「繋がる」ことは強くなることー25回俳句甲子園最優秀句は「鬼の末裔」の句

 

 

 

 

 

先日の仙台育英の日本一に続いて、

「第25回俳句甲子園」の最優秀賞に、岩手の高校生の句が選ばれました。

(東北地方の生徒が一位になるのは、これまた「初」であるらしい)

1280句の頂点。

 

こちらが詳しい記事(岩手日日新聞)

 

 

その句がすごいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

『草いきれ吸って私は鬼の裔(すえ)』

 

 

 

 

 

 

 

 

裔(すえ)、というのは文字通り「末裔」ということですね。

 

前回の記事、仙台育英優勝の際は、幕末以降の東北の歴史について、

ちらっと引用させてもらいましたが、

 

 

「白河の関を越える」の意味

 

 

 

 

 

この句は、

東北の「蝦夷(えみし)」たちが、中央政府から「鬼」と呼ばれ、

戦い、最終的に討伐された、

はるか彼方の歴史に想いを馳せているわけです。

 

 

 

なんて、なんて力強い句なんだろう、と。

(聞いたとき、ちょっとゾクッとしたんでした)

 

 

 

 

 

 

「わたしは『鬼』の末裔」。

 

 

 

 

 

 

自分たちの「系譜」への誇り。

自分たちの歴史と文化への誇り。

自分たちの祖先がたどり、生き抜いてきた、

いわば「苦渋の歴史」への肯定と誇り。

悲しみと、強さ。

それを自分もしっかりと受け継いでいるのだ、という。

 

 

とにかく、すごい句だなあと。

 

 

 

 

 

 

 

岩手、俳句、そして「草」といえば、芭蕉の有名な句

「夏草やつはものどもが夢のあと」

が思い出されます。

 

 

 

 

 

茂る夏草の中に立って、

むせかえるような草いきれを浴びながら、

芭蕉は往時の兵(つはもの)たちの栄枯盛衰に想いを馳せ、嘆じたわけですが。

(芭蕉が思い浮かべたのは奥州藤原氏や義経のことだったかと)

 

 

 

 

 

この句からは、

かつての歴史に「想いを馳せる」だけではない、

両足をぐんと踏ん張って先祖からの土地にすっくと立って、

「草いきれ」からエネルギーをもらっているような。

力強さと背筋の伸びるような感覚を感じます。

 

 

誇り高い句。

そして思うのです。

繋がることは、強くなること、深くなること、大きくなること、豊かになること、なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

ということで、「白河の関の優勝旗越え」につづき、「奥州、来てます!」

のお話でした。

(興味があるのですよね。蝦夷とか、アテルイの話とか。

で、ちょっと盛り上がってしまいました)

 

 

 

 

 

 

「白河の関を越える」の意味

 

 

 

 

 

 

今日から連続2回、歴史話です。

 

 

 

 

先週の高校野球。決勝戦。

仙台育英と下関国際の試合が決まったとき、

 

「長州VS東北勢じゃん!」

 

と、下記マンガのように

(幕末好きの「幕女」の生態を描いた「萌えよ幕末女子!」より)

一人小さく盛り上がっていたんでした。

 

 

 

 

 

 

そして、それは参加している「幕末ファンサイト」

(というFacebookグループがあるんですが)

も同じで、みなさんが節度を持って静かに「盛り上がって」いました。

 

(何せ、150年かそこらのこと。

自分の高祖父、その前…と案外リアルに結びついているわけで)

 

 

 

 

 

 

そこに、東北方面の人たちが色々とアップしてくれていたので、

シェアしてみます。

 

 

 

*  *  *  *

 

 

「白河の関越え」が特別なのは、

 

●「白河以北一山百文(しらかわいほく ひとやまひゃくもん)」

という言葉があったから。

 

戊辰戦争以降、勝った西軍(新政府軍とも言う。薩長土肥ね)に、

「白河より北の地は、一山百文にしかならない価値のない土地ばかり」

と言われ、蔑まれていた。

(うん、これは知ってた)

 

 

 

●東北の新聞「河北新報」の名は、ここから来ている。

(すごいところから名前を持ってきたもんだ。反骨精神)

 

 

 

●東北初の宰相、原敬の号「一山」もここから来ている。

(号にすることで、この言葉に生涯反発心を示していたらしい)

 

 

 

 

そのほか、盛り上がっていたこと。

 

 

●仙台育英には、あの県からもこの県からも選手が来ているから、

これはまさに「奥羽越列藩同盟じゃないか!」と喜んでいる人が。

(さすが、現地の人は詳しい)

 

●仙台育英の創設者は、実は会津の人!会津若松出身の加藤利吉。

(ますます胸熱です✨)

 

●仙台育英の凱旋日が、「白虎隊の日」だったらしい。

(しみじみ感動している人が…)

 

●下関国際の投手「なかい君」が高杉晋作に似ている❗️

(そう言われれば…目元と顔の形、かな?)

 

 

 

*  *  *  *

 

 

 

わたし自身、幕末は特に好きなので、

百五十年前の戊辰戦争の東軍と西軍の戦いで、

東軍がどんな思いをしたか、「知っている」つもりだったんですが、

 

 

 

それでも、鹿児島生まれの鹿児島育ち。

「肌感覚」ではわかることのできない感情。

長いこと、さまざまな出来事があって、

その瞬間瞬間にさまざまな思いを味わい、

それの連続で今がある、東北の人たちの思いというものがあるということを、

知った今回でした。

 

 

やはり、そこでずっと生きていきた人たちの「生の声」というものを知る、聞くということは、大切ですね。

 

 

 

 

 

 

 

ということで。

 

 

仙台育英高校の皆さん、優勝本当におめでとうございます。

長い間の思い叶って白河の関を超えた優勝旗、

本当によかったです❗️

 

宮城の皆さん。

東北の皆さん、本当におめでとうございます。

 

 

 

下関国際高校の皆さん、準優勝おめでとうございます。

熱い試合を見せてくれて本当にありがとう。

あ~、

今年の甲子園は熱かったです。

 

 

 

 

「いい大人になりたい。姿を見せられる大人になりたい」

 

 

 

 

 

中学の時の家庭科の先生が、とても怖い先生だったのです。

 

 

提出課題はもちろんのこと、

時間、道具の扱い方、全てにおいて徹底しており、「手抜き」を許さない先生でした。

少しでも片付け方がまずいと、

班全員が放課後に呼び出され、

できるまで徹底的にやり直しをさせられるという。

 

 

その先生の思い出は「鉄なべの話」など、
他にもいろいろあるんですが、
(鉄なべの扱い方を徹底的に仕込まれた話)
今日話したいのは、そこではなく。

 

 

 

ある日突然、
先生が「数学の先生」に転向したこと、なのです。

 

 

密かに免許を取り、準備をしてらしたんでしょう。
春4月。
その先生は、受験学年であるわたしたち中3のクラスに
「数学の先生」として乗り込んできました。颯爽と。

(今でも、先生が教室に入ってきた瞬間の勢いを思い出します。
小柄な身体が前のめりで、教壇まであっという間にたどり着いた、その足取り)

 

 

 

 

 

 

ざわめく教室。
そして、授業は始まり…。

 

 

さて。
それは見たこともない授業でした。
それまで、どの数学の先生も…どの「数学のプロ」もあんな授業はしなかった。

 

 

 

先生は、お手製の「黒い箱」を持ってきていたのです。
30センチ✖️20センチくらいの、まさに「ブラックボックス」。

何の内容だったか、正確には思い出せないんですが、
そのブラックボックスに、

 

「ぽん!」

 

と数字だかのカードを入れると、横から全く別の数字?記号が「ぽん!」と出てくる。
「ボヨヨ〜ん」とバネのついた数字カードが飛び出てくるのです。
本当に。

 

その「ボヨヨ〜ん」の仕掛けと、先生の、カードを投入する瞬間の

「ぽん!」

というハリのある声、今でも鮮明に思い出します。

 

 

 

 

中3を相手に、マジックショーのような授業を始めた先生。
本当に驚いたんですが、けれど…

 

 

 

その時の、自分の表情が想像できるのです。
目を見開いて、瞬きもせずに先生の手元を見つめていたであろう、
中3の自分の表情が。

 

 

算数、そして数学の授業で、初めて感じた「楽しさ」。
目と心を奪われる、無垢な集中の感覚。

 

 

 

 

ああ、自分にも「わかる」かもしれない。
もしかしたら…もしかしたら。

 

 

 

 

あえて言葉にするとそんな感じでしょうか。
長い間かかって強固に固まった苦手意識と自己否定。

 

そんな子の心の中に、軽やかな風の吹く間を作るということが。
希望の灯を再びともすということが。

 

 

どれだけすごくて、
どれだけ「世界を救う」ものか、なので、わたしにはわかるのです。
(まあ、それくらい数学に関して長いこと心身ともに「フリーズしてた」ということでして)

 

 

 

 

さて。秋だったか。
外部業者が行うテストで、わたしははじめて数学で80点越えの点をとり。
(わたしにとってはとても大きなことでした)

 

そして、冬。
受験に向けて、問題を解くことを「楽しい」と感じている自分が、確かにいました。

 

 

 

 

 

 

「先生」のことに戻って。
先生がどうして家庭科の先生から数学の先生になったのか、理由はわからないんですが。

 

 

想像ですが、
「自分ならこうするのに」という思いが、
ずーっと先生の中にはあったんじゃないのかな、と思うのです。

 

ずっと「その道」をどっぷりと歩いてきた者ではないからこそ
見えるもの。持つことが出来る視点。

というものがあるものです。

 

 

 

 

先生は、それを試してみたかったんじゃないか。
自分の視点と感性を、思いっきり表現してみたかったんじゃないか。

「今、自分がこの子たちに関して見えていて、わかっている視点を使えば、必ずこの子たちの能力を開花させることができる」

 

という、確信があったんじゃないか、と。

 

 

 

 

 

そして、先生は挑戦した。

 

 

 

 

本当に、エネルギーに満ちた先生であったと思います。
そして、何よりやっぱり、怖い先生でした。

 

 

それは、
先生には「誤魔化しが効かない」ことが分かっていたから。
この人の前では、小さな嘘もまやかしも効かない。

 

 

いつも、「まっさらの自分」でぶつからないといけない。
自分でないことをやれば見透かされる。
小器用に適当にこなしても意味がない。
失敗しても「自分そのままで取り組んだ」ことをよしとする人だ、

と分かっていたから。

 

 

 

 

つまりそれは、先生自身が、何より自分自身に対して、
そのように生きていた人だった、ということなんだなあ、

と今になってみると思います。

 

 

こうして「その姿勢」を語りたくなる大人と出会えたことは、
幸せなことであった、と思います。
そして、それは、

 

 

「今の自分自身の生きる姿勢」

 

 

を。
自分自身が言葉の外で雄弁に発してしまっているであろう
メッセージを。
自分自身の姿を問い直すことに、いつもつながります。

 

(それをあえて言葉にすると、
タイトルの、「めっちゃ素直な」いい大人になりたい!の言葉に
なってしまうわけなのです)

 

 

 

 

 

※写真は京都市内の「旧明倫館小学校」。

今は「京都芸術センター」になっています。

この間行ってきたので、載せてみました。

(木造校舎独特の懐かしいにおい)

 

 

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