「天から降りてくる糸は、自分でいかようにも太くできる」

 

 

 

 

レンコンが好きなもので

数日前の「ためしてガッテン」のレンコン特集、

録画して、前のめりでみました。

その中に、ミャンマーの「蓮の糸の織物」が出てきました。

 

ミャンマーでは、レンコンの栽培は盛んだが、レンコン自体は食べない。

葉っぱから糸を取って、織物にする。

その糸の、細く、繊細で、きれいなこと。

 

 

 

 

と。

その美しい糸のイメージもさめやらぬ昨日。

クライアントさんと話していたら、またもや糸の話が。

前記事のクライアントさんと同一の方です。難関突破で見事望む仕事に就いた方)

 

 

 

 

 

「どうしても、公子さんに言いたいことがあるんです。

はじめ、私の前に降りてきたのは

本当に細い糸でした。

いつ、プツン…と切れてもおかしくない。

『その糸はつかんでもムリ』とも言われ。

そんな中で、その糸をともかくつかんでみよう、と思えたのが不思議なくらいでした。

でも…」

 

 

 

 

それでもつかんでみよう、と

そこにこそ縁を感じますねえ…

と思いつつ。

でも?

 

 

 

 

「そのことについてセッションで話をして

そして、他にもたくさんの人に話をして…

そうするうちに、どんどん糸が太くなっていった氣がするんです」

 

 

 

話すことを通して、

自分の中に浮かぶ夾雑物をの正体を見、手放し。

さらに

自分のリソースを見つけ、糸の先にある未来をイメージし。

それははからずも、どんどん糸に自分の意識を=エネルギーを向けて、注ぎ込むこと

ということだった、ということなんでしょう。

もちろんプラスの。

 

そして、「なんであれ、エネルギーを向けたところのものが大きくなる」は自然の摂理。

 

 

 

 

 

 

ふと、美しい蓮の池のイメージが浮かびました。

そこから、キラキラ光る蓮の糸が地上へ向けて降りてゆく。

その糸に、クライアントさんが手を伸ばす。

そして、満面の笑みで糸を撚っていくんです。自分の手で。

それはそれは楽しそうに。

キラキラと光りながら、糸はどんどん太くなっていく。

もう、完全に綱引きの綱みたいになっている。

 

 

 

 

 

 

 

公子さんは、若い方々のセミナーもしてらっしゃるから、と。

とその方は言いました。

伝えてほしいのだ、と。

「あなたの前のその糸は、自分でいかようにも太くすることができる」

と。

「糸は切れる」

「その糸はつかんでもムリ」

というのは、本当にあなた自身の考えなのか?

ともおっしゃっていましたか。

 

 

 

 

 

 

 

 

お釈迦様が蓮の池から降ろしたのは蜘蛛の糸でしたが。

 

 

わたしたちは、

糸を選べる。

糸を太くする方法を知っている。

なんと自由自在な。

なんと幸せな時代に生まれたことだろう、

とそんな感想を抱きました。

 

 

 

 

 

 

◆―そろそろ自分の聲と言葉で世界に向けて語りだそう―

 

「自分が何者かを知ると、全力で振り切れる」

 

 

 

 

クライアントさんが

難関突破。

希望の仕事に就職しました。

 

資格、経歴、知識ともに、自分よりあきらかにあるであろうというメンバーに囲まれ。

採用枠1名。見事に合格しました。

その試験&面接の様子を聞いてみると

 

 

 

「人っていうのは、自分を知りさえすれば、こんなにも自由自在に

全開でぶっとんでアクセルを踏みきれるものなのか‼」

 

 

 

と、(セッションしたわたしでさえ驚くほど)

自由自在、縦横無尽にやってきたようで(笑)。

・「その企画」の魅力を見せる方法

・自分のこれまでの経験に照らして、その仕事でできる工夫

について聞かれたそうなんですが。

 

 

事細かに聞きましたが、まあ、出る出る…。

これは試験官もワクワクしたろうなと。

 

なんというか、対試験官、という内容ではなく

対「その企画を好きなもの同士」

のやりとり、なのです。完全に。

 

面接、小論文ともに、この方の独壇場だったんじゃないのかな…

なんて想像することでした。

 

 

 

 

 

試験直後

詳細なレポとともに、メールがきました。

 

「私全開で行けば良い という公子さんの言葉を胸にいい状態で向かいました。

一通り終わって、出し切った満足感 でボンヤリしてました。

スタバでクールダウン。
ほーっ。

採用になれば今日か明日に電話連絡。
これで採用されなかったら求めている人材が違ったという事でスッキリします。

とても濃いこの数日でした」

 

 

 

試験会場という「舞台」で自身を存分に表現しきった

何とも言えない「今この瞬間を生きている感じ」

が伝わってき。

なんとすがすがしい風。

なんとさわやかな。

(そのスッキリ感(執着のなさ)に

これは行けるな…という感じがその時になんとなくしたのですが)

 

 

 

 

 

「ダメでもともとですし…」

と言っていたのは、受験を決めたとき。

年齢その他の条件を並べ、はなから不利ですが…と。

落ちた時の傷が少ないように、自分で無意識のうちに

言い聞かせてしまっている、とおっしゃっていました。

 

 

 

それがどうして変容を果たしたか。

それはひとえに「自分は何者かを思い出した」から、だと、そう感じるのです。

自分自身の人生。

やってきたこと。

好きなこと。

自分の怖さと対話すること、愛すること。

プラスもマイナスも、すべて含めて自分の人生をいとおしむこと。

 

 

 

 

真の自分とアクセスし

自分のこれまで、これからのすべてにOKを出した瞬間に

もはやこの方にとって

最終的に、「他者との比較」はこの方の中に

存在しなくなっていた、とそう思えます。

「あるのは感謝のみ」みたいな…?

 

 

 

 

 

 

今回あらためて実感したこと。

 

人は

「自分自身を余すところなく」生きられたら

結果はどうでもいいものなのです。

(多分)

 

 

問題なのは

「自分を生きられなかった」

「あれは自分ではなかった」

「自分を存分に表現できなかった」

 

その思いそのものなのだと。

その思いがずっと残ることなのだ、と。

 

 

 

そのエネルギーは重く

「そのモノが手に入らなかった」

こと自体よりも、ずっとずっと重く、

長く、静かに私たちの中に潜伏し続け、わたしたちを苦しめます。

いろんなものを私たちから奪います。

自信、自己信頼感、他者の幸せを応援する氣持ち

他にもたくさんのものを。

 

 

 

 

 

 

 

もういい、と思います。

もう十分。

そういうのはもう終わり。

一分一秒、自分を生きない時間があるとしたら

それは大いなる損失なのです。

あなた自身にとって。

あなたがもっとも大切にしたい人達にとって。

そして

この世界にとって。

 

 

 

 

 

 

 

 

―そろそろ自分の聲と言葉で世界に向けて語りだそう―

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