「百万回生きたねこは、なぜ最後に生き返らなかったのか?」

「こんな絵本をもらったんです」

と。

昨夜のセッション。半ばを過ぎたころ、クライアントさんがそうおっしゃり

電話ごしに読んでくださっのでした。

一部。

死んでは生まれ、死んでは生まれ…

たくさんの出会いと別れをその人生のたびに味わい

それを百万回繰り返したネコが

幾度目かの…百一万回目の?人生で一匹のネコに出会い、そのネコを愛し、生き

そして死ぬ。

「最後にこう書いてあるんです。

『そのネコは、もう二度と、生き返りませんでした』」

ここで、不覚にも、

鼻の奥がじん…と。

ネコよ、よかった…本当によかったねえ。

それから話は

ネコの人生(?)の話になりました。

ネコはなぜ二度と生き返らなかったのか。

ネコはなぜ『百万回も』生き返っていたのか…などなど。

「ネコは、ずっと何かをさがしていたんでしょうか。何回も生まれ変わりながら」

「あ~、ですねえ」

そして最後に、その方が一言。
「ネコは、最後の人生、『生き切った』んだと思います」

その一言が大きく響き。

そうか…生き切ったんですか。

その日のセッションの直のテーマは仕事について。

膨大な量の「やらなければならないこと」の前で

漠然と、おしつぶされそうな、混乱した感覚に、ふとなることがあるのは誰しも。

そんなとき、仕事の具体的な「やり方」ももちろんですが

何より自分自身の「心の状態」「立ち位置」「あり方」がぶれない状態であるのが何よりなのですよね。

そのカギが、

どこかに、どこかにあるはずだ…と思ってずっとお話を聞いていたのですが

図らずもその方がふっと、口に上らせた

「そういえば、本をもらったんです…」

の話の中に、昨日のセッションにおいては潜んでいたようです。

こうお伝えしてみました。

「私も実は今けっこう忙しいのですが

あなたがおっしゃった『生き切る』という言葉を口にすると

今、自分の前にある状況が、とてもシンプルに見えてきます。

大切なこととそうでないことがはっきりする気がします」

するとその方も

「…ああ、そうですね!!」

と。

「生き切る」。

その日のセッションでの、わたしたちの間に生まれた場の中で

その言葉の意味するところは

「自分の一番大切とするもの(信念・価値観)を自分の人生の中心にどっかととすえて生きるのだ」

と、多分そういうことでした。

「わたしは今、『生き切って』いるか?」

「わたしはいつ、いかなるときでも『生き切る』のだ」

そう、自分に語りかけると、目の前の「現象としての混乱」はいっきに違った様相を見せてきます。

「生き切る(自分の人生を生きる)」

を判断の中心に据えると

「こうしなければ」とつぶされそうに焦っていたことの、実は案外半分くらいが

自分以外の価値観に左右されていたり、人と勝手に比べたり

誰かほかの人の「基準」に自分も合わせようとしていたり…

そんなものからくる「幻影」であったことに気づいたりする。

実際の仕事の量は変わらなくても、そうなるともはや全く違うのです。

「真の優先順位」が自身の中ではっきりと見えてくる。

それを大切にしていいのだという軽やかな自信や確固たる決意が自分の中に立ち上がっている。

結果、周りへの要望やリクエストも心置きなく出せる状態に

心が変わっている。

セッションの最後の時間。

二人で、静かに凪いだ心でそこにおりました。

「強い風で、どんなに海の表面が波立っても

深い海の底は穏やかですもんねえ」

「ですよねえ」

「表面に惑わされないで、いつも、海の底の、凪いだ部分につながっていたいですねえ」

「ですねえ」

「今日、絵本読んでくださったの、本当にうれしかったです♪」

「いえいえ…」

すっきりとシンプルに

力強く

どんな瞬間も、一瞬たりとも自分を明け渡すことなく

「自分の人生」を悔いなく生き切るために

わたしたちには確固たる「基準」が必要です。

それは人生の深い部分を流れ続ける静かな自分だけの旋律。

あなたがあなたとして存分に輝くために欠かせない「ルール」。

そして

お気に入りの宝石を、靴を、銀の食器を磨くように

それを見て、味わい、確認し、磨き上げる静かな時間も必要ですね。

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