ここらで「人の話を聞く」という「超基本」について振り返っておこうじゃないかー私たちは本当に「聞いて」いるか?聞けているか?

 

 

 

数日前、会話をしていて「聞かれてないなあ」とモヤモヤすることがあり、

すっかり元気がなくなってしまったので、

(わかりきっていることですが「聞かれてない」「受け取ってもらってない」

という感覚は結構「来ますよね」心に)

 

 

 

みんなで再確認しましょう‼️

 

 

 

まず、前提として、
「コミュニケーションはキャッチボール」。

 

よく聞きます、知ってます、と思ったあなた。
この「キャッチボール」が本当には「出来ていない」こと、結構多いのです。

 

以下、
わたしが研修で実際にボールを使ってやる
「コミュニケーションはキャッチボール」のエクササイズを、言葉で書いてみます。

 

 

 

 

さて、「心地よいキャッチボール」のルールとは。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる

 

 

当たり前ですね。
当たり前なんですが、ボールを「言葉」に置き換えると。

 

「ものすごい速さのボールが」
「一度に2〜3個飛んでくる」

 

ようなキャッチボールを平気でやっている人がいたりします。
(ボールだと、そんなことしたら「何かの特訓か??」ですけど、
「言葉」だと平気でやってしまったりする)

 

 

 

 

さらに。
心地よいキャッチボールのルールは続く。

 

 

❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる

 

 

これも当たり前ですね。けれど、これを言葉に置き換えると、

「反応がない
(うなづきがない、相槌がない、目が合わない、受け取ったよというメールがない…)」

とても「不安になる」やり取り、溢れているんじゃないでしょうか。
さらに。

 

 

❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

この❹までを完了して、初めて「コミュニケーションが完了した」
ということになります。
ここまでをやって、一つのコミュニケーションが終わる。

 

 

「相手にボールを返さない」
「もらったボールを一人持ちし続ける」

 

 

そんなキャッチボールは「ありえない」わけですが、
これが言葉だと、ある。とてもある。ものすごくある。

 

 

「返事が返ってこない」

 

 

というわかりやすいものから、
あなたが一生懸命話した内容に対して、

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

 

 

の一言で、

 

 

⚫︎「ところでさあ」とあとは自分の話に持ってかれる…
⚫︎「それってこうなんじゃないの」
と断定される、判断される、ジャッジされる、
欲してもいない(合ってもいない)「答え」を返される、などなど。
(ああ、なんて悲しい)

 

 

 

 

 

 

さて。
心地よいキャッチボールのルール。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる
❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる
❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

 

 

ボールを「言葉」に置き換えて、
自分が毎日、どんなふうに、どんな速度で、どんな投げ方で
「言葉というボールを」相手に向かって発しているか、
そして、どんなふうに受け取り、相手に返しているか。
双方にとっての快適な「リズム」はあるか?

 

 

改めて、「イメージして」みてください。

 

 

あなたと大切な人との対話において、
きっと、大いに発見するところがあるのではと思います。

 

「コミュニケーションはキャッチボール」

 

 

このことが、しっかりと「身体で」実感出来ていると、
コミュニケーションというものが、
「なんて言えば…」
とか、
「どんな言葉を使えば…」

 

以前のものであって、
表面的なハウツーのみでは成り立たないものだということが、
よくわかるのではないかと思います。

 

 

 

才能とは何か?ー今年もみんなが自分の才能全開で生きる1年となりますように

 

 

 

 

「わたしの才能は…」なんていう言い方は、
少々(だいぶ)抵抗のある人もいるのではないだろうか。
いや、むしろ言えない、という人もいるのではないだろうか。

 

才能・強み。

 

わたしの専門分野ではそれを、

「放っておいてもついつい勝手にやってしまう、思考パターンや行動」

と定義しているけれど、
最近、いろいろな人の話を聞いていて、

「人には見えていないものが見える(わかる)分野」

という言い方も(わたしにとって)ピッタリくる、
いい表現が見つかったなー、という気がしている。

 

 

ある人と、布の話をしていたのだけど、
話を聞いているうちに、
自分がミクロサイズになって、
布の繊維一本一本が交錯している巨大な織りの空間に
ふわんと浮かんでいるかのような感覚を覚えた瞬間があった。
(大昔、こういうSFドラマがあったぞと思いつつ⇨小さくなって人体に入るやつ)

わたしには想像もつかない視点。
見ているところ、見えているところ。
それは多分、その人にとっては「ものすごく当たり前」で、
わたしにとっては新鮮で驚きだらけのものだった。

 

 

で、
「才能」に関して、小さい頃伝記で読んだ
「シュバイツアー博士」の話を思い出したんでした。

 

シュバイツアーは小さい頃から、
オルガンがうまかった。
メロディに美しい和音をのせて弾く。

 

で、ある日、担任の先生に、
「先生はこうすると綺麗な演奏になることを知らないんだ」
と思い、アドバイスした。

 

翌日、先生が相変わらず、
片手で(一本指で?)オルガンを弾いているのを見て、
「みんなができるわけではないんだ。
これが普通だと思っていたけれどそうではないのだ」

ということを初めて知る、と。
そんな内容だったかと。

 

 

 

そのことが苦ではなく、ずっとできる。
そして、自分にとって、まるで
「そこに空氣があるように」
「ご飯を食べるように」

自然で当たり前のこと、感じ方、見え方、動き方。
それを「才能」と呼ぶ。

 

そしてそれは、もちろんあなたの中にも。
あなたの身近な人の中にも。
皆に備わっているもの。

 

 

それをお互いに交換しあい、
披歴しあい提供しあってつながっていく。
まるでパズルのかけらのように補い合って丸い豊かな世の中になる。

 

そんな世の中、
最高じゃないか!と今年、今この瞬間も、ものすごく思っている。

 

さて。
人はそれに「まみれて」いる時が一番幸せ。

 

今年、あなたはどれくらいの時間、それに「まみれて」生きるだろう?
あなたの大切な人の「それ」を発見し、
彼が、彼女がそれに「まみれる」ことをどれくらい
サポートするだろう?

 

どうぞ、今年も存分にやっちゃってください。

 

「効率」と対極にある「存在するだけでいい」

 

 

 

 

高齢の方がよく口にする言葉に、

 

 

「子どもに(周りに)迷惑をかけたくない」

 

 

 

というものがあるように思うけれど(そして、わたし自身もどこかでそう思っている自分を発見するけれど)
その根っこには、

「役に立たなければならない」
(役に立たないならいる価値がない)

という観念があるよなあ、
と、クライアントさんと話していて思ったのです。

 

 

役に立つか、立たないか。
効率的か、非効率的か。
正しいか、正しくないか。

わたしたちは、ずっと長いこと、
これらの軸を中心に据えて生きてきており、
なんとかして、

 

「役に立つものであろう」
「効率的であろう」
「正しくあろう」

 

 

と。
一生懸命にそっちの方向へ行こうとしていたように思います。
そういうものであろうとしていたように思います。
そして、(世間的に)逆の側にある状態は、

 

 

「見ないようにし」
「非難し」
「排除し」

てきた。

 

けれどもう、その軸から離れていいときがやってきたんだな、
と最近特に、そういうふうに思います。

 

 

 

 

 

 

つい最近、
知り合いに「江戸時代の長屋のたぬき男の話」というのを
書いて送ったんですが。

 

 

 

「長屋にたぬきが大好きな男が住んでいて、
自分の部屋の中にたくさんのたぬきを飼っていた。
匂いもするし…で、同じ長屋の人々は
『困った困った』と思っていた。

 

ある日、長屋が(もしくはそのたぬき男の部屋が?)
火事になったかで、
たぬきが全部死んでしまう。
男はたぬきがいなくなって、すっかり元気がなくなってしまう。

 

すると、長屋の住民がお金を出し合って、
たぬきを買ってあげた」

 

 

 

元々、日本人というものは、そういうものだったんだろうな、と思います。
「多様性」なんて言葉をわざわざ使わなくとも、
様々なものを「ありのままの姿」で大きく包み込み、
みんなでわしゃわしゃと、助け合ってげんきに生きていく、
そういう土壌をはじめから持っていたのだ、と。

とにかく、その際、生きる上での中心軸は、

 

「役に立つか?」
「効率的か?」
「正しいか?」

 

ではなかったことは確かなのです。

 

 

 

 

 

話戻って。
思うに大家族で生活することが少なくなって久しいので、

「上手に周りに頼り、家族や周囲に委ねて身を任せつつ、
人生をゆったりと全うしていくお年寄り」

のモデルがもはや身近にいないんだなあ、と、そういうことも思いつつ。

 

 

記憶の奥底にかすかに残る祖母の姿を思い出しながら、

 

 

(あれを「愛」と言わずになんというんだろう、と思うのです。
わたしが「無条件の愛」という言葉で唯一、思い出すのは、
部屋にちょこんと、ただ座っていたばあちゃんの姿です。
ばあちゃんのふところの温かさです)

 

 

 

これからいい時代になるなあ、と改めて思うところです。
何ってわけではないんですが、
このような話のできる人、響きあえる人、
共感できる人が身近にどんどん増えている、ということを感じ。

 

 

 

このようなつながりを新たな(いえ、本来あるべき)軸として、
やっていこう、動いていこう、という人たちの思いを、
あちこちで感じている最近です。

 

 

(写真は正月二日の鹿児島は城山からの眺め)

 

 

「自身が発した言葉をどう受け取るかは相手の責任。 わたしたちは相手の責任まで負うことはできない」が第一位でした。 (「研修で一番心に残ったことは?」の質問に対して)

 

 

 

 

 

参加者24人中、7割が「一番心に残ったとしてあげたのがタイトルにあげた言葉。
「これが来たか〜!」と内心驚きました。予想外。

 

 

 

 

これをぜひ伝えたい、と思ったのは、
研修前に書いてもらった「うまくいかなかった部下との会話事例」のアンケートで、

 

 

⚫︎表現が回りくどい
⚫︎相手に気を遣いすぎて、結局一番言いたいことまで達していない

 

 

例がとても多かったからなのです。
(名付けて「外堀戦法」。
まあ、時間がかかっても本丸まで到達できればいいんですが、
外堀だけ埋めて力尽きている事例、多数😊)

 

 

 

 

「相手が傷つかないように気をつけて話しました」
「(お客様からのクレームを)そのまま伝えては相手が傷つくので、表現を柔らかくして伝えました」

 

 

 

と。
とても順当な、人として当たり前の感覚に思えます。
けれどこの中に、わたしたちの中に長いこと居座っている思考と感情のパターンが厳然として存在する。

 

「相手のことを考えなさい」
「周囲に合わせなさい」
「人を傷つけてはいけません」
「もっと思いやりを持ちなさい」
「人から嫌われないようにしなくては」

 

確かに。
これを否定するものでは全くありません。
けれど同時に、これらは時にはわたしたちを過度に縛り、自由な表現を妨げるものにもなっている。

 

 

 

 

さて。
「相手の気持ち」なんてものは、
いくら想像しても本当にはわからない、ということを承知しておくといいのです。

 

 

そんなものは魔法使いでない限り、本当のところはわかりはしない。
「傷つく」と思っているのはあなたであって、相手がそうなのか、本当にはわかりはしない。
相手がどう受け取るかなんて、コントロールできはしないのだから。

 

 

 

(実は、ここをコントロールしたい、という人は結構いて、
「相手にこのように思ってもらうために、行動してもらうために
『どう言ったら』いいでしょう?」という質問、よく聞きます)

 

 

 

 

自分の中から「本当の」思いと言葉を解き放ち、相手に届け、そして勇気を出して、委ねる。

 

そんなコミュニケーションは、すっきりとしていて、軽やかだな、と思います。
風が吹いて新緑が揺れるようであったり。
太陽に照らされた土みたいにほっこりと温かったり。
派手じゃないけれど、遠赤外線で、ゆっくりと効いてくる炭火みたいだったりする。

 

 

 

 

つまり、その人の個性、人間性がしっかりと伝わってくるものになっている。
「言い方」(言葉)もとても大切ではあるが、
その人の「真の意図」(あり方。being)こそが、
相手に振動となって伝わるのだ、ということがよくわかる。

 

 

 

 

 

わたしたちは、相手に幸せになってほしいと思えば思うほど。
相手といい関係を作りたいと思えば思うほど。
コントロールしたい、という欲求が生まれることもあるものです。

 

 

 

けれど、そこにしっかりと「境界線」を引く。
相手と自分は違う人間なのだと理解し、
尊重し、信じ、委ねる。

 

 

 

そんな「健全な境界線」こそが、
「新緑の風が吹くような」自由自在な関係性と互いの成長を
もたらすものなのだと思います。

 

 

(写真は島津家別邸、仙巌園の白梅。
見ると近所の白梅も満開になっており、「はじまったー^^!」という感じがしています)

 

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