「あはれことのは」

和風の曲を探していたら
こんな曲を見つけました。
邦楽ヴァージョンがアップされたのは去年の8月。
歌詞付がアップされたのは10月らしいです。

コメントを見ていると

「日本語きれい~!」
「鳥肌…」
「泣けるんですけど…」
「文語すごくいい」
「日本に生まれてよかった!」

などなどのコメントが滝のように。

ちなみに、この曲の元の歌はこれなんだそう。

同人ゲームのBGMらしいです。
それを、プロの邦楽演奏家の方々がアレンジジして演奏し
それに感動した人がまた文語の歌詞をつけて歌っている。
コメントにもありましたが
「大人の本気」の演奏への感動の連鎖がこの曲を作り上げたようです。

ちなみに、原曲と「文語ヴァージョン」
歌詞がちゃんと対応しているのですよね。
原曲の歌詞を「文語調」に直したのはこちらの方。
文法的な詳しいところははことはよくわからないんですが
雰囲気あります。

この「邦楽Bad Apple!! 傷林果」を聞きながら思い出したことがあります。
小学生のころ、運動会のたびに開会式で全員で歌う歌がありました。
昔のことなので、もちろん題名などは覚えていないのですが
メロディと歌詞はぼんやりと覚えています。

「みそらは高く
我が意気上がる
平和日本の友情かたく

運動場は競いの庭ぞ
鍛え鍛えし健児の手並み
たゆまずおそれずわれらの心
正々堂々」

子どものうろ覚えなので、違っているところがありましたらごめんなさい。

子ども心に、この歌を歌うと、誇らしいような、背筋がぴん、と
伸びるような心持になったものでした。

特に好きだったのは
「鍛え鍛えし健児の手並み
たゆまずおそれずわれらの心」のところ。
そのメロディとも相まって、なんでしょう、あの感じは…
そう、つまり、文語を口にするのがとても心地よかったのです。
八つの子が

「きたえきたえしけんじのてなみ たゆまずおそれぬわれらがこころ」
(意味は分かっていなかったことは確かです)

今思うと、ちょっと笑えますけれど。
でも、
言葉の「かっこいい感じ」、その言葉の響きが自らの心と体に与える影響は
ちゃんと感じていました。わかっていました。
そして、それを「美しい」「誇らしい」と感じる感覚も
ちゃんと持ち合わせていたものです。

やがて
わたしにとって「ゆゆしき」出来事が起こります。
運動会の歌が変更になったのです。
新しい歌は、わたしのテンションを下げ、何ともプライドを傷つけるものでした^^。
ひと言でいうと「とてもお子様チック」

「そらに~みどりにぃ~あたあらしい~
希望がおこる~わぁ~きあがる~」

子ども心にもっとも腹立たしかったのは次の一節
(なんて子どもでしょう…かわいくない)

「げ~んきに~はくしゅ~
『チャチャチャ♪ チャチャチャ♪」
 

そして、こう続きます。

「きょうは楽しいうんどうか~い
むね~をぐ~んとはって、さあいこお~♪」

手を胸の右上と左下で「チャチャチャ」と小さく叩きながら
こんなの恥ずかしくてできるか!と思っていましたっけ。

あの凛とした世界はどこへ行った。美しき言の葉を口に上らせる
あの瞬間の体震えるような喜びはどこへ行った。

当時のわたしに語る言葉を持たせたら
きっとそう言ったと思います。

(歌をおつくりになった方。申し訳ありません。この歌がいけないのではなく
わたしに合わなかったということなのです)

今、論語の素読を復活させている小学校があるそうですが
よきことだなあと思っています。

わたし自身の体の中に
それほどたくさんではないにしても
幼いころに本を通して、そして「日本語の力」を愛する数々の先生方との出会いによって
声を出し、体に刻んだ「美しき日本語」の名文たちが生きています。
それは理屈を超えて
人生のあらゆる場面でわたしを助け、導き、あるときは鼓舞してくれる
リズムになっています。

「子どもには難しいだろう」「意味が分からないだろう」ではなく
お手軽な、咀嚼しやすい口当たりの良いもののみを与えるのではなく
すべてを驚くほど柔軟に吸収し
それを人生を生きる力に変えてゆく、土台をつくるあの時期にこそ
硬い、中身の詰まった噛みごたえのある「本物」を口にさせてあげてほしい、と感じます。
言葉の事にかぎらず、なんでも。

「かっこよるぎる」
「ゾクゾクがとまらない」

「日本語、大切に使おうと思った」
「大和言葉最高!」

プロの三味線や琴の音色に惜しみない賛美をつくし
「なんて言ってるの?」と言いながらも言葉の流れに「美しい」と書いている
そんなたくさんの(若い人たちの?)コメントを読みながら
なんだかとてもうれしくなっています。

「エール」

中村公子のコーチングna日々♪

部屋から空の青色を見ていると

どうも落ち着いて座っていられなくなる心持がします。

まさに

「世の中に絶えて桜のなかりせば…」。

(まだ鹿児島の桜もここまで満開ではないのでこの写真は借りてきたものです^^)

3月から4月にかけて

環境も、そして心の中も、体の中も大きく入れ替わって変化を迎えるこの時期。

(わたしの周りでも「落ち着かない」「体調が今一歩」などいろいろな声が)

まるであおるかのように桜が私の心をさらに大きく揺り動かします。

春のなんともいえない「ぼわん」とした日差し

まだ少し冷えた空気

何かが「移り変わる」時の独特の不安定な感じと

そして、ざあっと吹く風にのせて、あたりをピンク色に染める花びらの渦。

それらの感覚は全部セットになって

小さいころから自分の中にしっかりと根付いています。

桜って、何なんだろう…とふとあらためて思ったのですが。

きっと

エールであり、プレゼントなのだろうと。

日本民族への。

これまで

自分自身のたくさんの旅立ちや出会いを

桜の花がいろどってくれていました。

まるではなむけのようにそこにあった気がします。

わたしたちのご先祖も、古くからこの花を愛で、心を託し、精神的な意味をこの花に見出だしてきました。

このわずかな時期に

日本列島を薄桃色に染めながらいっきに駆け抜ける桜の花によって

わたしたちは特別なエネルギーをもらっている気がします。

そして、わたしたちがそれとは気づかぬ

日本人としての深い奥底にある何かを揺さぶられ

揺り起こされている気がします。

考えてみれば、この時期、日本中で「お花見」という同じ行為をするわけです。

誰に強制されるわけでもなく。

これはすごい。

日本中で「桜」を真ん中において人々が集い

一斉に同じ「まつり」をしているということです。

ピクニックなんてしたこともない興味もない、という人も「花見」は別。

敷物など敷いて、その上に座って桜を見上げて空を見上げて「あああ~」なんて

伸びをして体を緩める。

みんなで食べるご飯はまた格別の味で。

人と人をつなぐものとなり

天と地と人をつなぐものとなっているのが

かつては普通に日常生活にあふれていた

(わたしたちのご先祖が大切にしてきたところの)

「場」や「あり方」や「感覚」を

わたしたちはこの「お花見」という短い時期に

一気に体験する、といえるかもしれません。

桜の花の力を借りて。

あの、ふわ~っと人の心を浮き立たせ、舞いあがらせる、あの力を借りて。

人の心を開き

つなげる「和」のエネルギーを日本中にふりまく「桜」。

そう考えると、まさにこの別れと新しい出会いの時期に

ふさわしい花といえるかもしれません。

日本人への何よりのエール。

桜の花。

「赤ちゃんの一歩」

この一か月ほどいろいろと「決める事」が多いのです。

たまたまシーナ・アイエンガ―教授の「選択の科学」の授業シリーズをテレビで見ていたこともあり

「選ぶ」

「決める」

ということにおける自分のパターンについて多く考えた1か月でした。

あらためて、一番強く感じのたは

自分の中の「ホメオスタシス」の存在。

「新しい世界へ行く」

「これまでと違うことをする」

「枠を広げる」

こういうような体験を自分にさせようとすると

必ずと言って「邪魔」^^がはいる。

さらに大きく広がろうと願う自分に対して

おもしろいくらいに体中が反応して「今」にとどめようとする自分が出現します。

疲れる…。

この一か月の「選択」の勝敗ですが

半々。

ホメオスタシスをすりぬけて、心行くまで納得の、会心の、心躍るような選択を

自分にプレゼントできたのが半分。

悪戦苦闘の末

ホメオスタシスに「負けた…^^」のが半分。

と思っていたのですが

その「負け方」が一回目より二回目と。

少しづつ変化(進歩)してきているのに気づきました。

ましな負け方、になってきている。

ちなみに、いま私の体重は、年末からすると4キロほど減っているんですが

ゆっくりゆっくりと落ちてきたのでした。

急に500グラムくらい落ちてしまった時には

必ず400グラムは後戻りしていました。

体に負担がかからないよう、安心安全に、ゆっくりと。体を慣らしながら。

私の命がいつも安全であれるよう。

恒常性維持機能(ホメオスタシス)は頑張っている。

「選べなかった」「怖さに負けた」

と思っていたときは、そういう自分がどうしても腹立たしく、悔しく

たいそうなエネルギーの枯渇を感じていたのですが

この1か月

わたしを急激な変化から守ろうと大奮闘していた

もうひとりのわたしの「切なる願い」に目を向け

さらには

「負けた」と感じた出来事の中にすら、自分の「前へ」の一歩を確認した時に

やっと自分を心からいとおしく感じることができました。

さて

新しい世界へ向かう時、変化成長してきたい!と思う時の

最初の一歩は「ベイビーステップ」。

歩き始めたばかりの赤ちゃんの最初の一歩のように!

たとえ40度の熱が出てもできることから。

というのはNLPの師菊池さんの大好きな喩え。

わたしも使わせてもらって、しょっちゅう言っているんですけれどね^^。

周りの方々には。

「歩き初めの赤ちゃんって、そもそも自分の『一歩』の歩幅なんか

いちいち気にもしないよね」

と言ったのは、私の友人コーチ。

「ですよね~。何にも考えないで、自然に体が動くだけ

それが赤ちゃんの一歩ですよね」

とわたし。

眉間に立じわを寄せ、脂汗を流しながら踏み出す一歩は多分「ベイビーステップ」ではないだろう…(笑)。

(そんな赤ちゃんがいたら怖い)

自分に関してはいろいろ無茶するものです。

そういう自分も好きなんですけれど。

「言葉の『間』」

知り合いのウェブデザイナーさんと話していたんですが

その方が

「昔、司会をしていたことがあるんです」

という話になりました。

何の司会かといいますと、葬儀の。

思わず、「すごい~!」と盛り上がってしまいました。

いっときですが、葬祭ディレクターいいな…

などと思っていたことがあるものですから。

人生の最期の皆さんとのお別れを

その人らしく演出するというお手伝いができるとは何とやりがいのあることだろう…と。

さて

何に限らず、司会というのは(司会だけでなく、すべてですけれど)

「間」

が大切です。

以前私が結婚式の演出業をやっていたことは書きましたが

『司会者の間あい』

に関しては、本当にうるさく、一言をもっていたものです。

(司会の間だけでなく、音楽の間あい、照明の間あい、料理を出す間(タイミング)…全部ですけれど)

ちなみに私が一番たくさんご一緒した司会者さんたちは

お二人とも間合い含めてとても美しい雰囲気とリズムをお持ちの方々でした。

当時わたしの勤めていたプロデュース会社は

「オリジナルウエディング」の草分け的な存在の会社だったこともあり

周りのホテルさんが「人前挙式」の式次第をもらいにみえたり

またはコピーされたり…ということがよくありました。

が…

たとえ同じ式次第で人前挙式をやったとしても、

出来上がりは全く違うものになるのですよね。

どう演出するか。

舞台をどう設定して、人物をどの位置に配するか、どう動かすか…などもその違いを生むわけですが

(どこまで360度、どこから見ても美しい『絵』を作れるか。

また、そこに映りこんでいるスタッフ一人一人の立ち居振る舞いの美しさ

洗練度合まで…たくさんの要素が式を左右します)

最後の違いは「間」なのです。

司会者の「間」。

音楽の「間」。

どのタイミングで、どのくらいの間をおいて司会者がセリフを発し

それを受けて、どのタイミングで新郎新婦に動いてもらうのか

どのタイミングで音楽が入り、それは新郎新婦の姿が見えなくなった後

どれくらいの余韻をもって流れ続けるのか…

すべては「間」。

間合いのセンス。

さて

そのウェブデザイナーさん。

司会の仲間から「その『間』はどうやってとるのか」

「間を教えてくれ」

と言われていたそうです。

うん。確かに彼女が『間』に対してよきセンスを持っているであろうことは

想像に難くない。

(といいますか、私好みの「間」ということです)

「けれど、教えることができないんですよね」

と彼女。

確かに。

教員の頃、文化祭の劇ですとか、卒業式の送辞・答辞を読む…なんていうときは

「そこで3つ数えて」

などと生徒に「間」を伝えていたこともありましたが

千変万化、生ものの結婚式やお葬式でそれが通用するはずもない。

「あれって、どうやって教えるんですかね…」

「さあ…」

どう間をとるか、というのは一瞬にして全身で「見て聞いて感じて」、結果そうなるものですもんね。

間合いのセンス。

コミュニケーションの力とは、究極そのあたりにあるのでは、という気がします。

若者のコミュニケーション力アップ講座、で

参加者全員で輪になって、「拍手を回す」ゲームをやった時に

「心地よく全体を感じて、一体感をもってリズムをとって拍手を回す」

ことができない子がいます。

(子…といっても、みなさん結構いい大人ですが)

タン、タン、タン、タン…気持ちよく回ってきた拍手が

どこかで必ず「がくっ…」とずれる。みょう~な間を刻んでずっこける。

感じていないんですよね。全体を。みんなとの「つながり」を。

自分のところに来たから叩いている、だけ。

あの、うまく行った時のえも言われぬ一体感。

みんなでリズムを刻むその「波」に自分の体が乗って

自分もその一部となってともに「ひとつのもの」を創れた時のあの心地よさ。

それを「身体で」わかった瞬間、そのときその子の「コミュニケーション力」は

知識など教わらなくても大きく一歩、前進したときなのではないか、とそんな風に思います。

そういう力が飛躍的に伸びるセミナーとは?

考え中です。

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