きたい方向を)
『気づかなかったことにしておこう』(行きたいところを)と

十数年前はそんなことを何度もした覚えがあります。
ですので、書いていらっしゃること
とてもよくわかります。
じんじんわかります!

話は飛びますが
クライアントさんと同時進行で
自分にも同じことが起こってくることが
私の場合は多々あります^^

わたし、そして周囲の人たち
みんなで手をつないで
いっせ~のせ!で前に進んでいる感じがするんですよね。
その、質や中身は違うんでしょうが
その「シンクロぶり」は恐ろしいばかり。

裏を返せば
一人が進めば
他もつられて進む、ということで。

自分が進めば
まわりまわってつながっている地球の裏側の誰かも
前へ進むことができる。

わたしたちは
そういう責任を負っているのだと思います。

もちろん、
『恐れ』を見、それを十分に味わい、燃焼させる貴重な時間込みで、で。

私も今また
もくもくと燃やし中!   」

この方は、これからますますリーダーとして活躍なさる方なので
そんなことにも思いを馳せつつ、お返事を書きました。
翌日、再びメッセージををいただきました。
「ありがとうございます!
『一人が進めば他もつられて進む・・・』
そうだった~」
ご自分の中にちゃんと知っていたことを
体でもって思い出してくださったことが伝わってきました。
さらに
次のステップへ行くと決めたとたん
「今あるところ」を卒業することへの恐れ
つぎのステップへ進むことの恐れがここ一か月出てきているのだと
丁寧に経緯が記されていました。
「こわいです~」
とその方は、とても率直な言葉で書いてくださっていました。
かわいらしい…^^
怖さをしっかり認めて、嫌わずに、その感情とまるでダンスを踊るように
軽やかに見つめていらっしゃるこの方の姿が目に浮かぶようです。
この方は、私のブログに勇気をもらったと書いてくださいましたが
私のほうも大きく元気をもらったのでした。
この方の、とても軽やかに「自分を見せてくれる」というあり方で。
「ブログに乗せてもいいですか?」
の私の問いかけに
「ぜひ」と。
「きっと私のように救われる感覚を味わう方がいると思います」
との言葉を書いてくださったこの方。
本当にありがたいことです。
この言葉に励まされ…
このやりとりが
今まさに動こうとしていて、こわいな、と思っている
どこかの誰かの元気になってくれればと思い
書いてみました。

「そばだてる」

日本スクールコーチ協会九州支部長崎地区の4月学習会

昨日終わりまして

(鹿児島は一週間前に終わりました)

先ほど

長崎のメンバーから

「こんなだったよ!」のメールが届きました。

その中で、印象に残った言葉。

「そばだてる」

「昨日講座の中で

参加者のみなさんのそれぞれの言葉に心うたれるものがあり

感動でした。

たとえば

『相手の気持ちに耳を欹てる(そばだてる)』という言葉。

…耳に残りました。

『そばだてる』ように

丁寧に聞いているか?と自身に問いかけが起こりました。」

「そばだてる」

・そびえ立たせる

・その方向へ向けて高く立てる

・一端を上げて傾かせる

   (広辞苑&新明解国語辞典より)

なんだか

静かで奥ゆかしいその所作までもを彷彿とさせる言葉です。

そうですね…

目を伏せ、かすかに首を傾け、片方の耳を少し上に向けて

相手の言葉や、言葉以外のもの、その気配のすべてに神経を集中させて、静かにうなずいている…

そんな感じでしょうか。

(あくまでも、わたしのイメージです)

相手の気持ちに「耳をそばだてる」。

わたしもあらためて

最近どうだったかなあ…(身近な人との間で)

と考えた朝の便りでした。

今日は「そばだてる」一日にしてみましょうか…^^。















「本当は空を飛べると知っていたから」

最近わたしのまわりで

「こわい!」の大合唱が起きています。

先日「声をつかむ」 の記事に

昔のわたしの生徒さんがコメントを寄せてくれました。

「すごくわかります!」

 (場の観客ひとりひとりを「つかみ」「ゆらす」という感覚が)

彼女は

このブログに何度か登場していますが、プロのダンサーさんです。

「ときどきその感覚から逃げてしまうときがあります。
なんでしょう・・・。
やっぱり向き合う力もないと、つかむ から 揺らす までは至らないのかもですねー・・・」

なぜ「逃げてしまう」んだろう?

「向き合わない」んだろう?

彼女は「場を掴み、一人ひとりを、場を揺らす」十分な力を持っているのにな。

と思うと同時にふと

彼女のダンスを見たときに感じた

「すっとひいて、内にこめる感じの気の出し方」を思い出しました。

それは、彼女独特の、激しい中にも高貴な、上質で繊細な波動をつくっていたと感じました。

(そう、以前わたしはそれを『能を見ているよう』と表現しました)

あれはあれで大好きなのですが

まだ知らない彼女の表現、彼女が行きたいと望みながら、未だ足を踏み入れていない世界が

あるのかもしれないな、と思いました。

「向き合う力もないと、つかむ から 揺らす までは至らないのかも…」

わたしには

「その世界へ踏み入れるのが怖い」

「その力を行使するのが怖い」

と、彼女が言っているように、なぜか感じたのでした。

今朝のセッション。

これまでもっていたものをすべて整理を終え、心から願っていた

あたらしい世界へ踏み出すことを決めた方のセッションでした。

その、具体的なステップを踏む段階になって

「…こわい」

「人がどう思うだろう?」

「摩擦がおきるのはいやだ」

「そこまでして(先へ)行かなくても」

と色々な声がその方を止める。

この方とのお付き合いは長いのです。

それがどれだけやりたいことであったか

この方の魂がどれだけ喜ぶことであるか

この方の本質にいかに合致していることであるか

そして、はたから見ていると、すべてのプロセスはこの選択にいたるためのステップであったかと

しごく当たり前に流れを進んでいるように感じられるのに

まるで、カナリアが美しい歌を奏でるように自然なことなのに

それでも、「こわさ」が出てくるのですね。

「変わること」へのこわさ。

当たり前のことなのですが。

『本当は空を飛べると知っていたから

羽ばたく時がこわくて風を忘れた』

何かのアニメの歌です。

なぜか、この部分だけ、とても鮮明に覚えています。

「自分らしく、自分の力を存分に使う」ことに

「自分を存分に生きる」ことに

恐れが出てくるとき

そのときは、まさにその人が「羽ばたかんと」しているときなのだ、と感じます。

さて

この文章を書いている途中で

メールがひとつ、はいってきました。

「踏み出しました!」のメール。

この方は

数日前のセッションで

「小さな迷いと不安」を口になさっていたのでした。

メールからは

ものすごい爽快感と開放感、そして

切ないような「愛惜の情」

変ですけれどそこはかとない「別離の悲しみ」のようなものが伝わってきました。

この方も

「慣れ親しんだ懐かしい場所」から一歩、踏み出したんだなあ。

今日もあしたもあさっても…

人が自分自身を生きる、すべてのプロセスを含めた場に立ち合わせてもらえることへの

感謝と畏れと感動を感じつつ

お返事を今から書こうと思います。

「型に宿るこころ Ⅱ」

 

 

先日「居合いを見に行った」

という話を書きましたけれど

 

そのあと、皆さん剣道をしているという「剣道一家」の知人に

流派のこと、道場のこと、いろいろと聞いてみたのです。

 

すると

とても丁寧な答えをくださり

そのご一家の剣道に対する思いを感じることができたのでした。

その「お答え」の中で、一番興味深かったのが「道場を選ぶポイント」でした。

 

『「うちの道場は強いですよ」

 

と自慢する道場と

 

「うちの道場に来ても勝てませんよ」

 

と言う道場があります。そのときは

 

「勝てませんよ」と言われる道場をおすすめします』

 

その方が実際体験なさったのは

「うちは強い!」と言っていた道場に、立ち上がって一年目の道場が

立ち会い、「トロフィーをかっさらってきた」現象だったそうです。

 

違いは「型」。

立ち上がったばかりの道場の子どもたちが経験豊富な子に負けていないものがただひとつ。

それが「型」だったそうで。

習いたての美しい、崩れていないきちんとした「型」。

とにかく「型」は大事らしい。

 

たとえば

この方のお子さんは小柄なんですが(かわいらしい女の子です)

とてもきれいな「型」だと、どこの道場でもクラブでも褒められるそうです。

体が小さいので勝てないけれど

でも、相手にも勝たせない、取らせないという剣道をするそうです。

型がしっかりしている分、人より早い「二段うち」ができるそうで。

 

その方の話は続きます。

「その、うちの道場も『勝てればよい』という剣道になった途端『勝てなく』なりました」

崩れだしたのだそうです。子どもたちの型が。

 

そしてそのころには

子どもたち、保護者も含め「礼儀がなっていない」とあちこちの大会で

「お叱り」を受けることが多くなっていたそうです。

 

つまり

「うちの道場は勝てませんよ」と言うところは

 

「勝ち負けより型や精神をとても大切にしている。

なので『勝てる練習』をしなくても

型と精神が備わってくるので自然と勝てる」

 

ということなのだそうです。

 

「傲りが出れば、型も崩れ、心もすさむ…いやというほど見てきました」

 

「一番の敵はわが心にあり。

子どもも、勝てない自分を悲観したこともありましたが

『型のない汚い剣道で勝てても無様なだけ

それならきれいな型で堂々と負けてこい』

という主人の言葉を大切にしています」

 

…かっこいい。

 

これぞ日本人。

これぞ武士^^

 

型って

きっと、体に染みこんで、その人の心映えやあり方を作っていく

大切な要素なんですよね。

頭ではない、体に染みこんだ「あり方」。

何かがあった時に、一番に表出するのは「付け焼刃」のあれこれじゃない。

 

そういえば思い出したんですが

市川海老蔵

ある番組に、それはそれは惰気にあふれた格好でお出になっていて^^

たらたらと街を歩くんですが

食事の場面、お箸を握った瞬間

くっ…と背筋が伸びて、それはそれは美しいお箸使いでした。

別人。

 

瞬間、彼の中にある「核」のようなものを見た気がしました。

 

自分の中は何か、そういうものが…

先人たちから脈々と受け継いだ「何か」が、ちゃんと息づいているんだろうか?

と思います。

 

そして

それをやはり、確実に、次の世代に伝えていかなければならない、と思っています。

 

 

「声をつかむ」

昨日セミナーで

「声をつかむ」話をしました。

昨日はスクールコーチ協会の学習会で

先生方や、お父さん、お母さんなどなど…が対象の会だったんですが

なぜか

ご自身のセミナーや講演が近い方、講師業をはじめる予定の方

講師をやっていらっしゃる方…が多かったので

なんとなくこういう話になってしまいました。

この、声をつかむのお話

わたしが最近クライアントさんから聞いて

えらく感動したお話なのです。

ご本人の了解をもちろん得まして書きますと…

学生の時「指揮法」の授業があり

(音楽科です)

外から有名な指揮者さんが来て

大勢で大合唱をした。

すると、いつも自分たちの先生の指揮の下に歌う時とは

全く違っていた。

どこで声を盛り上げて、どこで気持ちを入れるのか…

それは「こんなに変わるのか…!」という驚きの体験であった。

自分の中から不思議と出てくる「何か」

そして、みんなとの一体感、指揮者との一体感、ピアノとの一体感。

中村公子のコーチングna日々♪

「それは…まるで指揮の先生が

一人ひとりの声をつかんでゆらしている

感じでした」

声をつかんで揺らす。

心にずん、とはいってくる表現でした。

手で

体で

表情で…

すべてでもって

その指揮者は、一人一人から最高のものを引き出し

みなを一つの方向へ連れて行ってくれたのだそうです。

とても小さな男の方だったそうですが。

そういえば

昔、とてもはっきりと「つかんでいる」体験をしたことがあります。

だいぶ前のことですが

お芝居をやっていたときに

舞台の上、恐ろしいほど静かな一瞬がやってき

(野外劇でしたので『舞台』はなかったんですが)

そのとき

前に立つ自分一人と

客席の隅から隅まで、一人一人の観客と自分が

コードか何かでつながっているような感覚を感じました。

あのつながり

一体感

自分の手の一振り、目の動きひとつであの場の空気すべてを動かすことができると

「わかった」あの瞬間。

あの時の感覚、体験は

今の仕事にとても役立っている気がします。

自分も知らなかった声を出し

できると思っていなかった表現をし

自分でつくっていた「枠」を軽々と越えた合唱の感動はきっと、とてもとても大きかったことでしょう。

指揮者と私たちの仕事

「場をつかむ」ということ

「つながる」ということ

「最高を引き出す」ということ

とても似ているなあ、と思い、このお話をしてみたのでした。

「カメラマンさんの『愛』」

桜の終わり少し前

新しく写真を撮ってもらいました。

今の写真が確か2年くらい前のものなので。

中村公子のコーチングna日々♪

鹿児島市の黎明館。

旧鶴丸城跡。

城壁には西南戦争の砲弾の跡が残り

桜の木もその時代をみつめてきたんだろうな…と思う

大きな木がたくさんあるところです。

その桜の中で撮っていただいたのですが

それが本当に気持ちよくて気持ちよくて気持ちよくて

その心地よさと幸せ感が数日続いたのでした。

(ちょっと恥ずかしいですが

その気持ちよさと至福の感じをお届けしたく

写真を載せてみました)

知人が

桜の花の意味?というかエネルギー?について教えてくれました。

「桜は『潔い散り際』『はかなく散る』のあたりがクローズアップされるけれど

あんなに散るのは、『幸せのエネルギー』を周囲にふりまくためなのだ

(そういうエネルギーを持った花なのだ)」

…多分、そういう感じだったと思います。

とても、体で納得しました。

吹き渡る風

満開を少しだけすぎた桜の枝に、花に囲まれて

それはもう、口では言い表せないような、くらくらと酔うような

ふわりと薄桃色のひかりに包まれているような

あの感じ。

(それから数日、ずっと薄桃色のひかりに包まれている感じがしていたんでした)

さて

もうひとつ

とても心地よく、満たされた気持ちになった理由があります。

それは「写真を撮ってもらった」ということ。

写真を撮ってもらうという行為は

「承認をもらうこと」だなあ、としみじみ感じたのでした。

1~2時間、ず~っと

カメラマンさんにカメラを向けてもらい、写真を撮ってもらう。

つきっきりで。

それはとりもなおさず

「あなたを見ているよ」

「あなただけを見ているよ」

「あなたが大切だよ」

とくりかえし、くりかえし

言ってもらっている時間に他ならないのですよね。

「愛をもって、見てもらっている」

(どのカメラマンさんも、写真を撮っているときは

被写体に対して『愛』を持つと思うのですね)

中村公子のコーチングna日々♪

ということが

どれだけ人を心地よくし、満たし、高揚させるのか

ということを、この2時間で

ひしと感じたことでした。

(思いっきりうれしそうに飛んできた花びらをキャッチした瞬間です

よく見てくれているなあ…と感心)

みなさん

大切な人を、ちゃんと「見て」あげていますか?

あなたのそのまなざしだけで

今日の一日をまた頑張れる人が、きっといますよ。

この日は

桜の花から、そしてカメラマンさんから、あふれるほどのたくさんの愛をいただいた日となりました。

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