「すだれから日本人を思う」

ちょっと
京都っぽく使ってみたくなりまして。この言葉。

「建具替え」。

といっても
家じゅうのカーテンを全部とりはらって
「すだれ」
(というか、竹製のロールアップカーテン)
に替えてみただけなのです。
ベランダには「よしず」。


これが…
ほんとうに、具合がよいのですね。
家の西向きの部屋は、直射日光が入ってくるわけではないのですが
とにかくとても「まぶしい」部屋でした。
向かいにある建物の反射がまっすぐに差し込んでくる。


普通のカーテンですと、何とも光量の調節がしづらかったのです。
縦に窓を区切ることになるので
どう閉めても、不快な光がはいってくる。
かといって、全部閉じるとうっとおしい。

が、すだれだと横に窓を区切るので
「空の面積を調整できる」のですよね。
仕事机に座っていて
空を見たい分だけ、光を浴びたい分だけ1センチ刻みで「上げたり、下げたり」…。
(この微妙な要望に見事応える竹のすだれの威力が面白くて
5分ごとに席を立って巻いたり下げたりしています)

すべておろすと
部屋の中が心地よい薄闇に満たされます。
けれど
外界をすべて遮断してしまうのではなく、竹の隙間から
柔らかに入ってくる日の光と、そして、風。
これは…

小さいころ夏になると遊びに行ってた
ばあちゃんちのほの暗い「闇」に似ている、と気づきました。
田舎のばあちゃんの家の座敷。
吹き抜ける風が心地よい、それはとても落ち着く静かでさわやかな仄暗さ。

縁側があって、
農家の家らしく、軒が深く。
それらは、外界と家の中とを自然につなぐ場所でした。
家の中でもない、外でもない
あいまいな、乗り入れの空間。

そもそも、日本の住まいと言うのは
西洋の住まいのように
「内は内、外は外」
と「かっきり」と分けるのではなく
いつのまにか、家の中に入ってました、というような造り。

縁先で自然の風に吹かれる。
庭の虫の声と、人工物である風鈴の音を共に「美しき音色」として聞く。
明るいことのみを善しとする、というよりは
光と影を表裏一体、一つのものとしてとらえ、どう取り入れるか
どう遊ぶかを考えた室内のしつらえ。
そういうあいまいさ、混ざった感じ、渾然一体とした感じ。
そういうものが、日本人の培ってきた感覚なのだろうなと思います。

この感覚。
この「分けない」「決めつけない」「はっきりさせない」感覚。
「一緒」な感じ。
日本人のよろしくないところ、ともいわれていたこともあったように思いますが
(わたしも、かつてはそうだと思っていましたが)
でも今は、ここがいいのだ、と思っています。

ここにこそ
日本人らしい創造の源がある(のではないか?)
と思っています。

たいそう舌足らずな文章となりました。
とにもかくにも、夏を乗り切る先人の知恵はすごいぞ!快適だぞ!
と言うことを身をもって体感しました、ということだけは
胸を張って言えるのでした。

「私をお墓に連れてって♪」

 

春の研修、怒涛の波が終わり
ちょっと間が空いたので
旅に出てきました。
ま、旅といっても東京ですが。

もろもろの用を済ませ
会いたい人に会い、行きたいところに行き
最後の日。
ふと、鹿児島にいるときに、この人の終焉の地に行ってみたいなあ、と思っていたのを
思い出しました。

 

暗殺の舞台となった紀尾井坂。
それから、お墓はどこだっけ?
と調べてみると「青山霊園」。

「霊園のどこだろ…すぐ見つかるかな」

と思っていたんですが。
幸運にも、前日に知り合った「幕末・明治期偉人のお墓のエキスパート」
(とわたしが勝手に名づけました)
久保さんが、霊園を案内してくださることとなり
東京、最後の一日は、さんさんと降り注ぐ太陽の下
「霊園デート」としゃれ込むこととなったのでした。

結果、案内していただいてほんとによかった。
水先案内人がいなければ
多分一日、広大な霊園の中でわたしは路頭に迷っていたんではないでしょうか。
きっと飲み水も底をつき、疲れ果て
誰のものとも分からない巨大な墓石に寄りかかり
呆然と天を仰ぐことになっていたかもしれません。
と、
いうくらい青山霊園は広かった。

おかげで
約2時間という短時間で、効率よく、
それはたくさんのお墓にお参りすることができたのでした。

さあ
ここからは「THE お墓 TIMI」です。
延々と墓石の写真。単なる自己満足の画面が続きます。
(これでも、一部です)
何がすごいって、この石の下にみなさんいるんですよ。
ちゃんとこの下に眠ってらっしゃるんですよ。
すごくないですか!?

さて、はじまりはじまり。

有村次左衛門。
桜田門外の変、薩摩より唯一の参加にして
大老井伊直助の首を挙げた次左衛門。
鹿児島の護国神社に祀られている方、名簿の第一番目は確かこの方だったような。
うろ覚えですが。

川路良利。
先日、研修の際、鹿児島県警本部前の彼の像に大いに助けてもらったため、
恩義に感じてたところでした。

黒田清隆。
この人というと、いつも思い出すのは榎本武揚らの助命嘆願のために
なったという「丸坊主」の写真。

 

初代文部大臣、森有礼。
学生の頃、この人のレポートを書いて以来の対面です。
お懐かしい。

大河ドラマでも活躍中。
会津藩、秋月悌次郎。
明治になってからは、熊本の第五高等学校で先生をしていたことがあるのですよね。
親近感。
その時のエピソードなど…会津検定のときにたくさん本を読んだんですが
今や、うろ覚え。
やっぱり付け焼刃はダメですね。

 

長州藩。
周布政之助。
あまり詳しくないんですが、なんとなく好きな人。

旧幕臣、大鳥圭介。
戊辰戦争での
「また負けてしまったよ~(あっはっは)」
のイメージが真っ先に浮かんできます。
どこでこのイメージがついたんでしょう。

新選組隊士、
というより、御陵衛士と呼んだほうが
ご本人は本意なことでしょう。
篠原泰之進のお墓。
(相当感動。つい叫んでしまいました)
それにしても、薩摩、長州勢のお墓と比べて
なんとその小さいこと…。

佐賀藩
鍋島家11代当主、鍋島直大だったかな?のお墓。
土饅頭の形のお墓は始めて見ました。
(「右側の石碑ではなく、左側の土の山がお墓ですから!」と案内者、久保さんの念押し)
幕末の佐賀藩といえば「アームストロング砲」!しか思い出せない私です。
それにしても
お殿様たちのお墓だけあって、
隣の黒田家のお墓とともに、その面積の広いこと広いこと!
風格漂うお墓(というより小さな神社みたい)でした。

「フルベッキ写真」のフルベッキのお墓。
こんなところで出会えるとは…。

そしてこちらが

 

今回の目的
大久保利通のお墓です。
殿様である鍋島さまや黒田家の墓所ほどはありませんが
墓碑銘を刻んだ巨大な石を中心に
利通の墓石と、奥さんの満寿さんの墓石が向かい合って立つ
広大な敷地の墓所となっていました。
この墓石も、大きいのですよ。写真だとそう見えませんが。

左横には
暗殺時の御者だった若者の小さなお墓と、さらには馬車を曳いていた馬のお墓も。
鹿児島市の高見橋、生家跡地を向いて立つ
大久保の像。
風を受けてしっかと立つ大久保の姿をうつした
凛然とした像なんですが
その彼の足元にも、馬のレリーフが小さく刻んであります。
大久保、馬を大切にしていたんでしょうか。

わたしにとって
あまりにも身近で、小さいころから慣れ親しんできた
「偉人」大久保利通。
鹿児島では
子どものころから、西郷どんと共にあまりにも
うっとおしいくらい「プッシュ」されてきたその存在に
どうも客観的にその存在をはかることができないでいたのですが。

お墓に手を合わせ
墓標を見、そこにぐるりと刻まれた碑文に触れ
そしてあまりに立派な墓所の広さ、その大きさを肌で実感し。

幕府を倒して10年。
確かにそのとき、この国の頂点に立ち
すべてを背負って、走っていたのはこの人だったのだと
やっと実感したのでした。

「やっと10年」
まだまだこれからやらねばならぬことが山ほどある。
そんな中で命を落とすのは、どんなに無念だったことでしょう。

甲突川沿い。
彼の生家跡の大きな木々の下は、夏は涼しく、良い風が吹きます。
彼が生まれたときからそこにあったであろう
太い木々が今も木陰をつくって、ひととき、暑さを忘れます。
そこからはじまった彼の人生。
私の中で、やっとひと段落したような気分になりました。

おまけ。

東芝の創業者
「からくり儀右衛門」こと田中久重のお墓(これは墓石ではありません)
べっこう細工師の家に生まれながら
からくり人形から始まってからくり時計、無尽灯、万年時計、蒸気機関…
「東洋のエジソン」とも呼ばれたらしいです。
この方、「JIN」に出てきていましたよね。
仁先生が、未来から持ってきた豆電球を久重に渡す。
久重は「必ずこのような素晴らしいものを作って見せる」と誓う、
というような場面だったような。

激動の時代に
自分の本質(興味、関心)を存分に発揮し
「技術者魂」でもって世に貢献し、あらたしい道を切り開いていった田中さん。
侍だけでなく
こういう人も大好きです。

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