「自分の位置に立つ」

ワークショップの場で参加のお一人が

「ふっと、シェアしたくなったんですけど」

と、話してくださったお話です。

そのときやっていたのは

「出会いのワーク」で

他者と向かい合ったときに

自分の中に起こる感覚や感情をただ味わい、体を任せる、というようなものだったんですが。

どんな話かというと、その方のご家族のお話でした。

その方のお祖母様が、施設にはいることとなった。

その一連の出来事に直面し

家族、親戚の方の不安や動揺、とまどいやいらだちが

互いに噴出する場面に、その方は遭遇したのだそう。

どの家族にも「歴史」あり。

家族といえども、いえ、家族だからこそ

「笑って流せない」気持がたまにはあったりもするもので

状況を前にその方は

「お母さんの気持ちもわかる。叔母さんの気持ちもわかる。

目の前で繰り広げられる光景に不安をになるお祖母さんの気持ちもよくわかる」

という状態で、

誰の肩を持つこともできず。

家族の「互いの心の悲鳴」を目の当たりに聞かなければならなかった

その場面を想像して

「つらかったろうな。逃げ出したかったろうな」

と想像しつつ。

話は続きます。

さて

その状況の中

その方が選んだのは「そこにいつづけること」でした。

「自分のままで」「自分自身として」。

誰の感情に巻き込まれることもなく

場に満ちた「不安」「怒り」の波の渦に飲まれることなく

ただ、自分として、そこにいつづけよう。

問題解決という名の他者攻撃に走ることもしない。
鎧も着ない。

ただ、そこにあり続けよう。

その一点のみをイメージして

その方はずっとそこに、「居続けた」のだそうです。

ニュートラルに。

お婆ちゃんの横に座って、そして、体の力を抜いて、リラックスして。

手を握って、ただ寄り添っていたのだそう。

聞きながら

昔読んだ本にあった「碁盤の目」の喩えのイメージを思い出していました。

「みな、本来、碁盤の目の一つ一つの点にしっかりとまっすぐに立っている。

一人がずれてしまうと、周りも押されて、みんながずれていってしまう。

それが、今の世の中なのだ」

と、その喩えは始まっていました。

「けれど…」

と、喩えは続きます。

「誰か一人でも気づき、自分の立ち位置に帰ることを始めれば

周りも押されて、いずれ全員がまた『本来の場所』に戻ることができるのだ」

ああ、この方は

それをやったんだなあ、と思いました。

渦にのまれず、自分の軸でもってまず立つ、というのは

なかなか大変な場合も多いのではないでしょうか。

自分で「出会いのワーク」を体験するときも思うのですが

人は「何かに直面した時」に

自分の中に起こる感情や感覚を、ただ受け入れ、ありのままに認める

ということがなかなかできません。

体の発する声を聴かない。認めない。

そこをすっ飛ばしてすぐに

先読み、防衛・・・

自分の中に起こった居心地悪さのごまかし

問題解決

そこへ飛びつこうとします。

本当の「解決」はそこからは始まらないのですけれどね。

その方の

「出会いのワーク」。

静かにただそこに立つ姿は本当に自然で、やわらかくて、安定感に満ちており

つい

「…屋久杉みたいですよ」

という言葉が口をついて出てしまったくらいだったのですが

その方のお話に

「そういうわけだったのか」

と皆で大いに納得したのでした。

「任せる・ゆだねる・明け渡す」

最近
仕事について話したことをプロのライターさんにまとめていただくという機会があり。

海沿いのカフェ。
心地よい雰囲気の中、お昼過ぎに始まったインタビューは
目の前の桜島が茜色に染まるころに終了。

 
  
 

思うまま、自由に語らせていただいた
なんとも気持ちの良い約3時間の長広舌だったのですが
その後、
見事ぴたっ…
と、わずか一日で話した内容をまとめてくださったのには、本当に脱帽でした。
しかも、その内容は、わずかな字数で
驚くほどわたしの伝えたい部分の核心を
捉えてくださっており。
正直なところ、あまりの「そこです!」な感じに
こんなにもわかってもらえた…と、少し泣きそうになったくらいに
嬉しかったのでした。

限られた字数の中で、
あの膨大な話の中からこの文章をまとめあげるという力は
一言でいうと「センス」だろうな、と思うのです。
文章を書くということに関する知識や技術だけではないところの「センス」。

例えば
多分、ライターさんは、五感を総動員して
あの場にいてくださったのだろうな、と思うのです。
言葉とともに
言葉だけではないものを聞いてくださっていたのだろうな、と。
わたしの呼吸、声にだんだんこもってくる熱、表情・・・
そういったものすべてを「見て」「聞いて」「感じて」くださっていたのだろうな、と。

あの場に共にいて
あの「空気」を共有したものでなければ書くことができない内容の凝縮であり
文章であるな、と感じたのでした。
そのことを、再度強く確認したのは、ライターさんの下記の言葉。

「たとえ、文章として理路整然としていなくても
私がその場へ行き、その方にお会いしたからこそ、聞いたからこそ
書ける言葉を書きたいのです」

数回にわたる原稿のやり取りの中で
その方からいただいたメールの中の言葉です。
(実際はもう少し違う表現だったのですが、その方とのやりとりの中での大切な
言葉なので少しニュアンスを変えて書きました)

原稿をやり取りするうちに
だんだんと熱が入ってしまい

「ここはこういう文言のほうがより意味が伝わるのでは?」

と、ついこだわりすぎるわたしに
この言葉をくださいました。

ああ。
そうだった。

「伝える」ことが仕事ゆえに
自分の言葉で、自分の世界をいかに正確に表現するかに
つい肩の力がはいってしまったのですが。

ライターさんがいる意味。
その方の感性で見て、聞いて、感じてくださっていることの意味。
その方の「フィルター」を通して自分の世界が
言葉となり、発信されることの意味。

「その世界」にどっぷりと浸っている者には
もはや持ちようもない
新鮮な疑問や驚き。
わたしにはない視点からわたしの世界に触れてくださり
「お客様」とわたしの世界、を
繋ぐ役割を果たしてくださってる
何より貴重な「架け橋」としての言葉ではないか。

そんなことをはた、と再確認したのでした。

「私の言葉では
今まで通り、これまで伝わってきた人にしか伝わらないじゃないか」

日々、そして万事
つい
がんばってしまう。
自分の力のみを恃みに
走ってしまう、そんなときもあるのですが

「任せる。ゆだねる。明け渡す」

それが出来ると、
人生のいろいろな場面でもっと楽に、風通し良くなるな。
そして、
自分の人生に、自分の視野だけでは得られない様々な可能性が
開けてくるな。

そんなことを、
改めてしっかりと感じた、
大切な時間となりました。

大きな気づきをくださったライターさんに
心から感謝しています。

「ななつ星、その後」

 

先月
JR九州の、デビューしたての豪華クルーズ列車
「ななつ星」を踏切で見かけ
追っかけて駅まで行ってしまった。

という話を書きました。
その時は「ななつ星」は、もはや車庫でお休み、ということで、会えなかったのですが。

その後を書いていませんでしたが
翌日、ちゃんとななつ星に会いに行きました。
午後3時。
私の他にも、結構たくさんの人。
みな、ななつ星を待っているようです。
でも、「鉄道オタク」という感じではない。
みな、美しいものが見たいのだろうなあ、と思ったり。

時刻を少し遅れて
ななつ星はやってきました。
「プァン・・・」
と、汽笛?(じゃないですよね。何ですか、アレ)を鳴らして
遠くから、ゆるいカーブを描きながら近づいてくるキラキラと光る車体。
その姿は
鉄道ファンでなくとも「おおっ!」と声が出てしまいます。

さて
これが前面から見たところ。
深いワインレッドが重厚。

 

これが最後尾。
大きなガラスの空間一面が客室になっているのですよね。

 

え~。
室内です。
これは、食堂の部分ですね。

 
 

 
客室も撮らせてもらったのですが
個々人のお客様が宿泊中のお部屋だったので
アップは控えます。

カーテンは竹の御簾。
パテーションの役割をはたすすりガラスの文様や
壁の組子細工と、和の美しさも満載。
職人さんたちの技が贅沢に、あますところなくちりばめられた室内。
きっと、「ななつ星」に携わった方々は、みな楽しかったろうな、嬉しかったろうな、燃えたろうなと
そんなことを思います。

それは
乗務員さんの表情からも言えることで。
みな、「美しい表情」でした。
緊張感、大きな責任、そして内側から溢れる静かな「誇らしさ」。
そのたたずまいと表情からはそんなものを存分に感じることができました。
「ああ、みな、今、本当に幸せそうだ。みな『生きて』いらっしゃる」
何だかそんなふうに思い。

最上の「価値」を新しく生み出す場に携わる。
自分の持てる技、力のすべての最高をいかんなく出し切れる場所で。

式年遷宮の時も思いましたが
そのような場があるということは、一個の人間の生命力の「活性化」「目覚め」「開花」
という意味でもとても大切ですし
人間の歴史、伝統、文化、精神という全体から見た
「大きくつながるもの」としての「活性化」としてもとても大切なことだと
感じます。
人間という大きな一つの生命体としての活性化、とでもいうんでしょうか。

人は、このような作業を通して
ずっと「よきもの」「美しきもの」「最高のもの」を伝えてきたんだろうな、と
目の前のこっくりとしたワインレッドの美しさに触れながら
少し、しみじみと感動。

 

 とても素敵な制服だったので
お断りして撮らせていただきました。
ななつ星のエンブレムが胸に眩しい・・・。

一言で言いますと
「創意工夫でもって
新しい価値を果敢に、優雅に生み出す人を応援せずにはいられない」

という話なのでした。

 

「また、虹が出た」

気づくと結構長いこと
更新していませんでした。
よく、訪れてくださる方、申し訳ございませんでした。
いろいろ考えること多く、動くこと多く…まあ、忙しい日々でした。

昨日は
年に一度の恒例行事になりつつある「写真撮影」でした。
山間部には雪の降った昨日。
寒風の中
桜島をバックに颯爽と、機材一式を抱えて現れたカメラマンさん。
もう5年も、ずっと撮っていただいている方です。
彼女は今、遠方に拠点を変えていらっしゃり
たまたま帰鹿していた数日に、私の撮影のタイミングが重なったという
幸運の一日となりました。

青空と灰色の雲が桜島の上で目まぐるしく入れ替わり
小雨と陽射しが交互に降り注ぐ不安定な空の下。
多分、撮影するには楽な環境ではないのでしょうが
レフ板片手にちゃくちゃくと撮り進めていく彼女。
その細身の体に赤いダッフルコートがまぶしく。
わたしはいつも、その姿を見ていて「美しいな」と思います。
初めて撮影してもらったのは5年ほど前なので
その頃彼女は25~6歳。
若い…。

写真を撮られるという時間は
とても特別な時間な気がします。
自分を思いっきり客観視する時間でありつつも
なぜか
大きな自己承認の場であり
自分でない自分になる心地よい場であり。
自分も知らない自分を(より良い自分を)引き出される、ということなのですが。
この「場」をつくるという作業こそが
ひとえにカメラマンさんの技量であったりするのだろうな、と思います。
年に1~2度、ファインダーごしのお付き合いでありながら
不思議な、深い、特別なコミュニケーションの時間を過ごしている気がします。

昨日も
そんな感嘆と、尊敬の気持ちをもって、彼女を眺めていました。
自分より、一回り以上も年の若いこの女性が作り出す特別な「空気」。
すごいな、と思うと同時に
その姿を見ていると、
たとえようもなく嬉しくもあり。
この感覚は何なんでしょう…若い人たちが、ほんとうに
「自分自身」としてまっすぐに、美しく輝いているときに
いつもいつも、こんなあふれるような気持ちになります。

と、
そのとき、虹が出ました。
桜島の左上方に、くっきりとした大きな虹。
あ、また出た!と思いました。
また、といいますのは…
誰かに対して、その美しさに細胞がふるふると震えるように
感動を覚えたその時に、なぜか?虹を見ることが多いのです。
そして
その時間は、自分にとって忘れられない宝石のような特別な時間になり
なおかつ、自分の人生を変えるような時間になります。

雲の合間に降る一瞬の日差し。
虹。
きっと、今、彼女とこうしている事も含め、すべての出会いは
奇跡のような時間なんだろうな、とふとそんなことを感じ。
感謝の思いとともに、
願わくば
わたしだけでなく、彼女の人生にとっても、この時間が、
この場がよき場となりますように、と願いました。
これからますます大きな変化を迎え、発展してゆく彼女の長い人生に
ますますの幸せがありますように。
そんな思いを込めて最後はレンズをじいっと見ていました。

レンズを見ながら自然に微笑む、というのは
わたしにとってはなかなかに難しかったりするのですが
「目の前の人に気持ちを送る」のならば自然とできるなあ、と思いながら。

そんな思いを込めた写真。
どんなものが仕上がってくるのか
楽しみです。

 

最後に2人で記念撮影。
彼女は今後、ますます遠方に拠点を移すようなので
次はいつ撮ってもらえるか…
少しさびしい気分を感じつつ
新しい出発を心から応援しているところです!

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