「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「お天道様が見ている」

一昨日

「美しく生きよう」と思った

と書きましたが

それ以来、いろいろな場面で自分に

中村公子のコーチングna日々♪

「それは美しい?」

と問いかけるようになりました。

すると…とても具合がよい。

「それは正しいの?」とか

「ちゃんとしたほうがいいんじゃないの?」

というセルフトークよりも

わたしにとってはずっと楽で、自然で無理がない気が

しています。

小さなことで

ああ、めんどうくさいなあ、と思う場面

いらっとする場面

(スーパーのお手洗いで、洗面台の水を拭くか?とか

置きっぱなしのジャケットをハンガーにかけといたほうがいいけど…とか

運転中に無理に割り込まれそうになったときですとか

そういうレベルのことです^^)

いつもならぞんざいに流してしまったり、態度に表してしまったりするそのときに

「それって、美しい?」

瞬間、すっと背筋がのびて(たとえではなく本当に、です)

「そのこと」に対して、最もいい自分、すてきな自分で対処できる気がします。

「それは美しいことか?」

(調和しているか?皆にとってOKか?筋が通っているか?)

ふと、これはわたしにとって「お天道様が見ている」という感覚に近い、と気づきました。

(ご先祖様が見ている、でも、なんでもよいのですけれど)

小さいころに、よく言われましたっけ。

ご飯粒をお茶碗に残すと

「目がつぶるっど~(つぶれるよ)」

「お天道様が見っちょっでな~(見ているからね)」

祖母、親戚のおばちゃん、近所のおばあちゃん…。

わたしたち子どもをとりまく日常の中で、普通にあったそのような言葉であり、態でした。

正座して

丁寧にお茶碗の底についたご飯粒をとり

小さな背中をまるめて手を合わせていた祖母の着物姿を思い出します。

目先の利益ではなく。

誰かが見ている、見ていないにかかわらず、何か大きなものに対して申し訳が立つか?

「大きなつながり」の中で、それは恥ずかしくない行為なのか?

自分の向こうにいる

家族、友達、地域…たくさんの人

それからこの自然、宇宙

さらに、時間を超えて、自分に脈々と命をつないでくれた人たち

この

「目に見えない大きなものとのつながりへ思いを馳せる気持ちこそが

最後に、どんなときでも私たちを「人」たらしめるもの

人として「まっとうに生きる」ことを助けてくれるものなのではないかと

そんなことをあらためて感じています。

ほおっていたジャケットを手にして

あたらめて意識して丁寧にたたもうとすると

自然と

「ごめんね。いつもありがとう」

という言葉が口をついて出てきます。

その服を作り、手元に届けてくれた誰かの存在を感じます。

車から降り立ち、ドアを閉める、その瞬間ですら、意識するとぞんざいに閉めることができなくなります。

いつもハードワークにつきあって走り回ってくれている「相棒」が

ほんとうにありがたく

ゆっくりと心を込めて閉めたくなります。

不思議です。

そして何より

今、あらためて自分自身をいとおしく感じています。

命がつながっている感、というのでしょうか。

大きな大きなつながりの中で生きている自分。たくさんの人や物から力をもらい

思いを受け継いで生きている自分。

身の回りの大切な物たちと同じく

とてもぞんざいには扱えない。

つながりの中で生まれた奇跡としてまた、自分もいるのだなあと、感謝しています。

アーカイブ
Copyright © Communication Works All Rights Reserved.