先日の「承認を学ぶセミナー」で、
「最近ちょっと頑張ったこと」
というのを語る時間がありました。
その「頑張り」に対してみんなで承認の言葉を伝える、
というワークだったんですが。
一人の女性が語ったのは
「セミナー会場までどうやってきたか」。
家から車で2時間。
3人の子どもたちを車に乗せ、
それぞれ違う時間帯に空腹を訴える子どもたちに、
「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」
食物を与え、
(という言い方はしませんでしたが、身振り手振りがまさにそんな感じで^^)
途中、実家に子どもたちを「投げ込み」、
ああ、やっと一人になれた…とおもったら、
渋滞に巻き込まれ「遅れてしまう…!」と。
「渋滞を乗り越え、やっとここにたどり着きました」
そうやって、
だいたい3分くらいの、彼女の「山あり谷ありの旅」の話は終わりました。
そのあと。
聞いていた男性陣から出た第一声で、一番私の印象に残ったのは、
承認の言葉でもなんでもなく、
「…反省します」
の一言。
「今まで、妻が家のことをするのは当たり前だと思っていました」。
と。
(わたしの内心→「へえぇ〜、今、そんなことが起こっていたんだ(びっくり)」)
ちなみに、絶対に「大変だろう」と思っていらしたと思うのです。
ご自身の奥さんのことを。
しかしそれは、あえて言えばもしかして「頭での理解」。
けれど今。
目の前で、語り手の表情を見、声を聞き、その言葉を聞き…
彼女と一緒に、2時間の旅をしっかりと「体験してしまった」。
そして、「わかって」しまった。
こうだろう、という頭での理解の枠から一歩出て、
彼女の世界を一緒に生きた3分間が、
男性陣の「立ち位置」を、いとも簡単に変えてしまった。
さて。
人がわかり合う。
相手の価値観を尊重する、共有する。
そのために有効な方法の一つは、
相手がそこに至るまでの「背景を知る」。
ということなんだろうなあと思います。
先日見た「未来のミライ」。
(テレビであったのを録画しておいたんです^^)
これも見方によってはまさに、そういう映画だった。
男の子に妹が生まれ、
お父さん、お母さんの注意がそちらに行ってしまう。
男の子は、お父さん、お母さんの愛情も失った氣がして
妹をどうも好きになれないし、かわいがることもできない。
そして、ますますわがままを言って(妹もちょっといじめたりして)
お父さん、お母さんを困らせてしまう。
そんなとき、
あれやこれやがあって、その男の子、
タイムスリップ、というか、時空間を超えてしまう。
で、自分のお母さんが小さかったときや、お父さんが小さかったとき、
そしてさらに先の「ひいじいちゃん」の若い頃に会うことになる。
そして、
「身体が弱くて小学生になっても自転車に乗れなくて、
泣きながら練習している子どもの頃のお父さん」や、
戦争中、戦艦から海に投げ出され、
怪我をしながらも諦めずに必死で泳いでいく「ひいじいちゃん」の姿を見たりする。
(この「青年ひいじいちゃん」がとてもかっこいい→声・福山雅治)
そして、男の子は少しだけ成長していく、というお話。
彼はまさに
「今、目の前にいる人」の背景を「一緒に生きた」。
さらには、いろんな人たちが「その時、その時代の精一杯」を生きて、
命を繋いでくれたから今の自分がいる、ということも何となくだけど察してしまう。
(設定4歳児なので、はっきりとは描かれないけど)
以上。
セミナーの受講者さんから「他者の価値観を認めるためには?」
という質問に対して書いたお便りを少し変えたものなんですが。
「思いを致せ」。
環境に。その人が生きた時間に。その時代に。
それは、その時、その人が生きた「精一杯」。
その中で、最善を選択し、目の前のその人は頑張って生きてきた。
それは「あなたの良し悪し」、
「今という時代の善悪」「良し悪し」だけで決して測れるものではない。
「思いを致せ」。
そこにこそ、他者である「あの人」の価値観を、「採用すること」はできなくても
(無理して採用する必要は決してない)
「認め」「受け止める」ための、
静かな、けれど少し心地よい
「風の吹くスキマ」が生まれる。
(カッコよすぎる「ひいじいちゃん」)