「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「本当は空を飛べると知っていたから」

最近わたしのまわりで

「こわい!」の大合唱が起きています。

先日「声をつかむ」 の記事に

昔のわたしの生徒さんがコメントを寄せてくれました。

「すごくわかります!」

 (場の観客ひとりひとりを「つかみ」「ゆらす」という感覚が)

彼女は

このブログに何度か登場していますが、プロのダンサーさんです。

「ときどきその感覚から逃げてしまうときがあります。
なんでしょう・・・。
やっぱり向き合う力もないと、つかむ から 揺らす までは至らないのかもですねー・・・」

なぜ「逃げてしまう」んだろう?

「向き合わない」んだろう?

彼女は「場を掴み、一人ひとりを、場を揺らす」十分な力を持っているのにな。

と思うと同時にふと

彼女のダンスを見たときに感じた

「すっとひいて、内にこめる感じの気の出し方」を思い出しました。

それは、彼女独特の、激しい中にも高貴な、上質で繊細な波動をつくっていたと感じました。

(そう、以前わたしはそれを『能を見ているよう』と表現しました)

あれはあれで大好きなのですが

まだ知らない彼女の表現、彼女が行きたいと望みながら、未だ足を踏み入れていない世界が

あるのかもしれないな、と思いました。

「向き合う力もないと、つかむ から 揺らす までは至らないのかも…」

わたしには

「その世界へ踏み入れるのが怖い」

「その力を行使するのが怖い」

と、彼女が言っているように、なぜか感じたのでした。

今朝のセッション。

これまでもっていたものをすべて整理を終え、心から願っていた

あたらしい世界へ踏み出すことを決めた方のセッションでした。

その、具体的なステップを踏む段階になって

「…こわい」

「人がどう思うだろう?」

「摩擦がおきるのはいやだ」

「そこまでして(先へ)行かなくても」

と色々な声がその方を止める。

この方とのお付き合いは長いのです。

それがどれだけやりたいことであったか

この方の魂がどれだけ喜ぶことであるか

この方の本質にいかに合致していることであるか

そして、はたから見ていると、すべてのプロセスはこの選択にいたるためのステップであったかと

しごく当たり前に流れを進んでいるように感じられるのに

まるで、カナリアが美しい歌を奏でるように自然なことなのに

それでも、「こわさ」が出てくるのですね。

「変わること」へのこわさ。

当たり前のことなのですが。

『本当は空を飛べると知っていたから

羽ばたく時がこわくて風を忘れた』

何かのアニメの歌です。

なぜか、この部分だけ、とても鮮明に覚えています。

「自分らしく、自分の力を存分に使う」ことに

「自分を存分に生きる」ことに

恐れが出てくるとき

そのときは、まさにその人が「羽ばたかんと」しているときなのだ、と感じます。

さて

この文章を書いている途中で

メールがひとつ、はいってきました。

「踏み出しました!」のメール。

この方は

数日前のセッションで

「小さな迷いと不安」を口になさっていたのでした。

メールからは

ものすごい爽快感と開放感、そして

切ないような「愛惜の情」

変ですけれどそこはかとない「別離の悲しみ」のようなものが伝わってきました。

この方も

「慣れ親しんだ懐かしい場所」から一歩、踏み出したんだなあ。

今日もあしたもあさっても…

人が自分自身を生きる、すべてのプロセスを含めた場に立ち合わせてもらえることへの

感謝と畏れと感動を感じつつ

お返事を今から書こうと思います。

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