「地球の鼓動~天地明察に思う」

 

 

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いい焼き具合です。

まさに食べごろ。

 

このとき食べてしまえばよかったんですけど

実際は焦がしてしまいまして。

だいぶ黒くなったものをいただくことになってしまいました。

 

知人の家のウッドデッキで最近こんなことをよくやります。

「バーベキュー」ではないんです。

昨日は、「秋の味覚をめでる」と題して

実際は冷蔵庫にあった野菜などなんですけれど

そういうものをのんびりと食しながら話をする。

ご馳走でなくてもよいのです。

心地よい冷たさの夜風と、虫の声と月と、それから熱燗があれば十分。

(昨日はもはや月はなく、星がきれいでした)

 

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きっかけは「天地明察」(映画です)。

 

中秋の名月から五~六日も過ぎた先々週の半ば

この知人と一緒に見に行ったのですが

 

「日本人に生まれてよかった~!」

 

 

とまあ、二人とも

すっかり感動してしまったのでした。

特に

映画のエンドロールに出てきた二十四節季がくるくると回りながら宇宙に浮かぶ

壮大な映像にすっかりまいってしまったのでした。

 

その日は寒空の下

煌々と光る居待月を見上げながら小一時間も話をしたものでした。

暦のこと。農業のこと。季節の行事のこと、日本の食文化のこと…。

 

 

そのとき、しみじみと感じたのです。

あまりにも自然の運航と(季節と)切り離されて

日々せわしなく動いている自分たちの「時間」が

なんとも寂しく、一瞬一瞬があまりにももったいな、と。

 

小さいころは

もっと生活の中に自然と「季節のリズム」が入ってきていたように思います。

 

お正月や節句や七夕、十五夜のほかにも

毎年の味噌づくりや山や田んぼや畑での作業と

その季節ごとの「生きること」に根差した「何か」が

がたくさんあったものでした。

そしてまた、それらと無心に「戯れる」大人たちの姿も見てきました。

 

「よいしょがっ」(寄り正月)といって

親族で集まるお正月は旧歴で大々的にやっていましたし。

昔は、行事のたびに家で「寄合」があり

そのたびに部屋は、ふすまが外された広間となり

橙色の明かりの下

月を愛で、酒を飲み、上機嫌で歌い、笑い、踊る大人たちの姿がありました。

それはそれは楽しそうでした。

見ている子どもの自分もとても幸せで。

 

何とも懐かしい思い出です。

ああいうの、いいな、と思います。

その時期その時期に、自然がくれるものをありがたくいただいて

とても満たされて生きている人たち、という感じでしょうか。

 

 

なんというか、うまく言えませんが

「地球の鼓動」とリズムを取り合って

生きていたということなのかなと。

 

 

今も、目を向ければ

地球は変わらずどくどくと鼓動をしているのですが

もはや、あのころのようにわたしは季節と(自然と)仲良しではありません。

それが、なんとももったいないことに思えます。

 

そこにあるのに。

ずっと、変わらず多くのものをわたしたちに与えてくれているのに

わたしたちのほうで、共鳴できなくなってしまった。

声を聴けなくなってしまった。

リズムを合わせることができなくなってしまった。

という感じでしょうか。

 

8年前、病気をし

回復の頃、山歩きをしていたときに

はっと頭にひらめいたことがあります。何の脈絡もなく、ただそう思ったのです。

 

 

「神様は(自然は、でいいんですが)

人間がただ、幸せに笑って、歌って、踊って、喜んでいるのを見るのが好きなんだ。

そのために人間をつくったんだ」

 

 

と。

木の葉の間からさらさらと漏れ差し込んでくる陽の光と一緒に

まるで降ってきたかのようにそう思いました。

 

私が小さいころに見ていた大人たちの姿は

そういう姿に近かったように思います。

そして、それはすなわち、「地球のリズムと一緒にダンスを踊る」ということなのかなと。

さらに、日本人というのは

太古の昔からそもそもそうやって生きてきた民族なのだろうなと。

それこそが「日本人の真骨頂」といいますか。

 

昨日は新月でした。

その旨を知人にメールすると

 

「今日は体を休めたらいいよ」

 

と。

知人も私も

これからますます「生きる」ということが

シンプルになってくるんだろうなあ、と思います。

 

 

 

 

「食パンの四枚切りはありますか?」

その店員さんは

動きもきびきびと一生懸命で、その人柄の誠実さが伝わってくるよう。

とても好感が持てるのです。

応援したくなる。

が、

何かが一点「惜しい」。

と、パンを買ってレジでお金を払いつつ思ったのでした。

その疑問はほどなく解けました。

店の一角のカフェスペースでお茶を飲み始めて間もなく

「食パンの四枚切りはありますか?」

新しく入ってきたお客様の声。

即座にこんな返答が聞こえてきました。

「あっ…(申し訳なさそう)五枚切りか六枚切りですね…

(ますます申し訳なさそう)ご予約いただければ四枚切りもできるんですが…申し訳ありません」

お客さんと店員さんの間に流れる微妙な間。
まるで
二人の間のエネルギーがだんだん下がってくるのが見えるような。

店員さんの表情が想像できました。

そう、きっと、さっきと同じ顔。

少し眉間にしわを寄せて、まゆ尻が八の字に下がったその表情。

はじけきらない遠慮がちな笑顔。

…もったいない

なんだかとてももったいない。

わたしならなんと言ってもらったら嬉しいかなあ

というか、がっかりした気持ちが軽減されるかなあ

と考えてみました。

こんな感じかな。

「申し訳ございません。(笑顔で)今日は置いていないのですが、ご予約いただければ

いつでも、お好みの厚さと枚数でご準備できます!!」

こっちのほうが嬉しい。

「じゃあ次お願い」と言いたくなるかも。
時間があったら
「四枚切り」にすると特に美味しそうなパンなどおすすめしてもらったらさらに盛り上がるかもしれません。

お客様の「意識の滞留時間」を

どこに持ってくるか、これは大きな問題な気がするのです。

「準備がない」

「お客様のご要望に、今この瞬間、すぐに応えることができない」

それは厳然たる事実で

ごまかすことはできない。

ここからです。

お客様の意識を長時間「お店の欠乏」「ないお店」「使えないお店」という点に

当てさせておくことはない。

意識は、焦点をあてたものを増大します。

お店の「欠乏」部分に焦点を当てればあてるほど

お客様の無意識にはそのイメージが刻まれます。

声のトーン、表情、言葉…すべてを使って

せっかく期待してきてくださったお客様の意識と無意識に

「役に立つ力がない店なんですスイマセン」のメッセージを刷り込み続けてどうする!

というわけです。

もったいない。実にもったいない。

いかに早く

お客様の意識を「プラス面」に転じてもらうか。

「できるお店」

「自分の要望を満たしてくれるお店」

「その気(満たす気)満々の提案力のあるお店」

であるという部分に視点を移し、そっちに焦点を当てててもらうか。

どこをお客様の印象に深く刻んでもらうのか。

「今はできない」「持ってない」けれど

その「危機」をも、いかに「お店のやる気と魅力」を伝える要素に(チャンスに)瞬時に転じられるか

という言い方もできるかもしれません。

と、ここまで書いて、懐かしいな、と。

昔、結婚式のプロデュースをしていた頃、そういうことが多かったのでした。
いろいろな会場に行って、そこで披露宴をつくっていました。

レストランや料亭さん…もともと大人数のパーティーのために作られた場所ではない会場で

結婚式をつくることも多かったのですが。

お客様の動線、音響設備、新郎新婦の控室、…すべてがピカピカに良い状態のものが

完璧に整えられる会場なんてまずない。

そのほか、当日に起きる事態(ガーデン挙式で雨、ですとか)などなど

結構いろいろとあるもので。

「そこにあるもの」「現状」を使うしかない中で

それを「どうプラスに生かしていくか」の姿勢を、言葉を、表現を条件反射になるくらい

鍛えられた気がします。

「欠点」を補完し

さらにはかえって「それがあったからこそよりよくなった」くらいの提案、演出をできるか。

それは次第に、とても楽しい作業になって行きました。

話がそれました。

言葉の使い方ひとつで、物事に対する人の感じかたは(焦点の当たり所は)変わるんだなあと

ますます実感したというお話でした。

脳の癖は

「焦点化」

そして

「焦点をあてたものを引き寄せる」。

言葉は

焦点を当てる場所を「指定」することができる大切なツールです。

意識を当てる場所は言葉によって瞬時に変えることができる。

まるで、スポットライトが照らす場所を一瞬にして変えるように。

使う言葉で人生が変わると言いますが

日々の小さな瞬間瞬間が積み重なると

まさにそういうことになるんだろうなあと

そんなことも思いました。

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