「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

転んだとき「我慢すると褒められる」男の子。 人が転んだ時に「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子。 この違いが「感情への感性」の違いを生む

 

 

 

 

 

 

「転んだとき『我慢すると褒められる』男の子。
人が転んだ時に『他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる』女の子。

この違いが『感情への感性』の違いを生む」

 

 

 

というのは、岡田斗司夫氏が言っていたことで。
「男の子は、自分の体の様子や体調不良を我慢すればするほど褒められる。

なので、身体についても感情についても鈍くなるんだ」と。

 

ああ、なるほど。
結局そういうところから始まっているかもなと。

 

 

 

今はそういう親ごさんは少ないでしょうが、
わたしは小さい頃、泣くとよく怒られました。

結果わたし自身、「泣かない子」(我慢する子)に育ち、
なのでなんだかよくわかるのです。

 

 

 

 

 

例えば小さい頃の予防接種。
だいぶ痛かった覚えがあるんですが、
いつも全身&心を石みたいにして我慢していた。

 

 

 

そして、顔を真っ赤にして泣きわめく
周りの「園児たち」(←自分も園児)
の顔を見ながら、
「見苦しいな…」と。

(可愛くない子)

 

明らかに泣かないのが立派なのだ、と思っていました。

 

 

 

 

 

「自分は感情を感じるのがあまり得意じゃない」

 

 

と思ったのは仕事を始めてからのことで。
なので、教員生活の始めの頃は今思えばなかなかに大変でした。
(自分の感情を感じないように、
分厚い皮をかぶっているようなものなので、
子どもの「身体感覚」「感情」と本当の意味で触れ合うのに時間がかかり)

 

 

悲しいこと、びっくりしたこと、怖いことがあった時に。
怒りを感じた時に。
その自然な感情の発露を、

 

 

「それはいけないことなのだ」

 

 

と言われると、
(言葉で言われなくともそういう身体メッセージを発せられると)
確かに「それ」を感じるセンサーの感度は弱くなりますね。
自分の中で「それを感じる」ことへ許可がおりない。

 

 

 

 

けれど、我慢した感情自体はなくならなず、
ずっと自分の中に残り、着々と蓄積され続けるので、
結局「後で」味わうことになるのですけれどね。
(手をかえ品を変え形を変え、
絶対に「気づく」ような出来事が起き、味わうようになっている)

 

ずっと「放っておいた自分」「ないことにされていた自分」
は怒っていて、悔しくて、悲しくて、
寂しくてしようがないわけですから、
全力で「メッセージ」を送り続けるわけです。
気づいてもらうまで。

 

 

 

 

 

そう思うと、
「味わうべき感情」「湧いてきた感情」は
その場ですぐに、存分に味わってしまうのがいいな、
と本当に思います。
白黒つけず、いい悪いもなく、ジャッジすることなく、
ただ、しっかりと味わうのがいい。
(「味わう」と「表現する」は別物なので念のため)

 

 

 

 

 

 

 

家族との関係。
職場での人間関係。
仕事。
対ひと、ひと以外に関わらず
の大切なものとの関係、全てにおいて

 

 

 

 

あれ?と思ったら。
うまくいかないと感じたら。

 

 

その時こそ「今だ!」というメッセージなのだと思います。
「見て!」
「聞いて!」
「気づいて!」
「ここにいるから!」
という、「どこかに置いてきた自分」からのメッセージ。

 

 

 

 

答えは外側にはなく、
全部自分の内側にある。

 

 

「その自分」との語らい、承認、和解。そして愛を注ぐ。
それもまた、

 

前回書いた「自分の中心に戻る」「碁盤の目の中心に戻る」
(=それこそが世界への、あなたの貢献)

 

ということなのかと思います。

 

 

 

 

 

 

追伸:

「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子、

がOK、と言っているわけではなく。

それはそれで行きすぎると色々と弊害が。

バランスですね。

 

 

 

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