ここらで「人の話を聞く」という「超基本」について振り返っておこうじゃないかー私たちは本当に「聞いて」いるか?聞けているか?

 

 

 

数日前、会話をしていて「聞かれてないなあ」とモヤモヤすることがあり、

すっかり元気がなくなってしまったので、

(わかりきっていることですが「聞かれてない」「受け取ってもらってない」

という感覚は結構「来ますよね」心に)

 

 

 

みんなで再確認しましょう‼️

 

 

 

まず、前提として、
「コミュニケーションはキャッチボール」。

 

よく聞きます、知ってます、と思ったあなた。
この「キャッチボール」が本当には「出来ていない」こと、結構多いのです。

 

以下、
わたしが研修で実際にボールを使ってやる
「コミュニケーションはキャッチボール」のエクササイズを、言葉で書いてみます。

 

 

 

 

さて、「心地よいキャッチボール」のルールとは。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる

 

 

当たり前ですね。
当たり前なんですが、ボールを「言葉」に置き換えると。

 

「ものすごい速さのボールが」
「一度に2〜3個飛んでくる」

 

ようなキャッチボールを平気でやっている人がいたりします。
(ボールだと、そんなことしたら「何かの特訓か??」ですけど、
「言葉」だと平気でやってしまったりする)

 

 

 

 

さらに。
心地よいキャッチボールのルールは続く。

 

 

❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる

 

 

これも当たり前ですね。けれど、これを言葉に置き換えると、

「反応がない
(うなづきがない、相槌がない、目が合わない、受け取ったよというメールがない…)」

とても「不安になる」やり取り、溢れているんじゃないでしょうか。
さらに。

 

 

❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

この❹までを完了して、初めて「コミュニケーションが完了した」
ということになります。
ここまでをやって、一つのコミュニケーションが終わる。

 

 

「相手にボールを返さない」
「もらったボールを一人持ちし続ける」

 

 

そんなキャッチボールは「ありえない」わけですが、
これが言葉だと、ある。とてもある。ものすごくある。

 

 

「返事が返ってこない」

 

 

というわかりやすいものから、
あなたが一生懸命話した内容に対して、

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

 

 

の一言で、

 

 

⚫︎「ところでさあ」とあとは自分の話に持ってかれる…
⚫︎「それってこうなんじゃないの」
と断定される、判断される、ジャッジされる、
欲してもいない(合ってもいない)「答え」を返される、などなど。
(ああ、なんて悲しい)

 

 

 

 

 

 

さて。
心地よいキャッチボールのルール。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる
❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる
❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

 

 

ボールを「言葉」に置き換えて、
自分が毎日、どんなふうに、どんな速度で、どんな投げ方で
「言葉というボールを」相手に向かって発しているか、
そして、どんなふうに受け取り、相手に返しているか。
双方にとっての快適な「リズム」はあるか?

 

 

改めて、「イメージして」みてください。

 

 

あなたと大切な人との対話において、
きっと、大いに発見するところがあるのではと思います。

 

「コミュニケーションはキャッチボール」

 

 

このことが、しっかりと「身体で」実感出来ていると、
コミュニケーションというものが、
「なんて言えば…」
とか、
「どんな言葉を使えば…」

 

以前のものであって、
表面的なハウツーのみでは成り立たないものだということが、
よくわかるのではないかと思います。

 

 

 

才能とは何か?ー今年もみんなが自分の才能全開で生きる1年となりますように

 

 

 

 

「わたしの才能は…」なんていう言い方は、
少々(だいぶ)抵抗のある人もいるのではないだろうか。
いや、むしろ言えない、という人もいるのではないだろうか。

 

才能・強み。

 

わたしの専門分野ではそれを、

「放っておいてもついつい勝手にやってしまう、思考パターンや行動」

と定義しているけれど、
最近、いろいろな人の話を聞いていて、

「人には見えていないものが見える(わかる)分野」

という言い方も(わたしにとって)ピッタリくる、
いい表現が見つかったなー、という気がしている。

 

 

ある人と、布の話をしていたのだけど、
話を聞いているうちに、
自分がミクロサイズになって、
布の繊維一本一本が交錯している巨大な織りの空間に
ふわんと浮かんでいるかのような感覚を覚えた瞬間があった。
(大昔、こういうSFドラマがあったぞと思いつつ⇨小さくなって人体に入るやつ)

わたしには想像もつかない視点。
見ているところ、見えているところ。
それは多分、その人にとっては「ものすごく当たり前」で、
わたしにとっては新鮮で驚きだらけのものだった。

 

 

で、
「才能」に関して、小さい頃伝記で読んだ
「シュバイツアー博士」の話を思い出したんでした。

 

シュバイツアーは小さい頃から、
オルガンがうまかった。
メロディに美しい和音をのせて弾く。

 

で、ある日、担任の先生に、
「先生はこうすると綺麗な演奏になることを知らないんだ」
と思い、アドバイスした。

 

翌日、先生が相変わらず、
片手で(一本指で?)オルガンを弾いているのを見て、
「みんなができるわけではないんだ。
これが普通だと思っていたけれどそうではないのだ」

ということを初めて知る、と。
そんな内容だったかと。

 

 

 

そのことが苦ではなく、ずっとできる。
そして、自分にとって、まるで
「そこに空氣があるように」
「ご飯を食べるように」

自然で当たり前のこと、感じ方、見え方、動き方。
それを「才能」と呼ぶ。

 

そしてそれは、もちろんあなたの中にも。
あなたの身近な人の中にも。
皆に備わっているもの。

 

 

それをお互いに交換しあい、
披歴しあい提供しあってつながっていく。
まるでパズルのかけらのように補い合って丸い豊かな世の中になる。

 

そんな世の中、
最高じゃないか!と今年、今この瞬間も、ものすごく思っている。

 

さて。
人はそれに「まみれて」いる時が一番幸せ。

 

今年、あなたはどれくらいの時間、それに「まみれて」生きるだろう?
あなたの大切な人の「それ」を発見し、
彼が、彼女がそれに「まみれる」ことをどれくらい
サポートするだろう?

 

どうぞ、今年も存分にやっちゃってください。

 

「自身が発した言葉をどう受け取るかは相手の責任。 わたしたちは相手の責任まで負うことはできない」が第一位でした。 (「研修で一番心に残ったことは?」の質問に対して)

 

 

 

 

 

参加者24人中、7割が「一番心に残ったとしてあげたのがタイトルにあげた言葉。
「これが来たか〜!」と内心驚きました。予想外。

 

 

 

 

これをぜひ伝えたい、と思ったのは、
研修前に書いてもらった「うまくいかなかった部下との会話事例」のアンケートで、

 

 

⚫︎表現が回りくどい
⚫︎相手に気を遣いすぎて、結局一番言いたいことまで達していない

 

 

例がとても多かったからなのです。
(名付けて「外堀戦法」。
まあ、時間がかかっても本丸まで到達できればいいんですが、
外堀だけ埋めて力尽きている事例、多数😊)

 

 

 

 

「相手が傷つかないように気をつけて話しました」
「(お客様からのクレームを)そのまま伝えては相手が傷つくので、表現を柔らかくして伝えました」

 

 

 

と。
とても順当な、人として当たり前の感覚に思えます。
けれどこの中に、わたしたちの中に長いこと居座っている思考と感情のパターンが厳然として存在する。

 

「相手のことを考えなさい」
「周囲に合わせなさい」
「人を傷つけてはいけません」
「もっと思いやりを持ちなさい」
「人から嫌われないようにしなくては」

 

確かに。
これを否定するものでは全くありません。
けれど同時に、これらは時にはわたしたちを過度に縛り、自由な表現を妨げるものにもなっている。

 

 

 

 

さて。
「相手の気持ち」なんてものは、
いくら想像しても本当にはわからない、ということを承知しておくといいのです。

 

 

そんなものは魔法使いでない限り、本当のところはわかりはしない。
「傷つく」と思っているのはあなたであって、相手がそうなのか、本当にはわかりはしない。
相手がどう受け取るかなんて、コントロールできはしないのだから。

 

 

 

(実は、ここをコントロールしたい、という人は結構いて、
「相手にこのように思ってもらうために、行動してもらうために
『どう言ったら』いいでしょう?」という質問、よく聞きます)

 

 

 

 

自分の中から「本当の」思いと言葉を解き放ち、相手に届け、そして勇気を出して、委ねる。

 

そんなコミュニケーションは、すっきりとしていて、軽やかだな、と思います。
風が吹いて新緑が揺れるようであったり。
太陽に照らされた土みたいにほっこりと温かったり。
派手じゃないけれど、遠赤外線で、ゆっくりと効いてくる炭火みたいだったりする。

 

 

 

 

つまり、その人の個性、人間性がしっかりと伝わってくるものになっている。
「言い方」(言葉)もとても大切ではあるが、
その人の「真の意図」(あり方。being)こそが、
相手に振動となって伝わるのだ、ということがよくわかる。

 

 

 

 

 

わたしたちは、相手に幸せになってほしいと思えば思うほど。
相手といい関係を作りたいと思えば思うほど。
コントロールしたい、という欲求が生まれることもあるものです。

 

 

 

けれど、そこにしっかりと「境界線」を引く。
相手と自分は違う人間なのだと理解し、
尊重し、信じ、委ねる。

 

 

 

そんな「健全な境界線」こそが、
「新緑の風が吹くような」自由自在な関係性と互いの成長を
もたらすものなのだと思います。

 

 

(写真は島津家別邸、仙巌園の白梅。
見ると近所の白梅も満開になっており、「はじまったー^^!」という感じがしています)

 

大掃除に取り掛かる気にならない。どうしたらいいの?

 

 

 

 

 

そろそろテレビで、
「大掃除のしかた」(水垢はこうとる、とか、網戸はこう掃除する、ですとか)

の特集が出だしましたが、

そんな中、
「大掃除に取り掛かるの自体が大変。どうしたら取り掛かれる?」

 

という質問があって、
「いい質問だなあ〜(笑)
→(ほんとにそうだよね。本質ついてる)」
とおかしくなったのですけど、

 

 

その時フッと思いついた答えが下記。
「『赤ちゃんの一歩』で、自分を騙せ」

 

 

 

 

NLP(神経言語プログラミング)で、
よく「ベイビーステップ」という言葉を使うんですが。
それです。

 

 

 

人は基本、変わりたくない生き物。
大きく変化することをなんであれ嫌う。
人の奥深く、無意識の中にある、
強固な「ホメオスタシス」。
(変化は危険!守ろう、変わらないでいよう、現状を維持しよう、の機能)

 

 

 

いきなり、大きく、

 

「さあやるぞ!」
「ががっと一気にやるぞ、磨くぞ、捨てるぞ、整理するぞ!=変わるぞ、変えるぞ」

 

 

 

と動こうとするとき、
それと同じくらいに無意識下で、
それを止める「ブレーキ」も出てくる。

 

 

 

 

ですので、
「無意識が気づかないくらい」に
小さな、小さな変化から始めるといい。
(これがつまり、赤ちゃんの一歩、ベイビーステップ、ということ)

無意識をだます。

 

 

「え?全然動いてないよ〜(笑)変化してないよ〜(笑)」
と。

 

 

 

ジリジリとそれが(ベイビーステップが)静かに積み重なっていくと、
気づくとそれが大きな変化になっている。

 

 

 

今年、たまたま、まさに「ベイビーステップ方式」で
大掃除を、とも思わないままになんとなく掃除を始めていたものですから、
(朝、窓ガラスを一枚だけ、ですとか、小さな引き出し一段分の不用品廃棄、といった感じで)

書いてみました。

 

 

「スッキリ感」「出来た感」が少しづつ積み重なって、弾みがついて、
掃除へのやる気が静かに盛り上がってきているのを、
今、まさに体験中。

 

 

 

 

そしてこの「ベイビーステップ」方式、
もちろん掃除以外にも、いろんな場面で使えます。

 

 

 

転んだとき「我慢すると褒められる」男の子。 人が転んだ時に「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子。 この違いが「感情への感性」の違いを生む

 

 

 

 

 

 

「転んだとき『我慢すると褒められる』男の子。
人が転んだ時に『他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる』女の子。

この違いが『感情への感性』の違いを生む」

 

 

 

というのは、岡田斗司夫氏が言っていたことで。
「男の子は、自分の体の様子や体調不良を我慢すればするほど褒められる。

なので、身体についても感情についても鈍くなるんだ」と。

 

ああ、なるほど。
結局そういうところから始まっているかもなと。

 

 

 

今はそういう親ごさんは少ないでしょうが、
わたしは小さい頃、泣くとよく怒られました。

結果わたし自身、「泣かない子」(我慢する子)に育ち、
なのでなんだかよくわかるのです。

 

 

 

 

 

例えば小さい頃の予防接種。
だいぶ痛かった覚えがあるんですが、
いつも全身&心を石みたいにして我慢していた。

 

 

 

そして、顔を真っ赤にして泣きわめく
周りの「園児たち」(←自分も園児)
の顔を見ながら、
「見苦しいな…」と。

(可愛くない子)

 

明らかに泣かないのが立派なのだ、と思っていました。

 

 

 

 

 

「自分は感情を感じるのがあまり得意じゃない」

 

 

と思ったのは仕事を始めてからのことで。
なので、教員生活の始めの頃は今思えばなかなかに大変でした。
(自分の感情を感じないように、
分厚い皮をかぶっているようなものなので、
子どもの「身体感覚」「感情」と本当の意味で触れ合うのに時間がかかり)

 

 

悲しいこと、びっくりしたこと、怖いことがあった時に。
怒りを感じた時に。
その自然な感情の発露を、

 

 

「それはいけないことなのだ」

 

 

と言われると、
(言葉で言われなくともそういう身体メッセージを発せられると)
確かに「それ」を感じるセンサーの感度は弱くなりますね。
自分の中で「それを感じる」ことへ許可がおりない。

 

 

 

 

けれど、我慢した感情自体はなくならなず、
ずっと自分の中に残り、着々と蓄積され続けるので、
結局「後で」味わうことになるのですけれどね。
(手をかえ品を変え形を変え、
絶対に「気づく」ような出来事が起き、味わうようになっている)

 

ずっと「放っておいた自分」「ないことにされていた自分」
は怒っていて、悔しくて、悲しくて、
寂しくてしようがないわけですから、
全力で「メッセージ」を送り続けるわけです。
気づいてもらうまで。

 

 

 

 

 

そう思うと、
「味わうべき感情」「湧いてきた感情」は
その場ですぐに、存分に味わってしまうのがいいな、
と本当に思います。
白黒つけず、いい悪いもなく、ジャッジすることなく、
ただ、しっかりと味わうのがいい。
(「味わう」と「表現する」は別物なので念のため)

 

 

 

 

 

 

 

家族との関係。
職場での人間関係。
仕事。
対ひと、ひと以外に関わらず
の大切なものとの関係、全てにおいて

 

 

 

 

あれ?と思ったら。
うまくいかないと感じたら。

 

 

その時こそ「今だ!」というメッセージなのだと思います。
「見て!」
「聞いて!」
「気づいて!」
「ここにいるから!」
という、「どこかに置いてきた自分」からのメッセージ。

 

 

 

 

答えは外側にはなく、
全部自分の内側にある。

 

 

「その自分」との語らい、承認、和解。そして愛を注ぐ。
それもまた、

 

前回書いた「自分の中心に戻る」「碁盤の目の中心に戻る」
(=それこそが世界への、あなたの貢献)

 

ということなのかと思います。

 

 

 

 

 

 

追伸:

「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子、

がOK、と言っているわけではなく。

それはそれで行きすぎると色々と弊害が。

バランスですね。

 

 

 

「自分に戻る」ことが今、一人一人のやること。最も大切なこと

 

 

 

 

さて、セッションで話を聞いていると、みんな話していることはそれぞれなのだけど、
つまりは「ズレを戻して」自分の「中心」に戻る作業をして、
自分の「中心」を再確認して、つながって、
そして再び自分の生活に出発しているんだな、と思います。

 

 

「グリッド。
碁盤の目。
そこに一人一人が立っている。

 

が、
これまで、全員がズレていた。
自分の本来の場所から、なんらかの理由でズレた位置に立っていた。
一人がズレると、その隣も、そのまた隣も…と、
全員が押されてズレ始める。

それが今まで。

 

 

けれど、逆に、
一人が気づいて自分の位置に戻ると、周りも押されて「中心」にもどり始める。

 

みんなが『自分の位置』に戻る時代がやってきた」

 

 

 

 

 

いう内容が載った本を買ったのは30年前。
今でもとても鮮明に自分の中に刻まれています。

 

 

自分に戻る。自分を生きる。
それが一番大切で、わたしたちはそのために生きているのだ、と思います。

 

自分の本質。
自分の本来の位置。
自分の周波数。
自分のリズム。
自分が本来もつ響き。
(わたしはこの表現がとても好きで、感覚的にもしっくりくるので、昔から使っていますが)

 

 

どんな表現でもいいんですが、
そこにいる。それを生きる。
それより他にやることはないし、
それだけで、その状態で生きているだけで、
わたしたちは周りに貢献出来ているのだ、とつくづく思います。
(まあ、貢献するために生まれてきているわけではないですが)

 

 

 

 

そして、
そのために、わたしたちのような役割(仕事)のものもいるんだな、と思います。
いわば「調律の場」を作る役割。
「調律」の手伝いをする役割。
「声を聞く」ことをたすける役割。

 

 

 

 

 

今これを読んでいる忙しいあなた。
自分の調律をしっかりとしてください。
「その時間」を取ってください。

 

なるべく日々の中に小さく、細やかに散りばめてください、と。
(そのお願いを、クライアントさんにも改めてしたところです)

 

 

 

一人になって、自分に声をかける時間をとってください。
あなたが一番ほしい言葉は、
結局自分で自分にかけることでしか、
本当には満たすことができないものなのです。

 

 

 

 

 

旅人が旅の途中、ふと立ちよる

 

せんせんと清水の湧き出る泉。
柔らかい下草の生えた木漏れ日美しい木陰。
暖かい焚き火の燃える居心地よい洞窟。

 

そんな場所と時間を取ってほしいと思います。

 

 

そこで、
この世界で誰よりも大切な、最も近しい、
ずっと共に歩んできたパートナーである
「自分自身」と、ただ共にいる時間、
そして声を聞く時間、語らう時間をとってほしい、と思います。

 

 

 

全てはそこから始まる、
と思うこの秋なのですよね。
改めて。
(ざっくりですけれど)

 

 

 

 

 

(写真は、車のフロントガラスに乗っていた桜の落ち葉。
綺麗だったので、一枚だけ「お土産」と、持って出かけたところ、
知人はとても喜んでくれ。
こういうものを「美しい」と喜んでくれる感性がとても嬉しかったんでした)

 

 

「どういうふうに言ったらいいですか?」とよく聞かれるけれど、それはそもそも「言い方」の問題ではない

 
 
 
子育て番組でやっていたんですけど。
 
 
 
受験期を迎えた子どもが勉強しない。
(自分の思ったようには)
 
で、あれこれ言う。
 
 
 
 
「やってないの」
「なんでやらないの」
「何時からやるの」
「こんな問題もできないの」
「なんでできないの」
「そんな高校いくの?」
「そんな仕事、うまくいくかわからないじゃない」
 
 
 
 
 
 
子どもはどんどん離れていく。
「うざったい」という反応を示す。
何も喋らなくなる。
どんどんコミュニケーションが取れなくなる。
 
 
 
 
 
 
で、上の質問になる。
「子どもになんと言ったらいいでしょう」
「何か、いい言い方はないでしょうか」
と。
 
 
 
 
 
 
で、わたしはこの「言い方は…」という「言い方」に、
すっきりしないものを感じるわけです。
(こういう質問、よく聞くのですよね。
親と子の関係だけじゃなく、いろんな関係性において)
 
 
 
なんと言ったらいいか?
その答えは一つしかない。決まっている。
 
 
 
 
 
 
 
「これまでうるさく言ってごめん。もうあれこれ言わないから。
自分の考えで自由にやって。お母さん(お父さん)見てるから」
 
 
 
 
 
 
 
そう言えばいいのだ。
子どもが真に望んでいる言葉はこれのみであり、
親のこのスタンスなのだ。
 
(プラス「悩んだ時はいつでも力になるからね。
いつでも聞くから、話したくなったら話してね」くらい付け加えておけばいい)
 
 
 
 
 
 
 
けれど、そうはならない。
そういう言葉ではない何かが欲しいのだ。
「何かいい言い方」イコール
 
 
 
 
 
「波風立てず、子どもに嫌われず、
なおかつ『子どもが自分の言うことを聞くような』言い方はないですか?」
 
 
 
 
 
ということなのだ。
相手をコントロールしたい。
 
 
 
 
 
 
で、声を大にして言いたい。
「そんなもの、あるわけない」と。
 
 
 
 
 
 
 
子どもが自分の巣立ちに向かって、自らの羽を研ぎ出す時。
それは、親自身も全身全霊で、
自分自身を見返す時なのだと思う。
 
 
 
 
 
子どもが、
「生きるってどう言うこと?」
「自分はこれからどう生きていくの?」
「自分とは何者?」「自分にとっての幸せとは?」
という一生の命題に真剣に向き合うとき。
 
 
 
 
 
それは、親自身も、
「一人の人間として、これまでどうやって生きてきたか」
「一人の人間として、これからどう生きようとしているか」
を問われているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
「普通はこうでしょう」
「これまでこうやってきたから」
「自分はこれでうまくいったから」
「みんながこうやっているから」
「幸せとはこう言うものだから」
 
 
 
 
 
 
 
そんな使い古された(そして楽な、使い勝手のいい)
言葉と感覚ではなく、
親自身が、自分自身の「生き様」から滲み出、醸し出された
真の言葉で語れるか?を、
子どもから問われ、見られている時なのだ、と思う。
 
 
 
 
(ちなみに、この時に、これらをおろそかに扱うと、
いづれ何らかの「人生の節目」で倍返しみたくなって
返ってくることになるので注意。
例えば結婚式のときとか…
まあ、準備の過程でいろんなことになる親子を見たもんです)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
子どもは、先に生まれたものを助けるために生まれてくるのだ、
と何かの本で読んだことがある。
 
 
 
これまで、いろんな親と子を見てきて、
話を聞いてきて。そうだなあ、と思う。
 
 
 
 
 
例えば子どもの反抗や、不登校や。
それらを通して自分を見直さざるを得なくなり、
結果、生き方が変わった親御さんとたくさん出会った。
 
 
 
みな、何か「とらわれていたもの」から解放され、
「自分軸」を生き始めていたように思う。
それはもう、見事に。
自分を生き始めていたように思う。
その姿、輝いているのですよね。
 
 
 
 
 
 
 
子どもってすごいのだ。
 
 
彼らはある時期、
自分でもどうしようもない破裂音を身のうちに抱える。
身体の中でそれはベキベキと音を立て。
それは彼らの「魂の叫び」なのだけど。
 
 
 
ともすれば自身をも破壊しかねないそのエネルギーのもの凄さは、
親をも「檻」から引っ張り出すに十分なのだ。
 
 
 
 
 
 
彼らは、自分だけでなく、
 
「もっと自由な世界へ。
存分に自分を生きることの喜び」
 
の世界へ、親をも連れてゆこうとしているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
願わくば、全ての子どもの「その企て」が、
潰されることなく成功しますように。
と切に願う。
 
 
 
 
(写真は鹿児島市の「石橋公園」。
本文とあまり関係ないんですけど。
30年前までは現役で人と車を(2車線で!)渡していたすごい橋だったのです)
 
 

ふと『予祝』してみた9月1日の朝ー今年の年末、どこで何していたい?

 

 

 

 

春のお花見が古来より秋の豊作の「予祝」であった、
ということを以前書いたことがありますが。

 

 

「いや〜。こんなに実ったねえ。神様、ありがとう!」

 

 

と。
花を稲穂に見立てて前もって祝ってしまう。
喜んでしまう。
喜びを先に味わってしまう。
それによって「豊作」を現実にする。
(引き寄せる、ってやつでしょうか)

 

 

 

 

 

NLP(神経言語プログラミング)の講座の後、
受講のみんなで、

 

 

「ヒーローインタビュー」

 

 

なるワークを(一杯ひっかけて)やった覚えがあります。
自分の夢に対して「もはや成った」ものとして、
インタビューを受ける。

 

 

そして、その氣になって答えまくる。
周りも盛り上げまくる。
「○○さん、すごいですねえ!
どうやってこれを実現したんですか??」
と。
喋っているうちに、本当にそうなる氣がするから不思議です。
(あの時の夢、叶えた人もいるんじゃあないかしら?)

 

 

なかなかに楽しい時間でした。

 

 

未来を描く。そこへ行く。
もはや「成った」場所から、今を見てみる。
NLPやコーチングにも「予祝」視点は満載です。

 

 

 

 

 

 

で。
ふと今年の年末に「飛んで」みた9月1日の朝。
浮かんだのは、心やすい友たちとどこかの座敷で飲んでいる様子でした。(忘年会?)

 

10人くらいのその場所はぎゅうぎゅうで。
(もっと広い場所でやりなさいよと思いつつ)

 

 

わたしはあまり飲みに行かないので、

 

 

「おや、これはこれは…」

 

 

 

と思いつつ見ていますと、
みんなで「今年の自分の10大ニュース」なるものを
発表し合っていました。

 

 

「わたしはどんなニュースを発表しているのかしら??」

 

 

と思っていたら、
まあ、結構なことを言っていましたよ(笑)
とっても嬉しそう。

 

 

そして、みんなから
「おおお〜!(どよめき)おめでとう!よかったねっ!」
と渦のような祝福を浴びていました。

 

これは…熱い(場所が狭いからそもそも暑いのよ!と思いつつ)
ちょっと恥ずかしい。
そして、なんと氣持ちのいい。

 

 

 

 

 

さて。
興味ある人は、やってみられては?
と思いここに書いているわけです。

 

 

ポイントは、
⭐️リアルに想像する

 

です。

 

・温度(何度、ではなく、暑い、肌寒い、など)
・質感(肌触り)
・音(声、言葉、生活音…どんな音が聞こえている?)
・におい
・周囲(場所の様子、人の表情)
そして、
・自分の「感情」と「身体の状態」(ここ大事)

 

 

 

もしかして、「それ」が。

 

いえ、もしくははるかにイメージを超えた「素晴らしい場面」が、
年末、あなたにやってくるかもしれません。

 

なにせ…
先人たちもずっとやってきた
わたしたちにとってある意味王道の方法ですし!

 

 

 

《追伸》

※もう一つ、大切なことは
「心身ともにいい状態」を作ってから想像する(未来へ飛んでみる)ということです。

くれぐれも、なんだか落ち込んでいる時、身体がぼやっとだるい時…
などにやらないように。

 

試しに続けて2回やってみたんですが、
(1回目ー普通の状態/2回目ー深呼吸&心地いいことを考えて、リラックスした状態)

 

 

1回目と2回目、予想通り出てくる想像が全く違いました。
2回目の方が大きく大きく広がっていました。世界が。

 

どうぞ、自分をいい状態にしてからやってみてください。

 

 

 

「なぜコンビニの前に座っていてはいけないのか」を子どもになんと説明するか

 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。

 

コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、

「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」

と問われたら、なんと答えるか、と。

 

 

で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」

 

 

 

本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。

 

 

 

 

で、わたしの率直な感想は、

「理由が…いるか?」

でした。

 

 

 

 

なんというか。

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。

 

 

そんなものは全然「通って」いなくとも、

 

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

 

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)

 

 

 

 

 

 

 

知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。

 

 

「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」

 

 

 

 

ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)

 

 

 

で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

 

「では、自分で再度見つけるしかないか」

 

と。

 

もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、

 

 

 

 

と思ったのだそう。

そのためには知識が必要。

 

 

 

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。

 

 

 

それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)

 

 

 

とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)

 

 

 

 

 

わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

 

 

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

 

 

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。

 

 

 

 

 

先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)

 

 

の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。

 

 

 

 

そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。

 

 

 

 

たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

 

 

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)

 

 

生きる人になってほしいと思ったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、

 

子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)

 

 

 

 

 

 

※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍

 

 

 

 

それは愛か?を見分けるのは容易い

 

 

 

 

 

 

 

朝ドラ「らんまん」を見ていて、ふと上の言葉が浮かんだんでした。

 

 

 

主人公の描く精密な、精密すぎる植物の絵。
どんな気分であっても、どんな状態であっても、
そこに植物があったらつい嬉しくなり、じっと見てしまう。
話しかけてしまう。
(牧野富太郎博士自身がそういう人だったんだろう、
とご本人の笑顔の写真を見て思うことなのです)

 

 

 

 

 

 

「愛」というものの土台は、

 

 

「見ている」

 

 

ということなのだと思います。
「まなざしを注ぎ続ける」と表現した方がいいでしょうか。
(または「あたたかい観察」)

 

 

そして「ものすごく細部まで見てとることができる」
「氣づくことができている」
ということ。

 

 

 

 

 

いつも「見ている」。
細部に至るまで「見ている」。
細やかに「見ている」。
朝昼晩、春夏秋冬、ずっと「見ている」。

 

 

朝と夕の変化。
季節ごとの変化。
どんな細かいところまでも、
繊細な葉の筋の一本までも「氣づくことが」できる。

 

そして、「それ」のありのままの姿、
ありのままの特質を心から愛で、賞賛し、尊敬し、慈しむ。

 

 

 

 

 

 

他者から自分に向けられる言葉や行為に対して。
または自分自身から発せられる「誰かへの言葉や行為」に関して。

 

 

 

それは「愛から」のものなのか?
そうでないものなのかを見分けるには、
上に書いた「土台」が根底にあるか?あってのものか?
を判断基準にすればいい、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」からのものとは、

 

 

・いつも見ている、しっかり見ている(あたたかい観察)
・細部まで見ることができている
・対象のありのまま(本質・特質)を見てとれている
・ありのまま(本質・特質)への尊敬、賞賛、慈しみがある
・ありのまま(本質・特質)をこそ、大切に保ちたい、
 伸ばしてあげたいと思う気持ちがある

 

 

 

 

 

それ以外のものがもし入っていたら、
それは「愛」ではなく。

 

 

 

「自分の心配、自分の不安、自分の欲、自分の願望、自分の理想…」

 

 

 

を押し付けられているのかもしれない&押し付けているのかもしれない。

と疑ってみてもいい。

 

 

 

 

 

 

牧野富太郎博士の植物の絵。
あの細やかさ、あの緻密さ、
あれは、「愛」以外の何ものでもない。

 

ただただ、対象をありのまま、真の意味で「愛した」。
愛を持って「見続けた」からこそ描けた人の絵なのだと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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