「アンカー」

昨日のセミナーで

(コミュニケーション能力アップ講座。19歳~35歳までの基本『若者』参加セミナー)

インプロをやっていたときに

7人くらいのチーム×2チームで

「豪華客船」を作ったんですが(『ナイフとフォーク』というゲーム。全員で「お題」として出たものを「無言で」

体で表現して作るというゲームで)

そのとき、色の黒い笑顔の優しいGくんが、客船の「あるパーツ」をつくっている。

腰の落とし具合といい、何度もやり直すところといい

それにとてもこだわりを持ってつくっているのはわかるんですが

それが「何」なのかわからない。

みんな頭に大きな「???」を抱きつつ

結局チームの誰にも伝わらぬまま、終了。

「さっきのあれ、何だったの?」

「碇です」

「ああ~」(全員大きく納得)

「碇」なことがもっと伝わったら、他のメンバーも動きやすかったのにね~

どうやったらもっと伝わったろうね~

などなど話しながら、午前中のウォーミングアップが終わろうとしていました。

このセミナーでは

午前の部が終わるときに、みんなで円陣を組んで、メンバーの健闘を讃え

全員で声を出すことが多いんです。

昨日も円陣を作り

「どんな言葉で締めようか?」と。

(いつも、その場でメンバーの誰かに作ってもらいます)

一人が

「みんながんばった~!にしよう」

とか何とか、提案。

「よし、それで行こう!」

するとすかさずもう一人が

「そのあと『碇~!』!!」

「ええっ?」

みな一瞬とまどいますが即「それいいね!」ということになり

全員で

「みんながんばったっ!碇(いかりぃ~)~~!!!」

と、なんとも不思議な絶叫で終わりました。

その瞬間

なんだかとても象徴的な気がしました。

「碇」。

アンカー(碇)は

NLPでしょっちゅう使う言葉。

「アンカリング」

「アンカーを発火させる」

「負のアンカー」

等々

わたしたちの体には、たくさんの「アンカー」が埋め込まれています。

船は、碇があるから(碇を下しているから)

たとえ海面がどんなに荒れていても、碇を下した場所に戻ることができる。

いつも、そこにつながっている。

わたしたちの中にも

たくさんの「アンカー」があります。

たとえば、ある特定のにおいをかぐと、瞬時にその匂いをかつてかいだある場面や状況を思い出す…

なんていうのも「アンカー」です。

いつだったか、雑誌のインクのにおいをかぐと「宇宙戦艦ヤマト」を思い出す、

と書きましたが

わたしにとって、そのインクのにおいは「宇宙戦艦ヤマト」

そして

それを通して当時感じていたドキドキ、ワクワク感と強烈に結びついているのですね。

そのにおいで、いつでもあの瞬間に戻ることができる。

今年の五月に書いた

「五月は嫌い」。

これは、わたしにとっては「負のアンカー」ということになるでしょうか。

五月独特の空気と藤の花の姿が

はるか昔の五月に起こった「どどっと」落ち込むような出来事、

その時感じていた「気持ちと体の状態」を、知らず知らずのうちに今によみがえらせていた、という。

そして、自分にとって力づけとなる体験と、そこから感じる体の感覚を体にを意図的に

覚えさせることを、NLPではやります。

(アンカリング、という)

この時間が

彼らの「アンカー」になってほしい。

この中で、それくらいの強烈な体験をしてほしい。

今日のこの日に感じた「何か」をしっかりと心と体に刻んで

彼らの体と心に、今日の笑顔と元気を

この、自分らしい自由な表現をいかんなく発揮できたこの身体の状態を

いつでも呼び起こすことができる

この状態にいつでも戻ってこれる、そんなアンカーになってほしい。

今日の日が。

と思っていたのでした。

そう願いながら、いつもこの時間を作っていたのでした。

彼らの

「碇ぃ~!!」

という声を、大笑いで聞きながら

自分の願いにまるでOKを出してもらえたかのような

もっと頑張っていいんだと言ってもらえたような

そんな気分になりました。

「懐かしい写真」

中村公子のコーチングna日々♪

ヴォイスさんから

先日の講座の写真が届いたのでアップしてみました。

懐かしい。

今回が初めての講座だったので、わたしたちは「一期生」ということになるそうです。

もう三月くらいも前のことのように思えます。

赤いジャケットがシャンタル。

一番右の、黒い服の女性が「スーパー通訳」さん。

お仕事で海外によく行くらしい

イメージコンサルのYさん(写真右後方)の言によると

「同時通訳ってのは、ものすごい集中力を要する。

テレビでよく見る同時通訳さんも、途中で交代している。

それを…あの人はすごい!!」

確かに。

一日。朝の10時から夜の7時前まで。

シャンタルのあふれ出る言葉の奔流を

よどむことなく、一度のひっかかりもなく、たんたんと、流れるように

日本語に変換し、わたしたちに伝え続けてくれました。

しかも、こちらの(受講生の)、ときにはとんでもなかったり、突拍子もなかったり、意味不明?な発言も

顔色一つ変えず、やはり淡々と意味のある流れでシャンタルに伝える。

頭の中で、瞬時に何が起こっているんでしょう。

なんでも、訳した瞬間にもうそのことは忘れてしまうのだ、とYさんは言っていましたが。

(そこが集中のカギだと)

さて

写真を見ながらそんな懐かしいあれこれが少し、よみがえってくることでした。

みな、それぞれの場所で、それぞれの時間をスタートさせているんでしょうね。

それにしても…

わたしはどうしてあんなに顔をはらしているんだろう?

多分、ほぼ毎晩だれかと食事に行っていたせいでしょうか。

それだけが少し気がかりな

懐かしの写真です。

「小川の辺」

漫画家の和田慎二先生がお亡くなりになったと

ネットの端で目にして

「和田慎二先生がお亡くなりに~!」

と一行

つい姉にメールしてしまいました。

そんなにしょっちゅう会うわけでもない姉なのですが。

姉からは

「…誰だっけ?」

とすげないメールが帰ってくるかと思いきや

「いつー!!」

という強度に反応した(^^)メールが。

「よかった・・・」と内心安堵しつつ

ちょっとその心配をもらすと

(「誰それ?って言われるかとおもったよ」と)

かつて、子どもの頃に共に読んだマンガのタイトルをずらずらっと書いてき

「読んだじゃん」

と返事が。

なんだか嬉しくなりました。

同じテレビを観て、同じマンガを読んで、同じおやつを食べて

時間も空間も物も人も…すべてを共有し、ゆずりあい、奪い合い

あるときは一番盛り上がり、語り合える相棒

あるときは一番憎らしいライバル

あるときは一番頼れる先達

そして、あるときは、耐え難い人生の傷をいっしょに分かち合ったかけがえのない戦友

それがわたしにとっての「きょうだい」であったように思います。

帰宅時間を守れず母に締め出されて一緒にみた夕焼けや

取り合ったマンガの本のインクの匂い

そんなものを、「和田先生のマンガ」とともに一瞬思い出したのでした。

そういえば、昨日のクライアントさんも

幼い頃の、ご自身のお兄さんや妹さんとのことをお話なさいましたっけ。

(と、書いてOK,と了解いただき書いております)

どうにも居心地悪いざわつく感情を感じて、すっきりしない。

思い出していたら、小さいころのきょうだいとのある場面に行き当たった。

「ああ、はじめてこれを感じたのは『あのとき』だったんだなあ~」と。

一番近い存在、一番知った存在だけに

心から愛おしいくもあり

また、幼い頃のほんの小さな、まるで小骨が刺さった程度の心残りであるのに

なぜか不思議と心の中に残っていたりする

きょうだいとはそういうものなのかなあと思ったのでした。

今日見た映画
「小川の辺」にも

そういう「きょうだい」がいました。

海坂藩、戌井朔之助は、藩命によって

親友を討たなければならない。

親友の妻は、自分の妹、田鶴である。

負けん気が強く、自分と同じく直心流の使い手である田鶴は

夫が討たれるとなると刃向ってくるかもしれないとの

危惧を抱く朔之助。

脱藩した親友とその妻(妹)を追って

歩きづつける朔之助。

山に、河に…美しい風景につつまれて旅は続きます。

旅の途中でよみがえるきょうだいのふとした場面。

幼いころに遊んだ小川のほとりで起こった小さないさかいの思い出。

「討手」として朔之助がたどりついた場所は

小さいころに遊んだ場所によく似た「小川のほとり」でした。

苦悩の中、友を討ち果たした朔之助の前に立つ田鶴。

その手には剣が握られている。

小川のほとりでやむなく始まってしまう兄と妹の戦い。

(このときの菊池凜子さんの殺陣がまた…すごいんです。くの一かと思いました)

朔之助は

この戦いに決着をつけると同時に、幼いころのあのいさかいの結末もつけます。

(そう思いました)

あの日、小川のほとりで泣きじゃくる妹を前に

武士の子ゆえか?長兄ゆえか?

やりたかったのにできなかった慈しみの気持ちを

やっと形にすることができる。

とても不器用な表現でしたけれど。

小川のほとりを一人、あるいて国へ向かう朔之助の

その後ろ姿はなぜか、とてもすがすがしく、軽やかに感じられ―

ああ、朔之助の心の中にどこか、小さく残っていた「とげ」も

一緒にとれたのだなあ、と

そう思いました。

朔之助と田鶴。

武家のさだめやしがらみに翻弄された二人でしたが

いつかまた会いまみえ、ともになつかしく語り合える時が来ますよう祈りつつ。

「おしゃれなおりょうさん」

昨日見つけたんですけれど

鹿児島市の「いづろ通り」に立つ龍馬とおりょうさんの像。

おりょうさんが中村公子のコーチングna日々♪

こんなものを首にまいていました。

あれ?

確か、冬は

薄いベージュの地に黒と赤の細い線のチェック柄の

マフラーをまいてましたよね。

おりょうさん…。

夏の素材に衣替えですね。

なんともおしゃれなおりょうさんです。

「妙教寺の砲弾」

 

先日行った妙教寺の事を書きます。

 

妙教寺は1868年の鳥羽伏見の戦いの際

新政府軍と幕府軍の戦の中で「弾丸雨のごとくあつまる」中で

その姿を今に残しているお寺です。

 

当時の就職さんの手記や

お寺に飛び込んできた砲弾が壁をぶち抜き、まっすぐ柱をぶちぬいたその跡が

そのままに残っています。

 

中村公子のコーチングna日々♪

これは

そのときの砲弾。

レプリカではありません。本物です。

大砲は四斤山砲。

 

「仏式四斤山砲」

山岳地帯に適した大砲で

分解すれば馬2頭で運べるというところが

当時、山道が多く、道路事情があまりよくなかった日本に

適していたのだそう。

(と、「武器と防具・幕末編」に書いてありました)

 

「四斤山砲」って

名前はよく聞くけれど、本当に使っていたんだなあ…(感動)

ざらっとした鉄の感触。重いです。

(約4キロ)

当たり前ですけれど、前出の本に載っていた『四斤山砲の砲弾』

の図と全く同じです。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

これは

境内の梵鐘にあたった銃の弾。

 

きっと、カンカンといい音をたてたことでしょうね。

もっとも当時の住職さんは

「鍋を頭にかぶって」お寺を守るということになったらしいですが。

 

このとき、ご住職は三十三歳。

後世に語り継ごうと、このようなものをお作りになりました。

弾が打ち抜いた柱の補強材の裏に刻んだ「その時」の記録。

柱の傷が他者の目に触れるたび、必ずこの記録も共に目に触れるという工夫をなさったのです。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

「明治元年正月四日幕軍は官軍を小橋の畔に拒ぐ。

銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。

障壁什器一としてあたらざるなし。

犬猫驚き走り身のおく所なし。

中に巨砲ありて勢迅雷の如く、天地に響動す。

その丸は鐘の如し。

誤ってこの柱を洞ぬき、玄関の屋隅をおかしやぶって止む。

人来り伝え観るに驚き以って胆を破る。

その後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存ち

以って後世伝説の証とする。

嗚呼、危うかりし哉。    妙教寺日祥誌るす」

 

「嗚呼、危うかりし哉」

の一言に、ご住職のため息が聞こえてきそうな気がします。

そして、毎年お墓参りをするようにと言い残された。

 

このあたりには

道すがらに墓石というか、慰霊碑が点在しています。

それはそのまま、敗走する幕軍と追う新政府軍の戦いの道筋をあらわしています。

当時は、累々たる屍の列、だったのでしょう。

 

ちなみに以前、「首はどこへ行った」 で書いた

新選組の井上源三郎の甥、泰助くん十二歳が、おじの源三郎さんの首と刀を持って敗走したのも

このあたりになります。

新選組が陣を張ったと伝えられる千両松から「首を埋めた」とつたえられるうどんやさん

(当時は欣浄寺というお寺)まで確認してみると結構な距離です。

この距離を、走ったのか…首を抱えて。

さて

妙教寺のご住職さんは戦の時代から数えて四代目。

幼いころは、冬のさ中、点在する墓所を徒歩で墓参させられるのが嫌でたまらなかったそうです。

(鳥羽伏見の戦いは新暦でいうと2月のはじめくらいになります)

 

そうおっしゃるお声を聞きながらつい

 

「ありがとうございます」

 

と。

 

残してくれている人たち、語り継いでくれている人たちがいるから

こうして思いを馳せることができる。

手にとって、肌で感じることが出来る。

 

それらを通して

忘れないこと。

そこから知ること、学ぶこと。

精一杯生きて、それぞれ何かを残そうとしてくれた人たちに、その思いに感謝すること。

そしてそれを今に生かすこと。

それが、何より「彼ら」が喜ぶこと、報われることな気がしました。

 

歴代のご住職さん

そして、多くの、あちこちで「語り継ぎ、受け継いで」下さっている方々

本当にありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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