昨日、ひょんなことから
津軽三味線の演奏を間近で聴く機会に恵まれました。
「日本酒を飲む会」なるものに行ったのですが
そこにたまたま他の団体さんの懇親会で演奏家さんがいらしていて
急きょ始まった「生ライブ」に
同席させていただけたという僥倖。
演奏家さんはまだお若い男性。
ケースから三味線をだし
音を合わせて、準備をなさる所から、ずっと間近で拝見していました。
胴と、音を調節する部分(天神、というらしいです)に
きらきら光る蒔絵が施されているその楽器は、宝石を見ているかのような美しさで
それだけでもう、とても特別な感じがします。
演奏は3曲。
まず「よされ節」
「余去る」~余は去るから、あとはゆっくり楽しめよ
という意味とも
「世去る」~暗い世、いやな世よ、去れ
とも、いろいろな説がある、と教えてくださいました。
それから
「津軽じょんがら節」
そして「津軽の『おはら節』」
(鹿児島だと、おはら節といえば「花は霧島♪」ですが、各地にあるものなんですね)
場所は「飲み屋さんの一隅」なので、(しかもドアの横)
遅れてきたメンバーが途中でドアを開けて入ってきたりと…まあ、そういう環境なのですが
空気が全くぶれない。
薄まらないというか、入ってきた冷気もまた瞬時にその場の熱に染まるのです。
演奏してらっしゃるご本人の周りには
まるで朱色の炎が揺らめき立っているような
そんな印象をうけました。
目を閉じた横顔に
数分で汗がうかび、つうっと流れていく、その集中の横顔を見ていて
「美しい」と思いました。
「演奏を聴いている」というよりは
この方の体の中心から溢れてくる何かを
三味線という楽器の音と、この楽器の持つ歴史や世界観を通して感じさせてもらっている
という感じ。
演奏後
手を見せていただきました。
左手の指の一本の爪の先に小さな溝。
そして、ほかの指先も、左はやはり少し硬く。
あとは、何の変りもない
いえ、どちらかというとやわらかくてふっくらと優しい手をお持ちでした。
この手からあの音が、あの世界が生まれていたんだなあと思うと
なんとも不思議で。
高速で弦の上を「きゅっ」と走る指。
呼応して激しく動く撥。
自らのうちに宿す火を、すべて音に託して
瞑目する不動明王のような先ほどの姿と
いま目の前でやわらかく笑っている若者の姿がどうも結びつかず
「芸とはすごいものだなあ」
(個人の技術プラス、それが受け継いできた伝統のすべてを含めて)
と思ったのでした。
昨夜の演奏家。石井秀岱(しゅうだい)さん。