「『芸』ってすごい」

昨日、ひょんなことから

津軽三味線の演奏を間近で聴く機会に恵まれました。

「日本酒を飲む会」なるものに行ったのですが

そこにたまたま他の団体さんの懇親会で演奏家さんがいらしていて

急きょ始まった「生ライブ」に

同席させていただけたという僥倖。

演奏家さんはまだお若い男性。

ケースから三味線をだし

音を合わせて、準備をなさる所から、ずっと間近で拝見していました。

胴と、音を調節する部分(天神、というらしいです)に

きらきら光る蒔絵が施されているその楽器は、宝石を見ているかのような美しさで

それだけでもう、とても特別な感じがします。

演奏は3曲。

まず「よされ節」

「余去る」~余は去るから、あとはゆっくり楽しめよ

という意味とも

「世去る」~暗い世、いやな世よ、去れ

とも、いろいろな説がある、と教えてくださいました。

それから

「津軽じょんがら節」

そして「津軽の『おはら節』」

(鹿児島だと、おはら節といえば「花は霧島♪」ですが、各地にあるものなんですね)

場所は「飲み屋さんの一隅」なので、(しかもドアの横)

遅れてきたメンバーが途中でドアを開けて入ってきたりと…まあ、そういう環境なのですが

空気が全くぶれない。

薄まらないというか、入ってきた冷気もまた瞬時にその場の熱に染まるのです。

演奏してらっしゃるご本人の周りには

まるで朱色の炎が揺らめき立っているような

そんな印象をうけました。

目を閉じた横顔に

数分で汗がうかび、つうっと流れていく、その集中の横顔を見ていて

「美しい」と思いました。

「演奏を聴いている」というよりは

この方の体の中心から溢れてくる何かを

三味線という楽器の音と、この楽器の持つ歴史や世界観を通して感じさせてもらっている

という感じ。

演奏後

手を見せていただきました。

左手の指の一本の爪の先に小さな溝。

そして、ほかの指先も、左はやはり少し硬く。

あとは、何の変りもない

いえ、どちらかというとやわらかくてふっくらと優しい手をお持ちでした。

この手からあの音が、あの世界が生まれていたんだなあと思うと

なんとも不思議で。

高速で弦の上を「きゅっ」と走る指。

呼応して激しく動く撥。

自らのうちに宿す火を、すべて音に託して

瞑目する不動明王のような先ほどの姿と

いま目の前でやわらかく笑っている若者の姿がどうも結びつかず

「芸とはすごいものだなあ」

(個人の技術プラス、それが受け継いできた伝統のすべてを含めて)

と思ったのでした。

昨夜の演奏家。石井秀岱(しゅうだい)さん。

http://www.shudai-tsugaru.net/index.html

「その先を見せる」

数学が苦手だと、なんとなく思っています。

「成功体験」がまったくないわけではないんですけれど。

確か中2の秋くらいまでちんぷんかんぷんだったんですが

さすがにこれではヤバい!と勉強し始め、やがて問題を解くのが面白くなって

テストの点数もぐんと上がって

「勉強が楽しいってこういうことか」と、初めて実感したのは

数学がきっかけだったと思います。

でも、今となってみればやはり苦手…。

なんというか、あまり縁のなかった教科、という感じがします。

あんなに面白くて、できていた時期もあったのに

数学との関係に関しては「残念だったな…」というところでしょうか。

さて

知人の先生。

この方、中高一貫校の先生で

ついこの3月まで、高校三年生の担任として受験の修羅場を戦い抜き

感動の卒業式を終えられ、ほんののしばしの「戦士の休息」を経て

今度は小学校からきたばかりの

「ひよこ」くんたちの担任として四月をお迎えになったところです。

「高校三年生と中学一年生、違うでしょう~」

とわたし。

「小さいです(笑)」

「ですよね~」

えっ、こんなことから説明しないといけないの?

という新鮮な発見の日々にいらっしゃるようです。

「言葉の使い方ひとつとっても、『これでいいのかな?』『これで伝わるのかな』と考えます。

歌のお兄さんになったつもりで接してますよ~」

こういう学校の先生方は、表現力に関しても更に磨かれる場面が多いのだなと

その幅広い対応力に敬意を表します。

さてそして

初めての授業の時間。

内容は「正負の数」。

(この方の専門は数学です)

「まずは、算数から数学に名前が変わったね~、というところから入ります」

どうしてだろう?どんなところが違うんだろう、という問いかけで、興味を掘り起こすところからはいるのですね。

そして、本編。

「小学校の時に、みなさん、いろんな数をならってきましたね。整数、分数、少数…」

はい、そうです。先生。

(完全にわたしも中一目線になっています)

「そして、今日から学ぶのは『正負の数』です」

黒板に、数字の線を描く。

「こんなの、みんな、どっかで見たこと、ない?」

「ありま~す。温度計です!」

(と、生徒さん、元気に答えたそう)

それからずっと、そういうお話が続きます。

ご本人曰はく「ここは数学的には本来あんまりひろげなくてもいいところなんですけれどね」。

海抜0を起点に山は高くそびえ、海溝は下へ降りている。

陸上競技の「追い風(+)」と「向かい風(-)」。

ゴルフ。

などなど…

これを

図や絵を使って、ひとつひとつ、子どもたちと丁寧に「イメージ」していく。

「プラスの風っていうことは、風はどちらから吹いているの?」

「こっち~!」(一斉に)

「そうだね~」

(走っている人の絵の後方に、雲がふうっと息を吹いている【北風と太陽の北風みたいな?】絵を貼る)

「マイナスの風ってことは?」

「逆です~」

「そうだね~」

(雲の絵【リバーシブル仕様】を走者の絵の前方に張り替える)

楽しい。

聞いているだけでも楽しい。

正と負の数の概念がとてもわかりやすいのもそうなんですが

何より、今自分の中に起きているこの熱い「モチベーションの高まり」は、そう。

「この先に、どんな世界が広がっているか?」

が一瞬見えた、そんな感じでしょうか。

正負の数からはじまるこの

「数学」の世界。

今から自分が学んでいく、この不思議な、難解な世界の向こうに

それがちゃんとちりばめられ、息づいている世界がある。

生活のあらゆる場面で息づいている。使われている。

自分が学ぶことは、ちゃんとこれから自分が生きていく大きな世界と「つながっている」。

う~ん、うまく言葉になりませんが。

「数学」に関して

純粋な興味と、「わたしもその世界を知りたい」「探究したい」というモチベーションを

初めて感じました。

中学の時に感じたあの昂揚感は

「受験に落ちる」という怖さと、後半は「問題を解く」ことへのゲーム的な楽しさでした。

あれはあれで楽しかったですが。

「先を見せるって…大事ですね」

とわたし。

自分に言い聞かせるような声だったと思います。多分。

それをすることの先に何があるのか?

何とつながっているのか?

それが見えているとき、人はずっと軽やかに、意欲的に、たくましく、そして何よりはやい速度で

目の前の目標をクリアできる。

「メタアウトカム」が見えていることは大事。

(アウトカム=手に入れたいもの  メタ=~を超えて)

わたしの仕事の世界ではしごく当たり前の概念ですが

こうやって授業のお話を聞きながら、あらためて

この丁寧な「最初の1時間」こそが

彼らの中にどんな根をおろし、どんな土台となって、彼らの学習のモチベーションを支えていくのか

とても楽しみになってきたのでした。

ある子にとっては、下手すると一生を左右するような時間になりえる。

どんなふうにそれと「出会わせて」あげるのか。

…先生とは、何とも責任重大な、そしてなんとも心躍るお仕事です。

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「お天道様が見ている」

一昨日

「美しく生きよう」と思った

と書きましたが

それ以来、いろいろな場面で自分に

中村公子のコーチングna日々♪

「それは美しい?」

と問いかけるようになりました。

すると…とても具合がよい。

「それは正しいの?」とか

「ちゃんとしたほうがいいんじゃないの?」

というセルフトークよりも

わたしにとってはずっと楽で、自然で無理がない気が

しています。

小さなことで

ああ、めんどうくさいなあ、と思う場面

いらっとする場面

(スーパーのお手洗いで、洗面台の水を拭くか?とか

置きっぱなしのジャケットをハンガーにかけといたほうがいいけど…とか

運転中に無理に割り込まれそうになったときですとか

そういうレベルのことです^^)

いつもならぞんざいに流してしまったり、態度に表してしまったりするそのときに

「それって、美しい?」

瞬間、すっと背筋がのびて(たとえではなく本当に、です)

「そのこと」に対して、最もいい自分、すてきな自分で対処できる気がします。

「それは美しいことか?」

(調和しているか?皆にとってOKか?筋が通っているか?)

ふと、これはわたしにとって「お天道様が見ている」という感覚に近い、と気づきました。

(ご先祖様が見ている、でも、なんでもよいのですけれど)

小さいころに、よく言われましたっけ。

ご飯粒をお茶碗に残すと

「目がつぶるっど~(つぶれるよ)」

「お天道様が見っちょっでな~(見ているからね)」

祖母、親戚のおばちゃん、近所のおばあちゃん…。

わたしたち子どもをとりまく日常の中で、普通にあったそのような言葉であり、態でした。

正座して

丁寧にお茶碗の底についたご飯粒をとり

小さな背中をまるめて手を合わせていた祖母の着物姿を思い出します。

目先の利益ではなく。

誰かが見ている、見ていないにかかわらず、何か大きなものに対して申し訳が立つか?

「大きなつながり」の中で、それは恥ずかしくない行為なのか?

自分の向こうにいる

家族、友達、地域…たくさんの人

それからこの自然、宇宙

さらに、時間を超えて、自分に脈々と命をつないでくれた人たち

この

「目に見えない大きなものとのつながりへ思いを馳せる気持ちこそが

最後に、どんなときでも私たちを「人」たらしめるもの

人として「まっとうに生きる」ことを助けてくれるものなのではないかと

そんなことをあらためて感じています。

ほおっていたジャケットを手にして

あたらめて意識して丁寧にたたもうとすると

自然と

「ごめんね。いつもありがとう」

という言葉が口をついて出てきます。

その服を作り、手元に届けてくれた誰かの存在を感じます。

車から降り立ち、ドアを閉める、その瞬間ですら、意識するとぞんざいに閉めることができなくなります。

いつもハードワークにつきあって走り回ってくれている「相棒」が

ほんとうにありがたく

ゆっくりと心を込めて閉めたくなります。

不思議です。

そして何より

今、あらためて自分自身をいとおしく感じています。

命がつながっている感、というのでしょうか。

大きな大きなつながりの中で生きている自分。たくさんの人や物から力をもらい

思いを受け継いで生きている自分。

身の回りの大切な物たちと同じく

とてもぞんざいには扱えない。

つながりの中で生まれた奇跡としてまた、自分もいるのだなあと、感謝しています。

「それは美しいか?」

昨日

カフェで斜め後ろに座っている7~8人の高校生を見ながら

ぼんやりと考えていました。

にぎやかですが、それほど声が大きいわけでもないし

どだばたと騒いでいるわけでもない。

「迷惑をかけられているか」と聞かれれば、否。

彼らの存在が気になって…というより

どうも不快で仕方がない。

それはなぜかというと

一言でいうと

「美しくない」から。

紺の制服のブレザーをすっきり着こなし、髪形も素敵に整えた「イケメンな」彼ら。

でも、その居住まい、たたずまい、立ち居振る舞いは、涙が出るほど「イケてない」。

美しくない。

「…こりゃあ、本当に早晩この国は滅ぶぞ」

とつい。

(大げさですね)

わたしが感じた彼らへの不快感は

「自分と仲間」しかいないあり方。

自分を中心に半径1メートルの世界ですべてがすんでいるあり方。

からきているものなのかな、と思います。

配る意識の矢印が自分の周囲50センチで止まっているあの感じ。

まったく訓練されていない「体」。

他者がいる公の空間ではどう体を動かせばいいのか?

体に何も入っていない。

家のソファにいると、たぶん全く同じ様子で座り、しゃべり、テーブルを使う彼ら。

(というか、座ってないし。長くなってるし)

就職対策のセミナーで若い子たちにプレゼンをしてもらうときのことなどをふと思い出します。

フォーマルな場面での体の動きというものは

一朝一夕にできるものでない。

「その時になればちゃんとできます」というのはあり得ないのですよね。

こういう日常をなめてはいけない。

骨の髄までしみついたものが、結局は出るのだから。

…思いは千路に飛び乱れます。

さて。

「美しい」ということはとても大切なことだと感じます。

「美しさ」への教育というものも、もっとなされてもいいのではないかと感じます。

真の美しさとは

「そこにいる自分も他者もともに心地よい状態にするもの」だと思います。

というよりは、そういうものは、自然と美しいものとなる、ということでしょうか。

先日、日本橋の上にのしかかる高速道路という景観を

溜息の出る思いであらためて見上げてかえってきたのでしたが。

(「こんなこと、よくまあやったよね~」「とにかくもう、やるしかなかったんだろうね~」と知人と時代をしのびつつ)

空のカケラも見えない。

美しい橋の頭上を鉄の塊が覆い尽くす、見れば見るほど異様な光景。

「美しさ」を捨て

代わりにわたしたちが選んできたものの結果が、今、わたしたちの周りでさまざまに噴出している気がします。

日本人は、そもそも美を尊び、生活の中の大切な判断基準として

それは美しいか?を置いてきた民族であったのではないでしょうか。

立ち居振る舞い、物のあり方、心の在り方、生き方…すべてにおいて

「それは美しいか?」

(調和しているか?みなにとってOKか?筋が通っているか?)

「美しく」生きたい、と思いました。

何より

ぶれない大人のその背中を子どもたちに見せ続けることが

今大切なのだろうと思います。

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「それを通して何を見せるのか?」

「『NASAより宇宙に近い町工場 』っていう本を読んでいるんですけれど」

とお話が始まりました。

北海道に、NASAから実験させてほしいと言ってくるほどの会社がある、と。

タイトルだけでもなんと魅力的なのでしょう。

がぜん聞き耳が立ってしまいます。

技術畑のお仕事をされているだけあって

その方面に疎いわたしにも、とてもわかりやすく

その北海道の「植松さん」という方のやってることをわかりやすく説明してくださいました。

クレーンの先にひっつける、大きな磁石みたいなのを作っている会社で

日本では、ほぼそこしか作っていないという会社であるということ。

本業をしっかりと成り立たせつつ

憧れであった「宇宙」に関わる何かをしたい、と

無重力状態を作れる施設を作り

安価で実験できることから、いまではNASAから実験させてほしいと

人が来るようになっていること。

そのことが

人とのあたらしいつながりや、会社の社員さんの意識の変化となって

利益以外のたくさんののよき影響を生んでいるということ。

「その方に会いに行ってみようかなと思うんです」

そうか~。

行かれるんですね…!

「植松さんは、親元から離れて暮らす子どもたちの施設に行ったんです。

子どもたちは虐待を受けていたりして心を閉ざしていて…

はじめは『近寄らないように』って言われるんですけれど

でも次第に子どもたちの方から寄ってきてくれるんです。

その時に、植松さんは『何かしたい!』と思うんです。

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ここで働こうか?

いや、それは違う。

では、子どもを引き取ろうか?

それも違う。

自分は、今やっていることを通してこの子たちに見せるのだ。

やればできる。不可能はない、ということを」

不覚にも、涙があふれてしまいました。

この方の声を通して

植松さんのものすごい「覚悟」の瞬間に立ち会った気がして。

逃げることは絶対にできない

自分に課したもっとも厳しい道。

目の前にいる子どもたち、その向こうにいる、何千何万の、たくさんの子どもたち

その子どもたちを取り巻いてきた今のこの世界

そのすべてに向かって「見せるのだ」と。

「植松さんに、会いに行ってこようと思うんです」

今、この方は「ピースの最後の一つ」を探していらっしゃいます。

ご自身が生きてこられたこれまでの時間をすべて昇華させ

そこに伝えてみたいと生まれた自らの「思い」。

それを表現するための具体的な方法の「ピースの最後の一つ」。

きっとそれは

ちゃんと、最高のタイミングでこの方にもたらされるのだろうなあと思います。

いつも、静かな声の向こうにしんしんと、穏やかに光り輝く

この方の北極星を感じてきましたから。

静かに、穏やかに、「決意」を固めて行かれるその過程を

ずっと見てきましたから。

「行ってらっしゃい!

自由に風のように、好きなところへ、導かれるままに行ってらしてください。

いつもここで待っていますから!」

と、お伝えはしていないのですが

心から声を大にしてそれを言いたい気持ちで

今、こうして文字にしています。

願わくば

わたしの周りにいる

たくさんの「そう生きることを決めつつある」方々へのエールともなるといいと思いつつ。

「耳で味わう」

和菓子屋さんの前を通っていて
つい
ふらりと入ってしまいました。
ここの「朝詰み大福」が食べたくなったのです。

ラスト2個を購入して
嬉しい気持ちで店を出ようとしたのですが

ケースの上のこれに
目がひきよせられてしまい。

淡いピンク色といい
小ぶりな丸みといい…
かわいらしくてかわいらしくてたまらない

結局
これも買って帰ることとなりました。
(いつ、誰が食べるというのか?あきらかに「食べ過ぎ」です)

うちに帰り
その姿をまじまじと愛で
桜の葉の独特の香りをかいでいるうちに
先日吉田さんの言っていた言葉を
思い出しました。
「よりよきコミュニケーションのために五感をいかに磨くか?」
という話の延長でしたっけ。

和菓子は、3つの感覚をフルに生かして味わう文化。

「視覚」
自然をモチーフにした優美なデザイン。

そして当然のごとく
「体感覚」
匂い。味わい。

そして
「聴覚」
目で見ると同時に、日本人は耳でも味わい
イメージする。

「春霞(はるがすみ)」
「朧月夜(おぼろづきよ)」…

その菓子につけられた名前の
音そのものの持つ響き
さらには言葉から喚起される
イメージによって
姿や味に何倍もの奥行きがでる。

と。

ずーっと同じ感覚を
共有してきた人が多い民族だからこその
「遊び」
なのだなあとつくづく思います。

さて
そんな話を思い出しながら
食べたこのお菓子。
上品なこし餡と桜の香りが本当に美味しかったです。
ただ…
惜しむらくは、もう少し名前、ひねってくれてもよかったかな。
せっかく期間限定、今だけのものなのに。

その名もズバリ
「桜饅頭」

という名前でした。

 

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「衣擦れの音」

一昨日の
隅田川水上バス~浜離宮~鯛めしという
「江戸~東京、五感を満たす春の旅」
をご一緒したのは吉田朱音さん。

吉田さんはNLPトレーナーでいらっしゃます。
そして
お茶をたしなみ、日本文化に造詣深く…ま、一言でいうと

「日本大好き」

な方。

 

吉田さんと「日本文化」をネタによもやま話をしながらの旅だったのですが

その中でのこんなお話がとても印象に残っています。

 

「お茶は『気配を察する』世界」

 

もてなす側は、お客様の「気配」を察して、もてなしのタイミングを知る。

お客様の最後の一人が茶室へ入り「パタン」と戸を閉める音。

お茶を「ずっ」と最後の一口まで飲み干す音。

お客様の衣擦れの音。

 

「『音』が、合図となっていることがとても多いんです」

 

手を叩くとか、ベルが鳴るとか、ましてや言葉で…何かお客様から「合図」があるわけではない。

目を開き、耳をそばだて、まさに空気を察することで

お客様にとって絶妙なタイミングをはかる。

 

なんと高度な「もてなし」だろう、と思いました。

 

「お茶室にはいると、本当に『音』に集中します。その瞬間に集中します」

 

「コミュニケーション」を通して

自分自身や世界とのかかわりを、

その可能性をひらく仕事をしている者として

「細やかな差異に気づく」感覚をいかに磨いてゆくのか、その重要性については

お互い語りつくせないくらいの思いを持っているのですが

 

「本来私たちが持っている文化」の中に

それを磨くカギがもともとある。

見つけ直し、思い出すべきものは最も身近なものの中にある

 

ということを二人で再確認することのできた、たいそう貴重な時間となりました。

 

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「江戸東京~五感の旅」

昨日も
一昨日に引き続き美しい春と出会い。

もったいないので
そのことを描きます。

題して「江戸東京~五感の旅」。

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隅田川。水上バスより。
50分かかってゆっくりと川を下りながら
浜離宮まで行きます。

途中の観光案内を聞きながら
東京にはつくづく
たくさん江戸が息づいてるなあと嘆息。

河岸から
松尾芭蕉が満開の桜を背に
船に満載になって
年に一度、陽気にはしゃぐ日本人を
眺めていましたっけ。
(正確には芭蕉の像ですけれど)

水上バスの展望デッキから体中で浴びる日差しと風。

目を開けていられないくらいキラキラしていました。

岸辺のピンクが目にやさしい。
あと…蛇足ですが

水上バスのエンジンの音と、燃料の?油のにおい。

あれは独特ですね。

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浜離宮。
なんとも不思議な光景でした。

鳥の声を聴きながら

鼻孔いっぱいに青臭い菜の花のむせかえるような香りをかいで

「なつかしいですね」

などと言っているのに

その向こうに青空をバックにそびえたつビル。

根元から地を這い、ヤマタノオロチのようにダイナミックに枝を伸ばす「300年の松」

の向こうにやっぱりみえるのは

ビル。

まるでなにか、違う惑星に降り立ったような感覚を感じました。

門をくぐり

浜離宮の広大な敷地を一歩出た瞬間に

道一つを隔てて、高速道路のおびただしい車の音の洗礼が。

あっという間に「プツン」と

「江戸」が断ち切れてしまう、その感覚は

田舎では味わいようのない不思議なものでした。

え~。

「五感の旅」最後は味覚ということで…。

鯛めしです。

汐留の、美味しいと評判の鯛めし屋さん。

春の味覚を存分に満喫させていただきました。

旅先では

いつもよりずっと「今、ここ」のみにいて

その瞬間の感覚「のみ」をしっかりと味わっている気がします。

日常と切り離されているわけですから

当たり前と言えば当たり前なんですけれど。

駅の前のカフェでラテを飲みながら

街ゆく人を眺めていましたが

携帯を覗き込みながら足早にあるいていく人たちに

「みな、ここにいるけれど、ここにはいないんだな。(心はどこか、過去か未来か)」

としみじみと感じたことでした。

わたしも、帰るとおんなじ顔をして足早に歩いているんでしょうね。

「『ジョン万』前!」

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昨日から東京にいます。
わたしの「桜」のリクエストに
人でごったがえす上野を横目に見ながら
知人が連れていってくれたのは
神田川。

両側から川になだれ込むように咲く
花の並木が
何キロでしょう…
1~2キロは続いています。

一本の桜がとても太い。
花なんですが

「たわわ」

という言葉がぴったりです。

知人はこの神田川のすぐ近くの
生まれ育ちで
自分のホームタウンに
連れてきてくれたわけです。

おかげで
一人で観光名所を回るのでは見ることが
できないものをたくさん見て、感じて
体験することができました。

何より
わたしが頭だけで知っている知識、情報に
リアルで生活している人の思い出や体験が
かぶさってくるので
なんとも面白い。

人が集まる桜並木や庭園、そして
それらをつなぐ路地や小道も
がぜんいろいろな(生き生きとした)表情を帯びてきます。

「おじいちゃんの行きつけの蕎麦屋」

「ここ、昔よく自転車でダッシュしてた」

二次元の情報が三次元になって
いっきに生彩を帯びるというか。
どんな歴史も今に繋がっているんだと
実感する瞬間。

「ここで子どもの頃
よく肝試ししてたんですよね~。
すごく怖かった!」

神田川からむちゃくちゃ急な坂を上って少しいった
ところにある
それはそれは広大な墓地。
雑司が谷霊園だそう。

「あ、みます?あるんですよ。えーと…
夏目漱石」

見ます見ます。
ぜひとも、ということでお墓参り。

こんなに広くて風情のあるお墓なんだからとちょこっと携帯で調べてみると
いるわいるわ…。
ジョン万次郎に小栗忠順
小泉八雲、他にももろもろ…
書ききれないくらい!

「あなた、こんなところで肝試ししてたんですか!?(なんてうらやましい)」

つい、声が大きく。

そのまま
お墓探しに没頭しそうな心地になりますが
ここはこらえて…
(だれか、雑司が谷霊園マップを作ってくれ!と願いつつ)

この方のお墓に
幸運にも巡り会うことができました。

「ジョン万次郎の墓があるって
分かってたら
ぜ~ったい、肝試しの集合場所
『ジョン万前』にしてたのになあ…
残念」

無邪気な知人の声を聞きながら
またまた歴史と今ががっつり交錯する瞬間に
立ち会った気がしたことでした。
こういう瞬間かこたえられません。

生きた「旅」をわたしに体験させてくれた知人に心から感謝しています。

桜が最高に美しかったという話に
なる予定だったんですが。
霊園の話になってしまいました。

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「輝く俳優になりなさい」

「魂の演技レッスン22

輝く俳優になりなさい!」

ステラ・アドラー フィルムアート社中村公子のコーチングna日々♪

演技をする人のための本なのですが

俳優に限らず

自分の体、声を使って

自分の存在そのもので「何かを伝える」ことを

仕事としている人みなに共通することが

書いてあるように思えます。

が、そんなことをさっぴいても面白くて

まるで

自分自身に語りかけられているかのように

宝物を探す旅人のように

一ページ一ページをドキドキしながら

めくっているところです。

(人は皆生きていること、日々の選択自体が「自らの表現」ともいえるので、万人に通じる本、と言ってもよいかもしれませんね)

「あなた方が学ぶのは、二千年の歴史を持つ演技の伝統です。

これらすべてを受け継ぐの。演劇を学ぶあなた方、俳優が」

からはじまる22のクラス。

たくさんの感動の場所があるのですが、今日はこのくだりを。

「今、人物のレベルに合わせた演技ができる俳優は多くない。

反対に偉大な人物を、自分のレベルに合わせて縮小してる。

今、私たちは「ちっちゃく、さりげないのが素晴らしい」って世界に生きてない?

(略)

オイディプス王を演じるためには偉大な俳優でなくてはならない。そう要求された時代がありました。

…役の世界に見合う力量、度量、世界観

―今後それらを総称して「サイズ(size)と呼びます―

が必要とされました。

サイズが足りない俳優はダメなの。

…偉大な作品に取り組むときは、その作家の偉大さに見合うことをすべきです。

その作家のサイズを知り、その幅と大きさを自分の中に作らなくてはならない」

「もしあなたが自分の世代に共通な物事だけにこだわっていたら?

あなたが生まれる前の世代のもの、あなたが知らないことを学んだり、見ようとしてこなかったら?

それは世界全体を無視することになってしまう。すべてが他人事みたいになってしまう。

アメリカの俳優は人や国家の豊かさを過小評価しすぎ。

正反対なのはイギリスの俳優です。「イギリスを表現するのは俳優である自分たちだ」と彼らは感じている。

シェイクスピア劇で王を演じる俳優は、自分の近い親戚を演じるような気持ちで演じます。

アメリカの俳優は、彼らのような環境に恵まれていない。

伝統や歴史への意識を捨ててしまった。俳優として、それは害なんです」

常日頃、感じていたことでした。

自分のすべて

背景、日常の意識の大きさ

そういった全人的なものがすべて、「表現のこの一瞬」に立ち現われてしまう。

だからこそ

万人が伝えることの可能な一つのスキル

それが例えば「初歩の」と称されるものであったとしても

より深く

より大きく(難しく、ということとは違います)

どこを目的とし、どこを見据えて

どんな思いを受け継いで

どことつながって自分がそれを発信するのか

表現するのか

それを思っていました。

仕事に限らず、毎日の生活から、そういう意識をもって生きられたらいいなと。

「生きること」。

日々の生活すべてが「俳優の仕事」。

それを熱く、軽妙に語るアドラーの22のレッスン。

興味ある方は読んでみてくださいね。

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