「初めに言葉ありき」ただしその言葉は「本当の言葉」であること。そうでないと世界は創造されない

 

 

 

 

好きなものを追究しまくった人といえば、
わたしの中ですぐに浮かぶのは、
歴史家の磯田道史さんとさなかクン。

 

 

磯田先生の、小学生の頃の趣味は「拓本作り」
だったという。
道々の石碑に墨汁を塗り、紙に碑文を映し出す。
たんぽを手に持って「ポンポンポン…」と。

 

家に古文書があるのを見つけ、

「これを読めるようになるまでは、学校の勉強はいいだろう」

 

と自分で決め、
古文書の本ばかり読んだという。

 

 

以前、磯田先生とさかなクンの対談を見たことがあるけれど、
細部では見事に話が噛み合わない、
けれど全体としてとても「噛み合った」対談だったように覚えている。

 

 

 
世に、
自分の中の「好き」を大切に、極めた人はたくさんいるけれど、
この二人に共通するのは、

「小さい頃は、もしかして、少し大変だったんではないですか?」

とつい、言いたくなること。
なぜなら…
つまり、例えば、サッカーやバスケじゃないから(笑)
(サッカーやバスケを否定しているわけではありません!
このニュアンスがわかってもらえるといいんですが)

 

 

さて、
どうしてこんなことを思い出したかというと、
スナックメーカーの「コイケヤ」の社長、佐藤さんの、
小学生へのガチな講義。

 

「ヒットするスナック菓子を開発する」

 

を見たからなのです。

 

売れるスナック菓子を作る。
プレゼンで選ばれたものは、本当に商品化される。

 

 

このとき、
佐藤さんが小学生たちに課した「ヒット作を生み出す」ためのテーマは一つ。

 
「自分に嘘をつかない」。

佐藤さんは、
50名の小学生たちのプレゼンを聞いて、
いわばその「言葉の空虚さ」に不安を抱くのです。

 

 

一見立派で、
小洒落ていて、
よく考えられた名案に聞こえるけれど。

どこかで拾ってきたような。
どこかで誰かが言っているような。
ネットにあふれているような。
アイデアであり、
視点であり、
言葉たち。

 

 

50名から選ばれた8名の子どもたちのなかには、
佐藤さんの出した「テーマ」に戸惑う子も。

「インスタ映えとか、女の人向き、ってことで考えたんだけど…」
「クラスにアンケートを取ったら、この味が一番好きって人が多かったから」

 
などなどの理由で企画を考えていた子たちに、
佐藤さんが問いかけ続けるのは次の一点。

 

「それ、君は本当に好きなの?」
「自分が心から(それが)好きじゃないと、伝わらないよ」
「熱量が大事なんだよ!」
「そんなに甘いもんじゃない」
「それ、白紙に戻そう」

 

 

長い時間をかけ、試作をし、試行錯誤してきた案に、
ダメ出しをする。
相手は小学生ですよ。
こ、怖い…(笑)

 

 

「アンケートで多かったから梅味ポテチ」の案を、
「白紙!」と告げられた一人の男の子。
佐藤さんからの、

 
「君が、本当にこれまで美味しい!と思ったものは何?」

 
の問いに、
「お母さんの作った味噌汁」

だとはたと思い至り、
考えて考えて考えて、涙まで流して…
ついに、プレゼン会場で、

 

「味噌汁ポテチ」

 
 
を。
居並ぶコイケヤの皆さんの心を揺り動かすプレゼンをするのです。
彼自身の体験と思いに必死でアクセスし、絞り出した、
「彼にとっての本当の言葉」で。

 

 

 

どんなに美しい言葉でも。
カッコいい言葉でも。
「それ」が数値によって裏付けられたものであっても。

 

そこに、
自分自身の「思い」がないと。
「熱量」がないと。
ほんとうがないと。

 

伝わらない。
人の心は動かない。

 

そして、それをすることは、結構怖いことなのです。
いくらでも逃げることはできる。
適当なところで済ませることができる。
けれど。

かたちあるものもないものも。
何を生み出す時であっても、
世の初めにあって、
ものごとを生み出す力を持つのは、

「本当の言葉」

 

で。
佐藤さんは、そこにこそ、きっと、子どもたちを向き合わせたかった。 

 

番組を見て、
自分にとっての
「真実の言葉」で語り続けることの責任を。
大人として心から感じたことでした。

そういう言葉で
この世界を溢れさせることこそ大人の役割。
創造を楽しむ姿を見せることこそ、大人の仕事なのです。

 
 

 

 

 

 

「きっとこれが真っ当なのだろう〜不登校の子どもたちのこと」

 

 

 

 

 

昨日、浮世絵を作る小6のことを
やっていました。

 

 

木版で、自分でガリガリと彫って、刷る。

繊細で細やか。北斎の富嶽三十六景などを
それは素晴らしく個性を入れて表現。

 

 

(これは本家)

 

 

 

小1から不登校。
学校で、皆と同じことを同じにする、ということと
「〜しなさい」
と命令されることに

 

 

 

「モヤモヤが大きくなって…」

 

 

 

 

と言っていた。

 

 

「北斎に魅了されて…」
と語るその口調は、静かで。

 

 

 

ああ、
この敏感すぎるアンテナ。
人の何倍も、世界に溢れる
音、色、場に満ちる感情…

細やかに捉えてしまう、
彼のアンテナには、

 

 

従来の学校という場の
粗い波長は耐えられなかったんだろうな、

 

 

 

と、つくづく思いました。
(今の学校の授業の方式はじめとした構造は、
明治初期に「富国強兵」
のために作られたもので、
基本そこから変わっていないので)

 

 

 

 

自分のことですが、
教員をやめる最後の半年くらい。

建物が四角い巨大なコンクリートなこと。
それから、
50分、10分とチャイムでぶつ切りに刻まれつづける
時間の過ぎかたが
もう、たまらなかったのを、
思い出し。

 

 

 

 

 

彼は今、
東大かどこかの

「異能者プロジェクト」
(だったか?天才的な子どもの自由な才能、個性を
伸ばすプロジェクト)

のメンバーにも選ばれている。

 

 

 

にも関わらず、
お母さんが

 

「この子を殺して
自分も死のうと思ったことがありました」

 

とおっしやったのにも驚いた!

 

 

 

 

人と同じであること。
「ちゃんと」
「人並みに」
出来ること、

 

に、
どれだけ世の親たちが、
脅迫観念を抱いているか、もわかり。

 

 

 

 

これから、
こんな子どもはますます増えてくる。
いや、
今この瞬間も、
たくさんの彼のような子が、

 

親と、
親の向こうにある

「世の中」

との軋轢の中で、
苦労している。

 

 

 

 

 

こういう子は、
親にとっても、
たくさんの「ギフト」を持って生まれてきているんだろうな、と思う。

 

そして、
これから、こういう子たちが未来を作っていく。

 

 

 

 

 

それはもともと「わたしたちのもの」でもあったのだ

 

 

 

 

 

わたしは「コーチ」という肩書きで仕事をしていますが、

コーチングを勉強し始めた頃。

 

 

当初は、アメリカの「コーチU」のテキストの直訳で、

明らかな文字の間違いに文法の間違い。

訳が「イミフ」なところなど…

 

 

 

 

今思えば、随分と荒削りなマニュアルでした。

けれど、とにかく面白くて、

その「不思議なテキスト」の入った箱を

それこそ宝物のように大切にしていたものでした。

 

 

 

その、わたしの手元に来た「宝物」。

 

 

 

それが実は、

禅をはじめとした東洋思想の影響も

色濃く受けていたものだった、ということを知ったのは

後のこと。

 

 

わたしは

「逆輸入」と言う形で、わたし達の先祖が作り上げ、

人の心に平安をもたらすために世界に広まって行った

珠玉のエッセンスたちと出会っていたわけです。

 

 

 

 

 

コーチングの基本理念は

「全ての答えは、自分の中にある」

と、

わたしの初代メンターコーチはしっかと名刺に書いていましたが、

 

 

 

 

他者とのコミュニケーションは

自分自身とのコミュニケーションの映し鏡。

 

その考え方でいうと、

「わたしたち」の中にも、答えはある。

「日本人であるわたしたち」の伝統文化。

 

 

 

 

 

以前、教えを請うた合氣道の先生が

こんなことをおっしゃっていました。

 

 

「かつて、戦争中に日本人が世界から恐れられたのは、

『肚に重心を持つ人(胆力の人)』だったからだ。

思考(損得)でも、感情に振り回されるでもない、

もっと深いところに根っこを持ち、そこからの『動機』で

動くのが日本人なのだ」

 

 

 

 

 

 

維新から150年。そして戦後73年。

あまりにも大きな生活スタイルの変化とともに、

 

日本人の「あり方」の根幹をなしていた

プレゼンスを形作っていた「身体の叡智(日本人の身体技能)」のいくつかは、

 

確かに、息も絶え絶えとなっているのが正直なところ。

 

 

 

 

あまりにも身近にあるため氣づかぬまま忘れかけている

「わたしたちの身体に刻まれた感覚」にこそ、

 

この激動の時代を生きる「プレゼンス(あり方)」の

種子があると感じています。

 

 

 

 

 

●12月セミナー●

「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。

身体の通りになるのだ

ー他者に影響を与えるニッポンのリーダーが知っておくべきコミュケーションのための身体と声の基礎知識ー

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本当にわかるとは「身体でわかる」ということ

 

 

 

 

 

 

その日、クライアントさんのお話を聞いていて、
そのお話を一言で言うと、

「旦那さんが、身体のきつさをわかってくれない」。

この方は今、
人生最大のクリエティブな仕事に向かおうとしていらっしゃるときで、
それは自身の身体を整えることと完全、ガチ、イコールになっている状況の方なのです。

で、ふと思い出したんですが。
少し前に、「認知症を体験できる」装置がある、ということを
テレビでやっていたのです。
アメリカでしたか。

 ●視界が極端に狭まったメガネ。
 ●よく聞こえない(もしくは幻聴が聞こえる)ヘッドセット
 ●手袋をして、普段よりずっと鈍くなった手先の感覚

(だったかな?ちょっとうろ覚えなんですが)
と言ったものを装着し、健康な成人男女が日常生活をする。

日常生活と言っても、ちょっとしたことです。
タンスから服を出す、とか。
で、被験者たちの様子がどうだったかというと。

イライラしたり、
タンスを引っ掻き回しながら、思うようにならない身体に
「なんなのよこれ!」と怒ったり、
中には、情緒不安定になって泣き出す人も。

それをみていて、思ったのです。
ああ、老いるとはこういうことなのだな、と。

昨日できていたことが今日はできなくなる。
意識と乖離して動かなくなっていく身体。
あちこちの痛さが日常になっていく。

それは、不便、と言うことを通り越して、
不安な瞬間も多いことでしょう。
心細くもなったりするでしょう。

お年寄りは身体がそこまで早く動かないから、
体力も筋力も落ちてくるから。

そんなことはわかっています。
みんな知っているわけですが。

 

 

歩調をあわせていくら歩いたとしても、

(あの時、この時を思い出しつつ)

本当にその状態はわかっていなかったのだなと。

 

 

 

 

本当にわかる、ということは、
自身の身体感覚で、肌感覚でわかる、ということなのだ、と

しみじみ思いました。

そして、
本当にわかる、と言うことが
「身体でわかる」
ということである以上、

わたしたちは、本当の意味で、

その人のことをわかることは出来ない。
本当には、相手のことを理解することは出来ない。

そのことを謙虚に知っておくことが大切です。

お年寄りや、妊婦さんと言った、身体のことだけでなく、
育った環境、地域の違い、文化や風習の違い…
すべてにおいて、
これは当てはまります。

そしてだからこそ、
わたしたちには「想像力」というものが備わっている。
そして、言葉というものが備わっている。

コミュニケーションと想像力。
その二つを駆使して、
埋まることのない溝を埋める努力をする。

埋まることは永遠にない、ということを
ちゃんとわかって。
その上で、努力する。

この、
「決して埋まらない、ということをわかって」
というところがキモだな、
と思うことです。

(ミスコミュニケーションの最大の原因の一つは
「相手も自分と同じように見て聞いて感じているだろう」
という無意識の思い込み&期待なのです)

*  *  *

日本人がジョブズの真似をして
「なんだか怪しいプレゼン」になる理由の一つは、
そもそも、欧米人と日本人の「身体」が違うから。

骨格も、身体に刻まれたリズムも、全部違う。
形だけを真似ても、本当に「猿真似」になってしまう。

外からのプレゼンスキルも大切にしつつ、
日本の伝統文化と日本人の身体性を軸に
「コミュニケーション力」ことに「プレゼン力」を磨くセミナーです。

日本人の身に沿った、あなたの身に沿った自然な「存在感(プレゼンス)」。
それは、もともとわたしたちの中にしっかり備わっています。

「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。身体の通りになるのだ
ー他者に影響を与えるニッポンのリーダーが知っておくべき
コミュニケーションのための身体と声の基礎知識ー

https://peraichi.com/landing_pages/view/nippon-jin

 

 

 

(先輩たちの美しい笑顔!)

 

 

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