「人を動かすことはできないが、『願う』ことならできる」

クライアントさんが
「家族に個人セッションを受けてほしいんだけどなかなか。
こういうのがあるから受けてみたら、といいたいんだけど、反発されそうで…」

とおっしゃったのでふと思いつき

「人を変えることはできませんが、願うことはできます」

とお返事を送ってみました。
たったこれだけのフレーズなのにその方は
「ああ、そうですね…!」と。
その方の中で、何か響く部分があったのでしょうか。

そのとき、わたしの頭の中にあった話をご紹介します。
知人の話です。
知人の義理のお父様は現在一人暮らし。
高齢でいらっしゃいます。
高齢ですが、田舎にお住まいなので、車が必需品でした。

実は
それまで乗っていた車を事故で壊してしまい
(幸運なことに、誰も怪我をしなかったのよ!とは知人の弁)
けれど、そのことを忘れ、新しい車を購入しようとなさる。

遠くに離れて住む家族は大変です。そして心配です。
車なんてもうとんでもない。
でも、ご本人には伝わらない。これまでずーっと乗ってきたわけですし
それを「やめろ」と言われることへの反発もひとかたならず。
家族の「説得」は功を奏さない。

自身の親とのやりとりや、周囲の「家族と老親とのやりとり」をつい思い出しつつ
話を聞きました。

その「膠着状態」を動かしたのは
知人の言葉でした。

「おじいちゃんに手紙をかいてくれない?」

わたしの知人は
義父の息子であるところの自身のだんな様に
そのようにお願いしたのです。

「禁止ではなくて、願いの手紙を」。

ああするな。
こうするな。
もう歳なんだから。
何考えてるんだ。
もう、できないだろう?

そうではなくて。

あなたのことがどれだけ大事か。
あなたにどれだけ感謝しているか。
これからも、共にこんな時間を過ごしていきたいのだ。
いつまでも、あなたと一緒にいたいのだ。
あなたに元気でいて欲しいのだ。
だから…

「もう、運転はしないで。いつも、安心で、安全にいてほしい」

と。

長い長い手紙を、だんな様は書かれたそうです。
そして、手紙はお父様の元へ。

それからどうなったか、なのですが
ここからひとクッション、ふたクッションほどあり。
(はじめ、手紙に反応がなかったのだそうですが
その後、だんな様が、お父様と一緒に過ごす時間を増やし始めたあたりから
手紙が来た!ということを思い出したかのようにおっしゃりはじめたとか)
その手紙をやがて、嬉しそうに持ち
「こんな手紙を息子が送ってきた」

と、話すお義父さまの姿が見られるようになったそうです。
もちろん、車の購入の話はなくなり。

人を変えることはできませんが、
でも、願うことはできる。
心からの思いで持って、自らの願いを伝えることはできる。
伝え続けることは出来る。

わたしはあなたに幸せでいて欲しい、と。

それが伝わる時まで
受け取ってもらえるまで
ただ願い、伝え続けることはできる。

そんなことしかできないのではないかと、思うのです。

「モノの価値は下がっているが、モノにまつわる『物語』の価値は上がっている」

クライアントさんが
家をお造りになるところです。

そのお話をいろいろと聞くのが面白い。

先日は「板」の話。

「板を見に行ってきたんです」

何でも、「足場の板」を見てらした、と。
あの、工事現場などで、足場を組むときに使っている板です。
それの新品ではなく「使用したもの」。
人が乗り、場合によってはペンキやなんかが「ぱあっ」と散っているやつ。

ご自身が足場を組むのではないのです。
新品ではなく、その「使い込まれた」感じがよく
「いい風合いになっている」板を加工して使う人も多いのだと。
確かに…。
ちょっとイメージしてみたのですが
おしゃれなお店の壁や床に、そういう板で細工がしてあったらカッコいいかも。
板に刻まれた時間や足跡(そくせき)が醸し出す空間の風合いに
価値を置く人がいるからこそ、売れているのですね。
すごい。

「いろんなことを皆さん考えるんですねえ!」

いつものことながら感嘆することしきり。
お話は続きます。
家具のこと。
中国からはいってきた古材を使ったソファや棚をお考えだそう。
この方…何でも作る気ですよ。
ええ、知っていましたけれどね。わかっていましたけれど。
今さらながらにその技術や、積み重ねていらした経験。
そしていろいろなものの「土台の仕組み」を瞬時に見とり
自身のものとしてしまう視点とセンスに感嘆です。

「物の価値は下がっていますが、古いものの価値は上がっています」

とその方。
ふっとひらめいて、次のように続けてみました。

「つまり!モノの持つ『物語』の価値が上がっている、という言い方もできるでしょうか」

それから「モノの持つ物語」の話で盛り上がりました。
モノでも、人でも、企業でも
独自の「ストーリー」があると燃えますよね、そうそう、と。
つい共感しちゃいますよね、と。
そして、お互い「お気に入りの(共感している)」企業さんの「ストーリー」の交換などなど。

さて
「物語るセミナー」はわたしの好きなプログラムの一つです。
他者に何かを伝えたいとき。
チームの理念
商品の良さ
絶対実現させたい企画のプレゼン…

伝えることによって
相手に行動を起こしてほしいとき。
(購買、も行動)

そこには
個々人の「物語」があったほうがいい。
何故それをするのか?
あなたのリアルな体験。そこから湧いた思い。
それを、あなただけの、生き生きとした言葉で伝えるのだ。

人はあなたの話が「正しいから」「理路整然としているから」
あなたのいうことを聞こうとするのではない。
協力したくなるのではない。

あなたの人生そのもの。生きてきた姿。
あなただけの言葉。
そこに起こる共感によってのみ、人は初めて心を動かし
それが「真の行動」へとつながるのだ。

と。
自分の中の「物語」を探し、語る、と
そういうセミナーなのですが。
これは、親子や先生と生徒の対話でも一緒ですね。
声高に、正論のみを語る大人のいうことは聞きたくないし、心も動かないものです。
決まっているから。
みんなこうしているから。
普通は…
常識では…

そんな言葉で語られる「世の中のルール」の
思い出せばなんと無味乾燥だったことか。

人を動かす…というか
他者と繋がることでしか、何かを成し遂げ、変化を起こすことはできない今。
「自分は何者であるか」をしっかりと知り
それを適切な言葉とあり方で
そして熱意を持って伝えることが出来る力、
つまり、自らの言葉で、自らの『物語を語る力』は、すべての人にとって
さまざまな場面で必要な「あり方」であると感じます。

ちょっと話がずれたかな?

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